聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマ人への手紙 7:1〜6

2018年10月21日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 7:1〜6(口語訳)

 

 「それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか」。
 信仰生活の中で既に知っているべき大切なことを語るのに、パウロは「あなたがたは知らないのか」と言います。既に 6:3、6:16 と2回言われています。
 伝えたいのは最初の 6:3 で言われていることです。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(6:3~4)。

 イエス キリストを信じる者は、キリストと一つに結び合わされ、古い自分に死んで、新しく救いの中に生かされている。パウロはこのことをはっきり理解させたいのです。
 新しく救いの中に生かされているというのは、キリストの救いから自分自身を理解する。救いから自分の人生を見て、自分の将来を知る。この罪の世界も救いから理解するのです。救いから神の御心を知るのです。神がこのわたしをどう思っておられるのか。この世界をどう思っておられるのか。神はわたしをどう導かれるのか。どんな未来を与えてくださるのか。神はこの世界をどのように導き、どこへと至らせるのか。それを救い、すなわちイエス キリストから知る。それが新しい命に生きるということです。

 それを理解させるための例えが「夫が死ねば、夫の律法から解放される」(2節)という話です。例えですから、この手紙が書かれた時代、ローマで生きて暮らしている人々によく分かるための例えです。今からほぼ2,000年前の時代に生きた人々が分かるための例えです。ですから21世紀の日本に生きるわたしたちがこの例えにピンとこなくても気にしなくてかまいません。例えで伝えようといているそのこと自体を理解すること、パウロが伝えようとしたことそのものを理解することが大事です。ですので、この例えを細かく説明することは致しません。

 きょうの箇所でパウロが一番言いたいのは4節です。「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである」。

 律法から見るのではなく、キリストから見る。「わたしはキリストのものである」という救いの出来事から自分を知る。その事実は「わたしたちが神のために実を結ぶに至る」のです。
 「神のために実を結ぶ」とは一体どういうことでしょうか。これは神を指し示すに至るということです。マタイ 5:16 には「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。立派な行いとは、天の父、つまり父なる神を崇めるようになる業のことです。みんなが自分を見て、自分をほめるのではなく、自分ではなく神を見る業です。律法を守って「これだけ正しく信仰的に生きています、いいことをしています」ということを見せるのではなく、ただひたすらに神を指し示すのです。少し日本的、東洋的な言い方をすれば、自分に対して無になるのです。わたしを見せるのではなく、わたしを見るのではなく、「この方を見よ」とイエス キリストを指し示し、神を証しするのです。それが、神のために実を結ぶに至るあり方です。

 パウロは言います。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」。
 律法によって生きていたときは、自分が律法を守っているかどうか、つまり自分自身が絶えず気にかかります。自分で自分を見つめます。神に目を向けるのではなく、絶えず自分に目が行きます。
 罪に囚われ、死へと向かっている自分を見つめているのですから、そこに救いはなく、死に至る実しか現れてこないのです。救いをもたらしてくださるキリストに目を向け、思いを向けるのではなく、律法を守ろうとしている自分がずっと気になっているのですから、そこに救いはありません。

 「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」。

 「新しい霊」とは「聖霊」のことです。聖霊によって、イエス キリストが救い主であることを知り、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活した新しい自分へと生かされていることを知るのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント 12:3)のです。

 父・子・聖霊なる神が、そのすべてをわたしたちに示し与えていてくださいます。イエス キリストがご自身の命をかけて、死んで復活してくださるほどにわたしたちは愛されています。だからわたしたちは、もはや自分を気にする必要がありません。自分には生きる意味があるのかとか、生きる価値があるのかとか問う必要がありません。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。
 神がひとり子を遣わし、その命を献げて贖いを成し遂げる。その出来事の中に、わたしたちの存在する意味も価値もあるのです。わたしたちの命の意味も価値も、自分自身で作り出すのではなく、作り上げるのでもなく、わたしたちを愛していてくださる神の出来事の中に、既にわたしたちの生きる意味も価値もあるのです。神はそれをひとり子イエス キリストを世に遣わして、その十字架と復活によって証しをしてくださいました。「わたしはあなたのためにひとり子を遣わす。あなたを裁くのではなく、救い主を裁くことによってあなたの救いを成し遂げる。死を討ち滅ぼす。わたしと共に生きられるように、わたしは救いの御業を成し遂げる。あなたを愛しており、あなたと共に生きたいと切に願っている」。だから、イエス キリストは生涯、その神の御心をわたしたちに語り続けてくださるのです。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。
 わたしたちはキリストと一つに結び合わされました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)なのです。

 パウロはその神の恵み、わたしたちの救いがイエス キリストにこそある、それを伝えるために言葉を尽くし、例えを用いて、「あなた方は知らないのか」と3度繰り返しながら語りかけているのです。
 パウロは祈りを込めてこの手紙を書いただろうと思います。それは今、遠くにいる人とも電話で話せる、会いに行くことだってできる、そういう時代に生きているわたしたちには、想像できないくらいの思いだろうと思います。まだ会ったことのないローマの教会の人々、ローマに旅した主にある兄弟からその教会の様子・人々の様子を聞いて、「手紙を書かなくては」そう思って16章にも及ぶ長い手紙をしたためました。キリストを信じて集った人々が、キリスト以外のものに望みを置いて恵みを失うことがないように、神が注いでくださる恵みのままに救われ喜ぶことができるように、そのことを願って書いています。「イエス キリストがあなたの救い主なのだ、キリストは人となって世に来られ、十字架を負い、そして復活されたのだ。あなた方はこのキリストと一つにされている、そのことを知らなくてはならない」。そのような思いでパウロはこの手紙を書いています。

 わたしたちは、神がわたしたちのために遣わされたイエス キリストを救い主と信じ、キリストにすべてを委ね、キリストを仰いでキリストを見つめて生きればよいのです。そのとき、わたしたちは律法からも自分自身からも解き放たれ、キリストのものとなり、神のために実を結ぶに至るのです。

 「生きているときも死に臨むときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。/それは、生きているときも死に臨むときも、わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス キリストのものであるということです」(ハイデルベルク教理問答 問い1)

ハレルヤ


父なる神さま
 御子イエス キリストをお遣わしてくださり、感謝します。キリストと一つに結び合わせてくださり、感謝します。キリストの救いによって律法からも自分からも解放してくださり、感謝します。どうか聖霊に満たされ導かれて、神のために実を結ぶに至ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖句で辿る聖書 88

出エジプト記
33章 15節(新共同訳)

モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」。


 「神と共に歩む(生きる)」これが聖書の示す救いである。主が共におられることが、神の民の願いである。救い主は「インマヌエル、神共にいまし給う」(マタイ 1:23, イザヤ 7:14)と呼ばれる。


ハレルヤ

 

ルカによる福音書 24:44〜48

2018年10月14日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカ 24:44〜48(口語訳)

 

 復活されたイエスがシモン(ペテロ)やエマオに向かった二人に弟子に現れたと弟子たちが大騒ぎしていると、突然イエスが彼らの中に現れ「やすかれ」と言われました。弟子たちは霊を見ているのだと思って驚いていると、イエスは霊ではないことを示すために、ご自分の手足を見せ、触らせました。さらにそこにあった焼き魚を一切れお食べになりました。

 それから彼らに対して言われました。「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

 このイエスが以前言われたことについては18章にこう書かれています。「イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」(ルカ 18:31~33)。ご自身の十字架と復活、苦難と栄光は、既に旧約に記されていることで、すべては成就するのです。

 きょうのところで言われている「モーセの律法と預言書と詩篇」というのは旧約全部を指す言い方です。つまり、旧約において救い主について書いてあることはイエスについて書いているのであり、イエス キリストにおいてその言葉は成就する、ということです。神の言葉、すなわち神の約束は、すべてイエス キリストにおいて成就し、実現するのです。

 そしてこのことを悟らせるために、イエスは弟子たちの心を開いてお語りになります。
 主に心を開いて頂かないと、弟子として側にいても肝心のことを理解しないままになってしまいます。自分が聞きたいことだけを聞いて、自分好みの神(偶像)を作り出すことになってしまいます。心を開いてくださるように祈りつつ、自分を中心にせず、自分好みの言葉を求めるのではなく、全聖書から神の御心を聞くようにしていくことが大切です。聖書朗読と説教の前に「聖書朗読と説教を祝福し、神さまご自身が一人ひとりの魂に語りかけてくださるように」と祈るのは、主が心を開いてくださるのを願ってのことです。

 イエスは言われます。「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」

 ここで旧約に出てくる救い主について書かれている箇所をいくつか確認しましょう。

 創世記ではアダムとエバが罪を犯した後、神が二人をそそのかした蛇にこう言われます。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記 3:15)。救い主が来て、罪を打ち砕きますが、かかとを砕かれる。これは十字架でその命を献げること、救い主が自ら傷を負い、痛みを負って罪を打ち砕くということがエデンの園で最初の罪が犯された直後に語られています。

 そして救い主の誕生についてはこう書かれています。「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ 7:14)。これはマタイ 1:23で引用されている箇所です。罪によって神と共に歩めなくなりました。けれど神は救い主を遣わし、神ご自身が罪人のところへ来てくださり、共にいてくださるのです。

 そして救い主の宣教についてはこう書かれています。「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。・・傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」(イザヤ 42:1,3~4)。イエスが洗礼をお受けになったとき、天が開け、聖霊が鳩のように降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との声がしました(ルカ 3:21~22)。イザヤの預言がイエス キリストにおいて実現しました。

 そして十字架についてはイザヤ 53章にある「主の僕の歌」と呼ばれる箇所がまさに十字架の苦しみを預言しています。ですが、ここは長いので別の箇所を紹介します。
 詩篇 22:1には「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」とあります。これはイエスが十字架で叫ばれた言葉です。イエスは、神に捨てられたと感じた民の苦しみを自ら十字架で負われました。
 そして「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ」(ゼカリヤ 12:10)と十字架の悲しみを記しています。

 三日目の復活を示すのはヨナ書です。「主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。・・主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した」(ヨナ 1:17, 2:1, 2, 17)。そして詩篇 16:10では「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられない」と復活を示して語られています。

 ユダヤ人たちは救いを拒絶しましたが、神はイエス キリストにおいて救いを成し遂げてくださいました。詩篇にはこうあります。「わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。家造りらの捨てた石は/隅のかしら石となった。これは主のなされた事で/われらの目には驚くべき事である。これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう」(詩篇 118:21~24)。この聖句はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書と1ペテロで引用されています。

 そしてイエスが「その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」と言われたことについては、イザヤ書において「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」(イザヤ 46:6)と言われています。

 まさに旧約全体を通して、イエス キリストの救いの御業が語られ、指し示されているのです。

 イエスの弟子たちは、神の言葉はイエス キリストにおいて成就したことの証人、証し人なのです。「あなたがたは、これらの事の証人である」とイエスは言われます。

 さらにイエスは「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と言われます。
 「約束されたもの」というのは、福音書に続いてルカが編纂した使徒行伝に出てくる聖霊のことです。ヨハネによる福音書でも「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ 14:16, 17)と言われています。
 弟子たちの信仰、熱心によって務めを果たすのではなく、神の霊に満たされ導かれて、務めを果たすのです。だから「授けられるまでは都に留まっていなさない」と命じられるのです。都というのは、神殿のあるところ、神の御前に進み出て礼拝を献げるところを表しています。今では、わたしたちが今集っている教会を示しています。

 わたしたちが礼拝に招かれるのも、主に心を開いて頂いて神の言葉を聞き、神の言葉が真実であり、出来事となること、神の言葉にはわたしたちに対する神の愛が満ちあふれていることを知るためです。
 そしてわたしたちも神の霊、聖霊を受けて、神の祝福によって送り出され、それぞれの場へと派遣されていくのです。
 きょうの箇所が示しているのは、終わりの日までキリストの弟子たちが経験する出来事、すなわちわたしたちの出来事なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちの心が開かれますように。あなたの御言葉を知ることができますように。どうか聖霊に満たされて、救いの御業に仕えることができますように。どうかわたしたちを用い、キリストの証人としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖書通読のために 78

マタイによる福音書 9章 18~19, 23~26節(新共同訳)

 

 指導者の娘が死んだ。しかし彼は、イエスが手を置けば、娘は生き返ると期待した。
 イエスが指導者の家に行くと、葬儀の準備が始まっていた。イエスは言う。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」。人々はイエスをあざ笑った。
 イエスが少女の手を取ると、少女は起き上がった。
 死もイエスの前に立ちはだかることはできない。これはイエスご自身の復活を指し示す出来事。
 「命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ 10:17)


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句による黙想 35

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado


ローマの信徒への手紙 3章 10節(新共同訳)

 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。」


 人はそれぞれ自分の基準で判断するので、一人ひとりに正しい人と悪い人がいる。しかし聖書は、神の基準を示している。神の御心に一致して、神の御心のままに、神と共に生きる者はいない。一人もいない。ただ神のひとり子イエス キリストだけが、十字架の死に至るまで神の御心に従って正しく生きたのである。


ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 87

出エジプト記
32章 27節(新共同訳)

 

彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。

 


 神がこんなことを命じるのか、と信じがたい言葉が聖書に書かれている。異邦人に向けてではなく、神の民に向けてである。キリスト者としては、こういう言葉は魔女狩りのような歪んだ信仰を助長してしまうのではないかと心配になる。けれど神の民は、罪は死に至り、命は神にあることを証しするのである。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ 6:23)


ハレルヤ

 

ローマ人への手紙 6:20〜23

2018年10月7日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 6:20〜23(口語訳)

 

 罪の僕とは、罪の導くままに生きることです。聖書の語る罪とは、神の御心、教えに無関心で、自分の思いに従って生きることです。ですから、義すなわち神との正しい関係とは縁がありません。
 パウロは問います。「その時あなた方はどんな実を結んだのか」。
 パウロは答えます。「それは、今では恥とするようなものであった」。

 これを聞いて多くの人はカチンとくるか、疑問に思うでしょう。「パウロは言いすぎではないのか。信仰を持つ前だって、人に恥じるような生き方をしてきた訳じゃない」。

 キリストが見えてこないうちは、わたしたちは罪しか見えていないので、仕方ないかもしれません。それに、生きていくには誇りが必要なので、神に依り頼み神を誇りとする信仰がなければ、自分を誇りとするしかなくなります。人は、価値や意味を求めます。自分の生きる価値や意味も求めます。そしてそれをさりげなく誇ります。アピールします。時に謙遜を装いつつ誇ります。信仰深さを装ってまで誇ります。
 聖書は語ります。「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31, 2コリント 10:17, エレミヤ 9:24)と。主を誇るのであって、主を信じているわたしやキリスト教を誇るのではありません。主ご自身を誇るのです。

 パウロが問題にしているのは「罪人がなした業はどんな実を結んだのか」ということです。もう少し突っ込んで言いましょう。「あなたのなした業で命という実を結んだ業があったのか。あるのであれば、わたしの前に出してみなさい」と言っているのです。
 もちろん、命の実を結ぶような業はキリストの十字架と復活以外にはありません。わたしたちのなす業は、良心に従った善意の業であっても、命の実を結ぶことはありません。わたしたちは神の御心と完全に一致する業をすることはできず、絶えず神からそれていきます。だからパウロは「それらのものの終極は、死である」と言っているのです。
 わたしたちの善意も、誇りとしているささやかな業も、どれ一つわたしたちに命をもたらすものはありません。自分でどんなに意味がある、よかったと思っていても、それは罪を贖い死から自分を解放することはできません。命を得ることはできないのです。キリスト以外に救いはないし、キリスト以外に永遠の命もありません。
 だから、自分の業を誇ることも、自分の業に依り頼むこともできないのです。たとえ信仰であっても、主ご自身以外のものを誇る者には、神が見えていない、あるいは神を見ていないのです。

 しかしパウロはさらに語ります。「今や、あなた方は罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる」のだと。

 わたしたちは、聖霊により信仰を与えられ、キリストを信じるに至りました。キリストにより罪の赦しを受け、キリストの命に与りました。キリストの救いにより、天に真の父を持つ神の子とされました。
 わたしたちは命を造り出すことはできません。命は神から与えられるものです。そして救いも与えられるものです。
 キリストを知るとき、神が限りない愛を注ぎ、このわたしに命を与え、救いを与え、さらに新しい命をさえ与えてくださることを知って、信じるのです。信じたから救われるのではありません。神が御子イエス キリストを遣わしてくださり、救いを成し遂げてくださったから信じるのです。信仰は救いの根拠ではありません。信仰もまた神から与えられた恵みです。信じられない罪の世にあって、神ご自身が信じられる存在となってくださり、わたしたちを信じて生きる恵みへと導き入れてくださったのです。神の恵みに与って生きるその第一歩が、信じるということなのです。

 わたしたちの信仰は土の器です(2コリント 4:7)。弱くもろい土の器です。神はこの土の器に、イエス キリストという恵みを注いでくださいました。わたしたちは恵みの大きさを思うごとに、救いが「わたしたちから出たものでないことが、あらわれるため」(2コリント 4:7)という聖書の言葉を思い起こします。
 わたしたちの信仰は弱くもろい土の器です。しかし神は、そのわたしたちの信仰を「きよきに至る実を結ぶ」ものとしてくださいました。神が与えてくださったきよさは、永遠の命に至るのです。

 だからパウロは力強く宣言します。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である」。

 何という恵みでしょうか! 神はわたしたちに御子イエス キリストを与えてくださり、その復活の命、永遠の命にまで与らせてくださっています。そして「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8)のです。わたしたちの信仰という土の器に、キリストの恵みがきのうも、きょうも、いつまでも途絶えることなく注がれているのです。神の尽きることのない愛が、恵みとなって命を注ぎ続けていてくださるのです。
 主の日の礼拝は、その恵みを覚えるための時、その恵みに与るための時、祝福の時なのです。

 

ハレルヤ


父なる神さま
 救いを与えてくださり、感謝します。イエス キリストを与えてくださり、感謝します。永遠の命を与えてくださり、感謝します。信仰を与え、信じて生きる恵みを与えてくださり、感謝します。どうかあなたご自身に目を向け、思いを向け、あなたに依り頼み、あなたを誇りとして歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン