聖書通読のために 35
思い巡らす meditation meditado
神の思いに心を向けるために
マタイによる福音書 5:17〜20(新共同訳)
昔、ある教会の長老にこう言う人がいた。「キリストによって旧約は成就されたのだから、今さら旧約の話をされるといらいらする」
そのときにわたしが「イエスはこう言っておられますよ」と示したのがこの箇所であった。それでもその人には通じなかった。
だからだろうか。わたしは自分の思い込みを聖書よりも上に置く人を見るといらいらする。(特にわたしたちの教会は「御言葉によって改革され続けていく」を旗印としているから)
主が「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言っておられるので、わたしは安心して聖書を読み、神の思いへと心を向けるのである。
喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)
神学入門 10
神学 聖書学07
釈義03
釈義では、大きく2段階の理解を求めていく。
一つは、聖書が書かれた当時、その聖句はどういう意味を持っていたのか。二つ目は、では今はどういう意味を持っているのか、である。
例えば、レビ記の規定の中に食べていいものと悪いものの規定がある。毒があるわけではない。今ではキリスト者も普通に食べている。その規定は、書かれた当時、また守られていた当時はどういう意味があったのか。どういう目的で、神はこの規定をお与えになったのか。そして、それが文字通り守られていない現代において、どういう意味を持っているのか。今、神はその規定から何を伝えようとしておられるのか。
このように、釈義では2段階の理解を求めていく。
ちなみに、上に挙げた食物規定の持つ現代的意義について、例えば、日本人はエビが好きである。日本ではエビがよく売れる。だからといって、東南アジアのマングローブ林をエビの養殖場に変えて、売れるだけエビを養殖してはならない、ということを示唆しているように思う。創世記 1:26, 28の「地を治めよ(支配せよ)」との命令は、当然神の御心に従ってなされなければならない。その際に、食物規定は大事な意味を持っていると思う。毒があるわけではない。美味しい。食べることができる。しかし、神の御心であるから食べない。これは意味のあることである。
このような理解は、現代だから意味が出てくるのであって、200年、300年前ならば意味はなかったかもしれない。このことは、今現在、意味が分からない、意味がないように思われるからと言って、この聖書の箇所は必要ないとするのは、軽率な行為であることを示している。(これは、今現在、その御言葉の意味を理解できない箇所がある可能性を示唆している。)社会状況がどのように変わろうとも、歴史を貫いて神の御心を伝え続ける聖書に対して、聴き続ける敬意が必要である。
主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)
聖句で辿る聖書 16
創世記
18章 14節(新共同訳)
主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。
神は全能の神。命の主。
教理による黙想の手引き 18
教理による黙想の手引き 第18回
(日本キリスト教会発行 福音時報 2016年6月号掲載
掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)
「教会-キリストのからだ」
「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ人への手紙 1章23節 口語訳)
日本キリスト教会信仰の告白(口語文)では「教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わり」であると告白されています。
「教会」という単語(訳語)は新約にだけ出てきます。教会の元々の語(エクレシア)は、旧約の「会衆」を意味するヘブライ語「カーハール」の訳語として用いたと言われています。しかしエクレシアには「召された者たちの集い」という意味があります。教会は、神によってこの世から召し出された者たちの群れなのです。
この教会には「キリストのからだ」という性質と、「聖徒の交わり」という性質があります。共に罪に対抗する性質です。ですから教会は、神の民が罪と戦いながら神に従って生きるために、神によって建てられた恵みなのです。
今回は「キリストのからだ」について考えていきましょう。
「からだ」の特徴は、かしらの意志に従って動くことです。聖書では、イエス・キリストが「教会のかしら」(エペソ 5:23、コロサイ 1:18)であると言われています。
聖書が教える罪は、善悪を知る木の実を食べて(創世記 3:6)、神とは違う善悪、願い、意志を持ち、神と共に生きられなくなったことです。つまり、かしらである主イエス・キリストの意志に従えなくなったのです。(だからキリストは、拒絶され、十字架につけられました。)
ですからイエスは、イエスを主と告白する信仰の上に、教会をお建てになりました(マタイ 16:15~18)。そして、説教と聖礼典を中核とする礼拝によって、教会を育み導いてこられました。
なぜ、神の民は教会という神の民の群れに属するよう導かれるのでしょうか。それは、この罪の世においては信仰でさえ罪の影響を受けるからです。
わたしたちは自分の信じていること、自分の理解、自分の好みにこだわります。そして自分を基準にして他者を批判し、否定することがあります。主を信じているという事柄においてさえ、主の御心を受け入れず、自分を中心にしていることがあるのです。ペテロが信仰告白の直後にイエスから「サタンよ、引きさがれ」(マタイ 16:23)と叱責されたことを忘れてはなりません。
わたしたちは、(神が愛しておられる)自分とはいろいろと違う他者と、神を礼拝することを核として共に歩むことが必要なのです。
あなたが正しいか、わたしが正しいかではなく、共に神の御許に立ち帰り、主の御心に仕え生きる訓練を共に受けていくのです。主がお建てくださった教会において、主の御心を自分自身の思いとして受け入れていく訓練がなされるのです。
罪を抱えたわたしたちにとって、教会生活はわずらわしい部分があります。しかし、わずらわしさを全く捨ててしまうならば、その時わたしたちは罪と戦うことを止めてしまうことになるでしょう。
使徒たちがなぜあのように手紙を書き、教会を正そうとしたのか、そして、神がその手紙をご自分の言葉としておられるのかを、わたしたちは考えてみなくてはなりません。
アスリートが、自分のからだがより良く動くように、いつも訓練しているように、わたしたちも神の栄光を表すために、キリストのからだである教会に連なり、わたしの口が主の愛と義を証しする言葉を語り、わたしの手が主の慈しみを証しする業をなすことができるように、訓練を受け、整えられ、育まれていくのです。
主よ、あなたの御心を、自分の思いとして受け入れることができるようお導きください。
ハレルヤ