聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:39〜46

2017年11月19日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:39〜46(口語訳)

 

 最後の晩餐が終わり、ここから場面が変わります。「イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。」
 この場面は「ゲツセマネの祈り」として知られているところです。ところがこのルカによる福音書には「ゲツセマネ」という言葉が出てきません。このルカによる福音書は、ローマに住む異邦人のために書かれたものなので、エルサレムの細かな地名は省略されたのではないかと思われます。加えて、ルカによる福音書のこの場面は、マタイやマルコによる福音書のゲツセマネの祈りの記事よりも簡潔に記されています。そのため、この場面のテーマがよりはっきりと示されています。
 結論から言いますと、この場面のテーマは「祈り」です。始めにイエスは言われます「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そしてイエスご自身の祈りが記されます。最後に「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」というイエスの言葉でこの場面が締めくくられます。このように、ルカはキリスト教の「祈り」について伝えるために、この場面の記述を簡潔にして「祈り」を際立たせているのです。

 イエスは「いつものように」オリブ山に行かれました。21:37には「昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山ですごしておられた」とあります。イエスはいつものように、いつもの場所へ行かれました。それで、ユダはイエスを捕らえる者たちを案内することができました。
 いつもの場所に着くと、イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言って、少し離れた石を投げて届くほどの所でひざまずいて祈られました。
 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」
 この杯というのは、これから負われる十字架のことです。イエスは神の子だから何の苦もなく十字架を負われたのではありません。罪人の救い主として真に人となられたイエスにとって、十字架はできることなら取りのけてほしいものでした。十字架は罪の裁きです。罪故に神に見捨てられることです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34、マタイ27:46)と叫ばずにはいられない苦しみ、悲しみ、それが十字架です。イエスは真に人となられて、罪人の苦しみ、悲しみを負ってくださいました。

 しかしイエスは続けて「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」」と祈られました。これは主の祈りの「御心がなりますように」(マタイ6:10)と同じです。イエスは主の祈りを教えてくださっただけでなく、わたしたちと共にこの祈りを祈っていてくださいます。
 そしてこのイエスの祈りは、わたしたちキリスト者、神の民の祈りがどのようなものであるかを明らかにするものです。わたしたちは神に聞いて頂きたい様々な願いがあります。わたしたちはそれを神に祈ります。しかしそのとき、わたしたちは神の御心の成るところに救いが現れることを信じ、ゆべてを神に委ねて「御心がなりますように」と主の祈りの中で繰り返し祈り続けていくのです。
 わたしたちの祈りは、自分の願いを叶えるための祈りではありません。わたしたちのすべてを知って、すべてを益とし、救いをなしてくださる神に、すべてを委ね、御心がなされることを求めていく祈りなのです。

 イエスが祈っておられると「御使が天からあらわれてイエスを力づけ」ました。「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られ」ました。「そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」のです。イエスはわたしたちのために、そしてわたしたちと共に信仰の戦いを戦ってくださったのです。信仰の戦いには、神の助けが必要なことを天使の力づけを受けることを通して示し、その助けが確かにあることを示してくださいました。

 そして「祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんに」なりました。
 イエスは「石を投げて届くほどの所で」祈っておられました。どれほどの時間、イエスが祈られたかは分かりませんが、弟子たちはイエスの祈りの言葉を聞き、切に祈る姿を見ていました。だからこうしてイエスの祈りの言葉、その姿が語り継がれ、福音書に記されたのです。弟子たちは、このエルサレムでイエスが苦難を受けると告げられたこと、自分たちのところから去って行くと言われたことを思い返し、深い悲しみに包まれ、悲しみのあまり意識を保ち祈り続けることができませんでした。
 イエスは彼らが眠ってしまっているのをご覧になり、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」とお語りになりました。

 イエスはこの場面の最初と最後で「祈りなさい」とお命じになられました。ここで「誘惑」と訳された言葉は、22:28では「試練」と訳されています。神と共にあろうとする信仰は、常に試練・誘惑にさらされます。
 そして誘惑に陥らないために「祈りなさい」とイエスは命じます。弟子たちが寝てしまっているのをご覧になった後には「起きて祈りなさい」と言われました。
 ここで「起きて」と言われた言葉は、聖書では「復活する、よみがえる」という意味で使われる言葉です。ですからここの「起きて」は霊的に目覚めていること、罪の中で眠っている、死んでいるのではなく、神の御前に立っていることを表します。そして神に語りかけ、神の声を聞くのです。

 祈りは神と共にあるためになくてはならないものです。イエスエルサレムに来られて最初に宮清めをし、「わが家は祈の家であるべきだ」(19:46)と言われたのも、神の御前に出る神殿において、なくてならぬものが失われていたからです。神を信じる、神と共に生きるということには、祈るということが含まれているのです。
 十字架を前にして言われたイエスのこの命令を軽んじてはなりません。エペソ人への手紙も「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい」(6:18)と命じています。
 日本キリスト教会信仰の告白の中には「信徒を訓練し」という文言があります。そして教会に託された信徒の訓練の中で、最も中心にあるものの一つが祈りです。神を信じ、神の助けと導きを求め、祈る。祈りによって神の御前へと立ち帰り、イエスに倣って、神に委ね、御心がなされ救いがなされることを信じて祈る。そのように祈りつつ生きる神の民へと訓練するのです。遣わされている所で一人でも祈る。兄弟姉妹と共に祈る。そして礼拝においても祈る。そのような神の民が育まれるように教会に訓練が託されているのです。教会生活の中にある祈る機会を、是非大切にして頂きたいと思います。単なる聖書の知識ではなく、活ける真の神と共に生きる信仰には、祈りはなくてならぬものなのです。

 祈りは、他でもなくわたしたち自身のために与えられたものであり、神と共に生きるために与えられた信仰の武器、そして恵みの賜物なのです。

 

ハレルヤ

聖句で辿る聖書 68

出エジプト記
15章 25, 26節(新共同訳)

その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、言われた。
「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である。」


 掟と法は、救いの後に与えられる。
 救われたからこそ、神と共に歩むために、神は民に戒めを与える。

 

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ローマ人への手紙 4:1〜5

2017年11月12日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:1〜5(口語訳)

 

 パウロは「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」(3:24)と語ります。そしてきょうの箇所では、信仰の父アブラハムを例に挙げて、行いではなく信じることを通して義とされることを語ります。

 繰り返し確認しますが、聖書で言われる義というのは、関係における正しさ、正しい関係にあることを表します。では神と共にあることを喜べる正しい関係になるにはどうしたらよいのでしょうか。それは神を信じることによって与えられると聖書は語ります。

 そもそもイスラエルの父祖、信仰の父アブラハムは、行いによって義とされたのではありません。パウロは創世記15:6を引用して語ります。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた。」
 パウロはこれを神の恩恵なのだと語ります。「働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。」
 神との正しい関係が人間の行いよってもたらされるのであれば、それは当然与えられるべき対価です。自分の行いよって得たものですから、誇ることもできるでしょう。
 しかしパウロは「神のみまえでは、できない」と断言します。なぜなら神は、アブラハムが神を信じたことによって、彼を義と認められたからだ、と主張します。神が、アブラハムを行いよって義とされたのではなく、アブラハムが神を信じたことによって義とされたのです。

 わたしたちは、神に対して罪を犯しています。神に対して罪という負債を負っています。それをどのように贖い正しい関係になるかは、神がお決めになることです。負債を負っているわたしたちが「これでいいことにしよう」とは言えず、律法を御心に従って完璧に守り、罪を贖うに十分な愛を神と隣人に注ぐことはできません。
 パウロが引用したアブラハムが神を信じたことによって義とされた出来事は創世記15章にあります。そして神がアブラハムに割礼を命じられたのは、創世記17章にあります(17:10)。アブラハムは割礼を受けたから義とされたのではありません。アブラハムが義とされたことと割礼は関係ありません。神がアブラハムを義とされたのは、行いの対価ではなく、恵みとして信仰を通して与えられたのです。パウロは「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」と言っています。

 これは、アブラハムが神を信じたから、神はアブラハムと正しい関係になろうと言われたのではありません。神は人が罪を犯した時、否、人をお造りになった時から正しい関係であろうとして語りかけ、祝福を注ぎ、人も世界も恵みの御業の中に置いてくださっていました。信じると、神は恵みの神になってくださるのではありません。神が恵みの神、真実な神であってくださるので、わたしたちは神を信じるのです。わたしたちの信仰が先なのではありません。神ご自身がわたしたちの命、わたしたち自身の基、根源なのです。信じたら救われるのではありません。神がわたしたちを愛し、わたしたちの救いとなってくださっているので、わたしたちは信じるのです。

 ここで注意して頂きたいことがあります。ここで引用されている「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」ということを福音主義プロテスタント)の教会では「信仰義認」と呼んでいます。この信仰義認について、時々間違いが生じます。それは、信仰に対しても自分たちで評価するという律法主義に陥ってしまうことです。つまり自分たちの物差しで信仰の評価し比較をしてしまうのです。例えば「あの人は信仰深い人だ」とか、あるいは「わたしの信仰は救いにふさわしい信仰だろうか」などと。こういうのは、信仰を律法に変えてしまい、信仰を行いに変え、自分の業にしてしまうことです。
 義と認めるのは、神なのです。神は、ご自分を信じたことに対して義と認められたのです。どれだけ深く信じているか、どれだけ固く信じているかを問うてはおられません。今、神の言葉を聞いて、ただ神を信じるのです。

 わたしたちは罪を抱えているので、神の言葉を聞いても、自分の考えで曲げてしまうことがあります。だから神の言葉を聞き続けるのです。神の言葉によって新たにされていくのです。

 信仰についてもう少し申し上げます。行いの代わりに信仰で、と考えると間違います。わたしたちの信仰も不完全です。完全な信仰を持っているのは、イエス キリストお一人です。イエスは全き信仰を持って十字架の贖いを成し遂げ、神はそのイエスを死からよみがえらせ、天に引き上げられました。わたしたちの信仰は、行いの代わりにはなりません。完全な信仰だから神は義とされると言われたのではありません。「あなたは行いは不十分で律法はちゃんと守れないけれども、わたしを信じたから義としよう」というのでもありません。わたしたちは、神の約束が真実で、神は罪人を救われる、神がわたしを救ってくださる、神がこの罪深いわたしを愛していてくださる、聖書を通して神が語っておられることを信じるのです。神ご自身を信じるのであって、わたしの信仰に依り頼むのではありません。

 きょうの箇所にあるように「不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められる」のです。
 この言葉は、自分の信仰が不信心であることを示しています。わたしたちは行いも信仰も何も誇ることはできません。ただ神が罪あるわたしたちを愛し救ってくださることを、神の言葉から聞いて、信じて悔い改めるのです。神の許に救いがあり幸いがあることを聞いて、信じて神の許へと悔い改め立ち帰るのです。イエスは言われました。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)。

 神はわたしたちが聞くべき神の言葉として、聖書を与えてくださいました。ですから信仰義認についてもまた、創世記からヨハネの黙示録まで神の言葉全体から正しく聞いて、いつも新しく神ご自身を信じていくのです。
 神ご自身に触れていくとき、神は愛であり真実であられる、わたしの救いであってくださる、それを知っていくときに、わたしたちは喜びと平安を持って神を信じていく、神と共に生きる者へと招かれ導かれているのです。

 

ハレルヤ

聖句で辿る聖書 67

出エジプト記
15章 19節(新共同訳)

 

ファラオの馬が、戦車、騎兵もろとも海に入ったとき、主は海の水を彼らの上に返された。しかし、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだ。

 


 神は救いの道を開かれる。
 世の力は、それを妨げることはできない。

 

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ルカによる福音書 22:35〜38

2017年11月5日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:35〜38(口語訳)

 

 イエスは自分の逮捕、そして十字架によって、状況が大きく変化することを暗示しておられます。イエスの保護の許、宣教の準備段階が終わり、本格的に弟子たちが福音宣教に遣わされるため、自ら備えをして歩み出す時が来ていることを暗示されています。

 ただここは、理解するのにとても難しい箇所です。
 38節の最後に出てくる「それでよい」という言葉を、皆さんはどう聞いたでしょうか。これは、その直前に弟子たちが言った「ここにつるぎが二振りございます」という言葉を肯定した言葉として聞いたでしょうか。それとも否定した言葉として聞いたでしょうか。
 この言葉は「それで十分だ」(田川訳)という言葉です。
 これを肯定的に取ると「二振りあれば、大丈夫。十分だ」という意味です。おそらくここを読んだ多くの方が、肯定的に受け止められたのではないかと思います。
 ところが、わたしの手元にある注解書は皆、これを否定的に理解しています。ざっくり言うと、イエスは霊的な意味で言われたのに本物の剣を二振り持ってきたので「まだわたしの言葉が分からないのか、もう十分だ」という意味で会話を打ち切られた、という理解です。
 この理解を後押しするのは、この後に出てくる48~51節です。「イエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。」
 イエスは剣を持って戦うことを求めてはおられません。またルカがこの福音書の次に書いた使徒行伝でも、宣教のために剣を持って戦うような場面はありません。
 こういったことから、多くの注解者はイエスの「それでよい」という言葉を否定的な意味で理解しています。
 確かにイエスの言葉には、霊的な意味が込められています。けれど「それでよい」という言葉を否定的に理解すると、36節の「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」という言葉が理解できなくなります。これは明らかに買い求めるように勧めています。

 わたしが見た注解書に、ミュルデルという人が書いた注解書(コンパクト聖書注解『ルカによる福音書 II 』)があります。そこにはこう書かれていました。「東方では早くから、この言葉の説明で剣のことは語らず、過越の食事の前に過越の子羊を屠り解体するための小刀のことにする傾向がある。・・ルカが使っているギリシア語はそういう翻訳を許すのである」(p. 264)とあります。これが今回の箇所では最も納得できる説明でした。この場面は、最後の晩餐、つまり過越の食事の直後の出来事ですから、食事の準備を託されたペテロとヨハネは、過越の食事をするために子羊を屠り解体する小刀を持っていたはずです。二人がそれぞれ持っていたなら、丁度二振りの小刀があったわけです。

 イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨を経験した弟子たちは、迫害も伴う困難な宣教に踏み出していきます。神から与えられた者は、財布も袋も持って行くように勧められています。ただ剣だけは「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」と言われています。この剣、先ほど言いました羊を解体するための小刀は、持つべきものとして言われています。これは最後の晩餐を思い起こすための「しるし」ではないかとわたしは思います。最後の晩餐でのイエスの言葉、そしてイエスのなされたことを忘れずに思い起こすための「しるし」です。この小刀は、最後の晩餐に同席した弟子に対する勧めです。つまりそれを見ると、最後の晩餐のときにイエスがこう言われた、こうなされた、そういう一つひとつを思い起こしながら、福音宣教に仕えていく。そういうキリストへと思いを向けていくための「しるし」ではなかったかと思うのです。

 今わたしたちは、この最後の晩餐を思い起こすのは御言葉と聖晩餐です。聖晩餐は、洗礼と共に聖礼典と言われています。その聖礼典(サクラメント)は、見える御言葉とも言われます。わたしたちは御言葉(聖書)とイエスが定めてくださった聖晩餐を通して、最後の晩餐そしてその後の十字架に至る出来事、イエスの言葉を思い起こしていくのです。そしてこのような「しるし」が必要だからこそ、キリストは「このようにしなさい」と言って定めてくださったのです。弟子たちに対しては最後の晩餐を思い起こすために、過越の子羊を屠るための小刀を携えて、キリストの救いの業、キリストの十字架と共にあるように、とお命じになったのではないでしょうか。
 エペソ人への手紙 6:13~17にはこうあります。「神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。・・また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。」ですから、今わたしたちは御霊の剣である神の言葉を身に帯びて、宣教の業に仕えるのです。

 イエスはイザヤ 53:12で「彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられた」と言われているように、イエスは「ふたりの犯罪人」(ルカ 23:32)と共に十字架に掛けられました。弟子たちは小刀を見るたびに、イエスは御言葉を成就するために、ご自身を過越の子羊のごとく献げられたことを思い起こすのです。

 このようにして自らの命を献げてわたしたちの救い主となってくださったキリストと共にあることを命じられた弟子たちでしたが、イエスが逮捕されるときには、祭司長の僕に剣で切りつけ、イエスに「やめなさい」と止められます(48~51節)。なかなかイエスの御心を理解し受け止めることができません。
 それはわたしたちも同じです。だからこそ神は、主の日ごとの礼拝において、また週日の祈り会(祈祷会)において、繰り返し神の言葉を聞くように、神の御許に立ち帰り、神の御心を知るようにとわたしたちを招き続けていてくださるのです。かつてサムエルが「しもべは聞きます。お話しください」(サムエル上 3:10)と主に応えたように、わたしたちもまた「主よ、御心をお示しください。わたしは聞きます」と祈りつつ、神の言葉を待つ、神の言葉を聞く、そういう必要があるのです。

 わたしたちは恵まれた時代、社会に生きています。一人ひとりが聖書を持つことができるのです。持っている者は財布も袋も持って行くようにと言われたように、与えられた者はそれを携えて仕えるのです。
 日曜日に教会でだけ聖書を開くのではなく、日常の生活の中でも、聖書を開き、神の言葉を聞いて、「主よ、御心をお示しください。わたしは聞きます」と祈って、神の御心へと思いを向けていって頂きたいと思います。御霊の剣である神の言葉を身につけていく。心に蓄えていく。そして神の言葉に導かれて、神へと、神の思いへと、自分を向けていく。神の御前に立ち帰っていく。そのことを神はわたしたちに恵みとしてお与えくださっています。
 イエスは御霊の剣である神の言葉を、自分の上着を売ってでも求め、それを身に帯びて福音宣教に仕えるように弟子たちに対して、そしてわたしたちに対して勧めておられるのです。

 

ハレルヤ

ローマ人への手紙 3:27〜31

2017年10月29日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 3:27〜31(口語訳)

 

 パウロは、人はキリストによってのみ救われることを明らかにしようとしています。ですから、ユダヤ人も異邦人も、神の御前で自分を誇ることはできないし、裁かれる存在であることを明らかにしてきました。
 パウロは語ります。「すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。」
 わたしたちには神の御前で誇れるものは何もありません。それは何によって分かるのでしょうか。律法(神の戒め)をどれだけきちんと守れたかを判断する行いの法則ではありません。

 旧約の規定の中には、様々な献げ物の規定があります。燔祭、酬恩祭、素祭などたくさんの献げ物が定められています。これらは新共同訳の方が分かりやすい訳になっています。新共同訳だと焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、穀物の献げ物などと訳されています。これらの献げ物は、神の前に出るには、生活のあらゆる場面で罪を贖わなければならないことを示しています。そして神がアブラハムに対して抱かれた思いは「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」(創世記 15:6)であります。旧約の中にあるのも、行いの法則ではなく、信仰の法則なのです。

 ここに出てきた言葉を説明しますと、義というのは正しいという意味です。どういう正しさかというと、関係における正しさです。つまり神とわたしたちとの間の関係における正しさです。
 わたしたちは聖書によって、神を父なる神と呼びます。そしてわたしたちはキリストによって、神の子とされています。ですから神とわたしたちとの関係は、父と子の関係として語られます。神とわたしたちとの関係における正しさ(義)は、父と子の関係になぞらえて語られます。父が子に心を配り、愛を注ぐ、子は父の愛を受けて父を信頼する愛する。こういう関係が神と人との間では正しい、義なる関係だと聖書は告げています。神とわたしたちとの関係は、愛され導かれ、信じ愛することのできる関係なのです。
 そして、この神との正しい関係に入るには、神が与えてくださった戒めをすべて落ち度なく守って入るのではありません。わたしたちが神と共に生きていけるように、神がひとり子を遣わしてまで救いの御業を成し遂げてくださったことを信じる、神にこのわたしのすべてを委ねても大丈夫だと信じ、イエス キリストがこのわたしの救い主である、と信じることを通して正しい関係に入れられるのです。
 このようなことをパウロは義と言い、行いの法則と言い、信仰の法則と言っているのです。

 もう少し言いますと、行いの法則とは、サンタクロースの法則です。「この一年いい子にしてた?いい子にはプレゼントをあげよう。」いい子でいたという行いによって、プレゼントがもらえるというのが行いの法則です。しかし、わたしたちは日々罪を積み重ねています。けれどもそのわたしたちを、神は愛してくださり、わたしたちにはできない罪の贖いを、イエス キリストによって成し遂げてくださいました。わたしたちは既に赦されているのです。だからイエス キリストを信じて「主よ、感謝します」と言って、神の御前に立つことができるのです。信じることを通して、神との愛と信頼に満ちた関係に入れられる、これが信仰の法則です。
 パウロは言います。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」

 パウロがこう確信するのには、彼の回心の出来事が大きく関わっています。使徒行伝 9:1~5「サウロは(回心前パウロはサウロと呼ばれていました)、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者(キリスト者)を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
 これがパウロの回心の出来事です。キリスト教の迫害者から福音の宣教者へと変わる決定的な出来事です。

 パウロは真面目な信仰者、ユダヤ教徒でした。パウロはピリピ人への手紙 3:4~6でこう書いています。「もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。」
 これには続きがあります。「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」(ピリピ 3:7~9)
 パウロは、自分が間違っていることに気づきました。キリストに出会ったことにより気づきました。イエスこそ救い主キリストでした。自分の理解も熱心も、行いも間違っていました。自分は「律法の義については落ち度のない」者、しかし神は「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を」受けるようにとの御心でした。神は救い主として、御子イエス キリストをお遣わしになり、イエス キリストによって救いを成就されたのです。キリストは「わたしたちの罪のための、あがないの供え物」「ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のため」(1ヨハネ 2:2)の贖いの供え物だったのだと知ったのです。

 だからパウロは言います。「神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。」「まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。」
 パウロが属していたパリサイ人の信仰熱心は、「律法の義については落ち度のない」と言うほどのものです。神の戒めをきちんと守って、神に喜ばれる者であろうと願って生きていました。その彼がキリストに出会ったときに、行いの法則によって自分の義を立てようとしていた自分の信仰が間違っていたことに気づいたのです。神はわたしたちの欠けも弱さも愚かさも知って、なお愛してくださり、その救いのためにキリストを遣わしてくださる。わたしたちは神の愛によって救われるのだ。自分の熱心によって救われるのではなく、神の愛により、イエス キリストにより救われる。そして誰もが自分の信仰を誇ることから解放され、共に主を誇りとするという恵みを与えてくださった。パウロは、そのことにキリストと出会って、目を開かれたのです。

 そして最後に確認するようにパウロは言います。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」
 信仰によって律法を確立するとは、どういうことでしょうか。律法によって自分を誇ろうとしたり、裁かれるのではないかと不安に陥ったりしているうちは、神を喜ぶことができません。信仰によって「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して」くださっている。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)なのだと神の愛を確信するときに、わたしたちは救われた感謝をもって律法を守っていくことができるのです。神を喜び、神に従うことができるのです。「わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶ」(ローマ 5:11)のです。神を喜びつつ生きることによって、律法を確立するのです。
 神が与えてくださる救いの恵みを、イエス キリストを通して知るとき、戒めも神と共に生きるための恵みであることを知るのです。喜びと感謝をもって、戒めを受け取ることができるのです。神と共に生きる大いなる恵みに招かれている。すべての神の言葉が、わたしたちを神へと導いてくださることを、イエス キリストによって知り、神を喜ぶのです。

 今わたしたちもまた「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだす」のです。パウロと同じく真の救い主イエス キリストと出会うようにと、神はわたしたちを招き続けていてくださるのです。

 

ハレルヤ

聖書通読のために 62

マタイによる福音書 7章 6節(新共同訳)

 

 7:1 から裁きを行い信仰を正そうとする者に対する注意が語られてきている。
 信仰的に正しいことを指摘しても、そのことが大事なことだと理解できない人もいる。その正しさを理解し受け止めることのできる時がある。そのときが来ていない場合「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくる」こともある。
 時によらずおが屑を取り除き、悔い改めさせるのではない。時は神の領分である。時が来ていないと思ったら、祈りつつ待つことも必要である。
 わたし自身、福音を信じるまでに時間がかかり、神聖なものを拒絶し、真珠を投げ捨て、伝えてくれた人を軽んじていた。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

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