聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 4:13〜17a

2018年1月28日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:13~17a(口語訳)

 

 パウロは、神がアブラハムによって示された信仰の義について語ります。

 13節の「世界を相続させる約束」というのは、創世記に出てきます。12:3には「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」とあり、17:4には「あなたは多くの国民の父となるであろう」と言われています。そして 18:18では「地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」と言われています。
 神が言われる「世界」とは、土地のことではなく、人のことです。「地のすべてのやから」「多くの国民の父」「地のすべての民」これこそが、神がアブラハムに相続される世界なのです。神が相続させるのは物ではなく人なのです。イエスも弟子たちに言われました。「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ 4:19、マルコ 1:17、ルカ 5:10)。

 この「世界を相続させる約束」は、アブラハムとその子孫に与えられた約束です。しかしそれは、律法によって引き継がれる約束ではなく、信仰の義によって引き継がれるものです。神が約束に用いられたのは、律法ではなく、信仰でした。
 約束に用いられるのが、律法ならば、信仰は必要なくなります。律法は、守る者と守らない者とに人を分けます。律法は違反の基準であり、裁きの基準となります。しかし、神がなしてくださった御業は、そういうものとは違います。エペソ人への手紙にはこう書かれています。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである」(エペソ 2:14, 15)キリストは、律法こそ神の民の基準だと考えている人たちに対して、神は律法によって人を二つに分けるのではなく、キリストによって二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除かれたことを明らかにされました。

 では一体、律法とは何なのでしょうか。それは、律法は罪の世にあって神と共に歩むための道しるべなのです。それによって救いを勝ち取るものではなく、救われた喜びと感謝によって重んじられるものです。律法は守られ方が一人ひとり違います。そして誰一人完全に守れる人はありません。誰一人、律法によって救いに至ることはできず、自分を誇ることもできません。律法は、わたしたちをキリストを求めるように導くのです。かつての割礼もそうですが、律法はキリストへ、神へと思いを導くときこそ、その本来の働きをなすのです。

 パウロが言うように「すべては信仰による」のです。しかし罪人は、信仰さえも律法に変えてしまうことがあります。「あの人の信仰は素晴らしい」「あの人は信仰熱心な人だ」などと信仰を測る基準を導入して、信仰によって人を分けてしまうことがあります。しかしパウロが続けて言うように、それは神の恵みによるものです。
 この神の恵みは、「律法に立つ者」にも、「アブラハムの信仰に従う者」にも、つまり「すべての子孫に」救いの約束を保証するのです。
 こうして神は「わたしはあなたを立てて多くの国民の父とした」という約束を成就されたのです。アブラハムは、神の御業によってすべての者の父となったのです。

 このように、神はアブラハムを召し出されたとき既にすべての者を信仰によって救おうとされていたのです。そして、アブラハムに与えられた約束を成就されたイエス キリストについて、聖書はこう証ししています。「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(1ヨハネ 2:2)この世にはキリストによって贖われない罪は残されていません。そしてテトスへの手紙は「すべての人を救う神の恵みが現れた」(テトス 2:11)と語ります。
 神は、キリストを通して「信じる」という恵みによって、わたしたちすべての者を救いへ招き入れようとしていてくださるのです。罪によって信じられなくなっているわたしたちを神を信じる者へと変えるために、神はキリストをお遣わしになり、御業をなしておられるのです。

 パウロは、同胞であるユダヤ人たちが、喜んで感謝してこの恵みに与れるようにと心を込めて語りかけているのです。
 わたしたちもきょう、信じる恵みに与るようにと神の招きの声を聞いたのです。神の招きに応えて、救いへと導かれる人は幸いです。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 64

マタイによる福音書 7章 13, 14節(新共同訳)

 「狭き門」、入試などの際によく聞く、多くの人が知っている言葉である。
 イエスが言われる狭き門は、命に通じる門。それに対し、滅びに通じる門は広く、その道も広々としている。多くの人は広い門をくぐる。しかしイエスは「狭い門から入りなさい」と言われる。
 イエスヨハネ 10:9で「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と言われた。またヨハネ 14:6では「「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた。つまりイエス キリストご自身が「狭き門」であり「永遠の命へと通じる道」なのである。
 「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ 11:9)イエスはわたしたちを救いへと招いておられる。

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

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聖句による黙想 19

マルコによる福音書 12章 29~31節(新共同訳)

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」


 ある律法学者に「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と問われたときのイエスの答えである。
 イエスは、旧約の戒めの中心にあるものは、二つの愛であることを指摘された。
 巷では、「旧約の神は怒りの神、裁きの神で、新約の神は愛の神、赦しの神である」などと言われたりするが、それは全くの間違いである。
 戒めは、神と共に生きるためのものである。その中心は、二つの愛であり、真に神であり真に人であるイエス キリストが、その二つの愛を体現し成就された。
 聖書は、旧約聖書新約聖書の2冊あるのではなく、聖書(Bible)は1冊であり、その中にイエス キリストを指し示す旧約(Old Testament)とイエス キリストを証しする新約(New Testament)がある。旧約聖書の神と新約聖書の神がいるのではなく、父子聖霊なる三位一体の唯一の神がおられる。そして、神は愛である(1ヨハネ 4:16)。

