聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 5:41〜47

2020年8月30日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:41〜47(新共同訳)


 イエスは、自分に敵対し、殺そうと狙っているユダヤ人たちに向かって語ります。41節「わたしは、人からの誉れは受けない。」
 これは、罪人におもねることをしない、という意味です。イエスは人々を神へと立ち帰らせ、神を讃美しつつ歩めるようにと来られたのですから、悔い改めた民の誉れは拒まれません。
 ですから続いて「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」と言われます。神への愛は、神に従う愛、神と共に歩む愛です。神が主であって、民は僕です。
 現代社会においては、民主主義が重んじられます。けれど教会においては民が主になることはありません。民は僕であって、主は神なのです。

 罪は、信仰でさえも自分のために神を利用するものに変えてしまいます。ユダヤ人たちはそれに気づいていませんでした。
 ユダヤ人たち、ユダヤ教の指導者たちは、自分たちこそが律法の理解者であると誇りと自信を持っていました。自分たちは分かっていると思っていました。本来、神に背を向けてしまった罪人は、神を知ることができません。神がご自身を啓示してくださるから知ることができるのです。
 だからわたしたちは絶えず神の御前で「お示しください」と祈り求めなくてはならないのです。けれど指導者たちはそれを忘れてしまいました。誇りと自信に満たされていました。だから父の名によって遣わされてきたイエスを受け入れませんでした。神は自分たちの専売特許で、自分たちの考えとは違うイエスに心を開くことはありませんでした。(43節)

 イエスは43節「ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる」と言われます。これは、神に依って立つのではなく、世に属し、この世で名声を得て、自分の名を掲げてくる者は受け入れるという意味です。そして44節「互いに相手からの誉れは受ける」のです。これは今に至るまで世に属する者たちの特徴です。世はこの世の力を持つ者・成功者を賞讃します。そして彼らの求めるものは、自分が評価され、賞讃されること、自分が認められることです。
 けれど、唯一の神からの誉れは求めないのです。それは、この世の誉れと比べて手応えがなく、実感がないからです。神に褒められているかどうかよく分からないし、神に褒められるよりも、人から認められ褒められる方がずっと嬉しいし、実感があるからです。ユダヤ人たちは「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」(ヨハネ 12:43)のです。

 ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしたのは、イエスが、ユダヤ人たちが持つ世の誉れを奪い取っていく危機を感じたからです。そして、自分たちが神の誉れを求めていないこと、神に依って立つ者ではないことをイエスが暴いてしまうことを恐れたからです。

 では何故、神からの誉れ、神の祝福を求めなければいけないのでしょうか。
 それは、神の誉れを求めなければ、罪人は人の誉れを求めて神から離れていってしまうからです。人からの誉れを求めるとき、わたしたちは人の顔色をうかがうようになり、自分を見失っていきます。神以外のものの機嫌をうかがって生きるとき、自分の人生の価値を失います。
 ただ神だけが、独り子を遣わしてまでわたしたちを死から救い出し、命へと導かれます。わたしたちの命、そしてわたしたちと共に生きることに独り子の命をかけるほどに意味があることを証ししてくださるからです。

  一方イエスは、唯一の神からの誉れを求めていたのでしょうか。それはこの福音書が証ししたいことの一つです。8:50「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」8:54「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父」であるとはっきり言っておられます。
 そして聖書は、神へと立ち帰り、神に喜ばれ祝福されることが大切であると語ります。神の御許に立ち帰り、神との交わりの内に生きるのです。愛と信頼、そして喜びに満ちた神との交わりの中で歩んでいくのです。

 しかし、ユダヤ人たちは自分たちに託された務めを、自分を喜ばせるために曲げてしまいました。彼らを神に「間違っている」と訴えるのはイエスではありません。彼らが頼りとしているモーセ、彼らが信じ従っていると思っているモーセが、彼らを神に訴えるのです。45節「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。」
 それは何故か。それは46節「モーセは、わたし(イエス)について書いているから」です。だから「モーセを信じたのであれば、わたし(イエス)をも信じたはず」なのです。
 モーセは言います。申命記 18:15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」
 イエスはこのモーセが語った「わたしのような預言者」こそわたし(イエス)のことであると言っているのです。イエスは「もしモーセを信じ、彼の言葉をちゃんと受けとめていたなら、モーセが語っていたのがわたし(イエス)であることを知ったはずだ」と言われるのです。
 モーセが神から受けたこと、そして語ったことは、イエス キリストにおいて成就し実現しています。しかし47節「モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 結局、罪人は神の言葉をすべて受け入れるのではなく、自分が好むものだけを受け入れるのです。都合の悪いところは、避けて触れないようにしてしまいます。

 人は誰しも人から認められ、褒められるのはうれしいものです。ですが、それが第1となり、それが自分の行動の基本になってしまうと神から離れていってしまいます。まずは、そうできるかどうかではなく、神に祝福されることが第1であることをちゃんと理解して、自分の課題として祈り求めていくことが大切です。そのように整えて頂くことを神に祈り、神に委ねていくのです。
 自分でそうあらねばと意識してしまうと、わたしたちはどうしても律法主義に陥っていきます。だから頑張ってそうあらねばとするのではなく、本来人は、神と共に生きるように造られたのだ、と理解して、神に導きを祈り求めていくのです。わたしたちは「祝福を受け継ぐために」(1ペトロ 3:9)召されたのです。だからわたしたちは、神が与えてくださっている礼拝、祈り、讃美、交わり、御言葉の学びを通して、神に整えて頂くのです。
 わたしたちの希望は「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによる」(2コリント 3:18)という約束がこの身になることなのです。

 そして、牧師としてのわたしの目標の一つは、皆さんが神の祝福を求め、受けることができるように御言葉を正しく取り次いでいくことです。皆さんお一人おひとりが終わりの日に、放蕩息子のように父に抱きしめられ「さぁあなたのために宴を用意した。あなたは死んでいたのに復活し、わたしの許に帰ってきた」といって祝福されることを願っています。

 わたしたちに必要なすべては、神から来ます。救いも命も、愛も赦しも、信じることも共に生きることも、そして祝福も神から来ます。皆さんお一人おひとりが、神へと思いを向け、神が与えてくださる恵みを受けて、命の道を歩んで行かれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかあなたへと思いを向けさせてください。あなたの誉れを求める者、喜ぶ者としてください。あなたとの親しい交わりに生きるあなたの子としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン