聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 15:1〜6

2020年12月6日(日)主日礼拝  待降節第2主日
聖書:創世記 15:1〜6(新共同訳)


 信仰の父と呼ばれる初代のイスラエルアブラハムが、まだアブラムという名前だった頃の話です。

 あるとき、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。わたしは幻を見るという経験はありませんが、おそらく神の声が聞こえてくるという普通ではない状況を幻と言っているのだろうと思います。主はアブラムに語りかけられます。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

 主はアブラムに「恐れるな」と言われますが、アブラムは何を恐れていたのでしょうか。アブラムの恐れ、それは自分の信仰が無意味だったのではないかという恐れです。アブラムは神の声に聴き従って、住み慣れた土地、築いてきた関係を捨てて旅立ちました。旅立つとき、アブラムは既に75歳でした。神はアブラムに子孫とカナンの土地を約束されましたが、アブラムには未だに子どもは与えられませんでした。アブラムは「もうこのまま変わらないだろう」という思いを漠然と抱いていたのではないでしょうか。「神の声に従って歩んできたが、こんなもんかもしれない。食べるのに困ったり、生きていけなくなったりしなかったのだから、良かったと思わなければいけない。」そんな思いがアブラムの内に次第次第に涌き上がってきていたのでしょう。
 このアブラムが抱いていた未来への恐れ・諦め、それはアブラム個人の問題ではありません。これは、神を信じる者の多くが感じる不安ではないかと思います。神は本当におられるのか。神を信じて生きることに意味はあるのだろうか。罪の世にあって、信仰は常に不安にさらされています。
 神はアブラムの内に潜む諦めにも似た思い、静かな失望をご覧になったのです。そして「恐れるな」とアブラムに語りかけられたのです。

 神は語りかけられます。「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムの信仰を蝕む諦め、失望、何もない現実。神は、神ご自身こそがそれらからアブラムを守る盾なのだと言われます。
 そして、アブラムの受ける報いは非常に大きいと言われます。子孫も土地もまだ与えられていないアブラムに「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われます。
 この時アブラムは、神の言葉を素直に受け入れることができませんでした。彼の信仰は待ち続ける中で、諦めに変わりつつありました。アブラムは神に尋ねます。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」ダマスコのエリエゼルというのは、アブラムの家に仕えていた奴隷、今日で言うと執事のような務めを担っていた人です。
 これまで心の内に秘め、隠してきた神への不満が溢れてきます。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」約束はするけれど、それを果たしてはくれない。現実はこの通りではないか。アブラムの信仰は危機に瀕していました。

 神はアブラムになぜ待たされているかの理由を説明されません。神はただご自身の計画をアブラムに告げられます。「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』」
 どんなに楽観的に考えても、神の言われるとおりになりそうだと思えるような要素は何一つ見当たりません。神は、ご自身の言葉が真実であることの証人としてアブラムを召し出されたのです。状況から考えてその言葉は信じても良さそうだと判断されるのではなくて、たとえ状況から考えて無理だと思われても、神が言われたのであればその言葉は真実だということの証し人としてアブラムは召されたのです。

 わたしたちは真実な言葉なくして生きていくことができません。夫や妻、親や子どもの言葉が全く信用できないとなったら、家族として一緒に生きていくことができません。そして誰の言葉も信用できないとなってしまったら、生きてはいけなくなってしまいます。
 今のわたしたちの社会の大きな問題の一つは、信用できない言葉が多くあり過ぎるということです。状況や都合で変わってしまう言葉、明らかに偽りの言葉、初めから信頼できない言葉が多すぎるのです。ここから関係は崩れていきます。わたしたちの関係は、言葉が信頼できるか、言葉が出来事になるかが大きく関わっています。だからこそ、わたしたちは神の真実な言葉に支えられ守られていくのでなければ、罪の中で崩れていってしまうのです。
 アブラムはたとえ状況がどうであろうと、時間がどれほど経とうと、神の言葉は真実であり続けるということを自ら経験し、証しする神の民とされたのです。そして、わたしたちも神の言葉が真実であることの証し人として召されているのです。

