聖書の言葉を聴きながら

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イザヤ書 60:1〜9

2018年12月16日(日)主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書 60章1~9節(口語訳)

 

 預言者は、バビロン捕囚から解放されたエルサレムの民に向かって語ります。
 「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」。
 彼らの目の前にあるのは、復興が始まったばかりの町並みです。神殿も破壊されたままです。その民に向かって、神はお語りになります。
 「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」(1~2節)

 目に映る現実は、闇に覆われています。光が見出せません。うずくまりたくなります。途方に暮れるような現実です。
 けれど神は語られます。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。・・あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。」

 主ご自身が光なのです。神の民は光である神ご自身の栄光を受けて、光を放つのです。イエス キリストは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ 8:12)。聖書はイエス キリストを指して「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネ 1:9)と語ります。
 闇が地を覆い、明日への希望が見えないそのただ中に、イエス キリストが「すべての人を照すまことの光」として世に来られました。わたしたちは、世の光であるキリストに照らされるとき、「命の光」を持って歩くことができるのです。
 このイザヤ書60章冒頭の神の言葉は、神の救いの御業であるイエス キリストと出会っていくときに実現するのです。

 この箇所で「栄光」という言葉が3度出てきます(1, 2, 7節)。聖書において「栄光」とは、神がわたしたちの救いの神であることが現れることを言います。そして、神が救いの神であることは、イエス キリストの十字架において明らかにされました。「主の栄光があなたの上にあらわれる」(2節)「わたしはわが栄光の家を輝かす」(7節)そしてヨハネによる福音書は「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ 1:14)と告げます。「めぐみとまこととに満ちていた」ひとり子の「栄光」とは十字架に他なりません。

 この世では優れた業績に対して「栄光」という言葉を使います。本人の努力、本人の成果を誉め讃え、誇りとすることのできる成果に対して「栄光」という言葉を使います。わたしたちは信仰によってキリストの十字架が何ものとも比べることのできない神の栄光に満ちた御業であることを知っています。しかしこの世の業績、成果のように「わたしもあんな風になりたい」と憧れるレベルのものでないことも知っています。
 イエス キリストは、わたしたちに代わってすべての罪を負うために世に来られました。陰府にまで至るために十字架を負われました。誰もキリストに憧れて「わたしも十字架を負いたい」などとは言いません。人間の考える栄光と、神の栄光とは違うのです。
 神は言われます。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる」(イザヤ 55:8)。神はご自身の栄光をわたしたちを救うことにおいて現されました。

 わたしたちの上に現れる栄光、わたしたちに臨む光、それは十字架の栄光であり、十字架の光です。わたしたちは、キリストの十字架によって、神がわたしたちの救いの神であることを知ったのです。

 そして、すべての人が必要としている救いこそイエス キリストの十字架です。わたしたちを照らす十字架の光、十字架の栄光を、わたしたちが証しするとき、「もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る」(3節)のです。「彼らはみな集まってあなたに来る」(4節)のです。

 これらは今、肉の目には見えません。彼らの目に映るのは、がれきだらけの町並みです。誰もこんなところに喜んで集まってきません。そんな状況のただ中で、神はこの預言を語らせました。今も同じかもしれません。教会は高齢化し、若者は少なく、牧師も足りません。肉の目では、光は見えず、未来に希望は持てません。「主の栄光があらわれる」と言われても、「彼らはみな集まってあなたに来る」と言われても信じられない現実が広がっています。

 しかし、神はひとり子によって約束を成就されました。神の民は、キリストの十字架を仰ぎつつ、まだ明らかになっていない救いの御業を、信仰によって望み見るのです。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」(ヘブライ11:1)なのです。神の民は、暗きが地を覆い、闇が民を覆っているただ中で、キリストの十字架を証しし、十字架の光を放つのです。

 聖書は告げます。「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。・・信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ 10:14~17)。
 だから、神は命じられます。「起きよ、光を放て」(1節)。

 わたしたちの今の状況も、暗きが地を覆い、闇が民を覆っています。「どうやったら光を放てるのか」と神に訴えずにはいられません。
 しかし、キリストの十字架の栄光はあなたの上にのぼり、あなたの上に現れています。そして「主があなたを輝かされ」(9節)ておられます。わたしたちは自分で光ろうと努力するのではありません。光である主が、わたしたちの上にのぼり現れてくださいました。光である主が、わたしたちに臨み、輝かせてくださいます。
 ですから、わたしたちにとって大事なのは「わたしはキリストの十字架によって救われた」ということを心新たに確認し、信じることです。
 キリストは罪の闇のただ中に来られました。この世にはキリストを迎える準備も余地もありませんでした。しかしキリストは、救い主として世に来てくださいました。そして、キリストは十字架を負ってくださり、命を献げてくださいました。キリストは決して消えることのない世の光となってくださいました。だから、わたしは「やみのうちを歩くことがなく、命の光を」持っているのです。わたしたちは、そのことを今、神の言葉から、イエス キリストから確認するのです。

