聖書の言葉を聴きながら

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創世記 18:16〜33

2017年10月22日(日)主日礼拝 宇久井伝道所(14:00)
聖書箇所:創世記 18:16〜33(口語訳)

 

 アブラハムが、ソドムとゴモラを裁こうとされている神に、執り成し祈る場面です。

 神がソドムを裁き滅ぼされる御心であることを知ったアブラハムは、主の前に進み出て、執り成しを始めます。
 「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか。」
 主はお答えになります。「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう。」

 アブラハムは再度執り成します。「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか。」
 主はお答えになります。「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう。」

 アブラハムは重ねて執り成します。「もしそこに四十人いたら。」
 主はお答えになります。「その四十人のために、これをしないであろう。」

 アブラハムはまだ諦めずに執り成します。「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら。」
 主はお答えになります。「そこに三十人いたら、これをしないであろう。」

 アブラハムはさらに執り成します。「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら。」
 主はお答えになります。「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう。」

 アブラハムは最後にもう一度執り成します。「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら。」
 主はお答えになります。「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう。」

 主はアブラハムと語り終り、去って行かれました。アブラハムも自分の所に帰っていきました。アブラハムの執り成しは終わりました。
 しかし、ソドムは裁かれ滅ぼされました。正しい人は十人もいなかったということでしょうか。

 しかしわたしたちは知っています。アブラハムは十人までしか執り成しできませんでしたが、神はたった一人の正しい人イエス キリストの故に、すべての人の救いを用意してくださいました。キリストは、すべての人のために死を味わわれ(ヘブル 2:9)、すべての人を救う神の恵みとして現れてくださいました(テトス 2:11)。神がただ一人の正しい人を用意してくださいました。

 そしてキリストご自身が、わたしたちのために執り成し続けていてくださいます。イエスは十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ 23:34)キリストはご自分を十字架に付けている者のために執り成されました。またヘブル 7:25では、キリストは「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」と言われています。ですから日本キリスト教会信仰の告白でも「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」と告白しているのです。

 そしてわたしたちは、主に倣って執り成し祈るのです。わたしたちは祈りに召されているのです。執り成しは、祈りの大切な要素であり、キリスト者の務めです。神ご自身が罪人を諦めずに、救いの御業をなしていてくださいます。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ 2:4)のです。すべての人が執り成される必要があるのです。そして、すべてのキリスト者は執り成し祈るのです。
 アブラハムも執り成しました。アブラハムの執り成しは、イエス キリストの執り成しを指し示しています。そして、新約の時代のわたしたちは、イエス キリストに倣い、キリストを証しするのです。

 わたしたちは、執り成しの祈りによって、神の救いの御業に仕えているのです。だから諦めずに祈ります。神が出会いを与え、祈りに覚えるべき人として与えてくださった人々のために祈ります。家族のために祈ります。友人のために祈ります。地域のため、国のため、世界のために祈ります。全地が,主を知る知識で満たされ,世界が讃美の歌声で覆われるように祈ります。神の愛と恵みを,すべての人が分かち合うことができるように祈ります。神の慰め、平安,そして喜びと希望が与えられるよう祈ります。

 時に「祈ることしかできない」と消極的否定的に言われることがあります。しかし、キリスト者の祈りはそいういうものではありません。
 アブラハムの執り成しは、そのときだけのものではなく、イエス キリストへとつながり成就する祈りです。イエスは母の胎に宿られ、十字架の後、陰府に降り宣べ伝えられました(1ペテロ 3:19)。命の誕生から陰府に至るまで、イエス キリストは救いをもたらしてくださいました。イエス キリストは、まさしく神の御心、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ 2:4)という思いを成就する救い主として生き抜いてくださいました。
 だからわたしたちが「キリストの御名によって」祈る祈り、キリストに託し、キリストに望みをおいて祈る執り成しは、決して空しくはならないのです。
 真実な救い主にあって祈れることは、幸いです。キリスト者は、その幸いな恵みに生きているのです。

 

ハレルヤ