聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

神学入門 19

神学 任務学01

 

任務学とは?

 聖書学、組織神学、教会学に続いて、任務学について記す。(参照:神学入門03 神学 総論03 神学の諸分野 私見)
 任務学は、主から教会に託された務めについて扱う。
 『日本キリスト教会信仰の告白』では「教会は・・主の委託により正しく御言を宣べ伝え、聖礼典を行い、信徒を訓練し、終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白している。
 教会はしたいことをするのではなく、主から託されたことを務めとしてなしていく。神の言葉である聖書を通して委託されたことを、聖書(神の御心)にふさわしくなしていくために、検討・検証していくのが任務学である。
 礼拝について、牧師・長老・執事の務め、教会教育について、伝道について神学する。現代神学で扱われる内容も、教会の宣教の課題として理解されるときには、この任務学で扱う。


主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

聖句で辿る聖書 33

創世記
37章 3, 4節(新共同訳)

イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。
兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。


 ヨセフの物語が始まる。
 ねたみは、カインがアベルを殺した原因でもあった(創世記 4章)。人は誰しも認められたいと思っている。それも自分が期待しているように認められたいと思っている。人と比べるのではなく、自分が自分を理解し受け入れるのはなかなか難しい。

 

ヨハネによる福音書 20:1〜18

2017年4月16日(日)復活節主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書 20:1〜18(口語訳)

 

 イエスが十字架で命を献げられたのが金曜日。土曜日は安息日だったので、日没安息日が始まる前にイエスは埋葬されました。ユダヤでは日没から一日が始まるとされていました。アリマタヤのヨセフが、イエスの遺体の引き取りを願い出、ニコデモが没薬と沈香を混ぜたものを用意し、遺体を香料を入れた亜麻布で巻き、新しい墓に葬りました。
 そして安息日が明けた週の初めの日、つまり日曜日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓へやってきました。

 マグダラのマリヤ、ヨハネによる福音書には名前が出てくるだけで、彼女がどんな人なのか分かりません。もしかしたら、この福音書を編纂したヨハネとその周囲では、よく知られた人で説明の必要がなかったのかもしれません。しかしルカによる福音書には、彼女は7つの悪霊をイエスに追い出してもらい(ルカ 8:2)イエスに従ったと書かれています。
 彼女は朝早くに一人イエスの墓へやってきました。すると、墓の入り口をふさぐ石が取りのけられていました。マリヤはふさいであるはずの石が取りのけられているのを見て慌てたのでしょう。急いでペテロともう一人の弟子、名前が書かれていないイエスが愛しておられた弟子のところへ走りました。
 「誰かが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、分かりません」

 ペテロともうひとりの弟子は急いで墓へと向かいました。もうひとりの弟子の方が、ペテロよりも先に墓に着きました。そして身をかがめてみると、遺体を包んでいた亜麻布がそこに置いてあるのを見ました。しかし、中へは入りませんでした。後から来たペテロは、墓の中に入りました。彼も亜麻布がそこに置いてあるのを見ましたが、イエスの頭に巻いてあった布は離れた場所にくるめてありました。もうひとりの弟子も入ってきて、これを見てイエスの遺体が墓にはないことを理解しました。しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことを告げたイエスの言葉を、まだ悟ることはできませんでした。イエスは、十字架におかかりになる前に何度か、自分が十字架にかけられること、しかし復活することをお語りになっていました。しかし弟子たちは、師と仰ぐイエスの言葉を信じることも、悟ることもできませんでした。

 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行きました。しかし、マリヤは悲しくて墓の外に立って泣いていました。イエスが死んでしまった今、イエスが葬られた墓に来るしか彼女にできることはないのに、その墓にさえイエスの体はないのです。
 彼女は泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使いが、イエスの死体の置かれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっていました。彼らはマリヤに「女よ、なぜ泣いているのか」と尋ねます。御使い、つまり天使はマリヤが泣いている理由が分からないのではありません。彼女を復活のイエスに出会わせるための先触れとして、天使たちは遣わされたのです。
 マリヤは答えます。「誰かが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか分からないのです」。そう言って、後ろを振り向くと、そこにはイエスが立っておられました。しかし、マリヤはイエスであることが分かりませんでした。イエスはマリヤに言われます。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言います。「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。わたしがその方を引き取ります」。マリヤも復活を信じることはできずにいました。
 イエスは「マリヤよ」と呼びかけられます。マリヤは振り返り、イエスに「ラボニ」と答えます。それはヘブル語で「わたしの先生」という言葉です。ヨハネによる福音書ギリシャ語で書かれていますが、ヨハネはここはそのままの言葉を伝えたいと考えたのでしょう。

 自分の目で見ても、マリヤは復活のイエスが分かりませんでした。これは、ルカによる福音書に書かれているエマオへと向かう二人の弟子たちもそうでした。肉の目で見ても、イエスの復活が分かるのではありません。気づかせて頂かなくては理解することも信じることもできないのです。
 イエスに名を呼ばれたとき、マリヤは目覚めさせられました。死の世界の中にイエスを捜し求めていたマリヤは目覚めさせられ、復活のイエスに出会ったのです。

 わたしたちは、呼びかけられることによって共に生きる関係へと導かれます。
 母の胎に命が宿ったことが分かったときから、わたしたちは呼びかけ語りかけます。声が聞こえているかどうか分からない。言葉を理解できないかもしれない。それでも、わたしたちは命に向かって呼びかけ語りかけます。元気に生まれてくるように、愛をもって祝福をもって語りかけ呼びかけます。
 そして、生まれてきた子どもは「〇〇くん/〇〇ちゃん、一緒に遊ぼう」と呼びかけられて交わりに招き入れられます。
 わたしたちは名を呼ばれることによって、共に生きる関係に招かれ導かれていくのです。
 イザヤ書 43:1にこう書かれています。「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主は今こう言われる。『恐れるな、わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ』」
 イエスがマリヤの名を呼んで、復活の救いへと招かれたように、神は今も、わたしたち一人ひとりの名を呼んでおられます。罪の世に心囚われて悲しみ続けることのないように、神の救いの恵みに与るようにと、神はわたしたちの名を呼んでおられます。

 イエスは彼女に言われます。「わたしに触ってはいけない。わたしは、まだ父の御許に上っていないのだから。ただわたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられる方の御許へ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
 イエスが十字架によって罪を贖い、復活によって死を打ち破られた今、この世にあってイエスにしがみつくのではありません。
 聖書は「わたしたちは今後、誰をも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい」(2コリント 5:16)と言っています。
 讃美歌21には「心を高くあげよ!」という讃美歌があります。その1節の歌詞は「『心を高くあげよ!』主の御声に従い、ただ主のみを見上げて、心を高く上げよう」とあります。
 わたしたちは、イエスの救いの御業の中で、新しい命、新しい関係、新しい世界に生きるのです。罪の世に属するものを脱ぎ捨てて、復活の主の恵みに包まれて生きるのです。

 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行き、復活の主に出会ったこと、またイエスが自分に仰せになったことを報告しました。

 こうして、イエスを信じる弟子たちによって、イエス キリストの福音が宣べ伝えられるようになりました。そして今、わたしたちもキリストの福音を宣べ伝えています。神が創られ愛しておられるすべての人が救われて、新しい命、新しい関係、新しい世界に生きることを願って宣べ伝えているのです。ここに集う皆さん一人ひとりにイエス キリストの復活の恵み、そして復活の命が限りなく注がれますように。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 32

創世記

35章 9, 10節(新共同訳)

ヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再びヤコブに現れて彼を祝福された。
神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた。

 

 神は改めて、祝福と共にヤコブに新しい名(イスラエル)を与えられる。

 

聖書通読のために 44

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 6:5〜8(新共同訳)

 祈りは、神との交わりである。神と向かい合うために与えられた恵みである。
 どのように祈るかは、先輩の祈りを聞いて学んでいく。礼拝や祈り会(祈祷会)で覚えていく。祈れるようになるには、教会の祈りの中にいることが必要である。
 しかし、人は自分の祈りがどのように思われているか、評価されているかが気にかかる。神に祈っているのに、人の目が気になってしまう。だから、隠れたところで神と二人きりになって祈ることも大切である。
 わたしたちには、一人で祈ることも、共に祈ることも必要である。

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)