 主は彼を外に連れ出してアブラムにしるしを与えてくださいました。主は言われます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そしてこう言われたのです。「あなたの子孫はこのようになる。」
 神はこのしるしを通して、神が天地万物の造り主であることをアブラムに気づかせてくださいました。状況が整っているから何かを産み出せるのではなく、何もなくても神は御心によって星々を造り、命を創造されたのです。状況が悪いことが問題なのではありません。アブラムが年をとりすぎているのが問題なのでもありません。いつどのようなときも、造り主なる神、救い主なる神、助け主なる神が共にいてくださるかどうか、神を信じて共に歩めるかどうかが問題なのです。

 アブラムは主を信じました。主はそれを彼の義と認められました。「義」という言葉は、神と正しい関係にあることを示す言葉です。神の真実な言葉を信じて生きることが、神と人との正しい関係であることを神は示されたのです。
 神はアブラムを見ていてくださったように、わたしたち一人ひとりをも見ていてくださいます。アブラムの信仰が弱ったのを知って語られたように、わたしたちの信仰が弱ることも主はご存じです。だからアブラムに語りかけてくださったように、主の日毎にわたしたちにも語りかけてくださるのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

 そして、アブラムにつぶやくことをお許しくださった神は、わたしたちのつぶやきをも受け止めてくださいます。わたしたちは真実な言葉を語られる主の前に立つとき、本当の希望を抱くことができるのです。神はわたしたちが抱えている不安や不満、叫び、それを聴き、受け止めてくださり、そして神からは本当の希望が与えられるのです。
 アブラムに天の星を示された主は、わたしたちにはご自身のひとり子をわたしたちの救いの証しとしてお与えくださいました。星を仰ぎ、神の声を聴いてアブラムが主を信じたように、わたしたちは救い主イエス キリストを仰ぎ、主の声を聴いて信じるのです。わたしたちはイエス キリストから溢れ出る永遠の命の約束を受け、神の国の大きな報いを望み見て歩んでいます。わたしたちは盾となって守っていてくださる神の真実に包まれて、救いの完成に向けて今歩んでいるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちの真実となって、わたしたちを支えていてくださることを感謝します。けれど、この罪の世にあって、わたしたちの信仰は絶えず揺らぎ、不安に脅かされます。しかし、あなたはそのわたしたちの弱さを知っておられ、主の日ごとの礼拝に招いてくださり、語りかけてくださいます。わたしたちに祈りを与え、讃美を与えていてくださいます。どうか今、アブラムに星を示されたように、イエス キリストをお示しください。主を仰ぎ見、主に導かれて、神の国へ歩み行くことができるようにお導きください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

詩編 145:1〜13

2020年12月3日(水) 祈り会
聖書:詩編 145:1〜13(新共同訳)


 145篇には最初に「アルファベットによる詩」とあります。アルファベットというのは、表記にローマ字を用いる言語の文字の一覧を表すものです。日本語で言えば「五十音」「あいうえお」または「いろは」に当たるものです。
 アルファベットという言い方は、ギリシャ語に由来するもので、ギリシャ語の最初の文字がアルファ α 、二文字目がベータ β で、ギリシャ語の文字一覧を表すのにアルファベータと言われていたのが変化してアルファベットとなったようです。
 アルファベットによる詩というのは、ヘブライ語の文字を一文字ずつ文頭に使っていくもので、言葉遊びの要素を入れて覚えやすくしたのかもしれません。アルファベットの詩でおそらく一番有名なのが119篇です。最も長い詩篇ですが、8節ごとにヘブライ語のアルファベットが順番に文頭に出てきます。
 ヘブライ文字は、ローマ字とは全く違う文字ですから、ヘブライ語の文字表記を表すのにアルファベットという言い方をするのかについてはよく知りません。ヘブライ語の最初の文字はアーレフ、二番目の文字はベートなので、ギリシャ語のアルファ・ベータと音は似ています。ちなみに「アルファベットによる詩」という表記は注のようなもので、本文にはありません。ちなみに「アルファベットによる詩」は全部で8篇あります。
 145篇は1節ずつ、文頭がアルファベット順になっています。ただ原文(マソラ本文)には、ヘブライ文字のヌン、アルファベットのNに当たる文章がありません。ギリシャ語訳(七十人訳)やシリア語訳(ペシッタ)、死海写本はヌンで始まる文章を挿入して、アルファベットが全部揃うようにしているようです。

