聖書の言葉を聴きながら

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マラキ書 1:6〜14

家庭礼拝暦 (2018年5月24日)

マラキ書 1章 6~14節


わが名は諸国の間であがめられている(11節)

 祭司でさえ神を軽んずる状態になっていました。神に献げるものは、自分自身を神に献げるしるしです。しかし、神に献げるものを整える信仰はなくなってしまいました。
 かえって「諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられ」るようになります。神の計り知れないご計画の中で「後にいる者が先になり、先にいる者が後になります。」(マタイ 20:16)使徒パウロも「福音について言えば、イスラエル人は・・不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。」(ローマ 11:28, 31)と語ります。
 「ひたすら神に赦しを願う」信仰が回復するために、神は不信仰な状態を忍耐されます。それは「すべての人を憐れむため」(ローマ 11:32)なのです。


ハレルヤ

 

 

ルカによる福音書 23:44〜49

2018年7月15日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 23:44〜49(口語訳)

 

 イエス キリストの地上の生涯が終わります。
 イエスが十字架にかけられたのが、朝の9時頃です(マルコ 15:25)。それが、昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。
 これは、わたしたちが知る日蝕という現象ではありません。イエスが十字架におかかりになったのは、過越の祭のときです。この時期は、満月になる時期で、日蝕が起こる月の位置ではありません。
 これは、神がしるしとして与えられたものです。神が裁きを行われたことを表す出来事です。アモス 8:9にこう書かれています。『主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗く」‭‭』すると。

 これが3時間続きました。一瞬の出来事ではなく、誰もがこのしるしの出来事が起こったことを確認し、思い巡らすことができるだけの時間続きました。

 続いて神殿の垂れ幕が真ん中から裂けました。
 これもしるしの出来事です。ヘブル人への手紙10章にはこう書かれています。
「すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、・・彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。」(ヘブル 10:11, 12, 14)「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」(ヘブル 10:19, 20)

 ただ一度の完全な贖いがキリストの十字架によって成し遂げられたのです。このキリストの十字架によって、誰もが神に立ち返ることができるようになりました。
 十字架によって、わたしたちの前に道が開かれました。滅びに至る道ではなく、神の祝福に至る道が開かれたのです。

 そしてイエスは大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

 ヨハネによる福音書10章で次のようにイエスは言われました。ここは、イエスが自分自身を「よい羊飼い」として語られたところです。
 「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ 10:11‬‭‬)
さらにこう言われました。
「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。」「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。」(ヨハネ 10:17, 18)

 イエスの命は奪われたのではありません。自分で捨てたもの、自ら委ねたものなのです。人としての命を神から与えられたことを知っているイエスは、自ら命を神に委ねたのです。

 命は自分のものではありません。神から与えられ、神の許へ帰るものです。
これが分からないと、最後あきらめる人生になります。命を手放したくない、死にたくないのに、奪い去られる、生きるのを諦めねばならない人生になります。
命は、命を与え、導いてくださった神に委ねるのです。
 キリストは、命を造り、命を救い、命を与えてくださる神を知っておられます。だからキリストは大きな声で、父に委ねるんだよと示してくださったのです。
 罪を超えて神に委ねていくとき、キリストと共に再び永遠の命を受けるのです。

 こうしてイエスは、救い主の業を成し遂げて、地上の生涯を終えられました。

 福音書は、キリストの十字架を見た証人を記します。
 一人は、百卒長です。新共同訳では百人隊長と訳されています。彼はこの十字架刑の責任者です。彼は多くの処刑された犯罪者たちを見てきたでしょう。その彼がキリストの十字架を最初から最後まで見て、「本当にこの人は正しい人だった」と告白します。
 彼は十字架上のキリストの言葉をすべて聞いていました。
 ルカによる福音書に記されている言葉に限定すると、2つです。
 一つは、23:34「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
 もう一つは、23:43「イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。」です。

‭‭ ペテロの第一の手紙‬ ‭2:22‬, 23にはこうあります。「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」

