聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 9:1〜5

2019年9月15(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:1〜5(新共同訳)


 パウロは、3:21から8:39までキリストの福音を語ってきました。そして9〜11章は、同胞である旧約の民イスラエルについて語ります。

 パウロは言います。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。」
 どうやらパウロユダヤ人たちから「嘘つき」だと言われていたようです。

 ユダヤ人たち、それはイエス キリストを信じているユダヤキリスト者であっても、パウロの言うことに傷ついていたのです。それはそうだろうと思います。彼らが誇りとしていた割礼、律法、ユダヤ人であること、パウロはそれらをことごとく否定したのですから。
 誇りは、その人の存在価値に関わるものですから、そう簡単に手放すことはできません。しかし徹底的にユダヤ人として生きてきたパウロは知っています。ユダヤ人としての誇りに執着する限り、神が独り子を差し出すという痛みを負ってまで、与えてくださったイエス キリストを受け入れることができないのです。パウロは復活のキリストに出会ったときに、それを知りました。自分の熱心も、自分の確信も間違っていたことを知りました。

 パウロはキリストを信じた今も、同胞イスラエルに対する深い愛を抱いています。パウロは言います。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」
 イスラエルは、アブラハムが召し出されて以来、神の民として歩んできました。ここに挙げられた「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」は、まずイスラエルに与えられたものです。だからパウロは思います。もし真の救い主 イエス キリストを通して与えられる救いに与ることがないとしたなら、神の民として歩み続けてきた今までの歴史はどうなってしまうのか。イスラエルはたくさんの苦難を経て歩んできました。エジプトでも奴隷として苦しみました。荒れ野を40年間旅しました。国が滅ぼされることも経験しました。周りには多くの偶像があり、偶像を信じてしまったことにより裁かれ、偶像を拒絶し信仰を守っては迫害されました。そんな経験までして神の民として歩んできたのに、救い主が来るという約束を信じ続けてきたのに、肝心なキリストの救いに与ることができないとしたら、イスラエルは何のためにここまで神の民として歩んできたのでしょうか。
 神は、イスラエルを見捨てず、イスラエルにイエス キリストを与えてくださいました。イエス キリストはユダヤ人として生まれ、歩まれました。
 イスラエルが国を失い、流浪の民となってから、キリスト教の国となっていったヨーロッパで「キリストを殺した民」として迫害されてきました。しかし神は、イスラエルの民としてイエス キリストを与えられたのです。

 パウロイスラエルが救いに与ってほしいと心から願っています。だからイエス キリストが救い主なのだと熱心に語ってきました。ところがパウロの同胞への熱い思いが、彼らのプライドを傷つけてしまいました。ユダヤ人たちから「嘘つき」呼ばわりされ、「パウロの言うことに耳を貸すな」「キリストの前では価値がない、などと言うが、割礼も律法も神が与えてくださったもの。価値がないはずがないじゃないか」と非難されていたのです。
 パウロにとっては辛いことでした。同胞の救いを願っているのに、理解されない。しかし、パウロが辛いのは自分の言うことが信じてもらえない、自分が理解されないということではなく、イスラエルが救いを受け入れないということです。
 パウロは言います。「わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
 パウロは、同胞がキリストを受け入れるためならば、自分はキリストと同じように捨てられた者となっても良いとまで思っているのです。本当にパウロは熱い人だなぁと思います。しかしその熱い思いも、神には及びません。独り子を遣わしてでも罪人を救いたいとは、どれほどの思いなのでしょうか。キリストを遣わされた神は、わたしたち罪人の救いをパウロ以上の思いをもって願っていてくださいます。
 わたしの両親も未信者です。キリストを信じそうな気配はありません。それでも、神があきらめておられないのですから、神より先にわたしがあきらめてはいけない、あきらめる必要がないと思います。パウロと同じように、救いを願っている親しい人を思い、痛みを感じている方がおられると思いますが、あきらめないで祈っていて頂きたいと思っています。なぜなら、神があきらめておられないからです。

 そして最後に、パウロは最も伝えたいことを述べます。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
 キリストは確かに人となられ、イスラエルの民としてお生まれになりました。しかしキリストは、単に非常に優れた人物、偉人の中の一人というのではなく、「万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」なのだと宣言するのです。しかも、神に献げる祈りと同様に「アーメン」という言葉と添えて語ります。
 アーメンというのは「真実です。そのとおりです」という意味のヘブライ語です。この言葉を出すということは、「偽りを言っているのなら、神に裁かれてもかまわない」というパウロの思いを示すものです。先に「わたしの良心も聖霊によって証ししている」と言いましたが、そのことに応答するのがこの「アーメン」なのです。
 パウロは、復活のキリストによって回心させられました。肉眼でキリストを見ることはできませんでしたが、キリストが現れてくださり、キリストの言葉を聞き、キリスト者となりました(使徒 9:1~22)。この言葉は、復活のキリストに出会ったパウロの証言です。直接復活のキリストを知るパウロの証しです。
 それは、キリストは、イスラエルの民から生まれた真の人であり、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる真の神である、というものです。日本キリスト教会信仰の告白も冒頭で「イエス キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。
 神学の用語では「二性一人格」と言います。イエスという一人の人格に、神の性質と人の性質とが存在している、というものです。これは三位一体の教理と並んで、人間の理性を超えるものです。神がキリストによって啓示してくださった救いの秘義とも言えるものです。イエス キリストとの出会いを経験した者によってのみ証言されるものです。

 これは、この証言の後で分かってくることですが、神であるお方が人となって来てくださり、救いの業を成就してくださいました。そしてキリストは復活し、天に上られ、神の右に座しておられます。キリストが人となってくださり、人として復活されたので、今、神に国、神の右には真に人であるキリストがおられます。それによって、罪を贖われキリストと結び合わされた人が、死を超えてキリストと共に復活し、神の国に至るという道が拓かれました。神であるキリストが人となってくださったので、わたしたちは死を超える未来を見ることができるようになったのです。
 だから、イエス キリストが真に神であり、真に人であられるというのは、神が啓示し、教えてくださった救いの秘義なのです。

 神は、このキリストの救いに与るようにと、礼拝へと招き導かれます。神の救いの御業を知って受け取るように、御言葉を通して神の御心と御業を知るように毎週語りかけてくださいます。神はキリストの救いによってわたしたちと共にいてくださいます。だからキリストは「インマヌエル 神我らと共にいまし給う」と言われます。どうかこの聖書の言葉を聞いた皆さんが、キリストの救いに与り、神の愛と命の道を歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 この教会において、わたしたちの真の救い主イエス キリストに出会うことができますように。日ごとにキリストをよく知り、その救いの恵みに満たされていきますように。どうかさらに多くの人が、キリストの救いに入れられていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 3:19〜20

2019年9月12日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 3:19, 20(新共同訳)


 きょうの箇所の中心となるのは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」です。

 パウロは、キリストによる以外に救いはないことを明らかにしようとしています。だからパウロは「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31)と述べています。わたしたちは、神の御前でキリスト以外の何ものも誇るものがないということです。しかし、人は何かしらキリスト以外にも誇りを持ち、自分自身の内に自分の価値を持ちたいと願っています。ユダヤ人であれば、割礼を始めアブラハムの子孫であり神の民であることを誇りとしています。わたしたちであれば、日本人であることを誇りたいと思います。
 しかしパウロはいいます。「すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」だと。

 律法というのは聖書の用語です。元々のノモス(ギリシャ語)は、聖書以外であれば、法律とか規則と訳される言葉です。聖書であれば、神の戒め、律法を指し、律法のもとにある者とは、直接的にはユダヤ人を指しています。ですがパウロは「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるため」だと言うのです。それは、ユダヤ人であろうとなかろうと、すべての人が律法のもとにあるからです。
 先ほど言いましたように、元々の言葉は一般社会でも使われる普通の言葉です。法律と言ってもいいし、規則・ルールと言ってもかまいません。つまり、どんな集団であっても、人が共に生きようとするところには、律法・規則があるということです。それは、ときに法律という形を取ることもあり、マナーやエチケット、暗黙の了解という形のこともあります。一緒にゲームやスポーツをしようとすれば、そこにもルールが必要となります。すべての人は、生きていくとき、律法・規則のもとにあるのです。
 けれども「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」のです。
 世には良識のある人たちがいます。様々なレベルの律法・ルールを適切に守り、共に生きる生活が円滑に進むように配慮できる人たちがいます。しかしどんなに行き届いた人、周りから賞賛され認められる人であっても、罪がもたらした死から自由になることはできません。自分自身もそうですし、周りの人々も罪と死から自由にすることはできません。

 パウロは「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」だと言っています。それは、この世のルール、約束事を完璧に守る、守らせることでは救いは現れないからです。この世のルールは、救いをもたらす力はありません。
 神の律法については、イエスが律法学者の問いかけに答えて「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ 12:29~31)と言われました。
 イエスは律法の根幹は「愛する」ことであることを指摘されました。おそらく誰もが「愛は大切だ」と思っています。そして愛そうとします。しかし人はしばしば、愛することに躓きます。愛することに疲れます。愛せなくなります。大切だと分かっていても、できなくなります。自分には愛を貫く力はない、という罪の自覚が現れてきます。主イエスのように、裏切る者をさえ食卓に招き、その前に身をかがめて足を洗い、自分を嘲る者殺そうとする者のために執り成し祈り、命を献げて愛し抜くことは誰にもできません。イエス キリストによって示された神の愛を前にしたとき、わたしたちは口をつぐむしかないのです。
 わたしたちは神の愛の前で言い訳をします。「わたしは自分のできる精一杯のことをした。人間なんだから完璧でないのは仕方ない。人間に完全な愛を求めるとしたら、神の方が間違っている。」しかしどんな言い訳をし、自分の正当性を主張しても、それで神の前に義とされることはありませんし、罪と死から自由になることもありません。

 そして「だれ一人神の前で義とされない」ことを受け入れなくては、神が与えてくださる救いに与ることはできません。わたしたちは自分で自分を救うことはできないのです。救えるようなものを何一つ持ってはいないのです。神がわたしたちを愛し憐れんでくださり、救い主としてひとり子イエス キリストを与えてくださったので、イエス キリストによって救われるのです。わたしたちは神に救われるのでなければ、罪によって滅びる罪人なのです。わたしたちはこのことを正しく理解する必要があります。

 神の御前で、すべての口はふさがれ、すべては神の裁きに服さねばなりません。しかし神の裁きに服するからこそ、神の救いを受けることができるのです。神は罪を大目に見て見逃したのではなく、ひとり子の命をかけてまで、罪を裁かれました。しかし神の裁き、キリストの十字架から救いが現れ、和解の福音が語られ始めたのです。わたしたちは神に救って頂くのです。すべてを救って頂くのです。自分の誇りは自分の誇りとして取っておいて、自分の力の足りない部分だけ神に救って頂くのではないのです。自分のすべてを丸ごと救って頂くのです。神の裁きによって、罪から引き離され、清められ、イエス キリストのものとされていくのです。

 罪は知りたくない、裁きは受けたくない、でも救いはほしい。これでは神が用意してくださった救いに与ることができません。聖書を通して神を知り、罪を知って、神へと悔い改め、神に導かれて救いに入れられるのです。ですからパウロは、徹底的に語ります。「あなたの持っている誇りのどれ一つも救いのためには役に立たない。かえって妨げにさえなる。」パウロは容赦なく人間の主張、誇り、言い訳を打ち砕いていきます。けれどそれらが打ち砕かれていったとき、神が備えてくださった救いがわたしたちの目の前に現れてきます。

