聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 12:15〜18

2020年11月22日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:15〜18(新共同訳)


 きょうは、読みました所の15, 16, そして18節から聞いて参ります。
 15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
 このローマの信徒への手紙は、書名にもあるとおり手紙です。抽象的な論文ではなく、具体的な相手がいます。パウロはまだローマに行ったことはありませんが、ローマ教会の様子を伝え聞いて、何としてもローマ教会の人たちに伝えたいとこの長い手紙を書きました。パウロの頭には、顔は思い浮かびませんが、キリストを信じ、教会に集い −教会と言ってもまだ信徒の家で礼拝を守る「家の教会」の状態ですが− 主にある兄弟姉妹たちが思い浮かんでいます。ですから「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というのは一般論ではありません。
 ここでおそらく「泣く人」というのは、13節で「旅人」と言われた人たちではないかと思います。
 13節の所は、原文だと「聖徒の必要のために提供し、よそ者への愛を実践して」となっています。これは、この手紙が書かれた時代状況を考慮すると、まだキリスト者は少数者で、迫害される立場でした。迫害を受けて、住んでいた土地を離れ、同じ信仰のキリスト者を頼りに逃れてきている人たちのことが言われているように思います。今日で言うと「難民」に当たる人たちです。
 信仰故に、困難な状況にある人たちと共に泣くのです。つまり「共感」することが求められています。

 「共感」というのは、信仰に欠かせない感覚です。第一に神に共感し、神の御心に従っていくのです。罪人の救いを願う神の愛に共感し、救いの御業に仕えます。神が愛しておられる人たちを大切にします。
 この共感という感覚は、共に生きるために与えられた恵みです。わたしたちにとって、自分の気持ちが理解してもらえない、分かってもらえないというのはとても辛いことの1つです。罪によって、一人ひとりの善悪が異なってしまったことにより、分かり合える、理解し合えることが傷つけられてしまいました。
 そんなわたしたちに神は、キリストによって神に立ち帰る恵みを与えてくださいました。罪ゆえにバラバラになってしまった者たちが、唯一の神の許に立ち帰り、神の許で出会うのです。唯一の神に共感することを通して、神の御心を共有するのです。

 わたしたちは罪を抱えているので、絶えず神から離れていきます。だから、礼拝へと繰り返し帰ってくるのです。体ごと、丸ごとの自分が神へと帰ってくるのです。そして礼拝で、いつも御言葉を聴くのです。聖書を通して神の御心を聴くのです。わたしたちの教会は、歴史的に「御言葉によって絶えず改革され続ける教会」という言葉を掲げてきました。罪のため繰り返し神から離れて行こうとするこのわたしを、何度でも御言葉によって立ち帰らせて頂くのです。
 そのために、神は教会をお建てくださり、主の日ごとに礼拝を守らせてくださるのです。教会は10人もいれば、合う人合わない人がいます。そういった自分の好みを超えて、神が共におらせてくださるのです。アーメンと共に告白できる信仰を共有させてくださるのです。教会でなければ、一緒にいることはないだろうと思う人と、神が一緒におらせてくださるのです。
 今では、教会に来なくてもキリスト教の学びは出来ます。聖書の学びもいくらでもできます。しかし教会では、合わない人、理解するのが難しい人と、キリストの救いの故に共におらせて頂く、アーメンと共に告白する同じ信仰に与らせて頂くのです。まさに教会では、神の救いの御業が目に見える形で現されているのです。聖書の学びは趣味でもできますが、教会生活は趣味ではできません。教会だからこそ罪が露わになることもあります。光である神に近づくからこそ、影がより濃くはっきりと現れます。一人ひとりが祈りつつ、神と共に歩むのでなければ、教会生活は成り立ちません。

 パウロは、多くの人がやって来る大都市ローマの教会に集うキリスト者が、キリストによってつながれ、喜ぶこと、泣くことを共有し、分かち合い、神と共に歩むことを願っているのです。喜ぶことを共有するとき、イエスが5つのパンと2匹の魚で大勢を満たしたように(ヨハネ 6章)、そこに集うキリスト者が神の恵みに満たされていくでしょう。そして泣くことを共有するとき、泣く者は孤独から導き出され、多くの祈りが自分のためになされ、神が祈りに応えてくださることを知るでしょう。

