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ローマの信徒への手紙 1:24〜32

2019年7月10日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:24~32(新共同訳)


 この箇所で一番注目を引くのは、同性愛に関する記述であろうと思います。おそらく長い間教会が同性愛を禁止事項としてきたことの根拠となった聖句の一つであろうと思います。しかし、この箇所は今日一般的に認識されている同性愛について論じている箇所ではありません。

 24節の冒頭に「そこで」とあります。これは前段からのつながりを表しています。前段で言われていたのは、偶像礼拝の問題で、神というものを知りながら、神にふさわしく崇めず、感謝もしない。自分の利益や願望の実現のために神を利用しようとする自己中心的な信仰に対する批判が述べられていました。そして、そのような罪に対する神の怒りを伝えようとしています。18節には「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」とあります。
 ですから、問題の中心は21節の「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」ということであり、神が中心ではなく、自分が中心であるということなのです。

 そこで同性愛の問題ですが、ここは今日人権の問題として取り上げられる性的少数者LGBTと言われる生まれながらの性的少数者の問題ではなく、自分の快楽・娯楽の追求として行われる性行為を問題としているのです。
 この類いの問題はパウロの手紙には何回か出てきます。1コリント 5:1では「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」と書かれています。
 強大なローマ帝国がもたらした平和の中で、楽しみ、刺激を求めていく。そんな中で起こっている出来事として同性愛が取り上げられているのです。
 29〜31節に挙げられているように、自分中心の偶像礼拝から多くの問題が生じています。その中で、同性愛が特に取り上げられているのには理由があると思います。26節に「自然の関係を自然にもとるものに変え」とあります。自然は、神が与えてくださった命の秩序を表します。人が罪の中で手にした自由は、その自然を不自然なものに変えてしまいます。このときに罪人から出てくる言葉が「わたしの自由」であり、「他人に迷惑はかけていない」です。自分の楽しみであり、相手も同意して楽しみを共有してくれている。誰かを傷つけたり、奪ったりしていない。他人からいろいろ言われる筋合いはない。これは聖書の考え方とは違います。だから、神と関係なく、自分を楽しませる問題として、特に同性愛が取り上げられているのではないかと思います。
 聖書が告げるのは「わたしの自由」ではなく、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント 10:31)です。聖書の基準は、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいではなく、神の栄光が表されるかどうかなのです。
 この点をきちんと確認した上で、この箇所は読んでいかなくてはならないと思います。この箇所におけるパウロの論述の基本にあるのは、25節の「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」という信仰であり、神の栄光が現されるかどうかなのです。

 さて、この箇所のパウロの論述で特徴的なのは「神は・・まかせられた・渡された」という表現です。24節「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」26節「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」28節「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」3回「神は・・任せられた・渡された」という表現が出てきます。
 これは、人が神というものを知りながら、神を自分の願いを叶えるための僕にしてしまっている。神はその愚かしさに気づかせるために彼らの欲望(24節)、無価値な思い(28節)に彼らをまかせ、その報いを身に受けさせるようにされた、ということです。
 このような表現は旧約にも出てきます。詩篇 81:12~13にはこうあります。「わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。」
 わたしたちは神に立ち帰り、自分の願いからさえも自由になる必要があるのです。自分が何を欲しているかをきちんと理解することは大事なことです。しかし、自分の願いが叶っていれば幸せになれるのではありません。わたしたちの命を創り、責任を持ってくださる神が、わたしたちの幸せを願い、救いの御業を成し続けていてくださいます。わたしたちが求めたので、救い主イエス キリストを遣わされたのではありません。わたしたちが誰一人求めなくても、わたしたちの救いのために神はひとり子イエス キリストをお遣わしくださいました。神の御心のなるところに、わたしたちの救いがあり、幸いがあるのです。ですからイエスはこのように祈りなさいと言って主の祈りを教えてくださいました。「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」(マタイ 6:10)

 神が「彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするように」されるとき、29~31節に列挙されている悪徳が世に満ちてきます。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」ここでは、パウロが見た、神と共に生きようとしない世界の問題を挙げています。
 今、わたしたちは比較的平和な社会に生きているので、パウロが挙げたこれらのことが少し強烈に感じられるかもしれません。しかし、わたしたちは気づいていなくてはなりません。平和と言われる日本の社会においても、毎日のニュースでは紛争、テロが次々と報じられ、殺人やいじめ、虐待、詐欺のニュースが絶えることがありません。若者から大人まで多くの人々が苦しみうめいています。
 わたしたちは罪の世で生きているのです。そしてパウロが列挙する悪徳の満ちてくる世にあって「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ 5:9)というイエスの勧めを受けているのです。

 パウロは言います。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(32節)
 日本でも昔から「お天道様に恥じないように生きなさい」と言われ、「情けは人のためならず」と言われます。「罰が当たる」という言葉もあります。正しい生き方へと導こうとする知恵ある言葉は、聖書の外にも、日本にもあります。しかし、この世の知恵ある言葉は真の神へと立ち帰らせることはありません。パウロがここで言っている神を神として崇め、感謝へと至らせ、神と共に、また神に従って生きる信仰に至らせることも残念ながらありません。

 パウロは知っています。イエス キリストの十字架と復活に依らなければ、罪から解放されず、自分自身からも解放されないことを。罪がもたらす死と滅びから解放されないことを。そして、あらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されるのです。
 だからこそパウロは、神の福音であるイエス キリストをすべての人に宣べ伝えたいと願っているのです。神の怒りを受けるのではなく、神の祝福に与るように。罪にまかせてしまわれるのではなく、救いの御業に与り幸いを得ることができるように。そのためにパウロも教会も、本当の救い主、本物の救い主、イエス キリストを宣べ伝え続けているのです。
 そして神は今も、神の幸いと平和に生きるようにと、わたしたちに語りかけ、招いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊を注ぎ、わたしたちの思いを常にあなたへと向けさせてください。御言葉からあなたの御旨を正しく聞き、あなたと共に生きることができますように。あなたの救いに与っている喜びでわたしたちを満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン