聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 21:5〜9

2017年2月26日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:5〜9(口語訳)

 

 イエスは今、エルサレムの神殿におられます。5節は「ある人々が」で始まります。20:45には「民衆がみな聞いているとき」とありますので、イエスの話を聞きに集まってきていた人々であろうと思われます。
 ご存じのとおりエルサレムには神殿が建っていました。最初の神殿は、イスラエル王国第3代の王ソロモンが建てたものです。しかし、この神殿は南ユダ王国新バビロニア王国に滅ぼされたときに破壊されてしまいました。その後、ペルシャ新バビロニアを滅ぼした後、バビロンで捕虜とされていた南ユダの人々が解放され、彼らが帰国した後、神殿が再建されました。この神殿の再建については、エズラ記に記されています。時代がぐっとくだって、イエスがお生まれになった時の王、ヘロデ大王によって大がかりな改修工事が行われます。この工事は80年にも及ぶ大工事で、きょうの場面は工事の真っ最中の出来事でした。

 ある人々が、改修工事が続けられている神殿の見事な石、奉納物を見て、感心しています。すると、イエスが言われます。
 「あなたがたはこれらのものをながめているが、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」
 イエスは神殿が破壊されるであろうと言われます。
 そこで彼らは尋ねます。「先生、では、いつそんなことが起るのでしょうか。またそんなことが起るような場合には、どんな前兆がありますか」
 イエスはこうお答えになりました。
 「あなたがたは、惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな。戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」

 イエスは「いつ起こるのか」「どんな前兆があるか、または、どんなしるしがあるか」について何もお答えになりません。
 これは、ルカがこの福音書に続いて記した使徒行伝の最初のところでも似たようなことが書かれています。
 復活されたイエスが弟子たちと一緒に集まったとき、ある弟子がイエスに尋ねます。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」(使徒 1:6)
 イエスはお答えになります。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない」(使徒 1:7)
 「いつ」そして「どんな前兆、あるいはどんなしるしがあるか」というのは、神の領分であって、わたしたちには知らされません。
 これら父なる神が定めておられ、わたしたちには知らされない事柄について語る者に、惑わされてはならないのです。
 さらにイエスは「惑わされないように気をつけなさい」ということについてこう言われます。「多くの者がわたし名を名のって現れ、自分がそれだとか、時が近づいたとか、言うであろう。彼らについて行くな」
 わたしの名というのは、救い主=キリストのことです。救い主を名乗って現れる多くの者とは、救いを語り、神を語る者たちのことです。
 歴史の中で、いろいろな人たちが登場してきました。終末の予言をする者。来世を語る者。神秘的な体験を語る者。そして、世界には数え切れないほどの宗教があります。日本でも、特に明治以降、新宗教と呼ばれる宗教団体が次々に登場してきました。インターネットで新宗教と検索すると、100を遙かに超える宗教団体の名前が出てきます。何を語っているのか、どんな救いを伝えているのか、惑わされないように気をつけなくてはなりません。

 それにはまず、イエス キリストへと導かれたわたしたちが、イエスの教え、聖書の語っていることを正しく理解していくことが必要です。1ペテロ 3:15, 16では「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい」と言われています。教会は聖書を正しく伝える務めを果たしていかなくてはなりません。日本キリスト教会信仰の告白でも「主の委託により正しく御言を宣べ伝え」と告白しているとおりです。教会でこそ、御言葉が正しく理解できるように語られ伝えられなくてはなりません。そして、惑わされないための基準を持てるようにならなくてはなりません。わたしたちが持つべき基準は、イエス キリストであり、聖書であります。

 イエスがもう一つお語りになったのは「おじ恐れるな」です。何を恐れるなと言われているかと言いますと「戦争と騒乱とのうわさ」です。イエスは「こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」と言われます。
 情報が発達した現代、わたしたちは日々世界各地で起こっている争いのニュースを目にし耳にします。「戦争と騒乱とのうわさ」は、わたしたちの不安をかき立てます。しかしわたしたちは、慌てふためき、怖じ恐れるのではなく、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」と言われたイエスの言葉に導かれて、一人でも多くの人が神の平和に与ることができるように、主の御業に仕えていくのです。
 ひとり子を遣わすほどにわたしたちを愛しておられる神の御心がなるところにこそ、神の平和は現れます。わたしたちは「うわさ」によって慌て、恐れるのではなく、いつどこにあっても、主から託された務めを果たしていくのです。なぜなら、わたしたちの目に映るものは過ぎ去りますが、神の御業は世の終わりまで貫かれていくからです。わたしたちは、罪の世の出来事に惑わされず、怖じ恐れず、神の御業に与っていくのです。そして、神に従い神と共に歩む者は、終わりの日に「良い忠実な僕よ、よくやった。・・主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ 25:21, 23)と、神から祝福を受けるのです。

 ここに登場した人たちが、神殿を見て感心したように、今もわたしたちを魅了する芸術品、工芸品、保存すべき文化的遺産はたくさんあります。しかしわたしたちは、移り変わりいつか消え去っていくものに、囚われていくのではなく、世の初めから世の終わりまで変わることのない神の愛と真実に支えられ、包まれて生きていくのです。
 神殿を見て感心していた人たちに、イエスが気づかせたかったのはこのことなのです。わたしたちの心をどこに置くのか。イエスはこう言われました。「天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ 6:20, 21)わたしたちが何に望みを置き、何を誇りとし、何を希望とするのか・・・
 そして聖書は、「見よ・・この人を」(ヨハネ 19:4, 5)と言ってイエス キリストを指し示します。
 壮麗な神殿ではなく、むち打たれ、茨の冠をかぶせられ、息も絶え絶えな一人の人を指して、聖書は「見よ、この人を」「見よ、この人だ」と語りかけます。イエス キリストこそ、わたしたちの救いのために神の座を離れ、人となってくださった方。わたしたちの罪を贖うために十字架を負い、命をささげてくださった方。わたしたちの命と人生に、ただ一人責任を負ってくださる方。この方こそ「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8)わたしたちの救い主であります。
 礼拝へと導かれた皆さんお一人おひとりが、聖書が指し示すイエス キリストと出会うことができますよう心から祈り願います。

ハレルヤ