 さて本文ですが、詩人は神を讃えます。表題に「賛美」とあるのは、この145篇だけです。「賛歌」は数多くありますが、「賛美(テフィリーム)」は145篇だけです。
 1~2節「わたしの王、神よ、あなたをあがめ/世々限りなく御名をたたえます。/絶えることなくあなたをたたえ/世々限りなく御名を賛美します。」詩人は神と向かい合い、全身全霊で讃美します。
 3節「大いなる主、限りなく賛美される主/大いなる御業は究めることもできません」と詩人自身が言っているように、神を語り尽くすこと、讃美し尽くすことはできません。どれほど言葉を尽くしても、完全に神を語ったとはなりません。

 詩人が讃美するのは、人々が神を証しし、宣べ伝えるためです。4節「人々が、代々に御業をほめたたえ/力強い御業を告げ知らせますように。」6節「人々が恐るべき御力について語りますように。」7節「人々が深い御恵みを語り継いで記念とし/救いの御業を喜び歌いますように。」10~11節「主よ、造られたものがすべて、あなたに感謝し/あなたの慈しみに生きる人があなたをたたえ/あなたの主権の栄光を告げ/力強い御業について語りますように。」12節「その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。」
 神はご自身の民に、神を証しする務めを託されます。ローマ 10:14~15「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。・・良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか。」神はその民と、救いを共有し、喜びに与らせてくださいます。

 だから詩人は5節「あなたの輝き、栄光と威光/驚くべき御業の数々をわたしは歌います。」神を証しし、宣べ伝えるのに、讃美は最もふさわしい、と言っても過言ではありません。礼拝で神の言葉を語るのは、務めに召された限られた人ですが、祈ること、讃美することは、すべての神の民に恵みとして与えられています。そして神は、祈る民、讃美する民を用いてご自分を証ししてくださいます。詩編 102:19「主を賛美するために民は創造された」のです。

 詩人は神を知って欲しいのです。この喜ばしい神を知らずに生きるなどということにならないでほしいと願っているのです。8~9節「主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。/主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」このような神がおられるのに、神を知らずに生きるなんて、と詩人は感じています。だから詩人は6節後半「大きな御業をわたしは数え上げます。」わたしたちは聖書に記された神の民の歩み(救済史)においても、個人の信仰の歩みにおいても、神の御業を覚えて讃美するのです。

 詩人は願います。12~13節「その力強い御業と栄光を/主権の輝きを、人の子らに示しますように。/あなたの主権はとこしえの主権/あなたの統治は代々に。」神を知った者たち、神の御業を経験した者たちが、神を証しすることを願います。そして神を知ったとき、神がわたしたちの主であってくださることの幸いを思い、主の主権が明らかにされていくことを願います。神を知った者たちが、神と共に歩み、神のご支配・神の国に生きること、主の主権が明らかになり、神の国が代々に続いていくことを願います。
 キリスト教会は、キリストが主であることを世に証しするために建てられています。

 わたしたちも神を讃美しつつ歩みましょう。わたしたち罪人の救いを願ってくださる神の御心が成るように、神の国が到来するように願って、讃美しつつ神の御業を、神ご自身を語り継ぎ、告げ知らせていきましょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人の喜びをわたしたちにもお与えください。あなたにある喜びでわたしたちを満たしてください。わたしたちの口に讃美の歌声を与えてください。わたしたちがあなたの御業を宣べ伝え、あなたを証ししていくことができますように。どうかこの時、あなたが御子を遣わしてくださった恵みを多くの人と共に分かち合わせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