ハレルヤ

 

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聖句で辿る聖書 72

出エジプト記
18章 24~26節(新共同訳)

 

モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、
イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。


 モーセの舅は異邦人である。異邦人の勧めが、イスラエルの統治のあり方となった。
 旧約は、閉塞的な民族主義ではなく、神が造られた世界に対して開かれている。

 

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ルカによる福音書 22:54〜62

2018年1月21日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:54~62(口語訳)

 

 過越の食事が行われた日の夜中、イエスは祭司長、宮守がしら(神殿守衛長)、長老たちの手の者によって捕らえられました。そして大祭司の邸宅に連れて行かれます。

 ペテロは気づかれないように遠くからついて行きました。大祭司の邸宅の中庭では、火がたかれており、人々が火を囲んで座っていたので、ペテロも人々に紛れて座りました。
 すると、ある女中がペテロをじっと見つめて「この人もイエスと一緒にいました」と告発します。ペテロはそれを打ち消して「わたしはその人を知らない」弁明します。しばらくして、他の人がペテロを見て「あなたもあの仲間の一人だ」と言います。ペテロは「いや、それは違う」とここでも否定します。一時間ほどしてから、また他の者が主張します。「確かにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから。」おそらくペテロがガリラヤの方言を話しているのに気づいたのでしょう。するとペテロは「あなたの言っていることは、わたしに分からない」と否定します。

 3度繰り返すのは、本当にそうだということを強調する表現です。イザヤ 6:3では「聖なるかな聖なるかな聖なるかな、万軍の主」とあり、詩篇 113:1では「主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主のみ名をほめたたえよ」という表現があります。
 ここでは、3度の否認によって、イエスを心から尊敬し慕っていても、イエスの十字架に従うことはできないことを明らかにしています。

 すると、ペテロがまだ言い終わらぬうちに、鶏が鳴きました。そのとき、イエスは振り向いてペテロを見つめられました。
 ペテロはその瞬間、「きょう鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出します。
 さらにペテロは、イエスがそう言われたときに自分が言った言葉も思い出します。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です。」(22:33)あのとき、ペテロは本気でした。自分が躓き倒れて、イエスと共に歩めないなんてあり得ないと思っていました。事実、危険を顧みず、大祭司の中庭まで付いてきたのです。「イエスの仲間だ」と言われても、逃げ出しませんでした。しかし、ペテロは「わたしはイエス様の弟子だ」とは言えませんでした。「わたしはイエスを知らない」と関係を否定してしまいました。
 イエスは、自分でも気づいていない信仰の弱さ、もろさを知っておられました。そしてその自分のために、イエスは祈っていてくださいました(22:32)。
 ペテロは気づきました。主はこのわたしのために、命を献げてくださるのだ。ペテロは、イエスがご自身の死について3度語られたこと(9:21以下、9:43以下、18:31以下)、自分はそれを理解できなかったことに気づきました。そしてペテロは、外へ出て、激しく泣きました。

 ペテロがイエスを3度否認したことは、四つの福音書全部に記されています。マタイとマルコには、ペテロが泣いたことも書かれています。イエスの十字架を語るとき、福音書はペテロの否認は記しておかねばならない出来事と考えたのです。
 わたしたちは、主イエスが十字架を負われ、命を献げられたのは、このわたしのためであったと気づいたとき、主イエスを救い主として信じるのです。ただ素晴らしい人、尊敬できる人としてではなく、自分の救い主として信じるのです。
 そのとき、自分の信仰は、自分が思っているよりもはるかに弱くもろいものだけれども、イエスはその自分、本当の自分を知っていてくださり、命をかけて愛してくださるお方であることを知るのです。そして自分の救いも、自分の未来もイエス キリストのもとにあることを知るのです。

 これは、信仰の最初に一度起きることではなく、信仰生活の中で、繰り返し示されるものです。礼拝を献げる中で、御言葉を聞く中で、わたしたちが信仰から信仰へと、キリストを深く知るようにと神に導かれて経験していくのです。三度イエスを否んだペテロが、神に導かれて、使徒としての務めを全うしたように、わたしたち一人ひとりに、神がふさわしい導きを備えていてくださいます。自分に失望して、激しく泣いたその先に、神が道を開いてくださいます。わたしたちの救いも、希望も、イエス キリストのもとにあるのです。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 71

出エジプト記
18章 10節(新共同訳)

 

「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。」


 出エジプトは、神が救いの神であることを知った大切な出来事。

 

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ローマ人への手紙 4:9〜12

2018年1月14日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:9~12(口語訳)
 
 パウロは割礼について語ります。これは、ユダヤキリスト者が救いについて正しく知ることを願ってのことです。
 11節に「アブラハムは割礼というしるしを受けた」とありますが、アブラハムが割礼を受けたのは創世記 17章に出てきます。「あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである」(創世記 17:9, 10)と記されています。
 割礼とは、男性の生殖器の包皮を切り取ることで、創世記 17:11では「あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない」と命じられています。
 割礼は、旧約の民イスラエルだけの儀式ではありません。紀元前5世紀に書かれたヘロドトスの『歴史』という本の中で「エジプト人・エチオピア人が昔から割礼を行っている」と書かれています。そこでは、成人の儀式として行われていたり、結婚の際に家族になるしるしとして行われたり、子孫に恵まれる儀式として行われたりしていました。(Wikipedia「割礼」を参照)
 しかし神は、神の民とされた契約のしるしとして割礼を受けるように命じられました。神と共に生きるしるしとして「生れて八日目に割礼を受けなければならない」(創世記 17:12)と命じられました。

 パウロは、このアブラハムの割礼が彼が義と認められた後の出来事であることを示して、9節で「この幸福」と言われている罪の赦しは割礼によるのではなく、神を信じたことによるのだと主張します。
 確かに、神がアブラハムを義と認められた出来事は、創世記 15章に記されています。創世記 15:6には「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と書かれています。そして割礼が命じられたのは、創世記 17章です。
 パウロはこれをアブラハムが「無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、かつ、割礼の者の父となるためなのである」(11, 12節)と理解しています。つまり、割礼を受けて神を信じている者と、無割礼で神を信じている者の両方の信仰の父となるために、神は、アブラハムが主を信じたことを義と認めた後に、割礼をお命じになった、と述べているのです。

 パウロがなぜここまで割礼にこだわるかと言いますと、これは何によって救われたか、という救いの根本に関わるからです。現在、教会では救いを示すしるしとして、イエスがお命じになられた洗礼と聖晩餐を行っています。しるしというのは、神の約束の目に見えるしるしです。洗礼もまた、アブラハム以来の割礼と同様、キリストを信じて、罪を赦され、清められたしるしとして、信じた後に受けます。
 割礼を受けたから、洗礼を受けたから、救われ義とされるのではありません。キリストと出会い、キリストによって罪赦され、清められたことを知って、キリストを信じた後に、救いの恵みのしるしとして洗礼を受けるのです。わたしたちは割礼や洗礼というしるしによって救われるのではなく、神の救いの御業、イエス キリストによって救われるのです。

 聖書が告げる救いは「神へと立ち帰り、神と共に生きる」ということです。もし洗礼によって救われるというのであれば、教会は洗礼だけをしていればいいわけです。けれど毎週、主が復活されたことを覚える日曜日に礼拝を献げ、神へと思いを向け、神の言葉を聞いて、神に立ち帰り、神の許から新たに歩み出すということを繰り返すのは、神と共に生きるということにわたしたちの救いがあるからです。そして、神の許に立ち帰ることができるように、神がイエス キリストを遣わし、わたしたちの罪の贖いを成し遂げてくださり、キリストがわたしたちの命となってくださいました。教会でそのことを聞いて「確かにキリストがわたしの救い主となってくださった」ということを知って「わたしもキリストを信じます。キリストの救いを受けたいと思います」と願い出た人が洗礼を受けるわけです。何も分からなくても、洗礼を受けたら救われます、と言って洗礼をするのではありません。わたしたちの救いはイエス キリストご自身にあるのであり、キリストに救われて神と共に生きるところにあります。ですからパウロはキリストは信じているけれども「割礼を受けなければ、救われない」(使徒 15:1)と言う人たちに対して「そうではない」と言っているのです。
 パウロは「わたしたちはキリストによって救われている、イエス キリストこそわたしたちの誇りであり、希望である、だからイエス キリストにこそ依り頼む」、この信仰こそが大切であり、神が与えてくださった恵みを変質させてはならない、ということを同じ旧約の信仰に生きてきたユダヤキリスト者たちに伝え、神の恵みによって救われている喜びに共に与ろうとしているのです。

 宗教改革マルティン ルターという人は、救いの確信をなかなか得られず苦しんだ人でした。ルターはその不安に襲われたとき、机に向かいペンを取って、「わたしはキリストの洗礼を受けた者である」と何度も書き記したと伝えられています。
 罪の世にあって、わたしたちの信仰はしばしば揺らぎます。その弱さを抱えたわたしたちのために、神は神の恵みを心に刻む目に見えるしるしを与えてくださったのです。洗礼は、キリストが救い主であり、キリストによって救いに入れられていることを確認するための恵みの賜物なのです。わたしたちは、この恵みの賜物を通して、神がわたしたちを造り愛していてくださっていること、神がわたしたちを救っていてくださることを、共に喜び、感謝したいと思います。

 

ハレルヤ