聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:23〜25

2019年6月30日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:23〜25(新共同訳)


 パウロは 8:17「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」と述べたところから苦しみについて語り始めます。
 この罪の世にあっては、罪がもたらす苦しみに絶えず襲われます。そしてこの苦しみは、罪を犯した人間だけでなく、被造物全体をも巻き込んでいます。つまり全世界・全被造物が、神の救いを必要としています。そして全世界・全被造物が、神の救いの約束という希望に支えられています。
 この希望が単なる口約束ではないことを、神の救いの御業によって確認されてきました。旧約であれば、出エジプト、バビロン捕囚からの解放。新約においてはイエス キリスト。その生涯、特に十字架と復活。こうした出来事を通して、神は生きておられる、神はわたしと共にいてくださる、ということが確認されてきたのです。
 わたしたち一人ひとりにも、神さまがこのように導いてくださったと感じる出来事が起こってきます。聖書の言葉を聞いて信じただけではなく、神はわたしと共にいて導いていてくださる、それを確認する出来事が与えられ、神の約束が信じる者一人ひとりにおいて、希望となっていきます。神がわたしたちの希望となってくださっているのです。

 きょうの箇所で「霊の初穂」という言葉が出てきます。「初穂」と訳された言葉は、直訳すると「最初の実」となります。霊の最初の実というのは、聖霊が最初にもたらしてくださったものという意味です。聖霊が最初にもたらしてくださったのは、イエス キリストがわたしの救い主であると信じる「信仰」です。
 最初の実ということは、聖霊がもたらしてくださるものは信仰だけではありません。2コリント 3:18には「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。わたしたちが救われた結果、主と同じ姿まで導かれていきます。そしてついには黙示録 21:3,4にあるように「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」との預言が成就するのです。

 わたしたちキリスト者は、これらのことを御言葉から聞いているので、「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んで」いるのです。

 神は忍耐深いお方です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現(救いの完成)を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ 3:9)

 神が救いのために忍耐しておられるので、神はご自分の民にも忍耐して待つことをお求めになります。神の民は救い主イエス キリストの到来を長い時間待ちました。そして今は、キリストの再臨、神の国の到来、救いの完成を待ち望んでいます。
 神の民は罪の世にあって、苦しみうめきながら待っています。神の民は祈ります。「主よ、来てください(マラナ・タ)」と祈りつつ待ち望んでいます。ヨハネの黙示録は語ります。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。」「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙示録 22:17, 20)

 主ご自身が「わたしはすぐに来る」と言われたので、代々のキリスト者は救いの完成を期待しました。しかし主の「すぐに来る」は、わたしたちが考える「すぐ」とは違いました。聖書は語ります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(2ペトロ 3:8)だから神は、わたしたちに希望を持って生きるようにされたのです。

 24節は新共同訳では「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と訳しています。間違いではありませんが、ここは新しい聖書協会共同訳のように「この希望のうちに救われている」と訳した方が良いように思います。なぜかと言いますと、「〜によって救われる」と言うとき、聖書は根元的に「キリストによって救われる」と言っているからです。この箇所では、希望がわたしたちの罪を贖い、救い出すのではなく、救いの希望を持って生きられるように、わたしたちはこの希望のうちに救われているのです。

 希望は将来において実現するものです。希望を与えられている者は、その成就を忍耐して待ち望みます。特にわたしたちキリスト者は「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(2コリント 4:18)わたしたちは目に見えない神を信じ、目に見えるこの世ではなく、神の国・神のご支配を仰ぎ見ています。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント 4:18)そしてわたしたちは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んで」(2コリント 5:7)いるのです。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ 11:1)わたしたちの救いのために、神と等しくあることに固執せず、人となられ、その命さえも献げてくださったイエス キリストにおいて確信し、確認するのです。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ」(ヘブライ 12:2)つつ、イエスご自身に支えられながら忍耐して待ち望むのです。

 イエス キリストこそ神の言葉です。旧約の言葉であるヘブライ語の「言葉」という単語(ダーバール)には「出来事」という意味があります。神の言葉は、語られると出来事となったからです。例えば、神が「光あれ」と言われると光が現れました(創世記1章)。ですからイエス キリストが神の言葉であると言うとき、単にイエスが神の御心を正しく伝えたというのではありません。イエス キリストこそ、神の言葉、神の約束の成就なのです。神の言葉が決して空しくないことの証し、出来事なのです。聖書は語ります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ 55:10, 11)この神の言葉が本当であることの証しが、イエス キリストなのです。
 だからイエス キリストを仰ぎ見るとき、信仰が与えられ強められるのです。希望が与えられるのです。だからイエス キリストと共にあるとき、わたしたちは神を讃美することができるのです。

 ですから、イエス キリストと出会う、イエス キリストと共にあることがとても大切です。そのために神は主の日ごとに礼拝に招いてくださるのです。毎週、キリストと出会えるのです。礼拝を守らなければならない、礼拝に来なければならないと言うよりも、キリストに出会い、キリストの救いに与る恵みが毎週与えられているのです。罪の世で、傷つき、くじけ、倒れてしまうわたしたちのために、礼拝は備えられているのです。だから礼拝には、讃美がふさわしい、喜びがふさわしいのです。
 そしてわたしたちを礼拝へ招いてくださった神は、礼拝の最後に集ったわたしたちを祝福をもって送り出してくださいます。礼拝には、神の愛と恵みが満ちています。

 神が救ってくださるのです。父・子・聖霊なる神がわたしたちを救ってくださいます。身も心も、体も霊も、わたしたちを丸ごとすべて救ってくださいます。そして、神ご自身がわたしたちの未来となってくださいました。だからこそわたしたちは「この希望のうちに救われているのです。」(8:24 聖書協会共同訳)


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストにある揺るぎない希望を与えられておりますことを感謝します。この希望を見失うことがないように、聖霊を注ぎ、キリストと結び合わせてください。キリストと共に神の国への道を歩み行くことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン