教理による黙想の手引き 20
教理による黙想の手引き 第20回
(日本キリスト教会発行 福音時報 2016年8月号掲載
掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)
「宣べ伝える」
「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、・・あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」(マタイによる福音書 28章19~20節 口語訳)
教理の学びもあと5回となりました。最後は教会の務めについて学んでいきます。
日本キリスト教会信仰の告白にもありますように、教会の務めは、主の御心によって、委ねられているものです。今回は、御言を宣べ伝えるについて聖書から考えていきましょう。
宣べ伝えるについては、伝道と宣教の2つの言葉が使われます。
伝道は、道を伝えること。自ら「道である」と言われたイエス(ヨハネ 14:6)を伝えることであり、「この道」と言われたキリストに従って生きる道(使徒 9:2、19:9他)を伝えることです。
宣教は、教えを宣べ伝えること。イエスの教えを宣べ伝えることです。伝道よりも広く、教会の社会的責任などについても使われます。
今回は、伝道の意味で語ります。
現代は伝道の困難な時代だと言われます。しかし、罪の世はいつも神と共に生きることを拒否します。神を自分のために利用するのではなく、神に従い神と共に生きようとする人は少ないのです。
それでも神は語られます。悪人が悔い改めて生きるようになることが、神の御心だからです。「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。」(エゼキエル 18:23)
自分がこの悪人の一人であり、神のこの憐れみによって自分が救われていることも分かります。それでも、なぜ神はもっと罪を打ち砕き、義をお建てにならないのか、と思わずにはいられません。
聖書は「宣教の愚かさ」(1コリント 1:21)という言葉を語ります。これは、人間の賢さを超える神の愚かさです。
わたしたち神の民は、神の言葉が出来事となり、神の言葉、そして神の愚かさがこの罪の世に勝利することを信じて語り続けるのです。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ 16:33)
伝道は、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(1テモテ 2:4)という神の御心に共感して宣べ伝えます。決して人が増えると教会会計が安定するといった教会の自己目的のためにするのではありません。
ところで伝道は、教会が年に数回伝道礼拝をしていれば伝道しているというのではありません。
わたしたちキリスト者一人ひとりが宣べ伝えるのです。わたしたちは、上掲の主の宣教命令のもと、キリストの弟子とされ、キリストに遣わされているのです。
わたしたちは、説教を聞くだけの人であってはいけません。
日本キリスト教会は、信徒を「説教のよき聞き手」であるように求めてきましたが、ここに日本キリスト教会の信仰と神学の間違いがあります。特に、神学を重んじる中で、神学を学んでいない信徒たちに「間違ったことを伝えてはいけないから、聖書の話は牧師にお任せしよう」という思いを植え付けてきてしまいました。これは、主の宣教命令とは違うものです。日本キリスト教会は今現在、宣べ伝えない教会になっています。
今、教理を学んでいるのは、宣べ伝えるためです。知識欲や知的好奇心を満たすために、神学をするのではありません。今必要なのは、主の宣教命令に従い、宣べ伝える信仰の決断です。教会に誘っても来ないなどと効率を考えるのではありません。神の愚かさを信じ、宣教の愚かさに徹するのです。そのとき、わたしたちは世に勝利する神の栄光を見るでしょう。
ハレルヤ