 百卒長は告白します。「本当にこの人は正しい人だった」

 見物に集まった群衆も、胸を打ちながら帰っていきます。ここにはユダヤ教の指導者たちに扇動されて集まった者もいるでしょう。騒ぎを聞きつけて集まった者たちもいるでしょう。イエスが十字架につけられ、太陽が暗くなって、人々は少し冷静さを取り戻します。彼らの心の内には問いが浮かんできます。この人はなぜ十字架にかけられねばならなかったのだろう。思い巡らす中で、彼らは胸を打ちながら帰っていきます。
 胸を打つというのは、悲しみを表す所作です。扇動された者たちにも、悲しみが満ちてきました。

 そして、イエスを知っていた人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちは、遠くに立って見ていました。
 彼らはイエスに従ってきたのです。でも、イエスと共にあることはできませんでした。十字架を遠くから見ることしかできませんでした。
 彼らは、イエスただお一人が救い主であることを感じつつありました。
 どんなに慕っていても、どんなに尊敬していても、十字架の道を共に歩むことはできない。イエスただお一人が歩むことのできる道、イエスただお一人が担うことのできる十字架。イエス キリストが命をかけて成し遂げられたこの十字架を、彼らはまだ神の救いの御業だとは理解していませんが、この十字架を言葉もなく見つめていました。

 イエスキリストが人となられ、その生涯を全うされました。
 すべての人がイエスキリストの前に立たされています。
 ピラトは無罪だと知っていました。領主ヘロデもそう思いました。ユダヤ教の指導者たちは何としても殺さねばならないと考えました。扇動された群衆は、バラバが赦された方がいいと考えました。弟子たちや従ってきた人たちは声を上げることもできませんでした。
 神は、すべての人をイエスキリストの前に、立たせます。
 あなたは、このナザレのイエスを誰だと考えますか。イエスキリストというのは、イエスは救い主である、という信仰告白です。あなたは、この十字架で命をささげたイエスを誰だと考えますか。
 この十字架は何だったと考えますか。

 キリストはわたしたちの前におられます。

 

ハレルヤ

 

マラキ書 1:1〜5

家庭礼拝暦 (2018年5月23日)

マラキ書 1章 1~5節


わたしはあなたたちを愛してきた(2節)

 神殿は再建されました。しかし生活は困難が多く、神に従って生きることに疑いが生じてきていました。神は「わたしはあなたたちを愛してきた」と言われます。しかし民は「どのように愛してくださったのか」とそんな記憶はないと言わんばかりの返答をします。民は、神の愛を感じられなくなっていました。しかし神は、イスラエルを選び、神がおられること、神が造られたものを愛していることを証しされます。
 わたしたちもしばしば疑います。神がわたしを愛してくださっているなら、もっと恵まれているはずではないのかと。しかし、わたしたちは神を知っていることを通して、神の選びを知らなくてはなりません。「あなたたちは、自分の目で見/はっきりと言うべきである/主はイスラエルの境を越えて/大いなる方である、と。」


ハレルヤ

 

退院

きのう、退院してきました。

入院中に、明日の説教原稿は書いたので、あさって、礼拝説教の原稿を載せます。

わたしの心不全は、手術が必要なタイプではなく、心筋自体が弱っているのを投薬で弱るのを遅らせる治療なので、薬を飲み続けることと、食事・水分量に気をつけることと、運動をして、体重と血圧をコントロールすることを生涯やり続けることが必要みたいです。
う〜ん、こんな生活をきちんと続けられるか自信はないのですが・・・
まぁ、時は神さまの領分ですから、時が与えられている間は、説教をして、神の福音を伝えていきたいなぁ、と願っています。

ハレルヤ

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ゼカリヤ書 14:1〜21

家庭礼拝暦 (2018年5月22日)

ゼカリヤ書 14章1~21節


主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う。(16節)

 12章から「その日」という言葉で、終末を語ります。しかし、告げられても分からないことあります。なぜ神は「戦いを挑ませる」のでしょうか。それなのになぜ「戦いの日・・主は進み出て・・戦われる」のでしょうか。わたしたちは告げられても神の御心を知り尽くすことはできません。それでも、主は備えのために啓示してくださいました。
 「その日には、主は唯一の主となられ」ます。民は「万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝」います。仮庵祭は、出エジプトの後の荒れ野の旅と天幕生活を記念する祭りです。わたしたちも、「その日」の到来、神の国の到来を待ちつつ旅する神の民です。キリストの再臨を待ち望みつつ、降誕節を祝います。死の門をくぐり神の国に入ることを仰ぎ見つつ復活節を祝います。ゼカリヤに与えられた預言は、神の国を目指して生きる神の民に与えられた幻です。


ハレルヤ

 

ローマ人への手紙 5:16〜17

2018年7月1日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 5:16〜17(口語訳)

 

 「似て非なる」という言葉があります。「ちょっと見たかぎりでは似ているが、実際は全く違う」という意味です。
 パウロも罪と救いを比較しながら、罪と救いが似て非なるものであることを語ります。

 罪も救いも、一人の人によってもたらされました。罪はアダムによって、救いはキリストによってです。罪も救いも一人の人によってもたらされ、すべての人がその影響下に置かれます。これが似ている点です。

 非なる点、異なる点は、一人の人アダムの罪過が、すべての人を罪に定めることになりましたが、一人の人キリストの救い、恵みは、多くの人の罪過をキリストが担われた結果、罪人を義とすることになったことです。このことをパウロは6章の最後でこう書いています。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのち」(6:23)であると。

 罪過、罪という言葉は、元々道を外れる、的を外すという意味を持っています。聖書においては、神から離れていく、神と共に生きることができないことを表します。一方、義という言葉は、正しい関係にあることを表します。神と正しい関係にあり、神との交わりの中にあって、神と共に生きていることを表します。

 罪は、命の創造者、命の源である神から離れていきます。命の源から離れ、行き着くのは死の世界、死なのです。死は命が失われた沈黙の世界です。しかし神の御業は、命を創造し、死から命へと救い出します。命は、色も音も、香りも手触りも多様な豊かな世界です。罪が導くのは、死が支配する世界。しかし神が導かれるのは、命の満ちあふれる世界なのです。

 神はその命満ちあふれる世界、そこに生きる人に向かって「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記 1:28)と祝福して言われました。

 神と共に生きるとき、わたしたちは神が祝福された命の世界へ向かって生きていきます。そして生きている世界、命ある世界においてわたしたちは出会うのです。豊かな命、驚くべき世界、創造の神秘、そして救いの恵み。さらに、神に出会い、お互いに出会い、その出会いを喜び、共に生きるのです。
 生きているからこそ、出会いを喜ぶことができるのです。神はこの出会いの喜びを与えようとして、救いの御業、命の御業をなしておられます。

 命は自分の命であっても、自分のものではありません。自分で、生まれる時も場所も、能力も選んで生まれることはできません。そして、自分は200年、300年生きようと決意しても、生きることはできません。
 命は神から与えられたものであり、神が定められた時に神へと帰るものです。しかし、キリストの「あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たち」、すなわち罪のない永遠の命の恵みと、神を信頼し神と共にあることを喜ぶ義の賜物を受けている者は、神が祝福される命が満ちあふれる世界、恵みが導く出会いある世界に生きるのです。

 わたしたちは今、神の招きを受け、決断が求められています。罪が導く死が支配する世界に生きるのか、キリストが導く命の世界、恵みある出会いの世界に生きるのか。キリストを通して神の招きがあなたの前に差し出されています。

 

ハレルヤ

 

入院

2年前、心不全で入院しました。
このところ、入院前と同じような症状が出ていたので、検査を受けました。
心不全が悪化しているとのことで、入院を勧められました。
明日から2週間の予定で、入院することにしました。
きょうの説教は、後ほどアップする予定ですが、8日は入院中なのでわたしの説教はありません。
もっと説教したいと思っていても、体がついてきてくれません。

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