 16節「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
 この節は、訳も解釈も多様で、説明し出すと長くなりますが、要点は「キリストに倣って、高ぶることのないように」という勧めです。
 「互いに思いを一つにし」というのは、「互いのことを同じように心にかけ、同じキリストの愛を心に抱くように」という勧めです。わたしたちの歩みの基準となるのは、イエス キリストです。共にただ一人の救い主であり羊飼いであるイエス キリストに従って歩みます。そのイエス キリストは、あなたの救いもわたしの救いも同じように思ってくださり、あなたのためにもわたしのためにも十字架を負ってくださいました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ 2:6~9)救いは、イエス キリストにあります。だからキリストに倣って「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」と勧めているのです。
 文法的な説明は省きますが、「低い人々」は「低いこと」と訳し「「低いことに同調し」(田川建三)、つまり「謙遜でありなさい」と訳している人もいます。よく子どもと話すときに、しゃがんで子どもと同じ目線で話すように言われることがありますが、イエスが人となってわたしたちの所まで来てくださった、わたしたちと同じ目線に立ってくださった。それと同じように、その人と同じ目線に立ち、その人の喜び、悲しみに共感して、共に歩むことが勧められています。

 そのようにキリストを仰ぐときに「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」と言われます。この世の知恵・賢さは、キリストの愛は評価しても、十字架は評価できません。十字架の道を歩むキリストに従おうとするとき、世はそれに反対し、それを愚かと判断します。それはうまいやり方ではなく、自分の得になるやり方ではないと考えます。教会であっても、しばしばうまいやり方、こうすれば問題を乗り越えることができるというやり方、経済的に得をするやり方が選ばれます。しかし、この世の知恵・賢さではキリストに従えないことに気づいていなくてはなりません。ただひたすらにキリストを仰ぎ、神の御心を求めていくのです。教会は神の御業であり、神の御心によって建てられていくものだからです。

 神の御心を第一としていくとき、神はわたしたちに平和を与えてくださいます。神が与えてくださる平和は、単に争いがない状態ではなく、共にあることを喜べる状態です。神が共にいてくださることが嬉しい、喜べる、それが神の平和、シャロームです。神の民イスラエルにおいては、シャロームは挨拶の言葉です。朝も昼も夜も使える挨拶だと聞いています。つまり、朝も昼も夜も、いつも神があなたと共にいてくださり、主にある喜びがあなたを満たすように願う、それがシャロームです。
 教会は、できればすべての人がこの神の平和に与り、与えられた命、生涯を喜びのうちに歩めるようにと願って、神の御業に仕えているのです。

 パウロがこれまでこの手紙で語ってきたことは、すべてこの神の平和に至るためです。まだ会ったことのないローマ教会の兄弟姉妹たちが、神の平和に与れることを願ってこの手紙を書きました。その願いは、神の御心でもありました。神はこの手紙をご自身の言葉として聖書に収め、代々に渡ってお語りになりました。だからわたしは、礼拝の最後、神の祝福を告げる際に「神の給う平安 シャロームの内を行きなさい」と言ってから、聖書に記された祝福の言葉を語ります。
 今、神は、わたしたちの救い・幸いを願って、キリストにおいて与えられる神の平安 シャロームへとわたしたちを招いていてくださるのです。きょう共に聞いたこの聖書の言葉、勧めは、わたしたちを神の平安へと、シャロームへと招くための勧めなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの救いの御業は、わたしたちに共感を与え、共に生きることを与えてくださいます。代々の教会と共に、わたしたちの教会にも喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くことをお与えください。常にイエス キリストを仰ぎ、神の知恵、神の御心を求めていくことができますように。どうかあなたの御心、あなたの愛、あなたご自身に共感し、あなたの平和、シャロームに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 6:30〜35

2020年11月15日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:30〜35(新共同訳)


 イエスは自分を探してやってきた人たちに言われます。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
 そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。永遠の命を得るための業は何かを尋ねます。
 イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。
 人々はさらに尋ねます。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

 人々は信じて大丈夫な保証を求めます。「ユダヤ人はしるしを求め」(1コリント 1:22)と聖書は言います。マンナというのは、出エジプトの際、荒れ野を旅したとき、神が与えてくださった食べ物のことです。出エジプト記 16章に出てきます。そこでは、神は「天からパンを降らせる」(16:4)と言われ、人々はそれを「マナ」(16:30)と名付けました。マンナというのは、イエスがおられた当時話されていたアラム語の発音のようです。

 イエスは答えられます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
 イエスは「はっきり」、これは「アーメンアーメン」という言葉を訳したものですが、二度アーメン 真実、まことにという言葉を使って、大切なことを明らかにされます。それは、天からパンを与えたのは、モーセではなく父なる神であるということです。そして神が与えてくださるパンは、世に命を与えるパンであるということです。

 人は、自分に都合のいい指導者が立って、引っ張っていってくれれば問題は解決すると思いがちです。そして今まさに、そういう時代になってきています。まるで民主主義を諦めて近代へと戻ろうとしているかのような状況が世界的に現れつつあります。わたしたちの国もそうです。
 誰を主と仰ぎ、誰に依り頼むのか。誰に望みを置くのか。それによって社会が大きく変わる時代を迎えています。

 人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
 イエスはご自分を「命のパン」であると言われます。イエス キリストこそが命であることを明言されました。それはここだけでなく、11:25では「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。14:6では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。イエス キリストこそ命です。死へと行き着く他はない罪を負っている命ではなく、父なる神の許へと至る永遠の命です。
 そしてイエス キリストは、永遠の命に至るのに欠けるところのない命のパンなのです。だから「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われたのです。イエス キリストに不足はありません。キリストだけでは残念だけど救いには少し足りない、といことはないのです。救いには、永遠の命には、まだ足りないといった飢えや渇きは決してないのです。イエス キリストこそ、わたしたちの永遠の命なのです。
 この命のパンであるイエス キリストは、「イエス キリストこそわたしの救い主である」と信じて受け入れることを通して受け取ることができ、与ることができるものです。だからイエスは 6:29で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われたのです。

 人々はイエスを信じる保証となるしるしを求めましたが、イエス キリストが神が救いの御業をなしておられる「しるし」であり、神の御心を知る「しるし」なのです。
 イエスがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに現れてこう言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ 2:12)そしてイエスご自身こう言われました。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。・・人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。』(マタイ 12:39~40)つまりイエスの十字架、その死こそ「しるし」なのです。
 救い主として人となり、罪人の救いのためにその命を献げてくださる。その救いの御業は死で終わることなく、復活に至る。これこそ、わたしたちが信じて救いに与るために与えられた「しるし」です。イエスが命のパンである証しです。
 だから教会は、自らのしるしとして十字架を掲げます。ここにイエス キリストが臨んでくださるしるしとして十字架を掲げます。そして、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝を献げます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)「見よ、この人だ」(参照 ヨハネ 19:4, 5, 14)とイエス キリストを指し示すのです。

 教会は、人々がイエス キリストを知ることができるように、イエス キリストをはっきりと指し示し、証しをする務めを与えられています。そして今、今まで以上にキリストを明らかに指し示すことを、神はお求めになっておられます。

 神はキリスト以外にも様々なものを「しるし」として用いてこられました。先ほども言いましたが、この「しるし」というものは、神が救いの御業をなしていてくださることを知るためのものであり、神の御心に気づくために与えられたものです。ただ単に奇跡に留まらず、神を指し示すものをしるしとして神はお用いになります。例えば、神は安息日についてこう言われました。「それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのもの」(出エジプト 31:13)であると。また、預言者自身の行動・行為がしるしとして用いられます。神は預言者エゼキエルに言われました。「わたしはあなたを、イスラエルの家に対するしるしとする。」(エゼキエル 12:6)

