聖書の言葉を聴きながら

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聖句で辿る聖書 70

出エジプト記
16章 23節(新共同訳)

モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。」


 神は休息を与えてくださる。十戒を見れば分かるとおり、「男女の奴隷も、家畜も、寄留する人々(信仰の違う人々)」にも与えられる(出エジプト 20:10)。
 民は神の僕(奴隷)であるが、神はいわゆる奴隷のように民を扱われない。神は民が救いに与って生きられるように、「安息日を祝福して聖別された。」(出エジプト 20:11)

 

ルカによる福音書 22:47〜53

2018年1月7日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:47~53(口語訳)
 
 イエスは、弟子たちとの最後の晩餐を終え、オリブ山のいつもの場所に祈るために来られました。イエスは十字架を前にして、苦しみもだえて、切に祈られました。汗が血の滴りのようにポタポタと地に落ちるほど切に祈られました。イエスは弟子たちに共に祈るようにお求めになりましたが、弟子たちはイエスと思いを共にして祈ることはできず、悲しみの果てに眠ってしまいました。
 そこへイエスを捕らえるために一団の人々がやって来ました。おそらくイエスを逮捕するために派遣された者たちと、イエスが逮捕されるというので集まった人たちがいたのでしょう。そしてその先頭にいたのは、十二弟子の一人ユダでした。彼はイエスに接吻しようとして近づいてきました。

 そこでイエスは言われます。「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか。」
 かつてエデンの園で、アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは神の顔を避けて、木の間に身を隠しました(創世記 3:8)。罪人は、神から隠れることができる、神に自分の罪を知られずにいることができると考えます。イエスは自分を裏切るユダに対して「わたしはあなたを知っている」と示されたのです。ユダは気づくべきでした。イエスは自分のことを知っておられた、それでもイエスは自分を弟子にして側に置いてくださった、主はわたしを招いていてくださることを気づくべきでした。しかし残念ながら、ユダは気づけませんでした。

 「イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、『主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか』と言って、そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落し」ました。ヨハネによる福音書は、切りつけたのはペテロであり、耳を切り落とされたのは大祭司の僕マルコスであったと記しています(ヨハネ 18:10)。
 38節を説教したときに申し上げましたが、ルカが剣と言っている言葉は「過越の子羊を屠り解体するための小刀」であるという理解があります。この場面でも、ペテロは漁師であって、剣の扱いに慣れた兵士ではありません。剣を振り回してたまたま耳だけを切り落としたと言うよりも、小羊の解体などで使い慣れている小刀で切りつけたという方が、合点がいきます。

 イエスは弟子のこの行為に対して「それだけでやめなさい」と言われ、その僕の耳に手を触れて、おいやしになられました。
 それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら(神殿の守衛長)、長老たちに対して言われます。「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。」

 罪に支配されているとき、人は自分が何をしているのか、それがどうなるのか理解することができなくなります。丁度暗闇の中にいるように、自分でも見えないし、周りからも見えないと思ってしまいます。
 しかし、イエスの言葉は、彼らがみんなの前で堂々とすることのできないことを、今闇に紛れてしていることを指摘します。

 ルカがこの場面で示そうとしていることは、イエスの前に立ち、イエスの言葉を聞くとき、人が今何をしようとしているのか、どんな状態にあるのかが明らかになるということです。
 人が自分の顔を見るためには、鏡に映さないと見えないように、自分自身を知るためには、キリストの前に立って、神の言葉を聞かなくてはなりません。
 イエスは、自分を裏切ったユダに対しても語りかけられます。自分を逮捕し殺そうとしている祭司長、長老、宮守がしら(神殿の守衛長)に対しても語りかけられます。イエスの言葉は、悔い改めへの招き、救いへの招きです。今の自分自身がどんな状態なのかを示し、何に導かれ、どこへと向かっているのかを示します。そして自分を滅ぼす道を行くのではなく、悔い改めて神へと立ち帰り、救いに与るようにと導く、招きの言葉なのです。

 ルカはただ起こった出来事を記しているのではありません。イエス キリストこそ救い主であることを告げようとしています。裏切る者・殺そうとする者にも語りかけ、救いへと導こうとされるイエス キリストによって、今もわたしたち一人ひとりに救いが差し出され、救いへと招かれていることを告げようとしているのです。

 教会の内でも外でも、二千年にわたって、ユダがなぜ裏切ったのかが問われ続けています。しかし不思議なほどに、聖書はユダの裏切りの理由についてほとんど語りません。この場面でも、ルカが記すのは、イエスは自分を裏切った者、自分を殺そうとする者にも語りかけ、救いへと招かれる、そしてその者たちのためにもイエスは十字架を負われたということです。
 おそらくわたしたちの多くも、なぜユダは裏切ったのかということに関心を抱いているでしょう。けれども、聖書はそこを指し示すのではなく、イエス キリストが裏切った者、殺そうとして捕らえに来た者にも語りかけ救いへと招かれたということを語ります。
 わたしたちも罪の世で歩む中で、自分の弱さや愚かさ、罪深さに失望することがあるでしょう。けれども、イエスはそのあなたを知っておられます。そしてイエスが「わたしに従ってきなさい」と招かれたのです。あなたは自分に、この世界に失望しているかもしれない。しかし今このときでさえ、イエスはあなたに語りかけられ、招かれておられる。イエスはあなたのことを見捨てることもないし、見放すこともない。この方があなたの救い主なのだ、と聖書は告げているのです。ですからわたしたちもこの場面を読むときに、なぜユダが裏切ったのか、ということに囚われてしまうのではなく、聖書が指し示しているイエス キリストにこそ目を向けていかなければなりません。そしてイエス キリストに出会い、その言葉が自分に向けて語られた言葉なのだと聞くとき、わたしたちは今この所からキリストに導かれて、救いへと招き入れられるのです。
 聖書は告げます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ 5:8)
 神は今も、イエス キリストを通してわたしたち一人ひとりを救いへと招き続けていてくださるのです。

ハレルヤ

 

聖句による黙想 17

創世記 1章 26〜28節(新共同訳)

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 

 神は人をご自分にかたどって創造された。そして人に祝福を与え、地を治める務めを託された。
 26節の「我々」についてはいくつか説がある。わたしは、熟慮を表す複数であり、三位一体の神を示すものと理解している。(参照:蓮見和男『対話する神 −三位一体論』新教出版社、105〜106ページ、林嗣夫『青少年のための聖書の学び 創世記』日本キリスト教会教育委員会、29ページ)

ハレルヤ

 

マルコによる福音書 1:1

2017年12月31日(日)主日礼拝  
聖書箇所:マルコによる福音書 1:1(口語訳)

 

 きょうは大晦日。1年最後の日です。明日になりますと、暦が改まり、新しい年、2018年が始まります。みなさんご存じのように、この2018という年の数え方は、イエス キリストの誕生を基準として定められました。実際は、キリストの誕生とは数年のずれがあるようですが、紀元前をキリスト以前(before Christ)B.Cと言い、紀元後をキリスト以後(Anno Domini)A.Dと定め、年代を表現してきました。わたしたちが主と仰ぐお方は、わたしたちの歴史を治め導かれる主であります。主の2017年が主の導きのもと終わりを迎え、主の2018年が主によって開かれ、主によって始められるのです。
 この暦が改まる最後の日に、わたしたちが聴く御言葉は、イエス キリストの生涯を記した4つの福音書の中で最初に記されたと言われているマルコによる福音書の最初に記されている御言葉です。

 新約には27の文書が収められていますが、福音書は比較的遅くまとめられたものです。イエスを直接知っている使徒たちが世を去っていくようになって、イエスがキリスト、救い主であることを伝えるため福音書がまとめられるようになっていきました。
 聖書にはイエスがキリストであることを正しく証ししているものとして四つの福音書が収められています。その四つの福音書の中で、マルコによる福音書が一番最初にまとめられた福音書だと考えられています。いちばん短い福音書ですが、マタイによる福音書ルカによる福音書もこのマルコによる福音書をもとにしてそれぞれ福音書をまとめあげています。短いですが、マタイ、ルカの手本ともなった大切な福音書です。

 福音書はそれぞれ特徴のある書き出しで書き始められています。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一文で始まります。

 ここに福音という言葉が出てきます。福音というのは、良い知らせという意味です。この福音という言葉は、元々は聖書の言葉ではありません。当時一般には、新しく王が即位したとか、戦いに勝利したといった知らせを福音と呼んでいました。

 皆さんよくご存知のマラソンという陸上競技の名前の由来にこういう話があります。紀元前490年、ギリシャペルシャは戦争をしていました。特に激しい戦いになったのはアテネの東北にあるマラトンの平野でした。この戦いはギリシャ軍の勝利に終わりました。この勝利を伝えるため、マラトンからアテネまでの長い道のりを一人の兵士が走り続けました。息も絶え絶えにアテネに着いた兵士は「喜べ、我々は勝ったぞ」と叫んだ後、疲れ果てて死んでしまったという話です。この「喜べ、勝ったぞ」という知らせを「福音」と言っていたのです。聞く者に喜びを与える知らせのことを当時は福音と言っていたのです。

 当時、福音はキリスト教の特別の言葉ではありませんでしたから、マルコによる福音書はこの福音という言葉を使うにあたり、「イエス キリストの福音」と言ってこの福音がどのような良い知らせなのかを明らかにしようとしました。
 イエス キリストの福音と言った場合、イエス キリストがもたらしてくれた良い知らせということです。福音という言葉は勝利の知らせに使われていたと言いましたが、まさにイエス キリストの福音は勝利の知らせでした。罪と罪がもたらす死に対する勝利の知らせでした。そして、福音という言葉は新しい王の即位にも使われたと言いましたが、罪と死からわたしたちを解放し、イエス キリストがわたしたちの新しい王、主となられたというのがイエス キリストの福音なのです。
 このイエス キリストの福音は、イエス キリストがご自分の命を懸けた十字架と復活によってなされました。ですから、イエス キリストの福音はイエス キリストがもたらしてくださった良い知らせであると同時に、イエス キリストご自身が良い知らせそのものなのです。イエス キリストが福音なのです。

 この一番最初にまとめられ、いちばん短いマルコによる福音書は、そのイエス キリストの福音を伝えていくためにまとめられたものなのです。イエス キリストの十字架と復活をきちんと伝えるためにまとめられました。マタイやルカのように誕生の話もなく、少々物足りないような気がするかもしれません。しかし、イエス キリストを知り、その十字架と復活を理解するために欠かせないことをマルコによる福音書はまとめているのです。
 そして、イエス キリストを知る際に鍵となるのが「神の子」ということなのです。救い主キリストとして神が遣わしてくださったのは、ほかならぬご自身のひとり子であったことをこの福音書は証ししようとしています。天使が遣わされたり、新しい指導者が人の中から立てられたのではなく、わたしたちを救うために神の子が人となってこの世に来てくださった。そしてあろうことかその命まで懸けてくださった。
 神はわたしたちに対して本気でした。本気で愛してくださり、本気で救ってくださいました。神は代わりのないひとり子を遣わしてくださいました。イエスは神の栄光を惜しまず、そしてご自分の命さえも惜しまれませんでした。
 少し砕けた仕方で言うならば、「そんじょそこらのいい知らせとは訳が違う。神の子イエス キリストの福音だ。さあ、その福音を語り始めるからよく聞いてくれ」とこの福音書は最初の一文でもって語っているのです。

 今から語り始める、ここから始まる、だから「福音の初め」なのです。ですが、この「初め」というのはこれから始まるというだけでなく、この福音書全体を指しているのです。福音書に書いたこと全部、十字架と復活に至るイエス キリストのすべてによって良い知らせ、福音は始まった。それが今に至るまで続いているんだよ、ということを表しているのです。

 (新共同訳聖書は、この1節を8節までのまとまりに入れて、それに「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」という小見出しを付けてしまっています。確かにこのように考える人もいるのですが、しかしこれではこの1節の大切な意味を狭くしてしまうように思います。元々の原文にはこのような小見出しは付いていませんし、とても大切なことをこの福音書は最初の1節で語っていると思うのです。今から良い知らせが始まるよ、そしてこの福音書に書いたイエス キリストによって福音が始まり、それは今も続いているんだよ、ということをこの最初の文は示しているのだと思います。)

 最初に福音という言葉が元々聖書の言葉ではなく、普通に使われる言葉であったことを話しました。神の救いの業は、ごく普通の言葉を神の恵みを指し示す言葉へと変えられました。これは単に福音という言葉だけのことではありません。普通のわたしたち一人ひとりを神の恵みを証しする神の民、キリスト者へと変えてくださいます。イエス キリストの福音は、単なる知らせ、ニュースではなく、わたしたちを本当に罪と死から救い出し、新しい神の民、キリストと共に新しい命に生きる者と変えるものです。
 単に暦が改まるだけでなく、キリストの福音によって、わたしたち自身が新しくされるのです。聖書は告げます。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(2コリント 5:17)
 神の子イエス キリストの福音を、神が語り告げられます。わたしたちを救うイエス キリストの良き知らせがわたしたち一人ひとりの上に今も新たに始まるのです。

 

ハレルヤ

ヘブル人への手紙 2:9〜18

2017年12月24日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヘブル人への手紙 2:9〜18(口語訳)

 

 きょうはイエス キリストの誕生を祝うクリスマスの礼拝です。
 ですが聖書を見ても、キリストが12月25日に生まれたとは書かれていません。教会がキリストの誕生を祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。神はわたしたちを救うために御子を救い主としてお遣わしになられた。神は救いの約束を実現してくださった。そのことを覚え、これからも神の言葉は真実であり続けることを確認するために、教会はクリスマスを祝うのです。
 今年の待降節は、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。キリスト誕生の千年以上前からキリストの到来が示されており、アブラハム、イサク、ヤコブに起こった出来事は、イエス キリストにおいて成就したことを確認してまいりました。
 きょうはヘブル人への手紙を読みました。ヘブル人というのは、イスラエルのことです。この手紙は、イエスは誰なのかを伝えようとしている手紙です。旧約の民イスラエルの人たちに対して、イエスこそキリスト救い主であることを伝えようとしている手紙です。

 9節には「イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられた」とあります。イエスは十字架に掛けられて地上の生涯を終えられました。聖書はこのイエスの死によって、神は罪人を贖われたと理解します。2コリント 5:21には「神はわたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となる」ためであると述べています。そしてこの死の故に、イエスは栄光と誉れとを冠として与えられたと告げます。聖書は、キリストの十字架は、神の偉大さと尊さを表すものであったことを伝えています。遙かな昔から伝えられてきた神の約束、神がわたしたちを救ってくださるという約束がキリストの十字架によって実現されたというのです。
 そしてこの出来事が起こったのは「彼(キリスト)が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった」と語ります。キリストの死は、すべての人を罪から救うための神の恵みであったというのです。ここで言う神の恵みは、すべての人を救うことを指します。すべての人を救うために、キリストはすべての人のために死を味わわれたのです。
 そして10節では「万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった」と語ります。ここで「彼にふさわしいこと」というのは、キリストにしかおできにならないことだった、という意味です。罪を贖うための苦しみを担うのは、神の御子イエス キリストにしかできないことであった、ということです。

 聖書が告げる罪は、関係を破壊し、絆を断ち切ります。しかし神の救いの御業は、関係を回復し、絆を新たに創造します。罪から救うというのは、この関係の回復です。神と人との関係、人と人との関係、人と世界との関係、すべての関係を回復し、共に生きる絆を新たに創造するのです。「きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。」キリストの救いの御業は、新たに神の家族という関係を造り出してくださいました。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つ」(ガラテヤ 3:28)とされたのです。
 イエスは、罪によって破壊され失われてしまった絆を、ご自分のなす救いの御業によって「キリスト・イエスにあって一つ」としてくださり、神の家族としてくださったのです。

 イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つため」(14, 15節)に来られました。そしてイエスはご自身の御業により「神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねば」(17節)なりませんでした。「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができる」(18節)のです。
 試練の中にあるわたしたちを救うために、キリストは人となられたのです。あらゆる点においてわたしたちと同じになり、肉体を取って人となられたのです。

 救いを説明するのに、溺れている人に神が手を差し伸べられるというたとえが使われることがあります。このたとえで言われるのは、一人ひとりの前に神の救いの御手が差し出されている。その神の御手をつかむことが大事だということです。しかしこの譬えで言われているように、キリストは安全な岸辺から手を差し伸べられたのではありません。キリストは試練のただ中に来て、試練を受けて苦しまれました。そして苦しまれたからこそ、試練の中にある者、苦しんでいる者の気持ちもつらさも悲しみも分かっていてくださり、そこからわたしたちを助け出してくださるのです。今言いました譬えで言いますならば、キリストは手を差し伸べておられるというよりも、罪に溺れ苦しむわたしたちのところへ飛び込んできてくださったのです。苦しみも痛みもその身に負って、救い主となってくださいました。イエス キリストは、わたしたちを「見放すことも、見捨てることもしない」(ヨシュア 1:5)ただ一人の真の救い主なのです。イエス キリストこそインマヌエルの主、「神我らと共にいます」(マタイ 1:23)お方なのです。
 神はご自身のひとり子イエス キリストによって、救いの約束を成就してくださいました。イエス キリストにおいて、神はご自身の真実を証ししてくださったのです。

 最初に言いましたように、教会がクリスマスを祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、その真実に支えられ導かれて、救いの完成を仰ぎ見るためです。今年は、創世記からアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。神は3,000〜4,000年の時を掛けてご自分の真実を証しし続けてきました。そして、今年も神の真実を聞く時を与えてくださったのです。聖書は語ります。「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(2ペテロ 1:19)

 イエス キリストこそ、インマヌエルの主、わたしたちと共にいてくださる真の救い主なのです。

 

ハレルヤ