誰にもわかるハイデガー

 筒井康隆文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー』(2018年 河出書房新社 解説 大澤真幸)読了。図書館で借りて読んだ。


 ハイデガーの『存在と時間』を紹介している。とても分かりやすい本だった。タイトルに偽りはなかった。買おうかとも考えている。
 著者はとても理解力のある方のようだ。本の中で既にある『存在と時間』の翻訳を紹介しているところがあるが、わたしには何を書いているのかさっぱり分からない。著者は1ヶ月で読み終え「もっと易しい言葉で、いくらでも易しくできるんじゃないかというふうに思った」とのこと。そしてその通り易しく、誰にも分かるように紹介してくれている。
 著者については殆ど知らない。『時をかける少女』の作者であるということ、朝日新聞に連載された『朝のガスパール』を読んでいた(内容は覚えていない)ぐらいである。しかし、これを読んで本当に感心したので、著者の他の作品も読んでみようかと思った。


 『存在と時間』の印象だが、ハイデガーは、神を抜きで聖書の提示する世界を描こうとしているのだなぁと感じた。これは、この本を読む前に読んだニーチェの入門書を読んだときにも感じたものである。当時のキリスト教では提示できなくなっているものを、生きることに深く関わることとして提示しようとしたのだろうか。

 

創世記 12:1〜9

2020年11月29日(日)主日礼拝  待降節第1主日
聖書:創世記 12:1〜9(新共同訳)


 きょうから待降節です。教会の暦、教会暦は待降節から始まります。
 待降節は、降誕を待つ時のことです。待つというのは、神が民に与えられる訓練の1つです。旧約の民イスラエルは、救い主の到来を待ち続けました。そして時至って、イエス キリストが遣わされました。今、わたしたちはキリストの再臨、神の国の完成を待ち続けています。降誕節を祝う前に、降誕を待つ待降節の時を過ごし、神の約束は実現することを覚えていくのです。

 今年は待降節アブラハムの物語を聞いて過ごします。アブラハムは、神の召しを受けた初代のイスラエルです。信仰の父と言われます。アブラハムは元々はアブラムという名前でしたが、神によってアブラハムと改名されました(17:5)。
 きょう聞いた箇所は、アブラハムがまだアブラムだった頃の話、アブラムが神の召しを受けたときの話です。

 主はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」
 神はアブラムを召し出されます。何故アブラムなのかは語られません。神がアブラムを召されたときの神の言葉が語られます。
 キリスト教では、信仰を持って神に従う時「神に召された。召しを受けた」と言います。信仰は、信じる者が勝手に信じる内容を決めるのではなく、神が語りかけられる声を聴いてその声に従います。信仰は信じる者が主になるのではなく、語りかけ、召し出される神が信仰の主なのです。

 神の召しは「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」というものでした。神は、住み慣れた土地、これまで築き上げてきた周囲の人々との関係を捨てて、神が示す導きに従って歩み出すように命じられます。これは、わたしたちに大きな不安を与えます。わたしたちは目に見えるもの、目に見えないものも含めて豊かであること、備えがあることで安心します。その様々な豊かさによって、自分自身が養われ益を得るように努めています。
 しかし、神は自分に安心を与えてくれる住み慣れた土地、人との繋がりを手放して従うように求められます。きょうの箇所の直前11:31を見ますと、アブラムの父テラはカルデアのウルを出てハランへとやってきました。テラが何もないところからようやく築き上げてきたものがそこにはあったはずです。けれど安心や自分の益となるものを、自分が持っているもの、得たものの中に求めるのではなく、決して自分のものとすることはできない神ご自身の中に、自分の未来を見出し、自分の生きる道を見出すように神はお求めになります。このことは究極的にはイエスのこの言葉へと向かっていきます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ 8:35)信仰とは、神以外のものに依り頼もうとする思いを捨て、神に支えられ、神が与えてくださるものを受けようとすることです。
 ですから、キリスト者にとっては自分の願いの実現が大事なのではなく、神の御心は何なのか、神はどこへと召しておられるのかが重要であり、それを聴こうとして神の声に心を向けることが大切なのです。

 神の召しには、約束が伴っていました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 神の約束は、祝福の約束でした。アブラムから遥かに時を経た時代に生きるわたしたちは、神の召しに応えたアブラムに対する神の約束が真実であったことを知っています。アブラムは確かに大いなる国民となりました。アブラムが従ったことから神の民イスラエルが生まれました。アブラムの信仰に連なる神の民、ユダヤ教キリスト教イスラムも含めたら、今や数えることができません。アブラムの名は信仰の父として数千年の時を経た今も忘れられることはありません。
 そして最も大切な約束は、祝福の源となるという約束です。神に従う者と共に神はあってくださり、神に従い生きる者を通して神は祝福を地に注がれるのです。そしてついには、アブラムの子孫、イスラエルの民の中にご自身の御子イエス キリストをお遣わしになり、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」という約束を果たされたのです。

 アブラムは神の召しに従い、多くのものを手放しました。しかし、アブラムは神から神と共に生きる祝福、救いに入れられ神の民として生きる祝福、そして永遠の命へと至る祝福を受けたのです。
 アブラムは、主の言葉に従って旅立ちました。アブラムは、ハランを出発したとき75歳でした。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へと入っていきました。アブラムは何も言わず、黙って神に従いました。行き先が明らかにされないまま神の声を聴いて、それに従いました。
 ところで11:30を見ますと、アブラムの妻サライ不妊の女でアブラムには子どもがいなかったとあります。神が大いなる国民にするなどと言われても、それを信じられるような状況は何もありませんでした。アブラムがカナンを通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来たとき、主はアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える。」と言われました。しかし、その地方には既にカナン人が住んでいました。「あなたの子孫にこの土地を与える」などと言われても、アブラムに子どもはなく、その土地には既に住んでいる人たちがいます。アブラム自身、既に75歳です。一体、何をどう見たら神の言葉が真実だと思えるのでしょうか。

 アブラムは肉の目に見えるものに依り頼むことをしませんでした。自分の中で将来の計算を立てることをしませんでした。アブラムは自分に語りかけてくださった神を仰ぎ見ていました。未来は自分の手の中にではなく、神の御手の中にあることを信じていました。そしてそれこそ、神がアブラムに、すべての神の民に求めておられることです。
 アブラムは見えるものに振り回されて不安に悩むのではなく、神を呼び求め、礼拝しました。アブラムは彼に現れた主のために、シケムに祭壇を築きました。そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。
 アブラムはひたすら神に依り頼み、神と共に生きることを証ししました。アブラムを通して、神ご自身こそ何物にも替え難い恵みであり、祝福であり、命であることが証しされました。そしてアブラムがなした証しを、神はイエス キリストにおいて成就されたのです。
 イエスは、神の御心により神としての栄光を捨てられました。人となってアブラムの子孫となられました。地上で目に見える報いを受けられることなく、ただひたすらに神と共に歩まれました。命までも失われ、すべてが虚しかったかのように見えましたが、神からすべてを受け、死から甦り、栄光を受け、すべての人の祝福となられました。

 アブラムに語られた神の言葉は真実でした。その召し、その約束に、神はご自身の御子の命をかけられるほどに真実でした。朽ちていく目に見えるものや、変わりいくこの世がわたしたちを救うことはありません。神の真実がわたしたちを救うのです。
 神の言葉に聴き従う者は幸いです。アブラムを支え導いた恵み、イエス キリストにおいて成し遂げられた恵みがその人を包むでしょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 救いの御業のために、あなたはアブラムを選び、召し出されました。あなたはアブラム、そしてあなたの民を通して祝福を地に注がれます。今わたしたちもあなたの民とされ、祝福の源とされていることを感謝します。どうか更に多くの人が救いへと導かれ、祝福に与ることができますように。キリストの誕生を仰ぎ見、祝おうとするこの時、多くの人があなたの許へと招かれ導かれますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

詩編 144:12〜15

2020年11月25日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:12〜15(新共同訳)


 きょうは12〜15節です。ここでは、主語が「わたし」から「わたしたち」に変わっています。
 144篇は「王の詩篇」と呼ばれるものですから、12節からは、王が神の民を代表して祈るという形になっているように思います。
 そして内容はと言うと、神が与えてくださる未来、神の国の幻を仰ぎ見て、その到来を待ち望む祈り、神の国へと導いてくださる神と共に歩む幸いを讃美する祈りになっています。

 この詩篇は、既存の詩篇から詩句を採用していること、用語にアラム語からの借用があることなどから、バビロン捕囚で破壊された神殿が再建された(第二神殿)後に最終的にまとまったと考えられています。
 これは、ダビデ王朝がなくなった後、神の国の到来を待望する思いが満ちていく中で、詠い紡がれていったのではないかと思われます。軍事的に敵に勝利するというモチーフがないのも、その時代の思いを表しているのではないかと考えられます。(参照:月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)

 12節「わたしたちの息子は皆/幼いときから大事に育てられた苗木。/娘は皆、宮殿の飾りにも似た/色とりどりの彫り物。」
 子どもたちについて語るのは、未来について語ることです。苗木は、成長を指し示し、神の守りと導きのある未来を語ります。娘の方の表現は、美しい女性の施しがなされた女人像の柱を喩えに用いたものでしょう。

 13節a「わたしたちの倉は/さまざまな穀物で満たされている。」13節b〜14節a「羊の群れは野に、幾千幾万を数え/牛はすべて、肥えている。」
 飢える心配のない豊かさが与えられている未来を描いています。これは神の恵みと祝福に満たされているしるしです。

 14節b「わたしたちの都の広場には/破れも捕囚も叫び声もない。」
 人々を不安や悲しみへと引きずり込む戦争のかけらもありません。神の平和 シャロームが民を包みます。

 15節「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は。」
 12〜14節で描かれた姿は、神が与えてくださるものです。神と共に歩む未来に与えられるものです。バビロン捕囚を経て、神に裁かれるのではなく、神に祝福されることを切に求めるようになっていた民の信仰を反映しているのでしょう。バビロン捕囚の経験があって、そもそも神は民をどこへ導こうとされていたのか、アブラハムを召し出されたとき、モーセを用いてイスラエルをエジプトから導き出されたとき、十戒や様々な戒めを与えられたとき、神はどこへ導こうとされていたのか、ということを思うようになったのでしょう。
 「いかに幸いなことか」は、神と共に歩む者の幸いを表す表現です。イエスの教えでも「幸いである」という言葉が繰り返されています(マタイ 5章、ルカ 6章)。

 今、ここにないものを仰ぎ見ることは、信仰にとって大切なことです。「幻がなければ民は堕落する」(箴言 29:18)と聖書は語ります。わたしたちは、まだ成就していない神の国の完成・到来を仰ぎ見ながら歩みます。今は感染症のために配餐をひかえていますが、聖晩餐は終わりの日に代々の聖徒たちと共に囲む主の食卓を指し示しています。
 神学の表現に「前味を味わう」という言い方があります。本当に味わうのは神の国に入れられてからですが、その時が必ず来ることを信じて味わうことを言います。洗礼や聖晩餐、そして礼拝において神の国を味わうのです。神の平和 シャロームを味わうのです。神の国の完成に先立って、味わうのです。教会は今この時、終末の前味を味わう先駆的な存在として建てられています。そして繰り返し主の祈りの(マタイ 6章、ルカ 11章)「御国が来ますように」と祈り続けていくのです。

 わたしたちも今、代々の聖徒たちと共に、神の国を仰ぎ見て「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は」と告白し、祈って参りましょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 いつもわたしたちを未来へと、神の国へと導いていてくださることを感謝します。あなたが与えてくださる幻が、わたしたちに未来への希望を与えます。あなたは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(1コリント 13:13)と言われました。あなたが与えてくださる希望が失われないことを信じます。どうかあなたの希望により、あなたと共に歩む力を増し加えてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン