聖書の言葉を聴きながら

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創世記 15:1〜6

2017年8月27日(日)主日礼拝 宇久井伝道所(14:00)
聖書箇所:創世記 15:1〜6(口語訳)
 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、/「アブラムよ恐れてはならない、/わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、/はなはだ大きいであろう」。
 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 

 神は、救いの御業のためご自身の民を召し出されました。それがアブラハムであり、彼の子孫であるイスラエルです。そのアブラハムの物語が創世記12章から始まります。アブラハムは、神の改名によってアブラハムとなりました(17:5)。その前は、アブラムという名前でした。
 きょうの箇所も彼がまだアブラムだった頃の話です。この箇所はいわゆる信仰義認の根拠となる出来事として有名な箇所です。

 主の言葉が幻のうちにアブラムに臨みます。「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。」
 神はアブラムが恐れていることを知っておられます。人は未来を知ることができません。だから生きることには絶えず不安が付きまといます。アブラムも不安に囚われていました。
 アブラムは言います。「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。アブラムの不安は、子どもがいないことでした。子どもがいないことで、彼は未来に展望を描くことができませんでした。神の招きに従って歩んできたことに後悔を感じていたかもしれません。

 この時、主の言葉がアブラムに臨みました。かつて旅立つ決心を与えられた時のように、主の言葉がアブラムに臨みました。かつて旅立つ決心をしたとき、彼は75歳でした(創世記 12:4)。その時聞いた主の言葉はこうでした。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記 12:1~3)。神は地のすべての人々を祝福する務めのために、アブラムを召し出されました。
 そして今回の御言葉はこうです。「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた。

 なぜアブラムは主を信じたのでしょうか。自分が信仰を持ったときのことを考えてみました。わたしはキリストの復活を信じて信仰を持ちました。ですが、これを他の人が納得できるように説明することはできません。わたしは使徒行伝8章のステパノの殉教の箇所の説教を聞いて、キリストの復活を信じました。以来様々な疑いや迷い、つぶやきや後悔をしながら神を信じてきました。そして繰り返し主の真実に立ち帰らせて頂きました。

 アブラムの子孫であるユダヤ人は、1900年近く国を失い、流浪の民となりました。しかし消え去ることなく、今も生きています。イエス キリストによって異邦人もアブラムの子孫となり、今や数え切れないほど存在しています。神の約束は真実でした。わたしたちの期待や予想を超えて真実でした。
 やっと与えられたイサクを献げよと命じられたこともありました。エジプトで奴隷だった時代もありました。国が滅ぼされバビロニアで捕囚だった時代もありました。ローマの属国だったときもありました。救い主が十字架で死ぬなんて誰も考えていませんでした。新約の書簡の宛先だった教会はローマ以外残っていません。神のご計画はわたしたちの期待や予想とは違います。

 神のご計画は、アブラムの期待や予想とも違いました。しかし、アブラムは主を信じました。そして、主はこれを彼の義と認められました。義というのは関係の正しさを表す言葉です。神の民は神を信じるのが正しい関係なのです。疑っても、迷っても、つぶやいても、後悔しても大丈夫です。神は、信じることへ立ち帰るように、わたしたちに語りかけ、信じられるまでご自身の真実を注ぎ与えてくださいます。神の言葉、そして神の真実が、わたしたちを信じる者としてくださるのです。そしてわたしたちは、神との正しい関係の中に入れて頂くのです。

 

ハレルヤ