聖書通読のために 43
思い巡らす meditation meditado
神の思いに心を向けるために
マタイによる福音書 6:1〜4(新共同訳)
自分のことを知っていてほしい、理解してほしい、評価してほしいという思いは、かなり根源的な思いだと思う。
神はわたしを知っておられ、理解しておられ、大切に思い愛していてくださる。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ 43:4)と神は言われる。イエスは、自分を裏切る者を弟子とし、自分を見捨てて逃げ去る者を最後まで愛し抜かれた。「イエスは・・世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ 13:1)
聖書は、神の御前に立ち、神があなたを知っておられ、神があなたを愛しておられることを知るように、そして神の報いを期待するようにと語りかけている。
喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)
神学入門 16
神学 組織神学02
教理
わたしが神学の中で一番興味があるのは、教理である。教理は聖書の要約である。
わたしの信仰的一番の関心事は、わたしは本当に救われるのか、あるいは救われているのか、である。
わたしの神学校の卒業論文のテーマは、16世紀のルター派と改革派の義認の教理の比較、であった。
わたしは本当に義とされているのだろうか、救われているのだろうか。気が小さく、悲観的に物事を考えがちなわたしは、いつもそのことを気にしていた。
聖書は救いについて、何と言っているのだろうか。このことと向き合って考えさせてくれるのが、教理であった。科目としては、教理史と信条学である。
教理史の中では、ペラギウス論争、神人協力説が興味を引いた。信条学の中では、義認が大きなテーマとなった16世紀のプロテスタントの信仰告白に興味を持った。
わたしの好きなことは、信仰告白や教理問答(カテキズム)にある引証聖句を確かめることである。
教理は、聖書の要約であるから、聖書がそう言っているかどうかが、最も重要なことである。
教理は、その根拠である聖書から遊離し、教理だけで議論されるようになると、教条主義に陥ってしまうように思う。
聖書との確かなつながりを保っているとき、教理は神の御心を知る大切なきっかけとなり、神と出会うチャンスとなる。
わたしは著名な神学者の書物よりも、教会で読まれ、学ばれ、教会員の信仰を育むために用いられてきた信条・信仰告白が好きである。
主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)
教理による黙想の手引き 24
教理による黙想の手引き 第24回
(福音時報 2016年12月号掲載 一部修正 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」 これにて連載終了)
「終わりの日に備える」
「集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」
(ヘブル人への手紙 10章25節 口語訳)
わたしが神学校に入学してから(1986年)「終末論的な生き方」という言葉を何度か聞きました。その言葉がどういう意味なのか聞く機会のないまま、その言葉を聞くことがなくなりました。「終末論」のブームが去ったのだろうか、と思いました。
終末論というものは、よく分からないままでしたが、神学校時代に教えて頂いたルターが言ったと言われる「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」という言葉が、終末と聞くと思い浮かぶようになりました。
さて、日本キリスト教会信仰の告白(口語文)には、主から委託された教会の務めに終わりの日に備えることが挙げられています。
キリストの十字架と復活を経た後に書かれた新約の中で、終わりの日という訳語(口語訳「終りの日」新共同訳「終わりの日」)が使われるのは、ヨハネによる福音書だけです。
終わりの日と同じような意味で使われる言葉には「主の日」と「かの日」があります。
ヨハネによる福音書6章(6:39, 40, 44, 54)では、イエスが自分に与えられた者を終わりの日に復活させることが述べられています。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネ 6:40)
また12章48節では、終わりの日にイエスの言葉によって裁かれることが述べられています。「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(同 12:48)
裁きについては、「かの日」という言葉で、コリント人への第一の手紙 3章13節、テモテへの第二の手紙 4章8節でも書かれています。特にテモテへの第二の手紙では、公平な審判者である主が、ご自身の民に義の冠を授けてくださることが記されています。
この日がいつかは分かりません。「主の日」という言葉で、テサロニケ人への第一の手紙 5章2節やペテロの第二の手紙 3章10節で述べられています。「主の日は盗人が夜くるように来る。」(1テサロニケ 5:2)(参照 使徒 1:7, マルコ 13:32, マタイ 24:36)
そして、この終わりの日に備えるということが、ヘブル人への手紙 10章25節で告げられています。「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル 10:23~25)
つまり、終わりの日に備えるということは、終わりの日の復活と審判、義の冠を仰ぎ望み、互いに御言葉に聞き、祈りを合わせ、賛美をもって励ましつつ、その日がきょうであってもいいように、主の御業に仕えて生きる、ということです。
一言で言えば「主の希望に生きる」ということです。
罪の世の出来事に一喜一憂するのではなく、主の真実を信じ、神の国の到来を望み見つつ、「御国がきますように」(マタイ 6:10)、「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(1コリント 16:22)と祈りつつ歩むのです。(他の何ものでもなく)「主に」「望みを置いて」生きるのです。
この希望にすべての人が与れるように、教会は、主の御名を告白しつつ、終わりの日まで福音を宣べ伝えていくのです。人の死に際しても、世の終わりに際しても、造り主であり救い主である真の神にあっては、命の道があり、決して揺らぐことのない希望があることを宣べ伝えていくのです。
ハレルヤ
聖句で辿る聖書 29
創世記
28章 14,15節(新共同訳)
