教理による黙想の手引き 25
教理による黙想の手引き
連載を終えて
これまで24回にわたってブログに掲載してきたものは、日本キリスト教会発行『福音時報』において2015年1月号から2016年12月号まで、「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」というタイトルで連載したものである。
「日本キリスト教会信仰の告白」から24の言葉を選んで書いてきた。当初は「説教という形で」という依頼で始めたが、すぐに行き詰まってしまった。わたしは教理は好きだが、教理説教は苦手なようである。説教は、あらかじめテーマがあるのではなく、聖書に沿って語る講解説教が好きなようである。
日本キリスト教会信仰の告白は、日本キリスト教会のウェブサイトでご覧頂きたい。文語文と口語文とがある。
教理は聖書の要約であるから、読み手・聞き手が「確かに聖書はそう言っている」と理解できることが大事だと思っている。この連載では、適切な聖句を提示して、聖句が語っていること、神の御心に思い巡らしてもらえるように願って書いた。
信仰は、神へと思いが向かうことが大切である。教理を始め神学的知識を情報として理解しても、信仰は育たない。教理を水戸黄門の印籠のようにひれ伏させるために用いたのでは、教会の信仰は育たない。教理は聖書へと導き、神へと思いを導くものでなければならない。
聖句に基づいて、神へと思いを向け、思い巡らす、黙想するのに、教理はよい助けになると思う。
教理による黙想の手引きは、古代信条、宗教改革以降の改革派教会の信仰告白を用いて、また書きたいと思う。
ハレルヤ
聖句で辿る聖書 30
創世記
28章 22節(新共同訳)
あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。
ヤコブが十分の一の献げ物を神に約束する。
ヨハネによる福音書 18:28〜37
2017年4月2日(日)主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書 18:28〜37(口語訳)
きょうから復活節に向けてヨハネによる福音書から聞いていきます。
18:1に「イエスは・・弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこには園があって、イエスは・・その中にはいられた」とあります。ここは、マタイとマルコではゲツセマネと言われている所です。
「イエスを裏切ったユダは・・一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役どもを引き連れ、たいまつやあかりや武器を持って、そこへやって」(2,3節)きました。そこでイエスは捕らえられました。イエスは大祭司のしゅうとアンナスの所へ(13節)、次いで大祭司カヤパの所へ(24節)連れて行かれました。そして夜明け頃(28節)、イエスはローマ総督ピラトの所へ連れてこられました。
イエスを逮捕したエルサレムの指導者たちは「けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸に」は入りませんでした。彼らは、異教徒の家に入ると汚れると考えていました。ユダヤ人たちは、神の御前に出られる状態を「清い」、神の御前に出られない状態を「汚れている」と考えていました。これは大いなる皮肉です。ねたみから無実のイエスに罪を着せ、イエスを殺そうとしている者たちが、汚れることがないようにと、異教徒であるローマ総督の官邸には入らないようにしているのです。「おかしいだろう」と突っ込みたくなります。彼らには神の戒めである十戒の「偽証してはならない」も「殺してはならない」も関係なかったようです。
ユダヤ人たちが官邸に入ってこないので、ピラトの方が出てきました。「あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか」彼らはピラトに答えます。「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」ピラトは言います。「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」ユダヤ人たちは答えます。「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。
そうです。彼らはイエスを殺したいのです。自分たちが受けるべき人々の敬意を奪っていったイエスを殺したいのです。自分たちよりも神の御心を知っているイエスを殺したいのです。しかし、彼らが言うとおり今ユダヤはローマ帝国が支配しており、ローマ総督の許可なくして人を死刑にすることはできません。しかも、ローマの法律で死刑にするには、ローマ帝国への反逆罪でなくてはなりません。
だから、ピラトは再び官邸に入り、イエスを呼び出して尋ねます。「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。つまり、ユダヤ人の王を名乗って、ローマに対する反乱を引き起こす者かどうかを知ろうとしているのです。
イエスはお答えになります。「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。イエスが誰なのか答えるのは、信仰の核心です。
マルコによる福音書8章にはこう書かれています。イエスは・・弟子たちに尋ねて言われた、「人々は、わたしをだれと言っているか」弟子たちは答えます。「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」そこでイエスは彼らにお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」ペテロが答えて言います。「あなたこそキリストです」(27〜29節)