 そして今、神は新型コロナウィルスを神の御心を知るしるしとして教会に示されていると、わたしは考えます。
 このウィルスのために、教会の営みは変化を余儀なくなされました。礼拝を休みにする、来るのをひかえてもらうという1年前にはほぼ考えもしなかったことが起こりました。このことについては、ヤスクニ通信や福音時報において意見が交わされています。感染の危険性を抑えるため、礼拝を短縮する、聖晩餐の配餐をひかえる、距離を取る、集会を減らすといったことがなされています。インターネットを用いた礼拝の Live配信も行われるようになりました。中会や大会は集まらずに書面で行われたりしています。委員会や理事会もネット環境でのオンライン会議になっています。多くのことが変化しました。
 その中で、神とのつながり、神との交わりを求める思い、信仰が問い直されたように思います。なぜ神が世界に新型コロナウィルスを与えられたのか、それに十分に答えることはとても難しいと思います。それでも神学者や牧師の中には示されたことをネットで世界に向けて発信している人もいます。わたしは、神が与え給うものをきちんと受け止めて、神が示そうとしておられることを受け止めていくことが必要だと思います。
 今、教会はこうしたら大丈夫とうまくやるのではなく、手放せるものを手放し、収束したら以前と同じようにではなく、もっとキリストと出会い、神との交わりに憩う教会であることを求めていくことが、神の御心ではないかと思います。教会が今まで以上にイエス キリストに満たされていくようになることが求められているように思います。聖晩餐において配餐をひかえている今、キリストに与ることを切望する時を過ごすよう求められていると思います。わたしたちは既に二千年キリストの再臨を待ち望んでいます。配餐できるようになるのにどれくらいかかるか分かりませんが、今までよりもさらに深く「マラナ・タ 主よ、来たりませ」と祈ることが求められているように思います。

 わたしたちにはイエス キリストが必要です。永遠の命に至る命のパンであるイエス キリストが必要です。わたしたちの教会がイエス キリストに出会い、神との交わりに生き、憩える教会となりますように。キリストの命が満ち満ちる教会となりますように。神の祝福が絶えず注がれ、集う一人ひとりが主にある喜びと平安に満たされる教会となりますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかこの教会においてイエス キリストに出会い、あなたが御子を遣わしてくださった御心を深く知ることができますように。わたしたち一人ひとりの命をお与えくださったあなたから、救いを受け取り、永遠の命を受け取り、あなたと共に生きることができますように。いつも共にいてくださるあなたと共に救いの道を歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

詩編 144:5〜11

2020年11月11日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:5〜11(新共同訳)


 きょうは5〜11節です。この箇所の中心となるのは、7, 11節の「異邦人の手から助け出してください」という願いです。
 この願いを神に伝えるため、詩人は過去の出来事をモチーフとして祈ります。ここでは出エジプトのイメージが強く出ているように思われますが、おそらく異邦人のイメージを出エジプトの際のエジプト人ダビデのときのペリシテ人、そしてバビロン捕囚の際のバビロニア人などイスラエルの危機となった異邦人を重ねているのではないかと思います。どれも神が救いの神であることを覚える出来事ですが、特に出エジプトは、神の民イスラエルにとって救いの原体験です。

 5〜8節「主よ、天を傾けて降り/山々に触れ、これに煙を上げさせてください。/飛び交う稲妻/うなりを上げる矢を放ってください。/高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
 ここは、紅海を渡り、シナイ山に到着し、十戒を受け取る場面が思い浮かびます。

 ここでは出エジプト 19:16~20を見てみましょう。5, 6節のイメージと重なる記述が出てきます。
 「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。」

 詩人はかつてのように神が現臨してくださることを求めています。
 そして 7節「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。」神がご自身を現してくださるなら、どんな苦難の中からでも救い出してくださると信じています。
 そして神に逆らう者には真実はないことを詩人は語ります。8節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
 依り頼むことのできる真実は、神にこそあると信じているのです。

 9~11節「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい/十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。/あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。/わたしを解き放ち/異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」

 「新しい歌」とあります。新しいというのは、古びることのない新しさです。常に新しく自分の前に現れる神の救いの新しさです。昔の出来事ではなく、今この時わたしを救う神の救いの出来事です。そして讃美は、救いの出来事と共にあります。

 ここも出エジプトの出来事を見てみましょう。出エジプト 14:31~15:2bです。これは紅海を渡った直後の記事です。聖書で初めて「賛美」という言葉が出てくる箇所です。
 出エジプト 14:31~15:2b「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。/モーセイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。/主に向かってわたしは歌おう。/主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。/主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。/この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。」

 神の民イスラエルは、この救いの神の真実に守られて歩んできました。10節「あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。」
 そして 8節の言葉を繰り返します。11節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」真実は神にこそあります。

 実に信じるという行為は、神の真実によって支えられています。神と共に歩む中で、民は神の真実に触れ、信仰を養われてきました。神と共に歩み、神との交わりの中で、神が信じることができるお方であることを示され続けてきました。
 わたしたちの生活は、個人も、家庭も、社会も信頼、信じることができるということによって成り立っています。しかし罪がその信じることを壊してしまいました。罪によって信じることが破壊された世にあって、神ご自身が信じられるものとなってくださり、生きるのに不可欠な信じることを与えてくださっているのです。

 ですから信じることは、恵みです。わたしたちは「信じたら、救われる」のではありません。「神がわたしの救いの神となってくださった、救いの神でいてくださる」ことを信じるのです。わたしの救いの神であってくださる神の真実を信じるのです。神は、信じて生きる恵みを与えてくださっているのです。神の民は、代々この神の恵みを受けて歩んできたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは神の民の歩みの中で、あなたが救いの神となってくださったことを示してこられました。そしてあなたは、救いを通してわたしたちの信じることの源となってくださいました。あなたによって、生きること、命が守られ、支えられていることを知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネの黙示録 7:9〜17

2020年11月8日(日)主日礼拝  逝去者記念礼拝
聖書:ヨハネの黙示録 7:9〜17(新共同訳)


 わたしたちは家族を始めとして多くの人々に囲まれ、支えられて生きています。そして、愛する者、親しく交わりを与えられた者たちを神の御許へと送ってきました。
 人はこの世において、必ず死を迎えます。長い人生を終えて死を迎える者、若くして、あるいは幼くして天に召される者、不慮の事故によってこの世の生を終える者、大きな病と戦い安息に入る者、様々な死があります。人生が一人ひとり違っているように、死もまた一人ひとりがそれぞれに与えられた死を受け入れていかねばなりません。
 そして、この世に残される者たちは、死という厳然とした事実の前に立たされます。わたしたちは死を前にして、誰もが厳粛な思いにさせられます。

 聖書は死について何と言っているのでしょうか。聖書は、死は罪の結果起こったことであると言います。そして、聖書が繰り返し語る救いとは、罪からの救いであり、罪の結果である死から永遠の命へと救い出すことです。
 わたしたちは、本来神の姿に似せて造られ、神と共に、神の愛の内に生きることを喜ぶものとして生きていました。しかし、人は神の戒めを自ら破ることにより、命の源である神を離れ、死へと向かって歩みだしました。神の愛の内に生きることを止め、孤独な世界へと踏み込んでしまいました。
 神は、わたしたちを孤独と死から救い出し、永遠の命と神の愛の内に生きることができるようにとイエス キリストによる救いの御業をなしてくださいました。

 神は、キリストを、死を打ち破るものとしてお遣わしくださいました。キリストは人としてこの世にお生まれになり、わたしたちが受けなければならない神の審きをすべてその身に負ってくださいました。そして、十字架の上で命を献げ、葬られ、三日目に死を打ち破り、甦られたのです。キリストは、わたしたちが受けるべき審きはご自身で負われ、ご自身が勝ち取られた復活の命はわたしたちに分け与えようとしておられます。今やわたしたちはキリストを信じ、受け入れることにおいて死から救い出され、永遠の命へと移し換えられているのです。

 さてヨハネは、救いが完成する終わりの日の神の国の幻を見ました。そこでは、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」がいました。神の救いの業が全世界、全人類を包むものであることが示されました。
 彼らは、「白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」いました。小羊というのは、キリストのことです。そしてなつめやしは勝利のしるし、神の祝福のしるしです。神の民は、死の先に勝利が待っているのです。死を打ち破る神の救いの勝利を祝うのです。
 彼らは大声でこう叫びました。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。そして、それに応えて天使たちが神を礼拝してこう言います。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」

