聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:24〜27

2017年9月24日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:24〜27(口語訳)

 

 最後の晩餐の席で、イエスは自分を裏切る者がいることを明らかにされました。それを聞いて弟子たちは、自分たちのうち誰がそんなことをしようとしているのだろうと、互に論じ始めました。
 その議論は、次第に自分たちの中で誰が一番偉いだろうかという議論になっていきました。この議論は、これが初めてではありません。9:46にも「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった」と記されています。
 ここでは、自分が主を裏切るはずがない、ということを主張しようとして、自分の信仰が優れていることを言い始めて、誰が一番偉いかというこれまでもあった議論になっていったのではないでしょうか。

 その議論のさなか、イエスがお語りになります。「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」
 イエスキリスト者の考え方、振る舞いについて述べられました。古代エジプトなどでは、支配する王が「恩人」という別称を持っていたと言われています。国民は、恩人である王の恩寵の許に生活することができているという考え方です。恩寵を人々に注ぎ与え、人々の生活を守る者としての王、という考え方があったのです。しかし、キリスト者はこの世の王のような考え方でいてはいけない、とイエスは言われます。「あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」
 その根拠は、イエスご自身がそうしておられるからです。イエスは言われます。「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。」
 ヨハネによる福音書によれば(13章)、イエスはこの時弟子たちの足を洗われました。足を洗うのは奴隷の務めであったと言われています。そして食卓でも自らパンを裂かれ、杯を取って回されました。まさにこの時イエスは給仕をする仕える者として行動されていました。実に救いの業そのものが仕える業なのです。勝手に罪を犯し、神から離れ死へと向かっている者を救うために、神が仕えてくださっているのです。神が語りかけても神へと立ち帰らず、自分の思うままに進み、死へと進み行く者に、神が仕えてくださっているのです。神に従って生きることは、仕えて生きることに他なりません。

 ただし、これはイエスが自分に語りかけられたこととして聞かねばなりません。例えば、この言葉は年長の長老に向かって「イエス様は言っておられるのだから、あなたは若者のように、仕える者のようになるべきでしょう。わたしに仕えてください」などと言うことはできません。神の言葉である聖書は、第一に自分に語りかけられている言葉として聞かれなければなりません。一人ひとりが自分への主イエスの語りかけとして聞いて、信仰の決断としてイエスに従って生きるのです。そして、イエス キリストに従い、神と共に生きる信仰を共に持つとき、そこに信仰共同体である教会が成り立っていくのです。
 けれども、その信仰が薄れ、主に従うことが忘れられていくときには、神の前でなされた信仰の制約に基づいて、正されなければなりません。例えば、牧師が礼拝の説教で、聖書を取り次ぐことを疎かにし、ただ自分が読んだ神学書など本の紹介ばかりしたり、自分の主義主張ばかり述べるようになってしまったら、「あなたは神から託された務めを果たさなければならない」と正されなければなりません。

 そもそも共に生きていこうとするとき、お互いに仕えることなくして共に生きることはできません。人は神にかたどって造られており、神が互いに仕え合って生きることを願っておられるからです。ですから、わたしたちは既に仕え合って生きています。しかし罪の世にあって、わたしたちは仕えること、仕えられていることを忘れてしまいます。弟子たちの議論のように、自分が認められ評価されることに思いがいってしまうことがあります。
 そのような中で、わたしたちは従うべき主イエスへと思いを向けていくことが大切です。イエスが何をなされたか、どう教えてくださったを思い巡らすのです。イエスへ、神へ思いを向けるために、神は祈りを与えてくださいました。仕えることの第一歩は祈りです。わたしたちは自分の考えで、こういういいことをしてあげようと仕えるのではありません。神の導きを求め、神の御業に与らせて頂くのです。自己満足で仕えるのではなく、神がそこで救いの御業をなしてくださることを祈り求めつつ仕えるのです。
 ですから、仕えることは祈りから始まります。名前を挙げて祈ります。神がその人に御業をなしてくださることを祈ります。そして神に仕えるべき業を示してして頂くのです。それは電話をして声をかけることかもしれません。手紙を書くことかもしれません。近くにいて直接何かしてあげられる人でないと仕えられないのではないのです。キリスト者が仕えるというとき、神が祈りを聞いて御業をなしてくださるという信仰を持って仕えます。例え自分が何もできなくても、祈れる限りわたしたちは仕えているのです。幼い子どもから年老いた者まで、キリスト者は神にあって仕えて生きることができるのです。
 そして仕えたことは神が知っていてくださり、神が報いてくださいます。神がわたしたちのために天に宝を積んでいてくださいます。人に認められ、評価されることを求めなくてよいのです。

 聖書は神の言葉です。聖書はわたしたちを神に立ち帰ること、悔い改めへと導く神の招きの言葉です。自分自身が神の招きの言葉に聞き従って、神に立ち帰るのです。自分の正しさのために振り回すものではありません。「わたしに仕えるべきでしょう」などと言うためのものではありません。自分自身がイエスに倣い、与えられたところで仕えていくのです。主の招かれる声を聞き、イエスに倣って歩んでいくのです。その時、主イエスが共にいてくださり、自分と共に歩む者を祝福してくださるでしょう。そして教会もまた、信仰をもって神に従い生きるとき、教会は活ける真の神と出会える場となり、神の栄光が満ちていくでしょう。

 わたしたちに今も語りかけてくださる主の御声を聞いて、主と共に歩んでいかれますように。

ハレルヤ