 主は「こうして、わたしはわが栄光の家を輝かす」(7節)と言われます。それ故、教会は十字架を自らの「しるし」として掲げるのです。この教会の屋根にも十字架があります。これは単なる教会の目印ではありません。神がこの教会において、ご自身の栄光を現してくださるのです。イエス キリストの十字架の光で、わたしたちを照り輝かせてくださる「しるし」、それが十字架なのです。

 今、キリストの十字架を思い浮かべてください。キリストの十字架こそ、わたしたちを照らす光、わたしたちを輝かす主の栄光です。
 今、目に映るものは暗いでしょうか? 希望の光は見えないでしょうか? しかし、主は言われます。「あなたの光が臨む。あなたの栄光があなたの上に現れる。わたしがあなたを輝かす」。この世では明らかではない神の救いの御業、それを十字架の光に照らされてわたしたちは見るのです。
 この主の栄光が現れるのを信じて待つ、それが待降節です。

 神は言われます。「起きよ、光を放て。主の栄光があなたの上にのぼったから」


ハレルヤ


父なる神さま
 罪の世の闇の中にも、キリストの十字架の光を輝かせてくださることを感謝します。どうかキリストの光を見る信仰の目を開いてください。キリストの命の光を受けて、皆にキリストを証ししつつ、救いの完成を仰ぎ見て歩み行くあなたの民としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

イザヤ書 55:1〜13

2018年12月12日(水)祈り会
聖書箇所:イザヤ書 55章1~13節(新共同訳)

 

 1, 2節の「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」「良いもの」は、神の言葉を指しています。
 神に依り頼み、神と共に生きることを忘れたイスラエルは、国が滅びるという事態にまで至りました。そして60年という長きにわたった捕囚生活が終わるにあたり、神は何を求めて生きることが命につながるのかを教えておられます。
 「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。

 3節には「とこしえの契約」とあります。フランシスコ会訳では「永遠の契約」と訳されています。神はご自身の民と契約を結ばれます。
 神は何にも縛られない自由なお方です。それなのに、なぜ神は民と契約を結ばれるのでしょうか。契約は約束を守るために結ばれるものです。しかし、わたしたちは罪ゆえに神との契約を守ることができません。ですからこの契約は、神が一方的に結び、神が一方的に履行されるものです。神が一方的に契約を結び、わたしたちを「神の永遠の約束」の中に置いてくださるのです。

 わたしたちは罪ゆえに、完全に神に従うことはできませんし、完全に神を信じることもできません。だからこそ、できないから神に従うことをあきらめてしまう、できないから神を信じることをやめてしまうのではなく、何度でもそこへと立ち返ることができるように、神は永遠の約束の中に置いてくださるのです。神はわたしたちを、ご自身の真実な約束に支えられて生きる者にしてくださっているのです。この神の契約から、神とわたしたち罪人との新しい関係が始まるのです。
 エデンの園でアダムとエバが罪を犯した後にも、誘惑した蛇に対して「彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」(創世記 3:15)と、神は救いの御業をなす約束をしてくださいました。

 この契約の大切な点の一つは「永遠」ということです。わたしたちもいろいろな場面で約束をします。けれどもわたしたちには、いろいろな事情で約束を果たせないことがあります。約束を守れない状況がある、ということをわたしたちは知っています。つまりこの世では、約束は絶対ではありません。無条件に約束を信じてはいけない。約束には限界がある。そのようなこの世の限界ある信頼の中で生きているわたしたちに対して、神は変わることのないご自身の「永遠」を与えてくださるのです。

 バビロン捕囚が終わって民が解放されたのは、紀元前538年だと言われています。キリストがお生まれになるのは、この預言から500年も後のことです。そして、キリストの十字架から2,000年近く経ちました。社会状況も大きく変わりました。だから、約束もあの時のままとはいかない、とは神は言われません。どれほどの時が経とうと、どれほど状況が変わろうと、神の「とこしえの契約」は変わらないのです。わたしたちは、いつ・どこにいても、どんな状態であっても神の約束を信じることができるのです。神ご自身の永遠、そして真実が、救いの御業の確かさを確信させてくださるのです。

 わたしたちをご自身の契約に入れてくださる神は、わたしたちを招かれます。
 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(1節)
 イエスも言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ 7:37, 38)「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ 6:35)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ 6:51)
 イザヤの預言は、イエス・キリストにおいて成就しました。神は、とこしえの契約を立てるために、御子をお遣わしになり、御子イエスは命をお献げくださったのです。そして今、わたしたちは聖晩餐のたびごとに、神が約束を実現されたことを確認し、その恵みに与っています。

 「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(3節)
 神はわたしたちを命へと招かれます。わたしたちの命を造られた神は、裁きと死に囚われたわたしたちを命へと招かれます。
 わたしたちは神に招かれ、名を呼ばれて、礼拝へと導かれます。教会はキリスト教が好きな人たちが集まっているのではありません。神に招かれ、召され、呼び集められて、神の民は集うのです。
 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」
 「神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」(7節)
 神は、逆らう者も、悪を行う者も招かれます。この方だけは「見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)お方です。自分自身の罪に絶望してしまうときにも、裁きの中にあっても、神は招かれます。イエスは自分を裏切るユダを弟子に招かれました。3度知らないと言うペトロを弟子にされました。逮捕されたらクモの子を散らすように逃げ出す者たちを弟子にされました。自分の罪も弱さも気づいていない者たちも、イエスは知った上で招かれ、弟子とされました。だから神は今、このわたしも招いていてくださり、神の民としてくださっているのです。
 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」(8節)
 この神の御心によって、わたしたちは救われました。この神の御心だけが、わたしたちを命へと導きます。

 「天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(9~11節)
 神の言葉は出来事となります。光を造り出し、命を創造し、救いを成し遂げます。そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ 1:14)。

 神の救いを仰ぎ見た者たちは「喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行」(12節)きます。
 「山と丘はあなたたちを迎え/歓声をあげて喜び歌い/野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉が/おどろに代わってミルトスが生える」(12, 13節)。被造物も世界も、救いの御業を待ち望んでいるのです。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ 8:19)。神の救いに与る者は、世界の喜びのために用いられるのです。

 「これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない」(13節)。
 「これ」は神の救いの御業を指します。「それはとこしえに消し去られることがない」のです。裁きがあっても、迫害があっても、消し去られません。神がわたしたちを愛する救いの神である「記念」であり「しるし」です。今この時も、世界の公同の教会が、すべての神の民が、救い主の誕生を記念し、証ししています。

 わたしたちは、神のとこしえの契約、永遠の真実によって、今救いの中にあり、今喜びの中に入れられているのです。


ハレルヤ

 

 

イザヤ書 52:1〜12

2018年12月9日(日) 主日礼拝
聖書箇所:イザヤ書 52章1~12節(口語訳)

 

 「さめよ、さめよ、力を着よ」。
 預言者は眠りまどろむ神の民に向かって、目覚めるように語りかけます。
 民は、60年にわたる捕囚に慣れてしまい、神が御業をなさることを期待しなくなっていました。信仰が眠っているのです。預言者は、神の御前に立ち、神の御業を見るように「さめよ」と語りかけ、神にまみえる備えをするように呼びかけます。
 「聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。・・捕らわれたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落とせ、起きよ。捕らわれたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ」。

 7節に「よきおとずれ」という言葉が出てきます。「よきおとずれ」とは「よい知らせ」「福音」のことです。新約には「神の福音」「キリストの福音」という言葉が出てきます。ここでも「よきおとずれ」は、神がもたらしてくださる「よい知らせ」「福音」として語られます。
 「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は、山の上にあって、なんと麗しいことだろう。」(7節)

 預言者は、これから実現する神の御旨を語ります。まだ喜べるような状況ではないのに、「捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ」(2節)「エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え」(9節)と呼びかけます。そして「地のすべての果は、われわれの神の救を見る」(10節)と語ります。

 聖書は「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル 11:1)と語ります。イエスも復活を信じられなかったトマスに対して「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ 20:29)と言われました。そしてイエスご自身「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ 1:15)と「神の国が来た」ではなく「神の国は近づいた」「まだ来ていない、明らかではない、しかし近づいた」と語られました。
 神の民は、神は真実であり、神の言葉も真実であることを信じて生きるために召されました。神はご自身を証しする手段として、神の民が神を信じて生きるという仕方を選ばれたのです。

 ここには2度「あがなう」という言葉が出てきます(3, 9節)。「あがなう」というのは、代価を支払って自分のものにすることを言います。当時であれば、奴隷を代価を支払って自分のものにすることを「あがなう」と言いました。「主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれた」(9節)と告げられています。主ご自身が、ご自分の民をあがなわれた。つまり、主が代価を支払って、わたしたちをご自分のものとしてくださいました。

 わたしたちは、これがイエス キリストを指し示していることを知っています。神がご自身のひとり子をわたしたちの救いのためにあがないとしてくださいました。イエスご自身が言っています。「人の子がきたのも、・・多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ 10:45)。神の民は「価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされ」ました。「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされ」(ローマ 3:24~25)たのです。「わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けて」(コロサイ 1:14)いるのです。

 罪によって囚われていたわたしたちを救い出すために、神が代価を支払われたのです。払う必要のない方が、ひとり子の命までかけて救ってくださったのです。
 わたしたちが罪に囚われたのは、わたしたちが神の言葉に背き、罪を犯したからです。神にわたしたちの代価を払う責任はありません。けれど、わたしたちを罪から救い出すために、神は囚われから解放する代価としてひとり子を世にお遣わしくださいました。

 そして、その代価は十字架において支払われました。その様は、5節後半から語られているとおりです。「つかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」(5, 6節)。
 イエスは朝9時から午後3時まで、十字架でさらし者とされました。「つかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られ」ました。けれど、イエスが十字架を負い抜いてくださったので、わたしたちは「この言葉を語る者が」神ご自身であったことを知ったのです。

 そして十字架の主を仰ぎ見るとき、救い主が罪のただ中に来てくださり、救いを成し遂げてくださったことを知るのです。
 「『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは、「神われらと共にいます」という意味である」(マタイ 1:23、イザヤ 7:14)。旧約のイザヤの預言が、イエス キリストにおいて成就したことを、マタイによる福音書は告げています。イエス キリストの救いの御業は、まさに6節の「わたしはここにおる」という御言葉の成就であり、預言はキリストにおいて出来事となり実現したのです。

 「主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る」(10節)。
 救い出された民は、約束の地を目指して旅立ちます。「シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ」(1節)「あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの/しんがりとなられるからだ」(12節)。主の恵みに、そして主ご自身に包まれ守られて、神の民は歩み続けるのです。

 これは預言です。この言葉を聞いたとき、この言葉は出来事とはなっていませんでした。神の民は、神の真実を証しするために、見ずして信じること、神を信じて生きることを求められるのです。
 わたしたちが生きている今も同じです。罪の世に目を向けると、神は御業をなしておられるのだろうか、と疑問を感じずにはおれません。神がおられるのであれば、なぜこんなことが許されているのか、といううめきが聞こえてきます。はたして神の国は近づいているのでしょうか。

 罪の闇が覆っている世にあって、神の民は、一人ひとりが神の証し人です。わたしたちは「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と/言う者」(7節)なのです。
 わたしたちは神を信じて生きる神の民として召されました。神の真実を証しする者。よきおとずれを伝える者、神に依り頼み、神を指し示して生きる者なのです。

 きょうのこの御言葉は、わたしたちに向けて語られた言葉、そしてわたしたちが語るべき言葉なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 弱さを抱え、しばしば眠ってしまうわたしたちを見捨てず、「さめよ」と語りかけ、呼び起こしてくださることを感謝します。罪の世にあって、到来しつつある神の国を指し示し、あなたがもたらしてくださる希望ある未来を告げる者、よきおとずれを伝える者としてください。どうかこの地に住むすべての人々にイエス キリストを伝えさせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

イザヤ書 40:1〜11

2018年12月2日(日)主日礼拝  
聖書箇所:イザヤ 40:1〜11(口語訳)

 

 イスラエルの王国時代の後期、神は悔い改めのメッセージを伝えるため、多くの預言者を立てられました。狭い意味での預言者は、書名に名前が記されている預言者たち(イザヤ、エレミヤ、ホセア、アモスなど)ですが、彼らは紀元前8世紀頃から活動しました。そのメッセージの中心は「神に立ち帰れ、悔い改めよ」でした。しかし、預言者たちの働きにも関わらず国は滅びへと向かいました。北イスラエルアッシリアに、南ユダは新バビロニアに滅ぼされてしまいました。
 南ユダでは、捕虜として多くの人々がバビロニアに連れて行かれました。これをバビロン捕囚と言います。この捕囚は60年続きました。
 きょうの聖書は、この捕囚が終わって解放の時が近づいていることを告げています。

 「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ』」
 バビロン捕囚は、神の声を聞かず、神に頑なになり続けたことに対する裁きでした。神に裁かれたのですから、神に慰められるのでなければ解決しません。
 罪は神の御心を拒絶し、神から離れることです。命の創り主である神から離れて生きる先は、死しかありません。聖書も「罪の支払う報酬は死である」(ローマ 6:23)と言っています。この罪を解決しない限り、人生は必ず死に飲み込まれていきます。人は、神から罪の赦しを受けることが必要なのです。神の賜物である「永遠のいのち」(ローマ 6:23)を受けるのでなければ、罪と死から解放されないのです。

 「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」。
 神の赦しを受けて、神の民は神の都エルサレムへと帰ります。バビロンからエルサレムはおよそ 800km 離れています。ひたすらエルサレムを目指して、荒れ野を、砂漠を旅して行きます。
 けれど、実際の旅そのものも大変ですが、裁きを受けたその罪が解決するのでなければ、ただ単にふるさとに帰っても、再び裁きを待つだけになります。そのために預言者が神の声を伝える必要があります。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」。これは実際歩く道の話ではありません。神の声を聞くことができなくなった、命の主の言葉を聞くことができなくなった罪人の心の中の荒れ野に、主の道を備え、砂漠に我々の神のために大路をまっすぐに開くのです。罪人の心の中に、神へと続く道を備えることが預言者の務めです。
 罪人の心の中には、初めから神へと立ち帰る道があるのではありません。預言者が神の御心を伝え、神を指し示してこそ、主の道が現れてくるのです。

 このことは罪の世を生きるわたしたちすべてにとっても同じです。神が教えてくださるのでなければ、わたしたちはどこから来てどこへ向かって生きているのか分かりません。わたしたちは明日を知らず、今をただひたすらに生きています。占いなどを頼りに明日を知ろうとし、幸せになることを欲しています。しかし、罪から救い、永遠のいのちを与え、神の国に導くことができるのは、神お一人であり、神は御子イエス キリストを通してこの救いをわたしたちに与えてくださるのです。
 イエスが母マリアの胎に宿ったとき、天使は言います。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名付けなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ 1:21)。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのち」(ローマ 6:23)なのです。

 「声が聞える、『呼ばわれ』。わたしは言った、『なんと呼ばわりましょうか』。『人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。』」。
 人のはかなさが語られます。確かに人ははかなくもろい存在です。だからこそ古くから人は永遠を求めてきました。ピラミッド、徐福伝説、記念碑、科学の永遠・無限の問題など。はかないからこそ人は永遠に憧れます。
 「その麗しさは、すべて野の花のようだ」とありますが、この「麗しさ」と訳されたのは「ヘセド」という言葉です。ヘブライ語で「愛」を表現する最も中心的な言葉です。岩波版はここを「総てその愛は野の花のようだ」と訳しています。ここでは、人の愛もまたはかない、ということを表しています。
 ただ神だけが永遠なのです。「しかし、われわれの神の言葉は/とこしえに変わることはない」のです。

 しかしそんなことがあるのでしょうか。時代にして1,000〜3,000年以上の時を聖書の言葉は超えています。新約にいたって、あらゆる民族に伝えられていきました。そしていろんな時代、いろんな人々に批判されてきました。けれど、今に至るまで神の言葉は変わることなく、すべての人々に宣べ伝えられ、救いを与えることのできる神を伝えてきました。

 「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と」。
 自ら罪を抱え、罪の世を生きるわたしたちは、命の創り主にして救い主、助け主である父・子・聖霊なる神と出会うのでなければ、罪と死に勝利する希望を抱くことはできません。

 「見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」。
 見よ、神は来られます。神の国は到来します。神ご自身が治め、報い、養ってくださいます。羊飼いがその羊を慈しみ、守り、導くように、神がわたしたちの牧者となってくださいます。
 イエス キリストは言われました「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(ヨハネ 10:11)。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ 14:2, 3)。

 とこしえに変わることのない神の言葉は、イエス キリストにおいて成就しました。だからわたしたちは希望を持って待ち望むのです。キリストが再び来たり給う日を、神の国に復活する日を、永遠の命によみがえる日を待ち望むのです。

 待降節は、わたしたちが希望を持って待っている者であることを思い起こし、確認をする恵みの時なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 はかなさの不安の中にあるわたしたちの「永遠」となってくださっていることを感謝します。わたしたちはいつでも、どんな時も、あなたを、あなたの御言葉を信頼することができます。あなたは「見よ」と言われます。どうかわたしたちがあなたを見ることができるように、信仰を導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 1:6〜8

2018年11月25日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:6〜8(口語訳)

 

 「ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った」。
 このヨハネは、他の福音書ではバプテスマのヨハネと言われる人物です。この福音書では「バプテスマのヨハネ」という表現は出てきません。ただ「ヨハネ」とだけ言われています。この福音書は「ヨハネによる福音書」ですが、福音書の編者であるヨハネとここで登場したヨハネとは違う人物です。

 ヨハネは神から遣わされたのだと福音書は語ります。そしてその目的を「この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである」と語ります。
 光というのは、イエス キリストのことです。イエスご自身この福音書の中で「わたしは世の光である」(8:12)と言われ、「わたしは光としてこの世にきた」(12:46)と言われています。
 そしてヨハネは、光であるイエス キリストを証しするために神から遣わされました。ヨハネの証しによってイエス キリストをすべての人が信じるためです。

 福音書ヨハネの証しをいくつか記しています。1:15では「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」と記しています。また1:26では「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」と語ります。さらに「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(1:32~34)。そして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)と言い、再び「見よ、神の小羊」(1:36)とイエスを指し示し、弟子たちにイエスがキリスト救い主であることを証ししたのです。

 「彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである」。
 ヨハネは、光であるイエス キリストを証ししました。
 わたしたちにもイエス キリストを証しする務めが与えられています。使徒 1:8でイエスは昇天を前にして「聖霊があなたがたに降るとき、あなたがたは力を受けて、・・地の果てまでわたしの証人となるであろう」と言われました。わたしたちはヨハネと同じくイエスを証しする務めが与えられています。

 証しをするというのは、イエスがキリスト救い主であると証言することです。ヨハネのように「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエスを指し示すことです。
 10:41に「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」とあります。立派な業、人々が感心する行為が必要なのではありません。イエスが救い主と信じる、イエスの御名によって祈り、イエスに依り頼むのです。イエスによって救われている、永遠の命に入れられている、神の愛がイエスを通してこのわたしに注がれている、このことを信じて生きるのです。それが証しです。

 パウロがローマ人への手紙でくどいくらいに語っているように、イエスを別の何か、割礼であったり、律法であったりと、救いの根拠をイエス以外の何かに変えたり、イエスにも依り頼むけれど、他の何かも誇りとするようなことがあってはなりません。
 イエス以外のものが自分の救いの中に混じり込んでくると、イエスから離れ、救いがぼんやりとしてしまいます。どんなに素晴らしい信仰の先輩でも、どんなに優れた神学者でも、どんなに益をもたらすこの世の知恵であっても、イエス以外のものを救いの中に混じり込ませてはなりません。
 ヨハネは光ではなく、ただ光であるイエス キリストを証しするために来たのです。福音書は、今なおヨハネの弟子として歩んでいる者たちに対して語りかけているのかもしれません。

 前回読んだ 1:4 に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」とあります。イエス キリストこそ神の言葉であり、死に勝利した命であり、わたしたちの歩みを照らし導く光であります。キリストに依らずして神の御心を正しく知ることはできません。キリスト以外にわたしたちを死から解き放つ命はありません。イエス キリスト以外に神の国への道を照らす光はありません。

 光なるイエス キリストを証しするには、キリストに照らされて生きた経験が必要です。光なるイエス キリストに照らされているとき、安心して救いの道を歩めるという経験をして、証しするのです。
 実際に使ってみてよかったものを人に勧めるように、実際に食べて美味しかったものを人に勧めるように、自分自身がキリストに従い、キリストの光に照らされて生きてその良さを経験するのです。その自分自身の経験に基づいてイエスはキリストであると信じて、証しをするのです。そしてキリストの光を経験するために、神は礼拝を備え、祈りを与えてくださいました。
 キリストの光を経験するのに、特別な修行・特別な経験が必要なのではありません。神が備えてくださった礼拝に・祈りに身を委ねていくのです。

 キリストの光を知らない世の人々にとって、占いは欠かせないものです。自分が何に向かって生きているのか分からない人には、占いは必要かもしれません。けれど、どんなに優れた占い師でも、死に勝利する救い、永遠の命の道を示すことはできません。
 ただイエス キリストだけが、わたしたちのために救いとなってくださいました。わたしたちの罪も弱さも愚かさも知っていてくださり、そのわたしたちを救うために罪の闇の中に来てくださいました。そしてその闇の中で輝き、わたしたちを照らしていてくださいます。

 「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」(ヨハネ 8:12)。「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ 12:35, 36)。「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである」(ヨハネ 12:46)。

 わたしたちの信仰は、この光なるイエス キリストに照らされるところから始まります。礼拝の座へ、祈りの場へ進み出て、キリストの光に照らされましょう。キリストの光に照らされて、ひとり子を給うほどに世を愛しておられる神の愛から自分自身を見出し、隣人を理解し、世界を新しく知っていくのです。
 そして、光なるキリストと共に歩む中で、信仰は育まれ、すべてを新しく知って、キリストを証しして歩むようになるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 キリストを遣わし、わたしたちをキリストの光で照らしてくださることを感謝します。どうかキリストの恵みに満ちた光の中で、キリストの御顔を仰ぐことができますように。キリストの光の中で、信仰を育まれ、キリストを証ししていくことができますように。どうかわたしたちの教会の証しをお用いください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマ人への手紙 7:14〜20

2018年11月18日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 7:14〜20(口語訳)

 パウロはここで霊と肉という対比をしながら語ります。
 「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている」。

 霊的とは、神の御心に適っている、神と共にあることを表しています。ここでは、律法は神の御心であり正しいものであるということを述べています。
 一方、肉とは、この世に属していることを表します。この世に属し、滅びに至るものを表します。そしてパウロは「しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである」と告白します。これは自分の内に罪があり、自分ではこの罪をどうすることもできないことを表しています。

 パウロは律法主義で生きていたときは、「律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ 3:6)と言うことができました。しかし、神が遣わされた救い主イエス キリストを理解できなかったことに気づいてからは「わたしは肉につける者であって、罪の下に売られている」と自己理解が全く変わります。

 ちなみに律法主義というのは、律法を表面上・形式上守ることで満足してしまうあり方、自分は神の御心に適って正しく生きていると自己満足するあり方を指します。
 しかし、キリストに捉えられ、キリストを知ってからは、このように自分を理解します。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」。

 律法を形式的に守っても、それでは神の御心には適わないことに気づきました。そして神の御心を思うようになると、神の御心に従って歩みたいと思っても、それを行わず、自分がこうありたいこうしたいと思うことをしてしまうことに気づくのです。つまり、神の御心と自分自身とが対立し、信仰では神の御心に従いたいと思っていても、自分自身がまさってしまうのです。それを「かえって自分の憎む事をしている」とパウロは言っているのです。

 このパウロの自己理解は、一般にいい人ほど理解できません。いい人は、自分の善意に自信があります。自分の善意が神の御心とは違っているということになかなか気づけません。善意の人は、自分が罪人であることがあまり分かりません。
 しかしパウロは違います。パウロは徹底的に律法で生きてきたので、キリストを理解できなかった、キリストを遣わされた神の御心が自分には全く分からなかったことで律法主義の根本的な誤りに気づきました。人間の力では、神と共に生きることはできないのです。

 そんな自分の姿を思い巡らし、律法について考え直すとき、パウロはこう思い至ります。「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる」。

 パウロはこんな風に考えます。パウロは神に従って歩みたいと願っています。キリストを知るに至って、神が律法を通して何を願っておられるかを知りました。そしてパウロは神の御心に従いたいと思っています。つまり律法を正しく行いたいと欲しています。
 キリストを知る前まではできていました。律法主義は形式的ですから、この律法を守るにはこうすればいいというのが決まっています。しかし、キリストを知ってからは、律法を与えてくださった神の御心を思うようになりました。
 神の御心の根源は、ひとり子を遣わすほどに人を愛しておられる、ということです。聖書における「愛」とは、共に生きようとすることです。神は人と共に生きようと願っておられます。それに対して、律法主義は自分が正しく生きること、自分が神に喜ばれることを考えます。
 基本的に律法主義は、自分のことを考えています。けれど、神はなぜ律法をお与えになったのか、キリストに出会ってからそのことを思うようになったときに、律法主義のあり方を神は願っておられないことに気づきました。自分が正しくて自分が喜ばれる、そのように自分のことばかり考えることを神は願っておられない。神と共に、隣人と共に、神の恵みの中で共に生きるためにはどうすればいいのか、そのための道を律法は示しています。しかし律法主義はそのことを全く考慮してきませんでした。
 パウロは、共に神に従って歩むためには律法をどう受け止めていけばよいのかを考えるようになりました。そこに、神に従おうとする信仰と、自分の中の「こうありたい」という自分自身の願い、あるいは「こうあるのがよいと思う」と考える自分自身とが争い、いつも自分がまさってしまう。神の御心と自分自身が相容れないことがパウロには明らかになってくるのです。

 先ほど言いましたように、いい人はここで自分の「こうしたい」「こうあった方がいい」という思いを批判的に捉え、「神の御心はどうだろうか」と考えてみることがなかなかできません。自分自身の考えが神の御心とは一致しないのだということを忘れてしまいます。ですからいつも、神の御心よりも自分自身がまさります。しかし神の御心と自分自身が相容れないことが、パウロには明らかになってきます。

 そこでパウロは一つの結論に至ります。「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。わたしの内に宿っている罪が、神と共に歩むことを妨げている。
 「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」。
 善とは、神の御心です。そして悪は、神の御心から離れることです。
 「もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」。

 「わたし」が律法を行うとき、必ず「わたし」が律法を解釈します。例えば、わたしたちが人を愛するとき、こうすることがこの人のためになる、この人の助けになる、この人に喜ばれるだろうなどと「わたし」が考えます。このとき「わたし」は自分の価値基準に照らして判断します。そのとき神の御心に従いたいと思っていても、神の御心が直接分かる訳ではありません。良いか悪いかを判断する「わたし」というフィルターを通して判断します。しかし、罪人の救いのためにひとり子を献げる神の御心は、あまりに広く大きくレベルが違っていて理解し尽くすことも、すべてを受け入れることもできません。わたしたちは、神の御心を直接、正しく、正確に理解することはできません。罪を抱えているので、神の御心そのものを純粋に理解するということはできないのです。
 わたしはどうやっても神と一つにはなりません。これを創世記は、善悪を知る木の実を食べたと表現しています。もう神と違う善悪を抱いてしまったのです。罪人は神とは違うのです。

 パウロはキリストと出会い、キリストを知ったことによって初めて罪を知ったのです。努力や工夫ではどうしようもない、存在そのものが神と違ってしまっている罪を知ったのです。
 そして、どうすることもできない罪人を救うために、ひとり子を救い主として世に遣わされる神の御心を知るに至りました。キリストご自身も、民を救うためにその命を献げて贖いを成し遂げ、死を打ち砕き、命の道を開かれました。パウロは、その恵みの広さ、長さ、高さ、深さに圧倒されたのです。
 だからパウロはピリピ人への手紙でこう書いています。「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ 3:7~9)。

 わたしたちの救いはイエス キリストにあります。キリスト以外にはありません。キリストに罪を贖って頂き、赦して頂くことが必要です。キリストを信じることを通してキリストと一つにされる。キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活する。キリストの命に与るのです。そしてわたしたちは神の子とされるのです。「栄光から栄光へと、主(キリスト)と同じ姿に変えられていく」のです(2コリント 3:18)。

 だから教会は、2000年キリストを宣べ伝えてきたのです。この人を見よ、この方によってわたしたちは救われる。この方によって新しくされる。朽ちることのない希望と平和はキリストから来るのです。何ものもキリストの代わりにはなりません。イエス キリストこそ、わたしたちを罪から救い、神の国へと導き、永遠の命でみたしてくださるただ一人のお方なのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちにキリストを知る信仰を与えてくださり感謝します。キリストを知らずして罪を知ることはできず、キリストを信ずることなく罪を知るとき、わたしたちは悲しみと絶望の中に陥ります。キリストを信じる信仰を与えられ感謝します。どうかイエス キリストが救い主であることをさらに深く知り、信じて歩むことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖書通読のために 81

マタイによる福音書 9章 32~34節(新共同訳)

 

 悪霊に取り憑かれて口の利けない人の癒やしの記事である。しかし、癒やしそのものよりも、群衆が「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と驚き、ファリサイ派の人たちが「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と悔し紛れの嫌がらせを言ったことを伝えようとしている。
 起こった事実は一つ。しかし受け取り方は人それぞれ。奇跡が起きようと何が起ころうと、それをどう受け止め理解するかは人による。
 わたしも信じる人にだけ伝えて、空しさを感じないようにしたくなる。しかし神は、宣教の愚かさによって、信じる者にも信じない者にも福音を宣べ伝え、信じる者を救うこととされたのである(1コリント 1:21)。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)