 わたしたちは愛の内に生きる、ここに生きる意味を見いだします。誰からも愛されない、誰も愛することができない人は、生きる喜びも、希望も見いだすことができません。救いとは、わたしたちを真実に愛してくださる神と共に生きることです。
 聖書はこう語ります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:9~10)
 救いは、神の揺るぎなき愛にかかっています。この神の愛を受け、神を愛し人を愛して生きる、ここにわたしたちの救いがあるのです。

 そして、神の愛の内に生きる人生がどこへ行くのかが明らかにされます。長老の一人がヨハネに問いかけます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネが「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はこう言いました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
 罪の世で生きることは大変なことです。そこには喜びや楽しみもありますが、様々な苦難があります。傷つき破れることもしばしばあります。その一人ひとりを救い主キリストは、自らの血をもって清められるのです。傷つき、破れ、ついには倒れてしまう人生で終わるのではなく、神の国に入れられ、神の愛の内に生きていくことができるように、キリストが自らの命をもってわたしたちを罪の世から救い出してくださるのです。

 「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。」
 キリストによって神の国に入れられた者は、常に神と共にあり、神と共に生きるのです。
 「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」
 神が一人ひとりと共に住んでくださいます。神の家族としてくださり、共にあってくださいます。だから「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」のです。
 神が共におられるからです。すべての苦難は過ぎ去りました。もはや何の恐れもありません。神のみもとにある者を何ものも傷つけることはできません。
 「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

 救い主としてこの世に来られたキリストは、最後までわたしたちを導かれます。
 ヨハネは、神の国でキリストの言葉が成就しているその様を見たのです。神の国では、神の愛に満たされ、キリストの恵みに満たされ、渇くことがなくなるのです。そして、神ご自身が涙をことごとくぬぐってくださるのです。わたしたちの痛みも苦しみも神はご存じです。涙を抱えて生きてきたことを神は知っておられます。「わたしの与えた命を全うし、よく帰ってきた。」と言って、神は涙をぬぐってくださるのです。わたしたちのすべてを知り、わたしたちのすべてを受け止めてくださる神が、この世の生の最後にもわたしたちを受け止め、神の国へと迎えてくださるのです。

 初めて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ ザビエルが海の見える高台にある寺を訪ねたときのこと、その寺の住職に「あなたは若い日と老いた日といずれを望まれますか」と尋ねました。住職は「それは、活力に満ち、何でもできる若い日に優るものはありません」と答えました。皆さんはいかがでしょうか。
 するとザビエルは、折しも大漁の旗をなびかせながら、黄昏迫る港に戻ってきた漁船を指さして「あの舟の人たちは、荒波にもまれ働いているときと、仕事を終え、愛する者の待つ港にたどり着こうとしているときと、いずれが幸せですか」と尋ねました。皆さんはどちらが幸せだと思われるでしょうか。

 わたしたちは、どうなるか分からない宛てのない旅をしているのではありません。わたしたちの命は、神の祝福によって創られ、キリストが命を懸けて救ってくださいました。そしてキリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)と言われました。わたしたちの人生はいつもキリストが共にいてくださり、導いてくださいます。
 わたしたちは、わたしたちを愛していてくださる神と共に永遠の命の道を歩みます。そしてこの世の生涯が終わると、神の国に招き入れられるのです。神に喜び迎えられ、涙を拭われるのです。
 既に召された兄弟姉妹たちが、神の国で平安の中にあることを思いつつ、わたしたちも主と共に、命の道を、神の国を目指して歩んで行くのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 今生きるわたしたちに対しても、既に召された者たちに対しても、救いの希望を与えてくださることを感謝します。どうかあなたの御言葉を通して、あなたの愛と真実、神の国と永遠の命を仰ぎ見させてください。どうかわたしたちを、あなたが与えてくださる信仰と希望と愛によって歩ませてください。わたしたちを救いの恵みで満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン