聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:26〜27

2019年7月14日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:26〜27(新共同訳)


 ここでは、霊と祈りについて語られます。ここで言われる「霊」は、神の霊、聖霊のことです。この箇所でも語られているように、聖霊の働きと祈りには深いつながりがあります。

 聖書が告げる救いは、罪からの救いです。それは、父・子・聖霊なる神との交わりに入れられることによって与えられます。救いとは、神と共に生きることです。
 神は、罪の世にあってわたしたちが神と共に生きられるように手立てを講じてくださいました。神は、ご自身の民を召し出し、礼拝する群れを造り出されました。
 「礼拝」という言葉は、創世記 22章に初めて出てきます。けれど、礼拝という言葉になる前に、礼拝を表す言葉が出てきます。創世記 4:26には「主の御名を呼び始めた」とあります。この主の名を呼ぶというのが、礼拝のことだと言われます。つまり、礼拝の本質には主の名を呼ぶということがあるのです。ですから、主の名を呼ぶこと、祈ることが、わたしたちの信仰生活の基本に存在しています。

 一人ひとりが聖書を持てるようになったのは、活版印刷がなされるようになったここ500年ぐらいの話です。礼拝から礼拝に至る神の民の日常生活を支えてきたのは、祈りです。アブラハムは聖書を持っていませんでした。十戒も知りません。彼の信仰生活を支えたのは、神を礼拝し、主の名を呼ぶことでした。

 神が語りかけてくださり、わたしたちが応答する。ここに神との交わりが生じます。
 神はわたしたちを呼ばれます。神は、アダムとエバが罪を犯し、神から隠れようとしたとき、アダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」(創世記 3:9)神が呼びかけてくださるので、罪人は神へと立ち帰り、御前に進み出ることができるのです。だからわたしたちの礼拝は、神の招きの言葉で始まります。そして、神に呼ばれ、招かれたわたしたちは、主に呼ばれたサムエルと同じように「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上 3:9)と御前に進み出るのです。神が語りかけてくださり、人が神に応答する。ここから神と共に生きることが始まります。

 神は共に生きることを願って、ご自身にかたどってわたしたちを造り、神の務めを担うようにされました。神と共に生きるということは、神との交わりに生きるということです。名前を呼んでも返事がない。話しかけても聞いていない。これでは共に生きることが形作られていきません。神は今、御言葉を通して語りかけておられます。御言葉を通して神の導きに気づかされます。そしてわたしたちは、神に祈りをもって応え、讃美によって応え、主の御業に仕えることによって応えていきます。こうして、神と共に生きる生活が形作られていきます。わたしたちの信仰生活は主に応えること、祈りから内実が満たされていきます。
 聖書には民の祈りである詩編が収められています。人の祈りの言葉を、神はご自身の言葉として聖書に収め、詩編から祈りを学べるようにしてくださいました。神はわたしたちの祈りを求めておられます。だからイエスは神の民、教会についてこう言われます。「私の家は、祈りの家と呼ばれる。」(マタイ 21:13 聖書協会共同訳、イザヤ 56:7)

 人は神に造られたので、信仰のあるなしに関わらず、祈りは人にとって本質的なものです。例えば、大切な人が事故や病気で命が危ぶまれるとき、「助かりますように」と祈らない人がいるでしょうか。大切な人のためにその無事を、その幸せを願う。その願いが祈りとなっていきます。自分は何もすることができない。それでもその人の幸いを願う。人が生きていくためには、神の助けと導きが必要なことを人は本質的に知っているのです。

 しかしそれでも人は罪を抱えているので、祈れなくなります。
 一つには、受けとめきれない悲しい出来事、困難に出会ったときです。とても神に感謝なんてできない。神を喜ぶことなんてできない。「神さま、どうしてですか」と言って絶句してしまう。そういうことが人生では起こってきます。
 そんなとき、信仰の友が祈れない自分のために祈ってくれることもあるでしょう。たとえそういう人がいないときであっても、聖霊なる神がわたしたちと共にいてくださり「弱いわたしたちを助けてくださいます。」
 わたしたちが涙を流し慟哭するとき、歯ぎしりし「どうしてなんだ」と叫び続けるとき、希望を失い何も考えられないとき、聖霊なる神自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。イエス キリストがわたしたちの罪を負って苦しんでくださったように、聖霊も祈れないわたしたちの苦しみを担ってうめかれるのです。

 神はわたしたちを知っていてくださいます。人の心を見抜くお方です。そして、聖霊なる神の思いも知っておられます。聖霊なる神は、ひとり子を遣わしてでもわたしたちを救うという神の御心に従って、わたしたちをキリストに結び合わせ、聖なる者、聖徒としてくださいました。そして、わたしたちの救いのために執り成し続けていてくださいます。
 ですから、祈れないとき「神さま」と言って、言葉が見つからない、出てこないときには、そのまま「キリストの御名によって祈ります アーメン」でよいのです。祈るべき言葉が出てこない、見つからないときには、聖霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成していてくださいます。祈れないときでさえ、聖霊が執り成し祈っていてくださるのです。

 わたしたちは自分の力で祈るのではないのです。信仰生活の基本にある祈りだからこそ、神の助けと導きが必要なのです。
 さらに、信仰の先輩と一緒に祈る中で、何についてどう祈るのか、どんな言葉を使うのかをまねをしながら祈ることを身に着けていきます。わたしは共に祈ることが信仰の継承には欠かせないと考えます。

 また、祈りは神と向かい合うことですから、神以外のものに思いが行ってしまい神と向かい合うことができなくなると祈れなくなります。ですから、祈りで最も大切なのは、言葉を整えることではなく、神へと思いを向けることです。

 わたしの大学時代の友人は「自分は神さまの御心にかなう祈りが分からないから、主の祈りしか祈らない」と言っていました。わたしたちの祈りには神の御心にそぐわないことがあることはよく分かっています。だからこそ「キリストの御名によって祈る」のです。わたしたちの救いの御業を成し遂げ、今も神の右にあって執り成していてくださるキリストに自分の願いを委ねて祈るのです。わたしたちの祈りは、聖霊にもキリストにも執り成されて祈れるのです。

 そして祈らないでいると、祈れなくなります。ケガなどをして何ヶ月も動かさないでいると、動かせなくなります。同様に、祈らないと祈れなくなります。牧師でも祈れなくなります。中会や大会の委員会の書記をして、記録をまとめたり委員会の準備をする連絡するなど事務に追われ、落ち着いて祈れないことが続くと「自分は何を祈っていたんだろう」と祈っていたことを忘れてしまい、祈りが出てこないことがあります。
 神と向かい合うことも、祈りの時間を保つことも、聖霊の助けが必要です。「慌ただしくて祈れません。心落ち着かなくて祈れません。祈る気になれません」わたしはそんな祈り、つぶやきをしょっちゅうしています。

 わたしたちの日本キリスト教会は、学びを大切にする教会です。学びが好きと言ってもいいかもしれません。ですが少々学びに偏りすぎているように思います。神の御心を学ぶ・聞くだけでなく、祈り・讃美という神への応答・神への語りかけを信仰生活の中に取り入れていく必要があるように思います。

 聖霊が弱いわたしたちを助けてくださいます。どう祈るべきかを知らないわたしたちのために、聖霊自ら執り成してくださいます。わたしたちの祈りも神の恵みの中に入れられています。わたしたちは信仰が立派に成長し、素晴らしい祈りができるようになってから祈るのではありません。神はわたしたちを知っておられます。人の心を見抜くお方です。その神が今、わたしたちを求め、わたしたちの祈りを求めておられます。わたしたちの罪も、欠けも弱さもすべて知っておられる方が、今わたしたちを求めておられます。共に生きることを求めておられます。だからわたしたちはこの神に向かって「神さま」と祈っていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか聖霊をお注ぎください。あなたがわたしたちを求めておられることを知ることができますように。あなたの救いの恵みの中で「アッバ 父よ」と祈っていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:24〜32

2019年7月10日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:24~32(新共同訳)


 この箇所で一番注目を引くのは、同性愛に関する記述であろうと思います。おそらく長い間教会が同性愛を禁止事項としてきたことの根拠となった聖句の一つであろうと思います。しかし、この箇所は今日一般的に認識されている同性愛について論じている箇所ではありません。

 24節の冒頭に「そこで」とあります。これは前段からのつながりを表しています。前段で言われていたのは、偶像礼拝の問題で、神というものを知りながら、神にふさわしく崇めず、感謝もしない。自分の利益や願望の実現のために神を利用しようとする自己中心的な信仰に対する批判が述べられていました。そして、そのような罪に対する神の怒りを伝えようとしています。18節には「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」とあります。
 ですから、問題の中心は21節の「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」ということであり、神が中心ではなく、自分が中心であるということなのです。

 そこで同性愛の問題ですが、ここは今日人権の問題として取り上げられる性的少数者LGBTと言われる生まれながらの性的少数者の問題ではなく、自分の快楽・娯楽の追求として行われる性行為を問題としているのです。
 この類いの問題はパウロの手紙には何回か出てきます。1コリント 5:1では「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」と書かれています。
 強大なローマ帝国がもたらした平和の中で、楽しみ、刺激を求めていく。そんな中で起こっている出来事として同性愛が取り上げられているのです。
 29〜31節に挙げられているように、自分中心の偶像礼拝から多くの問題が生じています。その中で、同性愛が特に取り上げられているのには理由があると思います。26節に「自然の関係を自然にもとるものに変え」とあります。自然は、神が与えてくださった命の秩序を表します。人が罪の中で手にした自由は、その自然を不自然なものに変えてしまいます。このときに罪人から出てくる言葉が「わたしの自由」であり、「他人に迷惑はかけていない」です。自分の楽しみであり、相手も同意して楽しみを共有してくれている。誰かを傷つけたり、奪ったりしていない。他人からいろいろ言われる筋合いはない。これは聖書の考え方とは違います。だから、神と関係なく、自分を楽しませる問題として、特に同性愛が取り上げられているのではないかと思います。
 聖書が告げるのは「わたしの自由」ではなく、「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント 10:31)です。聖書の基準は、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいではなく、神の栄光が表されるかどうかなのです。
 この点をきちんと確認した上で、この箇所は読んでいかなくてはならないと思います。この箇所におけるパウロの論述の基本にあるのは、25節の「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」という信仰であり、神の栄光が現されるかどうかなのです。

