教理による黙想の手引き 18
教理による黙想の手引き 第18回
(日本キリスト教会発行 福音時報 2016年6月号掲載
掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)
「教会-キリストのからだ」
「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ人への手紙 1章23節 口語訳)
日本キリスト教会信仰の告白(口語文)では「教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わり」であると告白されています。
「教会」という単語(訳語)は新約にだけ出てきます。教会の元々の語(エクレシア)は、旧約の「会衆」を意味するヘブライ語「カーハール」の訳語として用いたと言われています。しかしエクレシアには「召された者たちの集い」という意味があります。教会は、神によってこの世から召し出された者たちの群れなのです。
この教会には「キリストのからだ」という性質と、「聖徒の交わり」という性質があります。共に罪に対抗する性質です。ですから教会は、神の民が罪と戦いながら神に従って生きるために、神によって建てられた恵みなのです。
今回は「キリストのからだ」について考えていきましょう。
「からだ」の特徴は、かしらの意志に従って動くことです。聖書では、イエス・キリストが「教会のかしら」(エペソ 5:23、コロサイ 1:18)であると言われています。
聖書が教える罪は、善悪を知る木の実を食べて(創世記 3:6)、神とは違う善悪、願い、意志を持ち、神と共に生きられなくなったことです。つまり、かしらである主イエス・キリストの意志に従えなくなったのです。(だからキリストは、拒絶され、十字架につけられました。)
ですからイエスは、イエスを主と告白する信仰の上に、教会をお建てになりました(マタイ 16:15~18)。そして、説教と聖礼典を中核とする礼拝によって、教会を育み導いてこられました。
なぜ、神の民は教会という神の民の群れに属するよう導かれるのでしょうか。それは、この罪の世においては信仰でさえ罪の影響を受けるからです。
わたしたちは自分の信じていること、自分の理解、自分の好みにこだわります。そして自分を基準にして他者を批判し、否定することがあります。主を信じているという事柄においてさえ、主の御心を受け入れず、自分を中心にしていることがあるのです。ペテロが信仰告白の直後にイエスから「サタンよ、引きさがれ」(マタイ 16:23)と叱責されたことを忘れてはなりません。
わたしたちは、(神が愛しておられる)自分とはいろいろと違う他者と、神を礼拝することを核として共に歩むことが必要なのです。
あなたが正しいか、わたしが正しいかではなく、共に神の御許に立ち帰り、主の御心に仕え生きる訓練を共に受けていくのです。主がお建てくださった教会において、主の御心を自分自身の思いとして受け入れていく訓練がなされるのです。
罪を抱えたわたしたちにとって、教会生活はわずらわしい部分があります。しかし、わずらわしさを全く捨ててしまうならば、その時わたしたちは罪と戦うことを止めてしまうことになるでしょう。
使徒たちがなぜあのように手紙を書き、教会を正そうとしたのか、そして、神がその手紙をご自分の言葉としておられるのかを、わたしたちは考えてみなくてはなりません。
アスリートが、自分のからだがより良く動くように、いつも訓練しているように、わたしたちも神の栄光を表すために、キリストのからだである教会に連なり、わたしの口が主の愛と義を証しする言葉を語り、わたしの手が主の慈しみを証しする業をなすことができるように、訓練を受け、整えられ、育まれていくのです。
主よ、あなたの御心を、自分の思いとして受け入れることができるようお導きください。
ハレルヤ