聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:31〜34

2017年10月22日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:31〜34(口語訳)

 

 最後の晩餐の席で、イエスは自分を裏切る者がいることを明らかにされました。それを聞いて弟子たちは、自分たちのうち誰がそんなことをしようとしているのだろうと、互に論じ始めました。
 その議論は、次第に自分たちの中で誰が一番偉いだろうかという議論になっていきました。しかしそれは、主の御心とはかけ離れた議論になっていきました。

 イエスは、誰が裏切り者かを当てさせたくて話されたのではありません。イエスの前にいる一人ひとりが裏切る者であり、見捨てる者であり、知らないと言う者なのです。その自分たちの弱さも罪深さもイエスは知っていてなお招いていてくださり、十字架を負って罪を贖ってくださいました。それを忘れないで知るようにと、イエスは裏切る者の話をされたのです。だからきょうの箇所でも「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:32)と言っておられるのです。

 さてイエスは、きょうの箇所の直前の30節で「あなたがたは位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう」と言われました。弟子たちは、この言葉を聞いて喜んだことでしょう。しかし彼らは、そこに至るまでに試練を経験しなければなりませんでした。イエスは言われます。「見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。」
 これは旧約のヨブ記の最初の場面を思い起こします。「サタンは主に答えて言った、『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。・・今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう』。主はサタンに言われた、『見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない』。」(1:9, 11, 12)
 サタンが神に願って試練を与えるのを許されるという事態について告げられています。使徒たちにも、サタンが「麦のようにふるいにかけることを願って許され」たのです。
 ふるいにかけるというのは、より分けることです。サタンがもたらす試練を超えられるか、自分の信仰がどんな信仰なのかが明らかにされます。そこである者は裏切り、ある者は逃げ去り、ある者はイエスを知らないと言うのです。その試練は、自分が思っているよりも自分の信仰は弱く小さいことを明らかにします。けれどイエスはそれを知っておられます。そして「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われます。わたしたちの弱さ、罪深さを知っておられる主は、わたしたちのために執り成し祈ってくださいます。ヘブル 7:25ではこう言われています。キリストは「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」
 この救い主の執り成しの祈りがあるので、わたしたちは躓きから立ち直ることができるのです。主は言われます。「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」わたしたち罪人は必ず躓きます。躓かずにイエスに従い信仰の道を歩める者はいないのです。誰もがイエスの執り成しが必要であり、そして躓きから立ち直った信仰の友の力づけが必要なのです。

 しかしペテロは、イエスのこの言葉に納得できませんでした。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です。」
 ペテロは認めてもらえていないと思ったのでしょう。ペテロは自分の思い、自分の信仰をイエスに分かってもらおうと、本気で真剣に訴えます。しかしペテロは自分自身を分かっていませんでした。ペテロだけが分からないのではありません。よく「自分のことは自分が一番分かっている」などと言いますが、人は自分の罪が分かりません。神と共に歩むことができないことに気づかなくては、罪は分かりません。ペテロと同じように、わたしたちも真剣にイエス キリストを信じ、イエス キリストと共に歩みたいと願っているからです。
 ペテロの場合、自分を守るためにイエスを「知らない」と切り捨ててしまう自分に気づかなくては、自分が罪人であることに気づけなかったのです。そしてイエスが十字架を負われたことが、自分自身を救うためであった、ということに気づけなかったのです。自分はイエスの最初からの弟子。すべてを捨ててイエスに従ってきた。他の弟子よりも側近くに仕えてきた。そういった誇りがペテロにはありました。ですが、自分を誇っている、自分を誇りたいと思っている、その罪がある限り自分の罪に気づくことはできません。イエスはペテロをご自分の使徒とするため、ペテロ自身の罪を理解するようにと導かれたのです。
 イエスは言われました。「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」

 ペテロはがっかりしたでしょう。「なぜ先生は分かってくださらないのだろう」と。しかし、わたしたちは知っています、イエスが言われるとおりだったことを。
 だから、わたしたちは理解しなくてはなりません。イエスはわたしたちを知っておられるということを。自分は自分の罪を分かっていないということを。イエスの弟子として仕えるために、自分の罪に気づくための試練があるということ、それに躓くということ、しかしイエスが信仰がなくならないように祈っていてくださるということ、そして立ち直ったとき、主にある兄弟姉妹を力づける務めが託されているということを。

 自分の罪を知ることは、気持ちのいいことではありません。この後、三度イエスを知らないと言ったペテロは、激しく泣きました(22:62)。しかし、イエスに従おうとするとき、悔い改め、立ち帰ろうとするとき、自分の罪を知ることを避けることはできません。イエスが救い主であってくださるのは、わたしたちを罪から救うからです(マタイ 1:21)それは神が定めたもうときに起こります。「すべてのわざには時がある」(伝道の書 3:1)と言われているとおりです。そして、そのときにはイエスが真実にわたしの救い主であってくださることを、さらに深く知ることになるでしょう。信仰深くあろうとして頑張っている自分、背伸びしている自分、信仰を装っている自分ではなく、イエスが本当の自分の救い主であってくださることを知るでしょう。本当の救い主と出会える人は、幸いです。
 神は本当の救い主をわたしたちにお与えくださいました。本当の救い主に出会うようにと、わたしたちを招き続けていてくださいます。

 

ハレルヤ

聖書通読のために 61

マタイによる福音書 7章 3~5節(新共同訳)

 

 「自分の目の中の丸太」とは、自分自身の罪のことである。神の御心とは違う、自分の善悪のことである。自分の善悪が基準であるとき、当然自分の目の中の丸太には気づかない。この丸太は、自分の善悪と一致しているのだから。
 神の前で「自分は正しい」とする者は、イエスが言われるとおり偽善者である。
 自分の目から丸太を取り除くとは、神の前で罪を認識し、悔い改めて神へと立ち帰ることである。自分に従うのではなく、神に従って歩み出そうとすることである。神の言葉である聖書から、神の御心を聞こうと真剣になることである。そのとき、兄弟に「共に神の御心を聞こう」と礼拝へと誘(いざな)い、祈り会(祈祷会)へと導くのである。これが「兄弟の目からおが屑を取り除く」ことである。
 裁きは、神がご自身の御心によってなされる。神の民は、共に神の御前へと立ち帰るために仕えるのである。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

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聖句で辿る聖書 65

出エジプト記
14章 21, 22節(新共同訳)

 

モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。


 主がわたしたちの前に進むべき道、救いの道を開かれる。

 

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本が届きました

Mさん

きょう、本が届きました。

ありがとうございます。

読んだのは、まだ 1/3 ぐらいです。

Mさんの声がちゃんと心に届いてきました。真剣な神さまとの対話が伝わってきました。続きも大事に読ませて頂きます。

この本が多くの人の手に届きますように。

Mさんの声に導かれて、神さまへと思いを向ける人が多く起こされますように。

神さまの祝福と、よき導きがありますよう祈ります。

主に在りて

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聖句による黙想 15

イザヤ書 40章 28節(新共同訳)

 

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
  地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
  その英知は究めがたい。

 

 この世のすべてのものは消えゆく。しかし、それを造られた神は、永遠なるお方。深き御心をもってすべてのものを造り、導く。

 

ハレルヤ

 

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聖句で辿る聖書 64

出エジプト記
14章 13, 14節(新共同訳)

「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」


 主は生きておられる。わたしたちの救いのために、主が戦ってくださる。

 

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ローマ人への手紙 3:25〜26

2017年10月15日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 3:25〜26(口語訳)

 

 人は、エデンの園で罪を犯して以来、神とは違う善悪を持ち、神と共に歩めなくなってしまいました。しかし神は、罪人を諦めてしまわず、共に生きるための救いの御業をなしてこられました。そしてついに、ご自身のひとり子を救い主として世に遣わされました。それがイエス キリストです。
 神は、キリストをわたしたちの罪を贖う供え物とされました。

 贖うというのは、元々奴隷を代価を支払って買い取ることを意味していました。この場合は、神が代価としてイエス キリストを贖いの供え物とし、罪に囚われているわたしたちを罪から解放し、神ご自身のものとされた、ということです。
 神は既にキリストを遣わされる前から、罪人を贖うことを定められておられました。それは旧約においてはっきりと語られています。イザヤ 43:1にこうあります。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」

