聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句による黙想 23

マタイによる福音書 5章 16節(新共同訳)

 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 
 神の民には、神を証しする務めが託されている。
 ここで「立派な行い」というのは、神と共に生きる事である。神に従い、神の導きを祈り求め、神に信頼し、神の言葉を重んじるあり方を通して神を証しする。
 それでも自分の力で、天の父をあがめさせるようなことはできない。神が自分を用いてくださるように、自らを神に献げていくだけである。「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ 12:1)

 

ハレルヤ

 

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聖句で辿る聖書 76

出エジプト記
22章 20, 21節(新共同訳)

寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。


 苦しみの経験も戒めの根拠となる。良き事も悪しき事も、神の導きの中に置かれる。

 

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ルカによる福音書 23:13〜25

2018年4月15日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 23:13~25(口語訳)

 

 ユダヤ教エルサレムの指導者たち=ユダヤの最高法院の議員たちは、イエスを死刑にするため、ユダヤ属州総督のピラトにローマに対する反逆罪で訴えました。
 しかしピラトは、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」と判断します。けれどそれではエルサレムの指導者たちは収まりません。彼らは言いつのります。「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです。」ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけました。
 ヘロデはイエスを見て非常に喜びました。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと思っていましたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと思っていたからです。それで、いろいろと質問してみましたが、イエスは何もお答えになりませんでした。祭司長たちと律法学者たちはイエスを訴えましたが、ヘロデは兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえしてしまいました。ヘロデにとってエルサレムの祭司長や律法学者の期待に応えようなどという気持ちはありませんでした。
 さてピラトは、イエスが送り返されてきたので、イエスの件を処理しなくてはなりません。ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言います。
 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう。」
 ピラトは、イエスを訴えた指導者たちの顔を立てつつ、無実のイエスを鞭打って解放する妥協案を出しました。
 しかし、彼らはわめきたて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけました。
 ピラトは三度目に彼らにむかって言います。「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。
 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求したのです。
 これは皮肉なことです。彼らというのは、13節に出てくる「祭司長たちと役人たちと民衆」のことです。役人というのは、最高法院の議員を指します。神に導かれて歩んできたはずのユダヤ人たちが、イエスをどうしても殺そうとして、異邦人であるピラトが、イエスの無実を認め、何とかして赦そうとしているのです。この場面において、神の言葉に養われ導かれてきたはずのユダヤ人の信仰は全く役に立ちません。役に立たないどころか、神に敵対します。そして異邦人世界の知恵であるローマの法律が、イエスを救おうとしています。
 ここで信仰ある者たちは、神からの問いかけを受けます。あなたの信仰は、神に従い、神の御業に仕える信仰か、それとも、神に敵対し、神の導きを拒絶する信仰か。
 この場面において、この時のユダヤ人の信仰は、神に立ち帰ることも、神に従って新しく歩み出すことも求めていませんでした。彼らは、自分たちの願いをかなえてくれる神、自分たちの誇りを満たしてくれる神を求めていました。彼らが見ていたのは自分であって、神ではありませんでした。信じてはいても、信じている自分を見ているのであって、神を見てはいませんでした。

 そして、その彼らの声が勝ちました。ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定したのです。そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせました。
 彼らは「よし、やった」と思ったことでしょう。しかし、自分の意のままにというのが、まさに罪なのです。神の御心に従うのではなく、自分の意のままにというのが罪なのです。しかし、罪の中にいる者は、自分が罪を犯していることが分かりません。だから神は、悔い改めを求めるのです。罪から離れて、神へと立ち帰るのでなければ、罪は見えてこないのです。自分の願い、自分の願望、自分の信仰、そして自分自身からも離れて、神の御前に立ち帰るのです。信仰のあるわたしは、あの彼らの中の一人かもしれないと、問いかけながら考えながら、「主よ、御心をお示しください。僕はあなたに従います」と祈り求めていくのです。

 この場面は、とても悲しくなる場面です。そして自分もまた自分の信仰を見ているのではないか。自分も神が救い主を遣わされたとき、拒絶してしまう信仰なのではないかと、いろいろな不安を巻き起こし、そしてとても悲しい気持ちにさせられる場面です。

 聖書は、イエス キリストが「わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」(1ヨハネ 2:2)と証ししています。イエス キリストは、自分自身を十字架につけろと叫んでいる者たちをも救うために十字架を負われました。
 この場面、自分の信仰は大丈夫だろうかと様々な不安に陥るわたしに対して、イエス キリストがそのあなたの罪をも負って十字架に付かれた。十字架に付けろと叫ぶ声を前にして、一言も発せず、その罪のすべてを負って、その罪を贖うために自らを差し出された。このイエス キリストが、このわたしを罪から救ってくださるのだ。自分の罪にさえ気づいていないこのわたしをもこの方が救ってくださるのだ。この方だけが、わたしを知っておられる。自分でさえ気づいていない罪をも知っていてくださり、その罪のすべてを贖うために、自らの命を献げてくださったことを、聖書は証しします。

 イエス キリストがわたしたちを罪から救ってくださいます。わたしの信仰が救うのではありません。イエス キリストだけがわたしたちを罪から救います。
 大切な教えを悟り、教えてくれる素晴らしい偉大な人物は歴史上何人もいます。しかし、わたしたちを罪から救い、死から永遠の命へと導いてくださるのは、イエス キリストただお一人なのです。
 だからこそわたしたちは、聖書が言うように、イエス キリストを誇りとし(1コリント 1:31)、イエス キリストに望みを置いて生きていくのです。

 

ハレルヤ

 

聖書通読のために 67

マタイによる福音書 7章 24~27節(新共同訳)

 

 譬え話である。家は人生を表す。人生には様々な出来事が起きる。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲」うようなことがある。人生が壊れないためには、しっかりとした土台の上に家が建っていることが大切である。
 神は、わたしたちの人生を支える土台として、イエス キリストを据えてくださった(1コリント 3:11 )。イエス キリストこそ、どのようなときにもわたしたちを支える土台である。生きているときにも、死に臨むときにも、わたしたちを支えるただ一つの慰めであり、確信である(ハイデルベルク信仰問答 問1)。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

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聖句による黙想 22

コリントの信徒への手紙 二 3章 18節(新共同訳)

 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 
 人が創造された目的の一つは、神の栄光を現し、世界が神と共に歩めるようになることである。神の栄光とは、神こそが主であり、わたしたちと共におられるインマヌエルの主であることが明らかになることである。だから神は、わたしたちを、神の栄光を現したイエス キリストと同じ姿に造りかえられる。わたしたちは、栄光から栄光へと聖霊なる神によって新しくされていく。

ハレルヤ

 

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聖句で辿る聖書 75

出エジプト記
21章 2節(新共同訳)

あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。


 同胞の奴隷は、七年目には無償で自由の身となる。再出発が約束されている。
 イエス キリストは「全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)としてご自身を献げられた。それゆえ「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ」(ガラテヤ 3:28)となったのである。すべての人は、キリストにあって同胞となったのである。
 神の許には再出発がある。誰もがキリストの十字架によって悔い改め、罪赦され、再出発するのである。

 

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ローマ人への手紙 5:3〜5

2018年4月8日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 5:3~5(口語訳)

 

 イエス キリストの贖いにより、わたしたちは信仰を通して義とされました。このことにより、わたしたちはイエス キリストにおける神との平和、そして救いの恵みに入れられました。それは神の栄光に与る希望をももたらしました。

 しかし、パウロはさらに語ります。「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」

 この箇所は比較的有名な箇所ですから、ご存じの方も多いと思います。ここは、「患難、忍耐、練達、希望、失望」と言葉が重なっていくので、日本語もリズムよく訳されています。ただそのためか、少し原文とはニュアンスが違う部分もあります。
 まず最初の「患難をも喜んでいる」ですが、これは「患難を喜ぶ」のではなく、「患難の中にあっても喜ぶ」というのが本来の文章です。患難自体を喜んでいるのではありません。患難自体を喜ぶのではなく、患難の中にあってもキリストが共にいてくださること、キリストの救いに入れられていること、困難の中にあっても神がこのわたしを覚え愛していてくださることを喜ぶのです。
 そして、この患難はキリストを信じたから生じる患難を指しています。迫害のような外部から来る患難もあれば、自分の内にある罪との戦いもあります。キリストに従って生きようとするときに起こってくるあらゆる患難のことです。信仰ゆえの患難の中でも、キリストと共にあることを喜ぶ、それが「患難をも喜んでる」が意味するところです。

 そして「患難は忍耐を生み出し」ます。忍耐は、待つ力です。何を待つかと言えば、キリストの勝利の現れるのを待つのです。神は民に待つことを求めてこられました。救い主の到来まで、アブラハムから約2,000年、出エジプトから約1,200年、バビロン捕囚から約500年、民は待ち続けました。そして今、わたしたちもキリストが再び来たり給う御国の到来を待ち望んでいます。そして忍耐は、待つと共に、キリストと共にあること、キリストから離れないことを示しています。ただ我慢するというのではなく、神の時が来て、神の約束が実現するをキリストにあって仰ぎ見つつ待つのです。キリストから離れずに待つのです。ですから、忍耐は常に信仰と共にあります。

 そして「忍耐は錬達を生み出し」ます。練達は金属が炉の中で練り鍛えられ、不純なものが取り除かれて、合格した金属を表す言葉です。イエスも「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコ 13:13)と言われています。神がお求めになる忍耐、待つこと、キリストと共にあることが、信仰を練り鍛えるのです。一般に考えられる修行が信仰を鍛えるのではありません。罪に世にあって、神の言葉を信じてキリストと共に生きることそれ自体が、信仰を練り鍛えるのです。
 ヤコブの手紙には「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」(ヤコブ 1:12)と書かれており、ここの「忍びとおした」と訳された言葉が、練達と訳された言葉です。忍耐は、いのちの冠に至る練達を育むのです。

 そして「錬達は希望を生み出す」のです。2節に「神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」とありますように、いのちの冠と結びつく練達は、神の栄光にあずかる希望につながっていきます。神の栄光は、神の現れと共にあります。神が共にいてくださる、神がこのわたしのために御業をなしてくださる、その神の表れと共に神の栄光はあります。患難、忍耐、練達と続いて現れる希望は、神と共にある希望です。わたしたちがキリストと共にあるとき、それは患難さえも希望へと導くのです。このことを踏まえて、パウロは 8:28 で「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知って」いると言っているのです。

 そして、キリストの贖いによって与えられた希望は、失望に終わることはありません。ここも日本語のリズムを優先して訳されているところで、「失望に終わることはない」というのは「恥を来たらせない」と書かれています。これは、キリストが与えてくださった希望は、信じるあなたに恥をかかせない、という意味です。
 なぜなら、わたしたちの内に信仰を造り出し、キリストと結び合わせてくださる聖霊が、神の愛であるキリストをわたしたちに注ぎ続けてくださるからです。つまり、イエス キリストが十字架を負い、わたしの罪を贖ってくださり、死を打ち破って復活してくださったこと、そのイエス キリストの恵みのすべてがわたしに注がれていることを、聖霊が示し与え続けてくださるからです。

 実に、わたしたちの信仰、そして救いには、父なる神の御心、ひとり子イエス キリストの御業、聖霊の働きがあるのです。父・子・聖霊なる三位一体の神がご自身のすべてで関わってくださっているのです。生ける真の神が、このわたしに関わっていてくださる、それを知るのが信仰です。父・子・聖霊なる神が、希望が失望に終わらないように、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと進んでいくことができるように、自ら関わっていてくださるのです。

 だからパウロは、神ご自身を信じます。神を信じているわたしの信仰を信じるのではなく、父・子・聖霊なる神ご自身を信じます。ですからパウロは、ここに至るまで、割礼や律法を守っているという自己満足で救われるのではなく、イエス キリストによって救われる信仰によって得られる義を語るのです。神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためであります。(ヨハネ 3:16)このわたしたちを愛し、わたしたちのために救いの御業をなしてくださる神ご自身によって救われるのです。ですから、神と出会うことを曇らせるような、キリストによる救いを薄めてしまうような別のことを信仰に持ち込もうとすることに対して、パウロはこれでもかというくらいに語ってきたのです。
 ですからパウロは告白します。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。・・わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ 8:38,39)

 神が、ひとり子を遣わしてまで与えてくださる救いは、わたしたちの全人生、悲しみも苦しみも涙も包み込み、喜びへと変えてくださる救いなのです。

 

ハレルヤ