 さて、この箇所のパウロの論述で特徴的なのは「神は・・まかせられた・渡された」という表現です。24節「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」26節「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」28節「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」3回「神は・・任せられた・渡された」という表現が出てきます。
 これは、人が神というものを知りながら、神を自分の願いを叶えるための僕にしてしまっている。神はその愚かしさに気づかせるために彼らの欲望(24節)、無価値な思い(28節)に彼らをまかせ、その報いを身に受けさせるようにされた、ということです。
 このような表現は旧約にも出てきます。詩篇 81:12~13にはこうあります。「わたしの民はわたしの声を聞かず/イスラエルはわたしを求めなかった。わたしは頑な心の彼らを突き放し/思いのままに歩かせた。」
 わたしたちは神に立ち帰り、自分の願いからさえも自由になる必要があるのです。自分が何を欲しているかをきちんと理解することは大事なことです。しかし、自分の願いが叶っていれば幸せになれるのではありません。わたしたちの命を創り、責任を持ってくださる神が、わたしたちの幸せを願い、救いの御業を成し続けていてくださいます。わたしたちが求めたので、救い主イエス キリストを遣わされたのではありません。わたしたちが誰一人求めなくても、わたしたちの救いのために神はひとり子イエス キリストをお遣わしくださいました。神の御心のなるところに、わたしたちの救いがあり、幸いがあるのです。ですからイエスはこのように祈りなさいと言って主の祈りを教えてくださいました。「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」(マタイ 6:10)

 神が「彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするように」されるとき、29~31節に列挙されている悪徳が世に満ちてきます。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」ここでは、パウロが見た、神と共に生きようとしない世界の問題を挙げています。
 今、わたしたちは比較的平和な社会に生きているので、パウロが挙げたこれらのことが少し強烈に感じられるかもしれません。しかし、わたしたちは気づいていなくてはなりません。平和と言われる日本の社会においても、毎日のニュースでは紛争、テロが次々と報じられ、殺人やいじめ、虐待、詐欺のニュースが絶えることがありません。若者から大人まで多くの人々が苦しみうめいています。
 わたしたちは罪の世で生きているのです。そしてパウロが列挙する悪徳の満ちてくる世にあって「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ 5:9)というイエスの勧めを受けているのです。

 パウロは言います。「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」(32節)
 日本でも昔から「お天道様に恥じないように生きなさい」と言われ、「情けは人のためならず」と言われます。「罰が当たる」という言葉もあります。正しい生き方へと導こうとする知恵ある言葉は、聖書の外にも、日本にもあります。しかし、この世の知恵ある言葉は真の神へと立ち帰らせることはありません。パウロがここで言っている神を神として崇め、感謝へと至らせ、神と共に、また神に従って生きる信仰に至らせることも残念ながらありません。

 パウロは知っています。イエス キリストの十字架と復活に依らなければ、罪から解放されず、自分自身からも解放されないことを。罪がもたらす死と滅びから解放されないことを。そして、あらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されるのです。
 だからこそパウロは、神の福音であるイエス キリストをすべての人に宣べ伝えたいと願っているのです。神の怒りを受けるのではなく、神の祝福に与るように。罪にまかせてしまわれるのではなく、救いの御業に与り幸いを得ることができるように。そのためにパウロも教会も、本当の救い主、本物の救い主、イエス キリストを宣べ伝え続けているのです。
 そして神は今も、神の幸いと平和に生きるようにと、わたしたちに語りかけ、招いていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊を注ぎ、わたしたちの思いを常にあなたへと向けさせてください。御言葉からあなたの御旨を正しく聞き、あなたと共に生きることができますように。あなたの救いに与っている喜びでわたしたちを満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 3:12〜15

2019年7月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:12〜15(新共同訳)


 イエスは、訪ねてきたニコデモに対して語り続けます。
 「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
 地上のことというのは、ニコデモに話した聖霊の働きにより洗礼を通して新しく生まれることです。
 天上のことというのは、地上の生涯が終わった先に用意されている事柄のことです。例えば、ヨハネ 14章でこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ 14:2, 3)これは地上の生涯が終わって神の国に入れられてからでないと確かめようのないことです。

 イエスは、ニコデモに最も必要な救いについて語られます。読んで頂くと分かりますが、イエスはニコデモに尋ねられたから語っているのではありません。イエスはニコデモが語らずともニコデモを知っておられるので、ニコデモに必要なことを語ってくださるのです。
 ニコデモは、律法をきちんと守って神に喜ばれ、祝福されようとするファリサイ派の一員でした。彼は律法を守ることが救いの要件だと思っていました。ところがイエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われます。

 救いは神の御手の内にある事柄です。わたしたちの自由にすることはできません。ファリサイ派や律法学者たちは、救いは自分たちの手の中にあると勘違いしていました。そして、神の御心は自分たちが一番よく分かっていると思い上がっていました。けれどニコデモは、イエスに教えを請いに来る謙虚な人でした。それでもイエスの言葉に衝撃を受け「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」「どうして、そんなことがありえましょうか」と驚くばかりでした。
 イエスはニコデモに、実は神のことを分かっていないということを知らせ、自分の言葉に心を開くように促します。ファリサイ派や律法学者たちが考えるよりもはるかに広く深い神の御心を知るように導かれるのです。

 イエスは言います。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」
 神と共にいた者でなければ、神を知らないし、神を語ることはできません。神ご自身でなければ、神の御心を正しく伝えることはできません。イエス キリストこそ、わたしたちの救いのために人となって天から降ってきてくださった神よりの神、真に神であり、真に人であるお方です。聖書は語ります。「(神は)この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ 1:2)
 イエス キリスト以外に天に上った者は誰もいません。イエス キリストは唯一無二のお方です。このただ一人のお方が、わたしたちの救いのために十字架に上げられてくださいました。

 ここに出てくる「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と書かれているのは、民数記 21:4~9に出てきます。エジプトから導き出してくださった神の御業に不平を言うイスラエルに対して、神は炎の蛇を送り、蛇にかまれて多くの死者が出ました。民はモーセに泣きつきます。モーセは民のために神に祈ります。神はモーセに答えて言われます。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」それでモーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た、と聖書は語ります。
 ここでイエス民数記の出来事に触れられたのは、この出来事がキリストの十字架を指し示しているからです。神の裁きの出来事を仰ぎ見ることが、救いへとつながるという点が十字架を指し示しているのです。キリストの十字架においてわたしたちの罪が裁かれており、十字架の主を仰ぎ見て、神が罪を裁き、わたしたちを救ってくださっていることを信じるのです。それ故に、十字架はキリスト教会のシンボルとして用い続けられてきました。

 イエスはニコデモに新しく生まれる鍵となる十字架を示されました。なぜなら、永遠の命を得るためには、キリストの十字架が自分の救いのためであることを知り、信じ受け入れる必要があるからです。

 ところで、わたしたち罪人は、どうしても満足や手応えを求めます。律法を守れるようになった。以前より、愛せるようになった。赦せるようになった。成長した。どうしてもファリサイ派のような律法主義的な信仰に近づいていきます。
 しかし聖書は、神と共に生きるということ、神と共にある命について語ります。命は、わたしの命であっても、わたしのもの、わたしの所有物ではありません。わたしたちは能力も性格も自分で選んで生まれては来ません。いつの時代に生まれるか、どの国に生まれるかも選べません。健康に気遣うことはできても、死から自由になることは決してありません。命は自分の自由にはなりません。命は、神から与えられた賜物であり、神のものなのです。
 命をお与えくださった神は、命が滅びるのをよしとされず、共に生きていくことを願って、救いの御業をなしてくださいました。その神の救いの御業の結果、わたしたちに与えられるのが、神と共に生きる命、永遠の命です。

 この永遠の命は、このヨハネ福音書が救いを語る上で重要だと考えているテーマです。例えば「永遠の命」という言葉が、マタイでは3回、マルコは2回、ルカでは3回なのに対して、ヨハネには17回出てきます。そしてヨハネ 6:40では「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だと記しています。またこの福音書自体の目的が「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)とあります。
 永遠の命は、今の命と同じく、神から与えられる賜物、恵みです。律法に捕らわれ、自分の成長に捕らわれ、自分に思いを向けるのではなく、わたしたちのためにご自分の命を献げて十字架を負われたイエス キリストを仰ぎ、キリストを通して命の源である父・子・聖霊なる神との交わりに入れて頂くとき、永遠の命に与るのです。

 イエスは、ニコデモが自分自身から解放され、神の恵みの御業に自分自身を委ねることへと導こうとしておられます。わたしたちもまた、真の羊飼いであるイエス キリストに導いて頂くとき、自分自身のすべてを委ねることのできる真の神との交わり、永遠の命に入れて頂くのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ 17:3)


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを知っていてくださり、永遠の命に与らせるため、丁寧に導いてくださいます。救いは、わたしたちが求めるところにではなく、あなたの御心の内にあります。どうかあなたの導きを信頼し、御心を求めていくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:18〜23

2019年7月3日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:18~23(新共同訳)


 パウロは、福音宣教のために3度伝道旅行を行いました。その中でギリシャの中心都市アテネにも行きました。パウロは偶像がおびただしくあるのを見て、憤りを感じ、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じ合いました(使徒 17:16, 17)。そこでパウロはこんなことを言っています。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」(使徒 17:22, 23)
 ギリシャ人の信仰の熱心は、自分たちが気づいていない神に失礼があってはならないと考えて、『知られざる神に』と刻まれた祭壇まで作っていました。そこでパウロは、あなたたちの知らない神について知らせようと言って神の救いの御業について語ります。

 パウロは世に数え切れない神々がいることを知っていました。そして、パウロよりも広い世界を知っているわたしたちは、パウロ以上にたくさんの神々が世にはいることを知っています。ギリシャ・ローマの神々、エジプトの神々、北欧の神々、ヒンズーの神々、仏教の仏、そして日本の八百万の神々。聖書に依らずとも、人々は神なるものを知っています。パウロは「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(19, 20節)と言っています。

 人は、その長い歩みの中で、自然の恵みなくして生きていけないことを理解してきました。農業、狩猟、漁業、林業、自然と関わる人たちは、神を無視して生きることはありませんでした。神が自然の恵みを与え、生きることを守り支えてくださるように神を祭ってきました。自然の力を前にして、人の命が奪われてしまうことを覚えて、神の守りを祈願してきました。はかなく短い人の命と比べて遙かに長い時を生き存在している木や岩や山を崇めてきました。そこに神の永遠の力と神性が宿っていると信じて崇めてきました。便利になった都市で暮らす人たちは神を畏れ敬う思いが薄らいできていますが、今でも自然と関わる仕事をする人たち、命に関わる危険のある仕事に携わる人たちには、神事は欠かせません。
 だからパウロは語ります。「彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

 パウロは、人々が自然から知った神への信仰は適当ではないと言います。聖書が教える信仰は、神が中心です。神が主であり、わたしたちは僕です。しかし、自然から知った神への信仰は、自分が中心の信仰です。自分たちの生活が恵まれるための信仰であり、自分たちの命が守られるための信仰です。このような信仰の場合、文明により生活が豊かになり、命の危険が減っていくと、神を信じ敬う必然性が薄らいでいきます。多くの日本人が「宗教を信じてはいない」と言うのもそのためです。
 この人間が益を受けるための信仰は、様々な偶像を作り出してきました。パウロは「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」と語ります。
 わたしたちの周りにもいろいろあります。菅原道真を祭る太宰府天満宮徳川家康を祭る日光東照宮明治天皇を祭る明治神宮。日本でも朽ちる人間を祭ります。
 そればかりではありません。罪が働くとき、教会の中でさえ、人間を祭り上げることがあります。日本基督教会の歴史の中で大きな働きをした植村正久という牧師をご存じのことと思います。わたしが神学校にいた頃、植村正久についての特別講義が行われていました。数人の牧師による連続講義で、ある講義に植村正久から洗礼を受けたという高齢のご婦人が出席されました。講義の後の質疑応答の時間にそのご婦人が発言をされました。その発言の中の一言を今でもよく覚えています。そのご婦人はこう言われました。「植村先生は神さまのような方でした」わたしはそれを聞いて「罪を抱えたわたしたちは、キリスト者であっても偶像を作り出してしまうのだろうなぁ」と思い「どうしたらちゃんと神を伝えられるのだろうか」と考え、今に至るまで考え続けています。
 そして、人は神の使いとされる鳥や蛇、神獣と呼ばれる動物たちを考え出し、偶像を作り続けてきました。聖書の中に出てくる例としては、旧約の民が作り出した金の子牛が有名です。
 しかし、人であろうと、動物であろうと、木や岩、山であっても、神の代わりにはなりません。神以外のものに神は務まらないのです。

 自分中心の信仰で、神ならぬものを神としてしまう罪に対して、パウロはこう語ります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(18節)
 神は、愛する人を滅びへと導く罪に対して、お怒りになります。神は、愛する者と共に生きることを願っておられます。それを破壊する罪を、お許しになりません。わたしたちも、共に生きることを壊されたら、怒らずにはおれません。しかし、わたしたちは罪がもたらす死に対して無力です。ただ、神だけが死を打ち破り、そこからわたしたちを救い出すことがおできになります。
 わたしたちはきちんと知らなくてはなりません。罪を打ち砕き、わたしたちを命に至らせるために、神はご自身のひとり子をおささげになったということを。ひとり子をおささげになるほどの、わたしたちに対する神の愛と、罪に対する神の怒りをきちんと知らなくてはなりません。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに」わたしたちを愛しておられます。わたしたちを救うために、神はイエス キリストの命という高価な代価を支払ってくださいました。それは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であります(ヨハネ 3:16)。わたしたちが神と共に生きられるようになるため、神は他の何ものにも代えることのできないキリストの命をささげ、罪を裁き、わたしたちを罪から解き放ってくださいました。十字架は、罪に対する神の怒りの啓示です。人間のあらゆる不信心と不義とに対して、神はキリストの十字架において裁かれました。このキリストだけが、わたしたちの罪を解決し、罪から救ってくださるお方です。科学が発達し、医療も進み、わたしたちの生活にどれほどの益をもたらそうとも、科学はわたしたちを罪から解放しません。人が作り出したどんな偶像もわたしたちを罪から救い出しません。イエス キリストだけが、わたしたちの命に責任を持ってくださる方なのです。

 パウロは、このわたしたちを愛し、わたしたちを救う真の神を知っているので、自分の安全と豊かさを願い、自分の願いを叶えるために神を動かそうとする信仰に対して厳しく語ります。「なぜなら、(彼らは)神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。(彼らは)自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」てしまったのです。

 わたしたちは、偶像礼拝に至る自分中心の信仰ではなく、神の言葉に聞いて、神の言葉に育まれる信仰を大事にしていかなければなりません。なぜなら今もなお、神はキリストが死に勝利された日曜日ごとに、わたしたちの名を呼び、御前へと招き、救いへと導いていてくださるからです。神はきょうも、わたしたちを救い、共に生きるために、御言葉を通して語りかけてくださいました。どうか、御言葉によって神を知り、神と共に生きる救いに与って歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 罪ゆえに偶像へと向かい、あなたから離れてしまうわたしたちに、絶えず語りかけ、救いへと導いてくださることを感謝します。あなたが自ら語ってくださるのでなければ、わたしたちはあなたを知ることができません。どうか御言葉を通してあなたを知り、あなたとの交わりの内に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 8:23〜25

2019年6月30日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:23〜25(新共同訳)


 パウロは 8:17「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」と述べたところから苦しみについて語り始めます。
 この罪の世にあっては、罪がもたらす苦しみに絶えず襲われます。そしてこの苦しみは、罪を犯した人間だけでなく、被造物全体をも巻き込んでいます。つまり全世界・全被造物が、神の救いを必要としています。そして全世界・全被造物が、神の救いの約束という希望に支えられています。
 この希望が単なる口約束ではないことを、神の救いの御業によって確認されてきました。旧約であれば、出エジプト、バビロン捕囚からの解放。新約においてはイエス キリスト。その生涯、特に十字架と復活。こうした出来事を通して、神は生きておられる、神はわたしと共にいてくださる、ということが確認されてきたのです。
 わたしたち一人ひとりにも、神さまがこのように導いてくださったと感じる出来事が起こってきます。聖書の言葉を聞いて信じただけではなく、神はわたしと共にいて導いていてくださる、それを確認する出来事が与えられ、神の約束が信じる者一人ひとりにおいて、希望となっていきます。神がわたしたちの希望となってくださっているのです。

 きょうの箇所で「霊の初穂」という言葉が出てきます。「初穂」と訳された言葉は、直訳すると「最初の実」となります。霊の最初の実というのは、聖霊が最初にもたらしてくださったものという意味です。聖霊が最初にもたらしてくださったのは、イエス キリストがわたしの救い主であると信じる「信仰」です。
 最初の実ということは、聖霊がもたらしてくださるものは信仰だけではありません。2コリント 3:18には「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とあります。わたしたちが救われた結果、主と同じ姿まで導かれていきます。そしてついには黙示録 21:3,4にあるように「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」との預言が成就するのです。

 わたしたちキリスト者は、これらのことを御言葉から聞いているので、「“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んで」いるのです。

 神は忍耐深いお方です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現(救いの完成)を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(2ペトロ 3:9)

 神が救いのために忍耐しておられるので、神はご自分の民にも忍耐して待つことをお求めになります。神の民は救い主イエス キリストの到来を長い時間待ちました。そして今は、キリストの再臨、神の国の到来、救いの完成を待ち望んでいます。
 神の民は罪の世にあって、苦しみうめきながら待っています。神の民は祈ります。「主よ、来てください(マラナ・タ)」と祈りつつ待ち望んでいます。ヨハネの黙示録は語ります。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。」「『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙示録 22:17, 20)

 主ご自身が「わたしはすぐに来る」と言われたので、代々のキリスト者は救いの完成を期待しました。しかし主の「すぐに来る」は、わたしたちが考える「すぐ」とは違いました。聖書は語ります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(2ペトロ 3:8)だから神は、わたしたちに希望を持って生きるようにされたのです。

 24節は新共同訳では「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」と訳しています。間違いではありませんが、ここは新しい聖書協会共同訳のように「この希望のうちに救われている」と訳した方が良いように思います。なぜかと言いますと、「〜によって救われる」と言うとき、聖書は根元的に「キリストによって救われる」と言っているからです。この箇所では、希望がわたしたちの罪を贖い、救い出すのではなく、救いの希望を持って生きられるように、わたしたちはこの希望のうちに救われているのです。

 希望は将来において実現するものです。希望を与えられている者は、その成就を忍耐して待ち望みます。特にわたしたちキリスト者は「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(2コリント 4:18)わたしたちは目に見えない神を信じ、目に見えるこの世ではなく、神の国・神のご支配を仰ぎ見ています。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント 4:18)そしてわたしたちは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んで」(2コリント 5:7)いるのです。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ 11:1)わたしたちの救いのために、神と等しくあることに固執せず、人となられ、その命さえも献げてくださったイエス キリストにおいて確信し、確認するのです。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ」(ヘブライ 12:2)つつ、イエスご自身に支えられながら忍耐して待ち望むのです。

 イエス キリストこそ神の言葉です。旧約の言葉であるヘブライ語の「言葉」という単語(ダーバール)には「出来事」という意味があります。神の言葉は、語られると出来事となったからです。例えば、神が「光あれ」と言われると光が現れました(創世記1章)。ですからイエス キリストが神の言葉であると言うとき、単にイエスが神の御心を正しく伝えたというのではありません。イエス キリストこそ、神の言葉、神の約束の成就なのです。神の言葉が決して空しくないことの証し、出来事なのです。聖書は語ります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ 55:10, 11)この神の言葉が本当であることの証しが、イエス キリストなのです。
 だからイエス キリストを仰ぎ見るとき、信仰が与えられ強められるのです。希望が与えられるのです。だからイエス キリストと共にあるとき、わたしたちは神を讃美することができるのです。

 ですから、イエス キリストと出会う、イエス キリストと共にあることがとても大切です。そのために神は主の日ごとに礼拝に招いてくださるのです。毎週、キリストと出会えるのです。礼拝を守らなければならない、礼拝に来なければならないと言うよりも、キリストに出会い、キリストの救いに与る恵みが毎週与えられているのです。罪の世で、傷つき、くじけ、倒れてしまうわたしたちのために、礼拝は備えられているのです。だから礼拝には、讃美がふさわしい、喜びがふさわしいのです。
 そしてわたしたちを礼拝へ招いてくださった神は、礼拝の最後に集ったわたしたちを祝福をもって送り出してくださいます。礼拝には、神の愛と恵みが満ちています。

 神が救ってくださるのです。父・子・聖霊なる神がわたしたちを救ってくださいます。身も心も、体も霊も、わたしたちを丸ごとすべて救ってくださいます。そして、神ご自身がわたしたちの未来となってくださいました。だからこそわたしたちは「この希望のうちに救われているのです。」(8:24 聖書協会共同訳)


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストにある揺るぎない希望を与えられておりますことを感謝します。この希望を見失うことがないように、聖霊を注ぎ、キリストと結び合わせてください。キリストと共に神の国への道を歩み行くことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 1:16〜17

2019年6月26日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:16~17(新共同訳)


 パウロは、すべての人に福音を伝える責任があると考えています。だから、ローマにいる人々にも福音を宣べ伝えたいと言っています。
 そしてパウロは「わたしは福音を恥としない」と言います。
 なぜパウロはこういう言い方をしたのでしょうか。なぜパウロは「わたしは福音を誇りとする」と肯定的な言い方をしなかったのでしょうか。
 パウロはコリントの信徒への手紙 一 1:18でこのように語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」きょうの箇所と似た言い方です。きょうの箇所では「福音は・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力」だと語り、1コリントでは「十字架の言葉は・・わたしたち救われる者には神の力」だと語ります。福音と十字架の言葉は、同じものを表す言葉でしょう。福音も十字架の言葉も神の力だと言っています。そして1コリントではこの言葉の後に「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント 1:23, 24)と語っています。罪の世に属する者にとっては、キリストの十字架、キリストの福音は、つまずかせるもの・愚かなものです。しかし、神によって救いへと召された者には、神の力であり、福音なのです。だからパウロは、あえて「わたしは福音を恥としない」という言い方をしたのではないかと思います。

 パウロは、福音という言葉を使います。これは「よい知らせ」という意味の言葉で、広く一般社会で使われていた言葉です。パウロはこの言葉を、1節では「神の福音」と言い、9節では「御子の福音」15:19では「キリストの福音」と言っています。そして自分はこの福音を宣べ伝えるために召されたと言います。それは、ギリシャ語を話す人にも、話さない人(未開の人)にも、知恵のある人にもない人にも、つまりすべての人に宣べ伝えるために自分は召されたのだ、と言っています。
 そして、神が御子イエス キリストによって与えてくださったよい知らせ、福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」なのです。事実、キリストの福音が宣べ伝えられていく中で、数え切れない人々が救いに入れられてきました。福音は神の力であるというのは、パウロ自身が神によって示され続けた事柄でした。

 パウロローマ帝国の市民権を持つ者ですが、生粋のユダヤ人です。イスラエルの十二部族の一つベニヤミン族の出身であり(フィリピ 3:5)、ユダヤ教の教師ガマリエルの指導を受けた(使徒 22:3)人物です。
 わたしたちもよく知っているとおり、神はご自身の言葉によって世界とそこに生きる命を創造されました(創世記 1:1〜2:3)。もちろん、パウロもよく知っています。それでもパウロは驚いただろうと思います。キリストの福音が宣べ伝えられると、信仰のなかったところにキリストを信じる信仰が生まれるのです。救いのなかった世界に救いが生じるのです。
 パウロは宣教についてはこう言っています。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(1コリント 1:21)。パウロから見ても、宣教は愚かなのです。全能の神であれば、他にいくらでも方法があるはずなのです。しかし、神は世の始めに世界と命を造られたのと同じように、ご自身の言葉によって、救いを生み出されました。まさしく福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」なのです。
 そして神は今も、わたしたちにキリストの福音を語り聞かせ、救われて生きるようにと礼拝へと招き続けてくださっています。

 パウロは続けて語ります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
 聖書において「義」とは、正しさ、それも正しい関係にあることを示します。第一に、神との正しい関係を表すものです。
 神が与えてくださる正しさ、あるいは神がお求めになる正しさは、キリストの福音の中に示されています。神とわたしたちとの正しい関係は、神が遣わされた救い主イエス キリストを信じて、神の子とされて、神と共に生きることです。
 神と共に生きていくために、イエス キリストが救い主となってくださいました、命をささげてくだささいました。だから、わたしの罪は贖われている、赦されているのです。罪によって壊れていた神との関係が回復され、神と共に生きられるようになった。安心して、喜んで神へと立ち帰ることができるのです。だから、神を喜ぶ者として生きていく。それが、神がお与えくださる正しさ、神がわたしたちにお求めになる正しさです。ですから正しい人(義人)とは、神の救いの御業を信じて、救いの中に入れられて、神と共に生きている人です。

 これは旧約の時代から告げられていたことです。パウロがここで引用している「正しい者は信仰によって生きる」という言葉はハバクク 2:4の言葉です(神に従う人は信仰によって生きる、聖書協会共同訳:正しき人はその信仰によって生きる)。さらに遡って、創世記 15:5, 6ではこう記されています。「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
 これは、アブラムが神に対して「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と言ったときの出来事です。アブラムも妻も年老いていて、子どもが与えられるとは、予想も期待もできない。しかしアブラムは、自分の経験や知識の中に神を閉じ込めずに、神の言葉を信じました。そして神は、神を信じたアブラムを正しい、義であると認められたのです。神を信じる、それがあなたとわたしとの正しい関係だ、と神は言われたのです。
 ですから「正しい者は信仰によって生きる」ということは、新約の時代になってから言われるようになったことではなく、旧約の時代から示され教えられてきた事柄なのです。

 神を信じることによって、神との正しい関係に入れられた人は、信仰の道を歩み続けます。救いの完成へ向けて、信仰から信仰へと歩み続けます。いよいよ神を知り、いよいよ神を信じ、いよいよ神を喜ぶ信仰の道を歩み続けます。そして、自分の前に用意されている永遠の命を、神の国の住まいを仰ぎ見る。そのように、この信仰は信仰に始まり、信仰に至らせるのです。

 パウロは自らの回心を通して、神の力ある御業を経験しました。そして宣教を通して、キリストの福音が神の力であり、人を救うことを知りました。パウロはこの神の恵みを、まだ見ぬローマの人々と分かち合いたいと願い、この手紙を書いています。そして神は、この手紙をご自身の言葉とされ、時を超えて、今わたしたちに語りかけておられます。
 キリストの福音によって救いを得なさい。福音によって神の力を味わいなさい。信じる者となり、信仰によって生きなさい。神は今も変わらずにわたしたちの救いを願い、わたしたちが神と共に生きることを願って語りかけていてくださいます。今、神の御声を聞いて信じる者は幸いです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの力である福音でわたしたちを満たしてください。そしてあなたの力である福音によって生きさせてください。どうかわたしたちに信仰によって生きる幸いを味わわせてください。あなたの栄光がわたしたち一人ひとりが生きるすべての場所で豊かに現されますように
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 3:8〜11

2019年6月23日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:8〜11(新共同訳)