 この神の御業は、信じるということを通して受け取られるものです。つまり、イエス キリストが十字架を負われ、その命を献げられたのは、わたしたちを罪から救うためだった。神が、わたしたちを救うために、ご自身のひとり子を救い主としてお与えくださった。イエス キリストこそこのわたしの救い主だ、と信じることによって受け取る恵みなのです。
 神は、救いの御業を通して、わたしたちとの間に信じるという関係を築いてくださったのです。これこそが神の義なのです。義というのは、関係における正しさを表す言葉です。ですから神の義とは、神との正しい関係を表します。神は、イエス キリストを通して、神と人との関係は、信じるという関係が正しいとされたのです。神はそのことをキリストによって明らかにされました。25節ではこう言われています。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。」

 人は罪のために信じられない存在となってしまいました。世にある詐欺を始めとする様々な犯罪などが、人をむやみに信じてはいけないと教えています。罪は世界を信じられない世の中としてしまいました。たとえ信じ合える関係であっても、100%他者を信じることはできません。人は誰もが罪による限界を抱えているからです。
 その罪のただ中で生きているわたしたちに、神はひとり子を救い主とし、十字架を負わせるという痛みを負って、自ら信じることのできる存在となってくださいました。ご自身の御業によって、わたしたちとの間に信じるという関係を造り出してくださったのです。これを聖書は「神みずからが義となり」(3:26)と言っています。
 わたしたちが義であるのではなく、義を造り出すのでもありません。神ご自身が義であり、義を造り出してくださるのです。神はご自身の御業によって、救いを成し遂げ、わたしたちが救われていると信じることができるようにしてくださったのです。このわたしを100%知っておられる方が、わたしの弱さも欠けも愚かさも知っておられる方が、わたしを諦めず、見捨てることも見放すこともなさらず、ひとり子の命をかけ、自ら痛みを負って、わたしの罪を贖ってくださったのです。イエスは、自分を裏切る者も救いへ招かれました。自分を見捨てる者、知らないと言う者も救いへと招かれました。そして主は、わたしはあなたも招いている、と言われるのです。聖書の言葉を通して、今も聞く者すべてを招いておられます。
 今も日々積み重ねられるわたしたちの罪を一つひとつ裁き滅ぼすのではなく、御言葉を通して救いへと招き、わたしたちを忍耐をもって待っていてくださるのです。

 もう一度言います。神は救いの御業によって、自ら信じられる者となってくださいました。わたしたちを信じる関係へと導くためです。信じることのできる正しい関係を神が造り出してくださいました。神自らが、義となり、正しい関係の基となってくださいました。そして、イエスを信じる者を義とし、ご自分と正しい関係にある者としてくださったのです。神ご自身、そして神の御業が、わたしたちの義の基です。わたしたちはキリストの血により、罪贖われて、神を信じて生きる者とされました。神を信じて神の国に生きる者とされました。
 ですから聖書は1コリント 1:30, 31でこう語ります。「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。」キリストがわたしたちの義となってくださった。贖いとなってくださった。聖となり、知恵となってくださった。わたしが努力して、懸命に求めて、神を見出し、救いに到達したのではありません。神がわたしの義となり、贖いとなってくださった。そのためにキリストを与えてくださった。その神がなしてくださった御業を信じる恵みへと、神が招いてくださいまいした。導き入れてくださいました。だからわたしは、主を誇るのです。神と出会った誰もがこの同じ誇りを持つことができるのです。喜びを持つことができるのです。神はどの一人をも失うまいとして、キリストによる救いをすべての人に与えてくださっています。

 けれど、罪を抱えたわたしたちにとって、神を信じて生きることは、簡単ではありません。目の前に起こってくる罪の世の現実に、わたしたちは動揺させられ、信仰が揺さぶられるのです。
 しかしわたしたちが何度躓いても、イエス キリストは「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブル 13:8)お方、変わることのない救い主です。イエス キリストが永遠に救い主であり続けてくださるので、わたしたちは何度でも悔い改めて、キリストの許へと立ち帰ることができるのです。わたしたちの救い、命、そして未来は、イエス キリストの許にあります。
 神はきょうもわたしたちを招いておられます。あなたの救い主イエス キリストを信じて、義とされるように、神との正しい関係の中に入れられ、神を信じ、神を喜んで生きるように、救われるようにと招いていてくださいます。

 

ハレルヤ