 この罪を指摘する部分を読んで、自分の罪を指摘されると、楽しくないかもしれません。しかし、キリストの救いに与るために、このことを知って神の御前に立たなくてはなりません。
 この世は明るく楽しく生きることを提示します。それはとても魅力的に見えます。しかしこの世は、死以外の未来を提示することはできません。そしてこの世は、真の神を提示することもありません。神ご自身だけが、罪からの救いを提示し、死を打ち破る未来を示してくださいます。

 神はひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださった。そしてイエス キリストだけが、わたしたちの救いとなってくださった。神は本当にわたしのすべてを知った上でわたしを愛してくださっている。神はどんなときもわたしを愛し抜いてくださる。その神に出会っていく、イエス キリストによって真の神を知っていく、そのところでわたしたちは限りない救いの中に入れられていくのです。
 ですからパウロは「神はわたしたちと共に生きることを願っておられる。どんなに多くの人が神を信じても、このわたしが神を信じないで滅びるということを神は喜ばれない。このわたしさえも救うために、神はキリストをお遣わしくださった」そのことに気づくように、パウロは真剣にこの手紙を書いています。
 神が死によってさえ奪われることのない希望を与えていてくださいます。わたしたちは神の御手から命と未来を受け取るのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 どうかあなたの愛と救いの中で、自分自身の罪を知ることができますように。そしてあなたが用意してくださったイエス キリストの救いに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 4:1〜15

2019年9月8日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:1〜15(新共同訳)


 救い主としての活動を始められて、イエスの許には多くの人々が集まるようになりました。エルサレムにおける宗教指導者の一角であるファリサイ派の人々の耳に、イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を集め、洗礼を授けている、という噂が届きました。
 ファリサイ派というのは、律法を厳格に守り、神から祝福される人になることを信条とするグループで、律法の指導者の働きをしていました。
 イエスは噂が広まっているのを知ると、まだ十字架へと向かう時ではないので、ファリサイ派との議論を避けるため、ユダヤを去り、北方のガリラヤへと向かわれました。その途中、イエスの一行はサマリアと呼ばれる地域を通りました。

 サマリアは、北イスラエルの首都であったサマリアを中心とする地域です。北イスラエルアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアの移住政策により民族の混合が進み、ユダヤの人たちからは純粋なイスラエル民族ではなくなったと差別されるようになり、ユダヤサマリアとは関わりを避けるようになっていました。

 イエスの一行はサマリアのシカルという町に来ました。イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座り込んでしまわれました。
 この井戸はヤコブの井戸と呼ばれており、イスラエルの先祖ヤコブが掘った井戸だと言われていました。

 教会では、イエスは真に神であり、真に人であると言います(二性一人格)。神は全能であるから人になることも問題なくできるだろうと考える人もいるかもしれません。けれど人となるというのは、弱くなるということです。疲れれば動けなくなる。喉も渇けば、お腹もすく。釘で十字架につけられれば動けない。痛みも感じれば、血も流れる。そしてついには死んでしまう。およそ神として持っておられたものを手放して、弱くなる。それが、神が人となるということです。
 わたしたちは弱くなりたいとは思いません。年を取ってできることが次第に失われていくことを恐れます。わたしも病気をしていろんなことができなくなりました。こんなこともできなくなったのかとため息が出ることもあります。弱くなりたいとは思いません。
 しかし、イエスは弱くなってわたしたちのところへ来られました。そして、その弱さによって一人の女性と出会います。おそらくこの女性と出会うために、イエスヤコブの井戸に来られました。続きを読んでいくと分かりますが、イエスはこの女性を知っておられました。イエスはこの女性と出会うために、そしてわたしたちと出会うために、弱くなり人となられたのです。イエスはわたしたちと出会うために弱くなることも恐れずに人となってくださいました。

 このサマリアの女性が井戸に水を汲みに来たのは、昼の12時頃でした。水は生活に欠かせないものですし、運ぶのは重くて大変ですから、大抵暑くならない朝のうちにすませるものです。この女性が暑いさなかに水を汲みに来たのは、たぶん他の人と会いたくなかったからではないかと思います。

 イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。弟子たちは食べ物を買いに行っていて、側にいませんでした。するとこのサマリアの女性は「どうして、ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ねます。先ほど言いましたように、ユダヤサマリアの間には差別と反発があって、互いに関わることを避けていたからです。

 イエスは答えて言われます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 何とも上から目線の言葉です。「水を飲ませてください」と頼んでいる人の言葉とは思えません。この女性もおかしなことを言うと思ったのでしょう。イエスに向かってこう言います。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手に入れるのですか。」

 「生きた水」という表現は通常「流れている水」を表します。流れていない水、池や貯水池の水に対して、川の水や湧き水のような流れているきれいな水を表します。サマリアの女性はこの意味でイエスの言葉を聞きました。
 けれど、イエスが言われた「生きた水」は、神がイエス キリストを通して注ぎ与えてくださる恵みのことを言っておられます。エレミヤ 2:13にはこうあります。「まことに、わが民は二つの悪を行った。/生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。/水をためることのできない/こわれた水溜めを。」神ご自身が「生きた水」の源なのです。14節では「永遠の命に至る水」と言われています。神がイエス キリストを通して与えてくださる「永遠の命に至る」恵みなのです。だからイエスは10節では「神の賜物」という言い方もされたのです。