 適切な表現ではないかもしれませんが、わたしにとって神を信じることは勇気のいることです。わたしはそう信仰深くないので、絶えず疑いが生じます。
 そのわたしがきょうの箇所を読むと、最初に感じるのは「風は思いのままに吹いてませんから。気圧の高い方から低い方に吹きますから。風が強くなるのも、台風が来るのも、天気予報を見たら分かりますから」ということです。わたしは素直に聖書を読むことができません。素直に聖書を読める人がうらやましくなります。

 きょうの本論からは外れますが、科学でいろいろなことが分かって説明できるようになりました。しかし罪の問題は解決しません。わたしが愛せない、赦せない、共に生きることに苦しんでいる。死に囚われて死から自由になれない。科学はわたしを罪から救い出しません。それは超能力なども同じです。念じただけでスプーンが曲げられようが、空中浮遊ができようが、罪からは自由になれません。

 こんなふうに風の話で躓いてしまうわたしに対して、キリストを信じているわたしが語りかけます。「イエスは、当時の世界観の中で生きるニコデモが分かるように、語りかけておられる。そもそも新しく生まれるという信仰の話が伝わるように語られているのであって、風が吹く原理を教えようとしておられるのではない。それを分かってる?」
 そういう過程を経て、ようやく聖書が伝えようとしている事へと向かえるようになります。わたしにとって聖書を読むということは、なかなか面倒くさいことなのです。

 本論に戻ります。人目を忍んで訪ねてきたニコデモに対して、イエスは即座に言われます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」この言葉にニコデモは衝撃を受けます。ファリサイ派の一員として神に喜ばれるように律法を守ってきたのに、当然神の国に入れられると信じて律法を守ってきたのに、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われるとは。さらにイエスは言います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ここには律法の「り」の字も出てきません。

 ニコデモはまじめな信仰者です。まじめだからこそわざわざイエスを訪ねてきました。イエスに教えを請うて、さらに神を正しく理解し、正しく従おうと願っています。
 わたしたちはこのようなまじめで熱心な信仰を、評価し賞賛しがちですが、人の目にどのように見えようと、人の信仰には罪があります。信仰であっても、罪があります。まじめな信仰は、神を自分の信仰、また自分の論理に閉じ込めがちです。わたしたちは神を捉えきることはできませんが、まじめな信仰は神を理解し尽くしたかのような錯覚に陥りがちです。
 ですから、イエスが自分の理解を超えることを語ると混乱してしまいます。イエスに対する最初の答えが「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」で、次の答えが「どうして、そんなことがありえましょうか」です。ニコデモの混乱ぶりが分かります。
 しかし、これこそがイエスがニコデモに示そうとしていたことだと言えます。イエスは言います。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」わたしたちは、神が分かっていないことを自覚しなくてはなりません。そうでないと、熱心な信仰でありながら、自分の理解、自分の考えに閉じ込めることのできる偶像を作り出してしまうことになります。

 神学の用語で「啓示」という言葉があります。神がご自身のこと、ご自身の考え、計画を教えてくださることです。キリスト教は啓示の宗教です。自らの修行で悟るのではなく、神の啓示、神の言葉によって神へと導かれていく宗教です。自分で悟るのではなく、神に導かれて気づかされるのです。信仰生活をする中で、聖書や様々な出来事を通して、神の御心に気づかされます。
 イエスは、ニコデモに気づいてほしいのです。自分が新しく生まれることも、霊の働きのことも知らなかったということを。つまり、イスラエルの教師であり、ファリサイ派の一員であり、最高法院の議員であっても、神のことを知らない。人間の理性や論理で、神を捉えきることも神を語り尽くすこともできない。イエスはニコデモに、そしてわたしたちにそのことを気づいてほしいのです。
 だから、わたしたちは神の声、神の言葉に聞くのです。いつも聞くのです。何度でも聞くのです。聖書は語ります。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ 6:17)「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ 1:18)

 イエスご自身もここで言われます。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。」
 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」のです。イエス キリストこそ神の言葉です。

 ここで「わたしたち」と言われているのは、イエスとその弟子たちのことです。イエスは天の父を示されます。そして弟子たちはイエス キリストを証しします。そしてキリストの弟子たちは、イエス キリストを証しし続けました。今に至るまで証しし続けています。

 わたしたちもニコデモと共に知らねばなりません。イエス キリストに聞くのでなければ、神を知ることはできないのです。イエス キリストに聞くのでなければ、わたしたちは自分の知性・論理で偶像を作り出してしまいます。

 聖書にこう書いてある、だけでは不十分です。荒れ野の誘惑で、悪魔は聖書の言葉を使ってイエスを誘惑しました(マタイ 4:5~7、ルカ 4:9~12)。しかしイエスはそれを聖書の言葉で退けられました。イエス キリストに聞くのでなければ、聖書の言葉からでも神から離れていきます。福音書に出てくる律法学者やファリサイ派、長老たちがそうでした。わたしたちはイエス キリストを通して、父・子・聖霊なる神を知るのです。キリストと結び付かない聖書理解は、神へと正しく導きません。

 イエスは、わたしたちを思い込みから解放し、キリストと出会い、神を知ることへと導いてくださいます。わたしたちも聖書を通してキリストに出会っていくとき、父・子・聖霊なる神ご自身を知り、その救いに与り、新しい命へと導かれていくのです。そのためにわたしたちは、主の日ごとに礼拝へと招かれ、聖書に聞き、キリストに出会い続けていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストを通してわたしたちに出会ってくださることを感謝します。真の神であるあなたを知るのでなければ、わたしたちは偶像を作り出してしまいます。どうかわたしたちの限られた知性・理性にあなたを閉じ込めようとするのではなく、キリストに出会って、あなたの限りない愛と恵みに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン