聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 22:7〜13

2017年7月16日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:7〜13(口語訳)

 

 ルカによる福音書も、最後の晩餐の場面へとやってきました。
 「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日がきた」と福音書は語ります。1節でも「過越といわれている除酵祭が近づいた」と言っています。本来、過越祭と除酵祭とは区別される祭りですが、一続きで守られる祭りなので、このように言われるようになりました。
 過越祭とは、出エジプト記に出てくる神の過越を記念する祭りです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すため、神はエジプトの人も家畜もすべての初子を打たれましたが、イスラエルの家は過ぎ越されたことを記念する祭りです。過越は、神が救いの神であることを証しする出来事で、イスラエルにとっては最も重要な出来事です。
 除酵祭とは、過越祭に続く七日間をパン種、つまりパンを膨らませる酵母を入れないパンを食べる祭りです。酵母を入れないパンは、急ぎの時に食べるもので、エジプトを脱出する際に、神から酵母を入れないパンを食べるように命じられたことを記念して行われます。
 この一連のことは、出エジプト 12:1〜17に書かれています。「その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である(12節)。この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない(14節)。あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない(17節)。」

 このイスラエルの民にとってとても大切な、過越の食事のためにイエスはペテロとヨハネとを使いに出します。「行って、過越の食事ができるように準備をしなさい」。彼らは尋ねます、「どこに準備をしたらよいのですか」。イエスは言われた、「市内にはいったら、水がめを持っている男に出会うであろう。その人がはいる家までついて行って、その家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。すると、その主人は席の整えられた二階の広間を見せてくれるから、そこに用意をしなさい」。二人は行ってみると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をしました。

 イエスは、この過越の食事の準備を密かに進めておられました。なぜなら、ユダは、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていたからです(6節)。過越の食事は、みんな家族で守るもので、イエスの周りに群衆などいない絶好の機会です。しかしイエスは、十字架の前のこの過越の食事は、弟子たちと守るために準備をしておられました。なぜなら、この過越の食事こそイエスの十字架の意味を表すものだったからです。

 弟子たちは、イエスがご自分の死について語られてもそれを理解できませんでした(9:22, 9:43, 18:31)。理解したくない内容だったと思います。
 この後、イエスはユダの裏切りによって、逮捕され、十字架につけられます。しかしそれは、運悪くそうなったのでも、力及ばずそうなったのでもありません。初めからイエスは十字架を負うためにこの世に来られたのです。過越の食事のために屠られる小羊は、イエス キリストを指し示していたのです。神の裁きが、罪人たちを過ぎ越していくために、イエス キリストがわたしたちの罪を負って、わたしたちの救いのために、わたしたちに代わって十字架で裁かれたのです。神が遣わされた救い主イエス キリストは、わたしたちにご自分の命を与えるために、来られたのです。

 これはイエスが弟子たちと守る最後の晩餐です。しかし、この最後の晩餐から教会の聖晩餐は始まりました。その意味では、これは最初の晩餐でもあります。
 聖晩餐を守るたびに、わたしたちは主の十字架を思い起こします。旧約の神の言葉が、イエス キリストにおいて成就したことを思います。神の言葉は真実であったことを思います。そして聖晩餐は、今に至るまで2,000年教会で守られてきました。今この時も、わたしたちはイエス キリストの十字架の恵みの中に置かれています。さらに聖晩餐は、わたしたちが未来において代々の聖徒たちと共に神の国で主の食卓に与ることを指し示しているのです。
 聖晩餐は、わたしたち人類の過去も現在も未来も、神の救いの御業の中に置かれていることを示し続けています。時代が変わり、社会が変わり、生活が変わり、人々の考え方が変わっても、神の御心も御業も真実で変わらないことを聖晩餐は証しし続けています。
 最後の晩餐が、イエスご自身によって弟子たちも知らぬ間に用意されたように、わたしたちが求めもせず、用意もしていなかった救いの御業を、神ご自身が用意し、備えていてくださったのです。自らの命を献げるために来られたイエスが、弟子たちと最後の晩餐を守るために準備し用意されたように、わたしたちが聖晩餐に与り、救いに入れられるように、今も主はわたしたちのために御業をなしていてくださいます。何が変わろうと、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル 13:8)わたしたちの真実な救い主であります。

ハレルヤ

 

ローマ人への手紙 2:17〜24

2017年7月9日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 2:17〜24(口語訳)

 

 きょうの箇所では、パウロユダヤキリスト者に向かって語ります。ユダヤキリスト者とは、文字通りユダヤ人のキリスト者のことです。ユダヤキリスト者には、きのうきょう聖書の神を信じた連中とは違う、という自負がありました。パウロの言葉を借りると「自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており」