聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 1:39〜56

2015年12月13日(日)主日礼拝(待降節第3主日

 

聖書箇所:ルカによる福音書 1:39〜56(口語訳)

 

 ガリラヤのナザレという町に住む少女マリヤのもとに、天使ガブリエルが来て「男の子を産む」ことを告げます。マリヤは驚きますが、ガブリエルの「神には、できないことはありません」(37節)という言葉を聞いて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(38節)と答えます。期待しているヨセフとの新しい生活を脅かすような天使の言葉にも、マリヤは神の御心に対する堅い信頼をもって受け入れていきます。

 

 その後、マリヤは自分と同じように神の御業のために選ばれたエリサベツの許に向かいます。

 エリサベツが、マリヤの挨拶を聞くと、お腹の子どもがおどりました。エリサベツは聖霊に満たされ、マリヤの身に起こった神の御業を理解し、神を誉め讃えました。
 「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」

 エリサベツは語ります。「主のお語りになったことが成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」主の言葉は成就する、主の言葉は出来事となると信じるところに幸いがあるとエリサベツは語ります。主を信じるところには祝福が満ちてきます。神はわたしたちに祝福と幸いを与えようとしておられます。聖書には祝福と幸いが満ちています。1ペテロ3:9は「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐため」だと言っています。だから復活の主も「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ 20:27)とお語りになります。ヨハネによる福音書も「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(20:31)と言っています。神は信じることを祝福へと、幸いへと導いてくださるのです。

 

 エリサベツの讃美に導かれるように、マリヤが神を讃美します。これはマリヤの讃歌と言われます。冒頭の「あがめる」のラテン語を使って「マグニフィカート」または「マニィフィカート」とも呼ばれてきました。

 マリヤは主をあがめ、救い主なる神をたたえます。それは、神の御心を知り、神の御業を知ったからです。マリヤは旧約の民、イスラエル人です。もちろん小さな頃から神を知っていました。旧約の神の言葉をとおして神の御業、神の教えを知っていました。しかし今、彼女は身をもって神を知ったのです。

 

 神は約束を成就してくださいます。神はご自身の民を御業に用いられます。神は御業を通して民に憐れみを注ぎ、義を実現されます。身をもって神を知るとき、神の言葉は希望的観測ではなく、出来事であることを知るのです。到来する神の国が、神の言葉どおりであることを知るのです。

 神の民は、神を知るために選ばれました。神を証しし、讃美するために、神の民は選ばれました。わたしたち一人ひとりが、神を知り、神を証しし、神を讃美するために選ばれました。知識として知るのではなく、身をもって知るために選ばれました。マリヤのように、主の言葉は成就すると信じる幸いな者となるために選ばれたのです。今「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」、信じて祝福を受けよ、幸いな者となって神を誉め讃えよ、と招かれているのです。

 

 神の御業は時に罪の世にある者を不安にします。マリヤの楽しい未来に危機をもたらしたように、わたしたちの期待や希望に危機をもたらし、不安を抱かせることでしょう。しかし、その不安を信仰によって飛び越え、「お言葉どおり成りますように」と神の御心を受け入れ、祝福を受け、幸いな者となるように、讃美する者となるように招かれているのです。

 

 罪の世にあって人は必ず死を迎えます。死は大きな不安をもたらします。先に紹介したようにヨハネによる福音書は「これらのことを書いたのは」「信じて、命を得るため」だと語ります。けれど、わたしたちはマリヤと同じように「そんな事があり得ましょうか」(1:34)と不安を感じます。しかし、罪の世の不安を信仰によって飛び越え、信じて命を得るように、信じて祝福を受けるように、幸いな者となるように、神は語りかけているのです。マリヤに語りかけたように、すべての人々に語りかけているのです。

 

 待降節は、その信仰の準備をする時です。神の御業を受け入れ、神の救いの出来事に生きる準備をする時です。備えをする時が来たのです。神の招きに応え、備えをする者は、マリヤと共に誉め讃えます。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに。」(46〜55節)

 

以上