聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句で辿る聖書 56

出エジプト記
7章 6, 7節(新共同訳)

モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った。
ファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。


モーセは老年になってから出エジプトの務めに立てられた。これは神のご計画である。わたしの考えを超えるもの。時は、神の領分である。ちなみに、モーセの生涯は120歳だった(申命記 34:7)。

 

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ローマ人への手紙 3:5〜8

2017年8月20日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 3:5〜8(口語訳)

 

 パウロは、すべての人は罪を抱えていて、異邦人もユダヤ人も、神の前に誇ることはできないことを明らかにします。

 すると「わたしたちの不義が、神の義を明らかにする」などと言う人が出てきました。
 義というのは、正しさを表す言葉です。この正しさは、関係の正しさを表す言葉です。親と子の関係が正しい。日本と隣国との関係が正しい。そういう関係の正しさを表す言葉です。
 では「神の義」「神の正しさ」とは、誰との間の関係の正しさでしょうか。それは、神とわたしたち罪人との間の正しさです。神とわたしたちとの正しい関係は、神と神の子、神と神の民、神と神の僕という関係です。神はわたしたちと正しい関係を築くために、救いの御業をなされ、ついには御子イエス キリストを救い主としてお遣わしになられました。神は、救いの御業の中で、「神の義」「神の正しさ」を現されました。

 すると「わたしたちの不義が、神の義を明らかにする」などと言う人が出てきたのです。「神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら」わたしが罪人のままでいること、罪を犯すことが、神の栄光のためになるのではないか、などと言う人が出てきたのです。「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」などと揶揄する人が出てきたのです。
 神が救いの御業においてご自分の義、正しさを現されるなら「怒りを下す神は、不義」ではないのか。「もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれる」だろうか。キリスト教の教えだとそういうことでしょ。罪人のままでいいんでしょ。そういうことだよね、ということが言われ出していたのです。
 パウロは「断じてそうではない」とこの考え方を否定します。

 この考え方の決定的な間違いは、神の御心を無視して考えていることです。神はわたしたちが罪の中に留まるために救いの御業をなされたのではありません。この考え方は、わたしたちを罪から救い出して、共に生きようという神の御心を踏みにじるものです。
 神はわたしたちを罪から救い出し、ご自分の民、神の子へとわたしたちを新たにされます。「わたしたちはみな・・栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(2コリント 3:18)のです。神はわたしたちをキリストと同じ姿にまで新たにし変えていかれるのです。

 神はキリストにおいて救いを成し遂げてくださいました。わたしたちは自分の善き業によってではなく、キリストによって救われます。しかし神から求められていることがあります。悔い改めること、キリストを信じること、神に従い新しく生き始めることです。神が与えてくださる救いは、神と共に生きることです。悔い改めずして神と共に生きることはできません。キリストを信じ、キリストの救いに与らずして神と共に生きることはできません。キリストをお与えくださるほどの神の愛を信じて、神に導かれて新しく生き始めるのでなければ、神と共に生きることはできません。

 わたしたちは罪人のままで救われます。しかし、罪人のままであり続けることはできません。イエスも姦淫の女に対して「今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ 8:11)と言われました。神は、わたしたちをキリストと同じ姿になるまで、新しく変えていかれるのです。

 わたしたちは生きています。生きているものは絶えず変わります。成長し、老いていき、一瞬たりとも立ち止まらずに変化していきます。それが止まるとき、わたしたちはこの世で死を迎えます。命は絶えず新しく変化し続けます。そして神が救いによって与えてくださるのが、永遠の命です。救いの中でも命は絶えず新しく変化し続けます。キリストと同じ姿になるまで変わり続けるのです。

 神はその変化のために、試練を与え、訓練を与え、裁きを与えられます。それは聖書を見れば明らかです。アブラハムも、モーセも、ダビデも、預言者たちも、神から試練、訓練、裁きを受けて、神の務めを担う器として変えられ整えられていきました。神の民に加えられたわたしたちもまた、神の試練、訓練、裁きを受けて導かれるのです。
 先ほど赦しの言葉で読まれたホセア 6:1ではこう言われています。「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」「主に帰ろう」というのは「悔い改めて主に立ち帰ろう」ということです。主に背を向けて滅びへと向かって行くので「主はわたしたちをかき裂かれ」たのです。しかし「またいやし」てくださいます。主は「わたしたちを打たれた」けれど「また包んで」くださいます。神は滅ぼすためにかき裂かれ打たれるのではなく、わたしたちを神の民、神の僕として新しく生きるために、新しく生まれ変わらせるために、その御業をなされるのです。

 わたしたちの教会は信仰告白において、「主の委託により・・信徒を訓練し」と告白しています。どう訓練するのか。それは、神の御心を知り、神の導きに従い、神と共に生きるための訓練をするのです。礼拝すること、御言葉を聞くこと、祈ること、讃美すること、献げること、そして様々な教会の務めを通して、神に従い生きる訓練をするのです。

 神はひとり子の命までかけた救いを侮ることをお許しにはなりません。パウロが「彼らが罰せられるのは当然」と言っているとおりです。神はご自分に立ち帰り、救いをきちんと受け取ることができるように裁き正されます。わたしたちは神の御業を神の御心から理解しなければなりません。
 わたしたちは時折、神が何故にこう語られたのか、何故にこの戒めを与えられたのか、何故この御業をなされたのか、その大本である神の御心を離れて、自分の論理で、聖書を理解してしまうことがあります。それがきょうの箇所で言われていることです。「わたしたちの不義が、神の義を明らかにする」「神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となる」イエス キリストの救いによって罪が赦されるのであれば、わたしたちが不義だからこそキリストの救いが輝くのでしょう。というようなことを神の御心を考えずに、自分の論理に神の御業をゆがめ押し込めてしまうことがあります。

 自分に都合のいい御言葉だけを選んで、自分に都合のいい神を作り上げてはいけません。聖書の言葉を用いていてもそれは偶像を作ることに他なりません。荒れ野の誘惑で悪魔は聖書の言葉を使ってイエスを誘惑しました。イエスを信じ従っていたペテロは、十字架を理解できず拒否しようとして「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ 8:33)と言われました。

 わたしたちの教会は、神の御心を正しく知るために、聖書に沿って聞こうとする講解説教を重んじてきました。聖書の要約である教理の学びを重んじてきました。家庭礼拝暦を出版して、聖書全体を読んでいくように配慮してきました。牧師たちは神学の学びを大切にしてきました。そして牧師が自分好みの教会を建てるのではなく、信仰告白と教会の憲法・規則によって、キリストが主である教会を建てるように心がけてきました。わたしたちの教会の営みの一つひとつに真実なキリストの教会を建てたいという願いが込められています。その真実なキリストの教会を建てるために、説教がどうあるのか、礼拝がどうあるのか、信徒の訓練がどうあるのか、牧師は何を学んでいくのか、そういう一つひとつのことを大切にしてきました。どれも自分中心の信仰、自己流の信仰ではなく、神に立ち帰り、神に従い生きる信仰を育むためになされてきました。

 救いはわたしたちにとって喜びです。喜びでありうれしいからこそ、自分好みの救いを作りがちなのです。パウロは、神を離れて自分好みの救い、自分勝手な理解に陥らないようにと、きょうのこの箇所を書いたのです。
 どうか皆さんも、自分勝手な理解、自分好みの信仰に陥ることなく、神へと立ち帰り、神に従い救いの道を歩まれますように。

ハレルヤ

 

聖書通読のために 56

マタイによる福音書 6:22~23(新共同訳)

 

 「体のともし火は目である」とイエスは言われる。
 ともし火は、自分の歩く道を照らす光。目は光を感知して、自分のいる世界を知る器官。目が澄んでいれば、自分の歩いている道がよく見える。神の言葉に従い、神と共に生きているかどうかが分かる。自分がなす一つひとつの業が、神の栄光のためになされているか分かる。目が澄んでいれば、自分のすべて(全身)が神へと向かう(明るい)が、目が濁っていれば、神から離れ罪へと向かう(暗い)。
 イエス キリストは「まことの光で・・すべての人を照らす」(ヨハネ 1:9)と言われ、自ら「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ 8:12)と言われた。イエス キリストこそ、自分の中に持つべき命の光である。
 この光に目を向けていくとき、目は澄み、全身は明るくなる。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

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聖句で辿る聖書 55

出エジプト記
6章 6, 7節(新共同訳)

わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。
そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。


人は、神の救いの御業によって、神を知る。

 

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聖句による黙想 10

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado

 

ヘブライ人への手紙 9章 14節(新共同訳)

永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 

 キリストの十字架は、わたしたちを生ける神を礼拝することへと導く。

 

ハレルヤ

 

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聖句で辿る聖書 54

出エジプト記
6章 2, 3節(新共同訳)

神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。


ここで「主」と訳された単語は、何と読むのか忘れられてしまった単語である。
神の民が、よりにもよって神の名前を忘れてしまうとは・・ しかし現実に忘れてしまったのである。
現代の聖書学では「ヤハウェ(あるいはヤーウェ)」と読んだと推測されている。翻訳によっては「ヤハウェ」と訳しているものもあるが、キリスト教会で読む聖書の場合、それは適切ではない。ヤハウェは推測に過ぎない、というのもあるが、神が忘れるのをよしとされたのだ。民は、自分たちが神の名を忘れてしまった、ということを忘れずに神に祈り求めていかねばならないのだと思う。

 

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ダニエル書 12:1〜3

2017年8月13日(日)主日礼拝  逝去者記念礼拝
聖書箇所:ダニエル書 12:1〜3(口語訳)

 

 きょうは逝去者記念礼拝です。先に召された兄弟姉妹たちを覚えて礼拝を守ります。

 今、ダニエル書を読みました。聖書の中ではここで初めて「永遠の生命」という言葉が出てきます。このダニエル書は、迫害の時代に書かれました。困難の中の希望として、神は幻を示されました。聖書において、幻は神の御業を示すものであり、未来への希望です。神は未来への希望として、永遠の生命を示されました。
 「かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり・・」と示されます。

 迫害の時代、未来には死しかないように思われるときがあります。そして迫害の時代でなくとも、この世にあっては、未来に死しか見えない死が目前に迫るときがあります。そして死がすべてを覆い尽くしていくように思われるとき、神はそこに永遠の生命という幻、希望をお与えになりました。
 神はダニエル書に先立つ預言者イザヤの時代に、既に先触れとしてこう語っておられました。「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる」(イザヤ 25:8)と。そしてダニエル書の時代に至って、神は永遠の生命という言葉を使ってお語りになりました。

 神は人をご自分にかたどって造られ(創世記 1:27)、神と結ばれて生きるものとして、人に命の息を吹き入れられました(創世記 2:7)。神は人を祝福され(創世記 1:28)、造ったものを見て「良かった」と喜ばれました(創世記 1:31)。命は、造られたその始まりの時から神の祝福に溢れ、命そのものに喜びが溢れていました。
 そこに罪が入り込み、死をもたらしました。神はわたしたちを命の喜びに至らせるために、救いの御業をなし、わたしたちを永遠の生命へと導かれます。

 そのために神は、ひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしくださいました。キリストによって死は打ち破られ、復活されたキリストの命が現れました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。・・キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント 15:20, 22 新共同訳)
 イエス キリストの復活によって、命は死によって終わるのではなく、復活の命、永遠の生命に至ることが明らかにされました。

 いつの時代も、人は必ず死を迎えます。どんなに文明が進み、医学が進歩し、どんなに便利になり快適になっても、必ず人はこの世で死を迎えます。わたしたちの社会では、楽しいことが増え、個人で自由にできることが増え、生きていることを楽しみ、死をあまり考えずに生きていけます。けれど、必ず一人ひとりの前に死が立ち現れる時が来ます。すべてのものは過ぎ去り、ひとり死の前に立たなければならない時が来ます。そのような時を迎えるわたしたちに、神はイエス キリストによって永遠の生命を示し与えてくださいます。
 イエス キリストは、わたしたち自身の復活であり、命なのです(ヨハネ 11:25)。イエス キリストを見るときに、神がわたしたちをどのように導こうとしておられるのか、どこへと至らせようとしておられるのかが分かります。そして、神の御許へと召されていったどの命も虚しくなることなく、永遠の生命への復活へと導かれていることを知るのです。
 聖書はこう語っています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(1テサロニケ 4:13, 14 新共同訳)

 わたしたちは今生きている者も、地上の生涯を終えた者も、キリストの復活の光の中で見ることができます。惜しみなく注がれるキリストの命の喜びの中で見ることができます。わたしたちは祝福の中で命を与えられ、救いの恵みへと導かれていくのです。だから神は最後にダニエルにこう言われたのです。
 「終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」(ダニエル 12:13)

 まだこの時、最後与えられる「あなたの分」というのが、何なのかを人々は知りませんでした。しかし今や、わたしたち一人ひとりの分として、神のひとり子イエス キリストご自身が与えられていることを、わたしたちは聖書から知らされています。聖晩餐において、イエス キリストが最後の晩餐で弟子たちに与えたように、わたしたち一人ひとりの前にキリストご自身、キリストの命を表すパンとぶどう液の杯が差し出されるのです。そして主ご自身が「取って食べよ」「この杯から飲みなさい」と言って、ご自身の命をわたしたち一人ひとりに差し出し与えていてくださることを覚え続けるのです。
 命は自分の命であっても、わたしたちの自由にはなりません。わたしたちは自分の性格や能力を自分で選んだのではありません。命は神の恵みによって与えられたもの。それを見て、神は「良かった」と喜ばれました。自分を省みるとき、いろいろ足りないものを感じます。けれども神は、あなたを見て「良かった」と喜ばれました。神は喜びをもってわたしたちを見てくださっています。そしてわたしたちが罪によって滅びないように、神はキリストを遣わされました。イエス キリストを通して、イエス キリストの復活の命、永遠の生命がわたしたち一人ひとりに差し出されています。
 今いるわたしたちも、先に召された愛する一人ひとりも、この神によって命与えられ、神に「良かった」と喜ばれ、キリストから永遠の生命を差し出されているのです。だから、安心して終わりまであなたの道を行きなさい。神が与え、神が召してくださいます。神が召されるとき、あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分、神のひとり子イエス キリストを受けるでしょう。その命に与るでしょう。そして、神が共に生きたいと願っていてくださることを、喜ぶことができるでしょう。
 失われることなく、奪い去られることのない喜び、希望が与えられています。それを共に確認し、主から慰めと希望を受け、新たな力を得て、また歩み出していきたいと願っています。

 

ハレルヤ

 

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