 サマリアの女性は通常の意味で「生きた水」を理解しました。だから器も持っていないし、井戸の傍らでへたり込んでいるイエスが何かを与えられるとは思えませんでした。ただイエスの言葉、言い方に何か感じるものがあったのでしょう。もしかしたら、新たな井戸を与える力でもあるのかと思い、「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」と尋ねてみました。

 するとイエスはこう答えます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 するとこの女性はすぐさまイエスに訴えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」彼女はまだイエスが言っておられることを誤解しています。イエスの言っていることが水くみをしなくてもすむ自分に都合のいいこととして理解しています。
 けれども、イエスの言われていることを正しく理解できない、自分の都合で聞いてしまうという点ではわたしも同じです。わたしは常に渇いているように感じています。この箇所を読むと、いつも躓きを感じます。わたしは渇くということの反対は、満たされているというイメージです。イエスによって満たされると言うとき、神が万事を益としてくださることを信じてイライラしない。神が必要なときに必要なものを備えてくださることを信じて、足りないと言って不満を言わない。そんなイメージでいると、自分はいつも渇いているように思えます。
 しかしこれは、自分の信仰の成長や立派さを見て満足しようとする律法主義と同じです。自分の信仰を自分で見て満足する。それはイエスが与えようとしておられる信仰とはまるで違います。

 ここでイエスが言われているのは「永遠の命に至る水」のことです。イエス キリストから与えられる恵みはすべて、永遠の命へと至る恵みです。十字架も復活も、義認も聖化もすべて永遠の命へと至る恵みです。イエス キリストご自身により、わたしたちは圧倒的な恵みを受けています。わたしたちが欠けだらけだろうと、信仰が小さかろうと弱かろうと、自分自身の罪に絶望しそうだろうと、それらを圧倒するイエス キリストの尽きることのない恵みによって、わたしたちは永遠の命へと導かれているのです。わたしたちの努力や熱心ではなく、わたしのイメージや実感ではなく、ただひたすらにイエス キリストご自身によって、わたしたちは救いへ、永遠の命へと導き入れられているのです。まさにイエス キリストが生きた水の泉なのです。そしてイエス キリストが聖霊によりわたしたちの内に住み、共にいてくださり、絶えず生きた水を注ぎ与えてくださっているのです。

 だからわたちたちは、イエス キリストによって確信を与えられています。「このわたしはイエス キリストによって救われている」という確信です。
 わたしたちの信仰の先輩は、ハイデルベルク教理問答で「わたしたちは生きているときも、死ぬときも、わたしたちの真実な救い主イエス キリストのものである」と信仰を告白しました。そしてパウロはローマ 8:38, 39でこう告白します。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 イエスはここで生きた水と言われましたが、わたしたちの信仰も生きています。毎日食べて、常に呼吸するように、生きているものは絶えず活動します。信仰も同じです。迷いがなくなったり、不満が消えて、神に祈らなくてもいいようになるのではありません。神との生きた交流があり、人とも生きた交流があるのです。神との間に、人との間に、聖霊が注がれ流れて、生きた関係、生きた信仰になるのです。
 だからわたしたちは、わたしたちの内にあって永遠の命へと至る水を与えてくださるイエス キリストに目を向け、心を向けるのです。わたしたちのために人となって弱くなることも厭われない方。嘲られることも拒絶されることも捨てられることも厭われない方。わたしたちの罪を担い、ご自分の命さえも差し出される方。死を打ち破って、命の道、神の国の道を拓かれる方。この方が、わたしたちのすべてを受けとめ、永遠の命に生きる者としてくださる真の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 主イエスは、わたしたちに出会うために弱さを負い、人となって来てくださいました。わたしたちに永遠の命に至る水を与えるために、自らを献げ与えてくださいました。わたしたちの救いの確かさは、イエス キリストにあります。どうかわたしたちも、イエス キリストに出会い、その恵みに与り、永遠の命に至ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 3:9〜18

2019年9月5日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 3:9~18(新共同訳)


 パウロはローマの教会に宛てて手紙を書きました。パウロはこの手紙の意図をこう書いています。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(1:15)福音は、神が与えてくださったよい知らせです。神がひとり子を救い主として遣わしてくださり、罪人の救いを成し遂げてくださった、という知らせです。

 罪人の救いですから、自分が罪人であること、自分が罪を抱えていることに気づかねばなりません。そこでパウロは、すべての人が神の前で罪人であることを明らかにします。
 「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。」(3:9)「全くありません」とパウロは言います。異邦人キリスト者であれ、ユダヤキリスト者であれ、誰もが罪人なのです。パウロはここで旧約の詩篇、コヘレトの言葉、イザヤ書を自由に引用して、聖書がすべての人は罪人であると言っていることを明らかにしようとします。

 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。」(3:10, 11)正しい者とは、神の御心を正しく理解し、神に従い、神の御業に仕える人です。口語訳までは「義人」と訳されていました。「悟る者」は「賢い人」とも訳されます。神の知恵に等しい知恵を持つ人のことです。「神を探し求める者」は、神と共にあることを当然のことと思い、それを求める人です。神の助けを必要として神を求めるのではなく、神の恵みや御利益を必要として神を求めるのではなく、神といつも共にあることが当然だから神を求める人のことです。パウロは聖書を引用して、正しい者はいない、悟る者はいない、神を探し求める者もいない、一人もいない、と語ります。
 「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(3:12)ここで言う善とは、神の御心のことです。神の御心こそ善であります。すべての人は神から離れ、さまよい、神の御心である善を行えず、無益な者となっています。神の御心を行う者は一人もいないのです。イエス キリストのように、罪人のために自分の命までも献げる十字架の道を「あなたの御心がなりますように」と言って歩み行く者は一人もいないのです。

 人間のレベルで言うなら、正しい人も、悟りある人も、神を求める人も、善を行う人もいます。しかし、どんな立派な素晴らしい人も、罪の報いである死を打ち破った人はいません。自分の罪なき命を献げることで死を滅ぼし、そして復活し、罪人に永遠の命を与えるという神の御心をなしたのは、イエス キリスト以外には誰もいない、一人もいないのです。

 「彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、」(3:13, 14)これらは、思いと言葉を表す表現です。世には優しい言葉を語る人もあり、温かい思いを持った人もいます。わたしたちはそういうこの世にある優しい温かいものに心を向け、希望を持ちたいと願います。しかし神は、すべての罪人を救い、この争いや対立のなくならない世界を救おうとされています。神は、偽りがあり、詐欺がある世界、差別や迫害のある世界、争いがあり、命が奪われる世界を見ておられます。そういう罪のただ中で生きなければならない人々を見ておられ、その救いを願っておられます。この聖書の言葉は、罪に支配され、罪に導かれている罪人を表す言葉です。
 「足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」(3:15~17)足や道は、人生の歩み、人類の歴史を表します。罪の世で生きるとき、血は流され、破壊と悲しみがあります。人間は長い歴史の中で、文明を積み重ね、様々な発明・発見をしてきました。しかしまだ、平和をもたらす発明、発見をしたとは言い難いのが現実です。

 パウロの最後の引用は「彼らの目には神への畏れがない」(3:18)という言葉です。神に対する正しい畏れは、神の御前に立ったときに与えられるものです。そして神の御前に立つとき、自分自身の罪に気づき、自分自身が救いを必要としていることに気づきます。そして神が救おうとしておられる世界、神が救おうとしておられる人々に目を向け心を向けていくのでなければ、この聖書の言葉を理解し受け入れることはできないのではないかと思います。

 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」「いや、それは極端ではありませんか。正しく生きようとしている善い人も世にはたくさんいます。深い理解、悟りある人もいるじゃありませんか。わたしも神を求めて生きています。善を行おうとする人もいるじゃないですか。」
 パウロが引用した旧約の言葉、詩篇のいろいろな箇所、コヘレトの言葉、イザヤ書から集めてきています。パウロは旧約の様々な箇所で、すべての人は罪を抱えていることを告げている、と言おうとしています。しかしこれだけ集められると「それは極端で言い過ぎではないでしょうか」とわたしたちの内の善意や良心はそう思って、この聖書の言葉は確かにそのとおりだと聞けないことがあるだろうと思います。
 しかし、神の前に立って、御言葉に照らされて、自分自身の罪に気づき、本当に救いが必要であると知った人には「確かにそのとおりだ、それぞれに善意があり、それぞれに善いことを行っている。けれど神の御心のままに、イエス キリストのように生きて、死に打ち勝つ人は、誰もいない。誰もが死に囚われており、キリストの救いを必要としている。キリストの救いなくては、最後死に飲み込まれてしまう。その人自身が消え去ってしまう」と気づくのです。
 そして神の御前に立って、神の御言葉、神の御業を知っていくとき、「神はお造りになった一つひとつの命を顧み、惜しんでおられる。その命を救うために、神自らが御子を差し出すという大きな痛みを抱えて、わたしたちのために御業をなしてくださった」ことに気づくのです。神の前に立ち帰ることなくして、神に対する畏れ・畏敬の念を持つことなくして、自分たちの知恵や努力で、平和の道を作り出すことはできません。「主よ、憐れんでください」と祈りつつ、「主よ、助けてください」と導きを求めつつ、自分自身が神に立ち帰っていくのでなければ、わたしたちは御言葉を聞いて、神の御心を知るに至ることはできないのです。

 わたしたちは、神の御前で、命の意味、そして自分自身に気づかされます。わたしに命を与えられた神が、永遠の命をも与え、共に生きようとしてくださっていることに気づきます。神の言葉が、自分を神へと立ち帰らせ、神と共に生きることへと導くことに気づきます。
 だからパウロは「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(1:15)と語るのです。自分の罪を知って、本当の救いに与るために「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」(3:9)と語るのです。
 どうか、神の言葉によって自分の罪を知り、神の御前に立つ者となり、本当の救いに与っていかれますように。パウロと同じように、本当に救われることを願って、家族や大切な人たちのために祈り、福音を伝えていかれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの御前に立たせてください。あなたの御言葉、光に照らされて、自分を知ることができますように。そして、わたしたちのためにあなた自ら痛みを負われ、救いを成し遂げてくださっていることを知ることができますように。どうかあなたにある喜びと希望の内に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 3:31〜36

2019年9月1日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:31〜36(新共同訳)


 福音書はイエスのことを「上から来られる方」と言って、イエスがどこから来たのか、誰の許から来たのかを示します。そしてイエスを受け入れず、神に従わない人たちを「地から出る者」「地に属する者」と語ります。
 福音書は、3章でニコデモに対して救いとは何かを語り、救い主を遣わされた神の愛を語りました。続いて洗礼者ヨハネがイエスこそ救い主であることを証ししました。それらを受けて、福音書はイエスがどのような方であるかを語ります。

 3章まで語ってきたことを踏まえて、イエスは上から、つまり神の許から来て、すべてのものの上にあって、すべてを治める方だと言っています。マタイによる福音書では、復活されたイエスご自身が「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ 28:18)と言われました。福音書は、このことを証しするために語り、4つの福音書とも最後は十字架と復活によって救いの業が成し遂げられたことを記します。

 ヨハネによる福音書が冒頭から語るように、イエス キリストこそ神の言葉であり、ご自身が見たこと聞いたことを証しされます。しかし「だれもその証しを受け入れない」と福音書は言います。この「だれも」というのは、福音書がキリストを伝えようとしている人たちを指すのではないかと思います。イエスを信じる者たちがいたから今に至るまでキリストが宣べ伝えられたので、誰も信じなかった訳ではありません。ですから、証しを受け入れなかった「だれも」は、福音書が伝えようとした特定の人たちを指しているのだろうと思います。

 一方、キリストの証しを受け入れる者は、イエス キリストを信じ受け入れたことによって、神が旧約の約束のとおりに救いの御業をなしてくださったことを証しするのです。「確認した」と訳されている言葉は「印・はんこを押す」という言葉です。書類に承認のはんこを押すように、イエス キリストの証しを信じることによって「神は真実です」という書類に判を押すのと同様の証しをしたのです。わたしたちは、洗礼を受けること、信仰告白をすることにより、神の真実を証ししたのです。

 イエス キリストは、神の言葉です。わたしたちはイエス キリストによって、神の御心、神がわたしたちを愛しておられることを知ります。
 世には哲学的・神学的課題として「神の存在証明」というテーマがあります。神の存在を理論的に証明しようとするもので、中世から近代にかけて議論されました。現代ではほぼ取り上げられることはありません。そのような証明が意味を持たなくなったからだろうと思います。単純なものですと、時計がある。これを作った人がいる。時計よりもはるかに複雑・精密な人間が自然にできるのではなく、造られた神がおられる、といったものです。
 仮にこの論理が正しいとして、神の存在が証明されたとしましょう。ですが、こういった証明では、神がどのようなお方なのか分かりません。神がわたしたちを愛しておられるかどうか分かりません。わたしたちの知性や理性では、神を知ることはできないのです。わたしたちは、神が自らを現してくださらなければ(これを啓示と言います)神を知ることはできません。

 神は、救いの御業と御言葉によってご自身の民に自らを啓示してこられました。そして、ヘブライ 1:2によれば「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」ヨハネによる福音書が言うように、イエス キリストこそ神の言葉なのです。わたしたちはイエス キリストによって神の御心、神がわたしたちを愛しておられること、わたしたちを救おうとしておられることを知るのです。旧約は、来たるべき救い主を指し示し、新約は、救いを成し遂げられた救い主を証ししています。イエスご自身が言われたとおり「聖書はわたしについて証しをするもの」(ヨハネ 5:39)なのです。そしてわたしたちは、イエス キリストによって神の愛を知り、神の真実を知り、神ご自身を知るのです。

 神は、イエス キリストによってわたしたちが神を知ることができるように、聖霊を与えてくださいます。
 イエス キリストが救い主としての公生涯を始められるとき、洗礼を受けられました。本来、罪のないイエス キリストに罪の洗い清めの洗礼は必要のないものですが、わたしたちが歩むべき救いの道を拓くために洗礼を受けてくださいました。そのとき「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえ」(ルカ 3:21, 22)たのです。神は、イエス キリストの救い主としての歩みにおいて父・子・聖霊なる神の姿を現してくださるのです。
 新共同訳は「限りなくお与えになる」と訳しますが、ここは「升を使わずに与える」というのが直訳です。つまり計量カップなどできっちり量って与えるのではなく、「惜しみなく」与えてくださるという意味です。
 イエスも「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:26)と言っておられます。神はご自身の言葉としてイエス キリストを遣わされ、その神の言葉を理解できるように聖霊を注いでくださるのです。

 罪によって神が分からなくなってしまったわたしたちに、神は自らをお示しくださいます。イエス キリストが救い主であることを知ること、信じることにより、父なる神、そして聖霊なる神を知り、父・子・聖霊なる神ご自身の交わりに入れて頂けるようにしてくださったのです。

 父なる神は、救いのために人となり、その命さえも献げた御子イエス キリストを愛され、すべてをキリストの御手に委ねてくださいました。ですから、救いはイエス キリストにかかっています。だから福音書は「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と語るのです。イエス キリストは、信じても信じなくてもどちらでもかまわないどうでもいい存在なのではありません。わたしたちキリスト者は「神が独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ 3:16)ことの大きさを覚えていることが必要です。
 それには、キリストに思いを向けることが大切です。イエス キリストがよく知り、神の思いが聞こえてくるようになることが大切です。

 さきほど、神の存在証明ということを申し上げましたが、神はイエス キリストによってご自分を明らかにされました。イエス キリストこそ、神の存在証明なのです。ですから、キリストを抜きにして神の存在証明をしようとしても、神を知ることはできないのです。

 この池田教会に集うお一人おひとりが、礼拝を始めとする教会の営みによってイエス キリストと出会い、キリストを通して父・子・聖霊なる神との交わりに生きることができますように。神の愛を喜び、神からの希望に生きることができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが導いてくださったこの教会において、イエス キリストをよく知ることができますように。イエス キリストによって、あなたの御心をいよいよ深く知ることができますように。どうかあなたの御心を喜び、御業を喜び、そしてあなたご自身を喜ぶあなたの民、あなたの子として導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 3:5〜8

2019年8月28日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 3:5~8(新共同訳)


 パウロは、すべての人は罪を抱えていて、異邦人もユダヤ人も、神の前に誇ることはできないことを明らかにします。
 すると「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」などと言う人が出てきました。

 義というのは、正しさを表す言葉です。この正しさは、関係の正しさを表す言葉です。親と子の関係が正しい。日本と隣国との関係が正しい。そういう関係の正しさを表す言葉です。
 「神の義」「神の正しさ」は、神とわたしたちとの間の正しさです。神とわたしたちとの間のあるべき関係を示します。神とわたしたちとの正しい関係は、神と神の子、神と神の民、神と神の僕という関係です。神はわたしたちと正しい関係を築くために、救いの御業をなされ、ついには御子イエス キリストを救い主としてお遣わしになられました。神は、イエス キリストにおいて、「神の義」つまり神とわたしたちとの正しい関係、正しいあり方を築かれました。

 すると「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」などと言う人が出てきたのです。「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば」わたしが罪人のままでいること、罪を犯すことが、神の栄光のためになるのではないか、などと言う人が出てきたのです。「善が生じるために悪をしよう」などと揶揄する人が出てきたのです。
 神が救いの御業においてご自分の義、正しさを現されるなら「怒りを発する神は正しくない」のではないのか。「もし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。」キリスト教の教えだとそういうことですよね。罪人のままでいいんでしょ、ということが言われ出したのです。

 パウロは「決してそうではない」とこの考え方を否定します。
 この考え方の決定的な間違いは、神の御心を無視して考えていることです。神はわたしたちが罪の中に留まるために救いの御業をなされたのではありません。この考え方は、わたしたちを罪から救い出して、共に生きようという神の御心を無にするものです。
 神はわたしたちを罪から救い出し、ご自分の民、神の子へとわたしたちを新たにされます。「わたしたちは皆・・栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(2コリント 3:18)神はわたしたちをキリストと同じ姿にまで新たにし変えていかれるのです。

 神はキリストにおいて救いを成し遂げてくださいました。わたしたちは自分の善き業によってではなく、キリストによって救われます。しかし神から求められていることがあります。悔い改めること、キリストを信じること、神に従い新しく生き始めることです。神が与えてくださる救いは、神と共に生きることです。悔い改めずして神と共に生きることはできません。キリストを信じ、キリストの救いに与らずして神と共に生きることはできません。キリストをお与えくださるほどの神の愛を信じて、神に導かれて新しく生き始めるのでなければ、神と共に生きることはできません。
 わたしたちは罪人のままで救われます。しかし、罪人のままであり続けることはできません。イエスも姦淫の女に対して「これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ 8:11)と言われました。神は、わたしたちをキリストと同じ姿になるまで、新しく変えていかれるのです。

 わたしたちは生きています。生きているものは絶えず変わります。成長し、老いていき、一瞬たりとも立ち止まらずに変化していきます。それが止まるとき、わたしたちはこの世で死を迎えます。命は絶えず新しく変化し続けます。そして神が救いによって与えてくださるのが、永遠の命です。救いの中でも命は絶えず新しく変化し続けます。キリストと同じ姿になるまで変わり続けるのです。
 神はその変化のために、試練を与え、訓練を与え、裁きを与えられます。それは聖書を見れば明らかです。アブラハムも、モーセも、ダビデも、預言者たちも、神から試練、訓練、裁きを受けて、神の務めを担う器として変えられ整えられていきました。神の民に加えられたわたしたちもまた、神の試練、訓練、裁きを受けて導かれるのです。
 ホセア 6:1ではこう言われています。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」「主のもとに帰ろう」というのは「悔い改めて主に立ち帰ろう」ということです。主に背を向けて滅びへと向かって行くので「主はわたしたちをかき裂かれ」たのです。しかし「またいやし」てくださいます。主は「わたしたちを打たれた」けれど「また包んで」くださいます。神は滅ぼすためにかき裂かれ打たれるのではなく、わたしたちを神の民、神の僕として新しく生きるために、新しく生まれ変わらせるために、その御業をなされるのです。
 わたしたちの教会は信仰告白において、「主の委託により・・信徒を訓練し」と告白しています。どう訓練するのか。それは、神の御心を知り、神の導きに従い、神と共に生きるための訓練をするのです。礼拝すること、御言葉を聞くこと、祈ること、讃美すること、献げること、そして様々な教会の務めを通して、神に従い、共に生きる訓練をするのです。

 神はひとり子の命までかけた救いを侮ることをお許しにはなりません。パウロが「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と言っているとおりです。神はご自分に立ち帰り、救いをきちんと受け取ることができるように裁き正されます。わたしたちは神の御業を神の御心から理解しなければなりません。

 わたしたちは時折、神が何故にこう語られたのか、何故にこの戒めを与えられたのか、何故この御業をなされたのか、とその根本である神の御心を問うことなく、自分の論理で、聖書を理解してしまうことがあります。それがきょうの箇所で言われていることです。「わたしたちの不義が神の義を明らかにする」「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となる」イエス キリストの救いによって罪が赦されるのであれば、わたしたちが不義だからこそキリストの救いが輝くのでしょう。というようなことを神の御心を考えずに、自分の論理に神の御業を押し込めてゆがめてしまうことがあります。

 自分に都合のいい御言葉だけを選んで、自分に都合のいい神を作り上げてはいけません。聖書の言葉を用いていてもそれは偶像を作ることに他なりません。荒れ野の誘惑で悪魔は聖書の言葉を使ってイエスを誘惑しました。イエスを信じ従っていたペテロは、十字架を理解できず拒否しようとして「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ 8:33)と言われました。創世記からヨハネの黙示録まで、聖書は神を知るために、神の御心を知るために与えられました。

 わたしたちの教会は、神の御心を正しく知るために、聖書に沿って聞こうとする講解説教を重んじてきました。聖書の要約である教理の学びを重んじてきました。家庭礼拝暦を出版して、聖書全体を読んでいくように配慮してきました。牧師たちは神学の学びを大切にしてきました。そして牧師が自分好みの教会を建てるのではなく、信仰告白と教会の憲法・規則によって、キリストが主である教会を建てるように心がけてきました。わたしたちの教会の営みの一つひとつに真実なキリストの教会を建てたいという願いが込められています。その真実なキリストの教会を建てるために、説教がどうあるのか、礼拝がどうあるのか、信徒の訓練がどうあるのか、牧師は何を学んでいくのか、そういう一つひとつのことを大切にしてきました。どれも自己流の信仰ではなく、神に立ち帰り、神と共に生きる信仰を育むためになされてきました。

 救いはわたしたちにとって喜びです。喜びでありうれしいからこそ、自分好みの救いを作りがちなのです。パウロは、神を離れて自分好みの救い、自分勝手な理解に陥らないようにと、きょうのこの箇所を書いたのです。
 どうか、自分好みの信仰に陥ることなく、御言葉を通して神の御心を聞き、神と共に救いの道を歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの御心をお教えください。正しく御心を知ることができますように。あなたの御心にこそ救いがあることをお知らせください。どうか御心に従って、あなたと共に歩むことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 8:35〜39

2019年8月25(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 8:35〜39(新共同訳)


 パウロは、3:21からキリストの福音を語ってきました。それがきょうの8:39で一区切りとなります。
 キリストの福音をまとめるにあたり、パウロは問いを投げかけます。前回の箇所では、31節「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」33節「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」34節「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」
 いずれの問いの答えも「そんなことをできるものはいない」です。神の救いの御業を信じるだけでなく、律法など人間の業に頼りたくなってしまうわたしたちの不安、不信仰に対して、問いを通して打ち消そうとしています。
 そしてきょうの箇所で最後の問いを投げかけます。35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」

 パウロは皆が不安に感じているものを挙げていきます。「艱難ならキリストの愛を引き離すと思いますか。苦しみならどうですか。迫害の方がキリストの愛よりも強いと思いますか。キリストの愛も飢えにはかないませんか。それとも裸でしょうか、危険でしょうか、剣でしょうか。」

 使徒言行録においてパウロバルナバが、「弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」(使徒 14:22)とあります。
 罪の世で、キリストに従って歩むには、様々な困難があります。パウロ詩編 44:23「『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」を引用して、それは旧約の時代から言われているとおりで、神の言葉が苦難が伴うことを明らかにしていると語ります。
 詩編は神に呼びかけていますから、「あなたのために」とは「神のために」という意味です。そしてこの詩編は続けて「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく/目覚めてください」(詩編 44:24)と神に呼びかけます。
 そして神は、その罪の世の困難の中にあるわたしたちを捉えるために、詩編の祈り、代々の神の民の祈りに応えて、イエス キリストを人として、救い主としてこの世に遣わしてくださいました。

 35節で列挙されたもの「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」これらは、イエス キリストが経験された事柄です。一体どれがキリストにわたしたちを愛することをあきらめさせただろうか。キリストは十字架の死に至るまでわたしたちを愛してくださいました。艱難も苦しみも、迫害も飢えも、裸も危険も剣も、キリストがわたしたちを愛することをあきらめさせることはありませんでした。さらに十字架の死に至るまでではなく、キリストは復活をして弟子たちに現れ、弟子たちの信仰を生き返らせてくださいました。
 イエスを3度自分を知らないと言ったペトロに対しても、それを拭い去るかのように3度「わたしを愛しているか」(ヨハネ 21:15~17)と問うて、主の羊を飼う務めを与えてくださいました。

 イエス キリストは、わたしたちを救うために、罪の世の苦難の中に来られ、36節のような神への祈り「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」という祈りも共にしてくださり、十字架の道を進んでいかれました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ 2:18)

 神が遣わし、与えてくださった救い主、イエス キリストに思いを向け、仰ぎ見るときに、わたしたちは救いを確信することができるのです。
 かつてイエスが湖の上を歩いて弟子たちが乗っている舟に近づかれたとき、ペトロが「水の上を歩いてそちらへ行かせてください」と頼んで歩かせてもらったときも、イエスよりも強い風に気になって怖くなってしまったとき、沈みかけてしまいました(マタイ 14:22~33)。イエス キリストを見ずに、この世に目を向けたとき、わたしたちは不安に捕らわれてしまいます。
 イエス キリストを仰ぎ見るときに、神のわたしたちに対する思いを確信することができるのです。そしてイエス キリストがわたしを救ってくださることを信じることができるのです。

 だからパウロはこう宣言します。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
 イエス キリストが勝利者なのです。キリストが罪に勝利してくださったのです。イエス キリストが十字架の苦難を負い、わたしたちの罪を贖い、死を打ち破って復活してくださったので、わたしたちはキリストの勝利に中に入れて頂いているのです。キリストの永遠の命に入れられ、神の国に生きる未来を与えられているのです。

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 パウロはその当時の世界観の中で、人生に影響を及ぼすと考えられていたものを次々と挙げて、世にあるどんなものも、わたしたちの真の主であるキリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないと宣言したのです。

 救いの鍵は、神の愛です。
 ハイデルベルク教理問答などのカテキズムでも示されているとおり、わたしたちがなす善き業・愛は、神の救いの業・神の愛への感謝の応答です。神の愛がすべての基であり、すべてに勝利するのです。そして神の愛を証しするのがイエス キリストです。わたしたちは、イエス キリストに結び合わされることにより、救いに入れられ、父・子・聖霊なる神との交わりのただ中に置かれ、神と共に歩むのです。

 ですから、先週の聖書とのつながりで言うなら、イエス キリストが皆さんの中でますます大きくなっていく(ヨハネ 3:30)ことが大事です。イエス キリストに思いが向かうなら、神の愛の確信が深まり、キリストの救いが確かな支えとなっていきます。神は、このパウロの確信が皆さん一人ひとりの確信となることを願っておられます。

 わたしたちを造られた神が、わたしたちを愛しています。わたしたち一人ひとりのために、イエス キリストを遣わし、救いをなしてくださいました。皆さんが神を喜び、救いに生きるためであります。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストに満たされていきますように。キリストによって示されたあなたの愛で満たしてください。あなたがわたしたちの救いであることを確信させてください。あなたの平安に与らせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン