聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 17:1〜8

2017年9月24日(日)主日礼拝 宇久井伝道所(14:00)
聖書箇所:創世記 17:1〜8(口語訳)

 

 前回は創世記 15:1~6から共に聞きました。このときアブラムは、神が子どもを与えてくださらないので「あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」(15:2)と訴えました。神はアブラムを外に連れ出して言われます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」。神の声を聞いて、アブラムは主を信じました。そして主は、これを彼の義と認められました。
 続く16章では「アブラムの妻サライは子を産まなかった。・・サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。」こうしてアブラムは、妻サライの仕え女ハガルによってイシマエルという男の子をもうけます。「これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった」(16:3)とあります。そして16章の最後で「ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった」(16:16)と書かれています。12:4には「アブラムはハランを出たとき七十五歳であった」とあるので、アブラムがカナンの地に住んで10年後の出来事であったことが分かります。

 きょうの17:1には「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた」とあります。15, 16章の出来事から13年が経ちました。この13年でアブラムの信仰にはどんな変化があったでしょうか。この17章でアブラムは、神の改名によってアブラハムとなり(17:5)妻サライはサラとなりました(17:15)。そして17:16で神は「わたしは彼女(サラ)を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう」と言われます。そのときアブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言います。「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。そしてアブラハムは神に願います。「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように。」(17:17, 18)アブラハムは神の言葉を信じられなくなっていました。

 仕方のないことだと思います。そもそも神に召されてハランを立ったとき、アブラハム75歳、サラ65歳です。サラの仕え女ハガルによってイシマエルをもうけたとき、アブラハム86歳です。それから13年何もなかったのです。イシマエルが神の約束の子だと思うでしょう。
 しかし神は、人間の予想、この世の予想を超える神の約束の真実をアブラハムに経験させるお考えでした。だからこのときアブラハムは神の声を聞かなければならなかったのです。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう。わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。」
 アブラハムを召し出された神は、全能の神なのです。アブラハムは全能の神を身をもって知らねばなりませんでした。そしてアブラハムは神の御前に歩み、全き者つまり神を信じて生きる者として証を立てねばなりませんでした。神は契約という言葉を何度も繰り返して、神の真実が貫かれることをお示しになりました。その契約の核心部分は、あなたたちの神となる、ということです。「わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう」(17:7)「そしてわたしは彼らの神となるであろう」(17:8)わたしがあなたの神なのだ、ということを神は自ら契約を結び、揺るぎないものにしてくださいました。

 わたしたちは罪を抱えていますから、いつもほどほどに神を信じています。しかし神は、わたしを信じて全き者であって大丈夫だ、全き者であれ、と言われます。そしてアブラハムと結んだ契約は今も変わらないことを示しておられます。きょうわたしたちは、アブラハムが聞いた神の言葉を聞きました。アブラハムに語られた神の言葉は、きょうわたしたちに向けて語られました。
 わたしたちの神は、自らわたしたちの神となってくださるお方。全能の神であり、わたしたちをご自身の恵みの契約に入れてくださるお方。その契約をイエス キリストにおいて成就し、神の約束が真実であることを証ししてくださったお方です。わたしたちはこの世の望みの消えゆくときにも、なお神を信じ、希望を抱くことができるのです。わたしたちには神がいてくださるのです。

 

ハレルヤ

 

ルカによる福音書 22:24〜27

2017年9月24日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:24〜27(口語訳)

 

 最後の晩餐の席で、イエスは自分を裏切る者がいることを明らかにされました。それを聞いて弟子たちは、自分たちのうち誰がそんなことをしようとしているのだろうと、互に論じ始めました。
 その議論は、次第に自分たちの中で誰が一番偉いだろうかという議論になっていきました。この議論は、これが初めてではありません。9:46にも「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった」と記されています。
 ここでは、自分が主を裏切るはずがない、ということを主張しようとして、自分の信仰が優れていることを言い始めて、誰が一番偉いかというこれまでもあった議論になっていったのではないでしょうか。

 その議論のさなか、イエスがお語りになります。「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」
 イエスキリスト者の考え方、振る舞いについて述べられました。古代エジプトなどでは、支配する王が「恩人」という別称を持っていたと言われています。国民は、恩人である王の恩寵の許に生活することができているという考え方です。恩寵を人々に注ぎ与え、人々の生活を守る者としての王、という考え方があったのです。しかし、キリスト者はこの世の王のような考え方でいてはいけない、とイエスは言われます。「あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」
 その根拠は、イエスご自身がそうしておられるからです。イエスは言われます。「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。」
 ヨハネによる福音書によれば(13章)、イエスはこの時弟子たちの足を洗われました。足を洗うのは奴隷の務めであったと言われています。そして食卓でも自らパンを裂かれ、杯を取って回されました。まさにこの時イエスは給仕をする仕える者として行動されていました。実に救いの業そのものが仕える業なのです。勝手に罪を犯し、神から離れ死へと向かっている者を救うために、神が仕えてくださっているのです。神が語りかけても神へと立ち帰らず、自分の思うままに進み、死へと進み行く者に、神が仕えてくださっているのです。神に従って生きることは、仕えて生きることに他なりません。

 ただし、これはイエスが自分に語りかけられたこととして聞かねばなりません。例えば、この言葉は年長の長老に向かって「イエス様は言っておられるのだから、あなたは若者のように、仕える者のようになるべきでしょう。わたしに仕えてください」などと言うことはできません。神の言葉である聖書は、第一に自分に語りかけられている言葉として聞かれなければなりません。一人ひとりが自分への主イエスの語りかけとして聞いて、信仰の決断としてイエスに従って生きるのです。そして、イエス キリストに従い、神と共に生きる信仰を共に持つとき、そこに信仰共同体である教会が成り立っていくのです。
 けれども、その信仰が薄れ、主に従うことが忘れられていくときには、神の前でなされた信仰の制約に基づいて、正されなければなりません。例えば、牧師が礼拝の説教で、聖書を取り次ぐことを疎かにし、ただ自分が読んだ神学書など本の紹介ばかりしたり、自分の主義主張ばかり述べるようになってしまったら、「あなたは神から託された務めを果たさなければならない」と正されなければなりません。

 そもそも共に生きていこうとするとき、お互いに仕えることなくして共に生きることはできません。人は神にかたどって造られており、神が互いに仕え合って生きることを願っておられるからです。ですから、わたしたちは既に仕え合って生きています。しかし罪の世にあって、わたしたちは仕えること、仕えられていることを忘れてしまいます。弟子たちの議論のように、自分が認められ評価されることに思いがいってしまうことがあります。
 そのような中で、わたしたちは従うべき主イエスへと思いを向けていくことが大切です。イエスが何をなされたか、どう教えてくださったを思い巡らすのです。イエスへ、神へ思いを向けるために、神は祈りを与えてくださいました。仕えることの第一歩は祈りです。わたしたちは自分の考えで、こういういいことをしてあげようと仕えるのではありません。神の導きを求め、神の御業に与らせて頂くのです。自己満足で仕えるのではなく、神がそこで救いの御業をなしてくださることを祈り求めつつ仕えるのです。
 ですから、仕えることは祈りから始まります。名前を挙げて祈ります。神がその人に御業をなしてくださることを祈ります。そして神に仕えるべき業を示してして頂くのです。それは電話をして声をかけることかもしれません。手紙を書くことかもしれません。近くにいて直接何かしてあげられる人でないと仕えられないのではないのです。キリスト者が仕えるというとき、神が祈りを聞いて御業をなしてくださるという信仰を持って仕えます。例え自分が何もできなくても、祈れる限りわたしたちは仕えているのです。幼い子どもから年老いた者まで、キリスト者は神にあって仕えて生きることができるのです。
 そして仕えたことは神が知っていてくださり、神が報いてくださいます。神がわたしたちのために天に宝を積んでいてくださいます。人に認められ、評価されることを求めなくてよいのです。

 聖書は神の言葉です。聖書はわたしたちを神に立ち帰ること、悔い改めへと導く神の招きの言葉です。自分自身が神の招きの言葉に聞き従って、神に立ち帰るのです。自分の正しさのために振り回すものではありません。「わたしに仕えるべきでしょう」などと言うためのものではありません。自分自身がイエスに倣い、与えられたところで仕えていくのです。主の招かれる声を聞き、イエスに倣って歩んでいくのです。その時、主イエスが共にいてくださり、自分と共に歩む者を祝福してくださるでしょう。そして教会もまた、信仰をもって神に従い生きるとき、教会は活ける真の神と出会える場となり、神の栄光が満ちていくでしょう。

 わたしたちに今も語りかけてくださる主の御声を聞いて、主と共に歩んでいかれますように。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 59

マタイによる福音書 6章 33, 34節(新共同訳)

 

 人は未来に不安を抱く。不安要素があれば、それだけ不安も増す。イエスは「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われる。そのためには、自分の人生を救いへ、神の国へと導かれる神を覚えなければならない。
 イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えられる。
 神の国とは、神のご支配のこと。神の義とは、神との正しい関係のこと。神との良い関係を保ち、神のご支配に留まろうとしていくとき、神が必要なものを備えてくださることを見る。アブラハム以来、神はそのようにしてご自分の民を導いてこられた。
 神の国と神の義に思いを向けよう。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句で辿る聖書 60

出エジプト記
13章 2節(新共同訳)

 

すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。

 


 神が与えてくださった最初のものを、神に献げる。