地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。・・わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。
神の約束、神の祝福は引き継がれていく。
ルカによる福音書 21:20〜24
2017年3月26日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:20〜24(口語訳)
きょうの箇所は、5節から続くエルサレム神殿の破壊、ユダヤ滅亡についてのイエスの言葉です。
この福音書を編纂したルカは、1:3に出てくるテオピロ閣下なる人物に福音書を献呈しています。ルカは、イエスの言葉が真実であることと、いかにローマ帝国が強大であっても、滅びゆくものであって、依り頼むことはできない、ということを伝えようとしています。
紀元66年にユダヤ戦争が始まります。紀元70年にエルサレム神殿は破壊されます。そして紀元73年までユダヤ戦争は続きます。ユダヤという国は滅び、ユダヤ人は流浪の民となります。
ルカはイエスのこの言葉を、おそらく直接ではなく、伝え聞いていたのだろうと思います。ルカはエルサレムに関するイエスの預言が真実であったことを確信し、テオピロに今はローマが滅びるなどと考えられなくても、ローマに依り頼み、ローマを誇りとするのではなく、神に依り頼むこと、そして神が遣わされたイエス キリストこそ、あなたを救い支えてくださる方であることを伝えるために、この部分を丁寧に書いたのだろうと思います。
ここでイエスは「逃げよ」と言われます。罪の世の過ぎゆくもの、神の裁きを受けるものと一緒に滅ぶことのないように逃げよ、と言われます。
それは「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」だからだと言われます。神の民であるユダヤ人の罪に対する裁きがなされることを表しています。神の民の務めは、神を神として生きることです。しかし、ユダヤ人は神の救いの業を拒絶し、イエス キリストを捨ててしまいました。
ヨセフスという歴史家が『ユダヤ戦記』という書物を残しています。その『ユダヤ戦記』には、この戦争で110万人が殺され、97,000人が捕虜とされたとあります。
「彼らはつるぎの刃に倒れ、また捕えられて諸国へ引きゆかれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」
以来1900年、ユダヤ人は国を失ったまま流浪の民となりました。1948年にイスラエル国が建国されて「異邦人の時期」は満ちたのでしょうか。そうではない、と思います。なぜなら、悔い改めて、武力に頼らず神に依り頼んで生きるようにはなっていない。イエス キリストを神が遣わした救い主だと信じるに至っていないからです。
イエスは「逃げよ」と言われました。逃げると言えば、創世記19章のソドムとゴモラが滅ぼされる場面を思い起こします。19:15から読んでみましょう。「夜が明けて、み使たちはロトを促して言った、彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。・・ロトがゾアルに着いた時、日は地の上にのぼった。主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。」(15〜17, 23〜26節)
きょうの箇所とよく似ています。おそらくイエスは、ソドムとゴモラの出来事を踏まえて「逃げよ」「市内に入ってはいけない」「刑罰の日」だと言われたのだろうと思います。未来を予見して語るというよりも、聖書に記されていることが実現するという意味合いで語られたのだと思います。
裁かれるものに心引かれてはなりません。ロトの妻のように裁きに巻き込まれてしまいます。エルサレムから離れなくてはなりません。ヨセフスが記すようにエルサレムと共に滅んでしまった人たちは大勢いたのです。そして、ローマが裁かれるときにはローマから離れなくてはなりません。ローマは当時の世界の最先端の文化、文明を誇る大帝国です。ローマが滅びるなどと誰も思いはしません。しかしルカがテオピロに福音書を献呈してから1900年余り、ローマはもはや歴史の彼方、遺跡において当時を忍ぶばかりです。
それでは、わたしたちは過ぎ去り裁かれるこの世に依り頼まない信仰を持っているでしょうか。わたしたちが暮らす日本もまた今の時代の最先端、豊かな文化と文明のただ中で生きています。けれど、わたしたちはこの世が不動のものではない徴(しるし)を与えられています。70年前の戦争、20年前の阪神・淡路大震災(1995年)、6年前の東日本大震災と原子力発電所の事故、昨年の熊本地震。わたしたちの国はとても豊かでありながら、実に不安定、不確かな存在です。この日本もまた、神の御業の中で過ぎ去り、裁かれる存在です。
原子力発電所の事故では多くの人がふるさとを失いました。流浪の民となりました。誰も責任を取ってはくれません。ふるさとを返してはくれず、以前の生活を返してはくれません。もちろん失われた命を返してはくれません。3月11日が近づけば思いだし、過ぎれば忘れて別の事へと思いは向かいます。8月15日と同じです。「その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。地上には大きな苦難が」あるというイエスの言葉どおりのことが起こるのを、わたしたちは見て知っているのです。
わたしたちは、この目に見える世界で生きています。この世界にある様々なものを必要とし、様々なものに支えられて生きています。けれどわたしたちは、それらのものを創り、それらを備え与えてくださる神へと思いを向けなくてはなりません。わたしたち自身も、わたしたちの周りにあるものも、神が創り、治め導いておられます。そして神だけが永遠に真実なお方です。神が遣わしてくださった神よりの神イエス キリストだけが「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8)お方です。先週の礼拝の聖書の箇所で、「創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン」(ローマ 1:25)と言われていたとおりです。
わたしたちは、命の源であり、世界の源である神を知り、神と共に生きる者です。神の救いの御業が一人ひとりの上に、世界に成されることを祈り、そのために仕えていく者たちです。
ルカもまたテオピロの救いを願い、この福音書を読むすべての人の救いを願ってこの箇所を丁寧に記しました。
どうか皆さんが神の裁きを逃れて、救いへと入られますように。聖書に記されている神に祝福されたすべての聖徒たちと同じように、神に導かれ、神に祝福されて救いの道を歩んでいかれますように。
ハレルヤ