イエスは誰なのか、それはイエスの言葉を聞き、業を見て、イエスに向かって答えるべき信仰の問題です。ですから、キリスト者はイエスが誰であるかを告白をして洗礼を受けるのです。
ピラトは答えます。「なぜ、わたしがそんなことを答えなければならない。わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは一体何をしたのか」
イエスはお答えになります。「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」
そこでピラトはイエスに尋ねます。「それでは、あなたは王なのだな」イエスは答えられます。「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」
イエスは真理を証しするために世に来られた、と言われます。そしてこのヨハネによる福音書は、こういうイエスの言葉を記しています。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(14:6)イエスご自身が、神を知り、神へと立ち帰る真理なのです。罪から救われる真理なのです。そして神は、テモテの第一の手紙 2章4節でこう述べられます。「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」
神はすべての人が救われることを望んでおられます。そして、そのために必要な真理を悟るために、ひとり子イエス キリストを救いに至る真理として世に遣わされました。
イエス キリストは、罪の世を超えた神の国に生きる真理となってわたしたちのもとに来られたのです。
そして、神が聖書を通して御旨を明らかにされ、イエス キリストが宣べ伝えられるとき、「あなたはイエス キリストを誰と言うか」という問いかけと救いへの招きが、そこにはあるのです。
わたしたちが毎週告白する「日本キリスト教会信仰の告白」には、最後に「使徒信条」と呼ばれる信仰告白が含まれています。その中に、イエスは「ポンティオピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」とあります。ここでピラトの名は、神を知らないこの世を代表する名前として使われています。
イエスは、神を知らず、神に従うことも知らないこの世の力の前で、自らを明らかにされました。ピラトは問います。「あなたは王なのだな」イエスはお答えになります。「わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」イエスは自分を十字架につける力ある者の前で、自らを明らかにされました。
皆さんは、このイエスを誰だと言われますか。
イエス キリストがわたしにとって誰なのか、イエスが世に来られ、十字架を負われたのは何のためだったのか、わたしたちは、イエス キリストの苦しみに思いを向けるこの受難節に、もう一度問いかけてみるのです。
あなたにとってイエスキリストは誰ですか。
ハレルヤ
聖書通読のために 43
思い巡らす meditation meditado
神の思いに心を向けるために
マタイによる福音書 6:1〜4(新共同訳)
自分のことを知っていてほしい、理解してほしい、評価してほしいという思いは、かなり根源的な思いだと思う。
神はわたしを知っておられ、理解しておられ、大切に思い愛していてくださる。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ 43:4)と神は言われる。イエスは、自分を裏切る者を弟子とし、自分を見捨てて逃げ去る者を最後まで愛し抜かれた。「イエスは・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ 13:1)
聖書は、神の御前に立ち、神があなたを知っておられ、神があなたを愛しておられることを知るように、そして神の報いを期待するようにと語りかけている。
喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)
神学入門 16
神学 組織神学02
教理
わたしが神学の中で一番興味があるのは、教理である。教理は聖書の要約である。
わたしの信仰的一番の関心事は、わたしは本当に救われるのか、あるいは救われているのか、である。
わたしの神学校の卒業論文のテーマは、16世紀のルター派と改革派の義認の教理の比較、であった。
わたしは本当に義とされているのだろうか、救われているのだろうか。気が小さく、悲観的に物事を考えがちなわたしは、いつもそのことを気にしていた。
聖書は救いについて、何と言っているのだろうか。このことと向き合って考えさせてくれるのが、教理であった。科目としては、教理史と信条学である。
教理史の中では、ペラギウス論争、神人協力説が興味を引いた。信条学の中では、義認が大きなテーマとなった16世紀のプロテスタントの信仰告白に興味を持った。
わたしの好きなことは、信仰告白や教理問答(カテキズム)にある引証聖句を確かめることである。
教理は、聖書の要約であるから、聖書がそう言っているかどうかが、最も重要なことである。
教理は、その根拠である聖書から遊離し、教理だけで議論されるようになると、教条主義に陥ってしまうように思う。
聖書との確かなつながりを保っているとき、教理は神の御心を知る大切なきっかけとなり、神と出会うチャンスとなる。
わたしは著名な神学者の書物よりも、教会で読まれ、学ばれ、教会員の信仰を育むために用いられてきた信条・信仰告白が好きである。
主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)