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聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 18:37〜19:16a

2017年4月5日(水)祈り会
聖書箇所:ヨハネによる福音書 18:37~19:16a(新共同訳)

 

 ヨハネによる福音書によれば、イエスはキドロンの谷にある園で捕らえられました。マタイとマルコがゲツセマネの園と呼ぶ場所です。そしてイエスは、ローマ総督のピラトのところへ連れてこられました。
 エルサレムの指導者たちは、イエスが死刑に値するローマに反逆する者であると訴え出ました。
 ピラトはイエスに尋ねます。「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)ピラトはイエスの答えを理解しようとしました。そして再度尋ねます。「それでは、やはり王なのか」(37節)
 イエスはお答えになります。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 ここは、この新共同訳聖書と、日曜日の礼拝で使っている口語訳聖書とで訳が違うところです。新共同訳は「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と、イエスが王であると言っているのはピラトであるという訳になっています。一方、口語訳は「あなたの言うとおり、わたしは王である」と、イエス自らわたしは王であると言っている訳になっています。
 翻訳というものは、誰がしても同じではなく、翻訳する人の理解、解釈が表れてきます。
 新共同訳の場合、人々が言う王ではなく、真理を証しする者としてイエスは自らを明らかにされたという解釈に立っています。その方が、次のピラトの言葉「真理とは何か」という言葉、ピラトがイエスに罪を見出せないと言ったこと、イエスを釈放しようとしたことと調和するという理解です。
 聖書の翻訳に携わった方々は、わたしと比べようもなくヘブライ語ギリシャ語に精通している方々です。それでも、この訳には納得できないと思う箇所があります。けれど、皆さんが読んでいる聖書の翻訳を修正して、日本語の聖書に対する信頼が薄れ、読まなくなってしまっては本末転倒なので、わたしは最大限日本語の聖書の訳を尊重する仕方で説教するようにしています。ですからきょうは、新共同訳の翻訳に沿って理解していこうと思います。

 ギリシャ・ローマの文化において、価値基準となるものに「真・善・美」があります。真理と善と美です。「真理とは何か」というピラトの言葉が出てきますが、ローマ人であるピラトは、真理を証しするために来たというイエス自身に興味を持ち、もっとイエスの話を聞きたいと思ったのかもしれません。
 ピラトはもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言います。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」ユダヤ人たちは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返しました。バラバというのは強盗で捕まっていた男でした。

 ピラトは、イエスを痛めつけ、辱めれば、ユダヤ人たちの気が済むのではないかと考え、イエスを鞭で打たせました。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ちました。
 そうしてピラトはまた出て来て、ユダヤ人たちに語ります。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」王だといっても、誰も助けに来ない、暴動も起こらない、イエスが無力な男であることを明らかにし、ユダヤ人たちの気持ちを満たしてやれば、イエスを釈放できるのではないかとピラトは考えました。
 イエスは茨の冠をかぶせられ、紫の服を着せられてユダヤ人たちの前に引き出されました。そしてピラトは言います。「見よ、この男だ」
 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びます。ピラトは言います。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
 これは暗にイエスを十字架にはつけないと言っているのです。総督である自分が決定しなければ、死刑は行われないからです。

 それに対してユダヤ人たちは答えます。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」
 この答えを聞いて、ピラトはますます恐れます。「王ではなく、神の子なのか」ピラトは再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに尋ねます。
 ヨハネによる福音書では「どこ」という言葉で「何に属するどういう人か」を表現しようとします。1:38でヨハネの弟子たちがイエスに「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのも同じです。泊まっている場所を知りたかったのではありません。ヨハネが「見よ、神の小羊だ」(1:36)と言ったイエスが、何者であるかを知りたかったのです。イエスの答えは「来なさい。そうすれば分かる」でした。自分でイエスの言葉を聞き、業を見て、自分で判断する、ということです。

 イエスはピラトの問いに答えませんでした。焦りいらついたピラトはイエスに圧力をかけます。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」
 イエスはピラトに答えます。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
 自分に対する権限はただ神だけが持っておられる。わたしをあなたに引き渡した者たちは神を知る者たちである。だから、彼らの罪は(わたしを十字架につけるあなたよりも)もっと重い。これを聞いてピラトは恐れ、イエスを釈放しようと努めます。
 しかし、ユダヤ人たちは叫びます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」
 ピラトはこの言葉を聞いて、これ以上イエスを助けようとすると、自分が皇帝への反逆罪で訴えられるかもしれないと思い、諦めました。

 ピラトはイエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせました。それは過越祭の準備の日、つまり金曜日の正午ごろでした。この時間は、マルコとは違います。マルコは「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(15:25)と記しています。ここの解釈も様々あるので断定的に言えませんが、イエスの死後40年以上、それぞれに伝わった伝承が違っていたということかもしれません。

 ピラトがユダヤ人たちに「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫びます。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」ピラトが「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えました。
 何という皮肉でしょうか。彼らは神の言葉を教え、神の言葉によって民を治める務めを担う者たちです。彼らはサムエル上8:6,7でこう書かれているのを知っています。「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」
 神の民の王は、神ご自身なのです。それなのに祭司長たちはねたみのため、自分の誇りのため「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えたのです。彼らは神を退けたのです。
 そこでピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡しました。

 ピラトはイエスを引き出し「見よ、この男だ」とイエスを示します。ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫びました。
 神の民に、神と共に生きるための真理を証しするために来られた方が、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、紫の衣を着せられ、ただ一人神の民の憎しみを受けて立っておられます。

 皆さんはこのイエスに何と言われますか。
 わたしたちのために十字架を負い、命をおささげになるイエスは、皆さんの答えを待っておられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ 8:29)

ハレルヤ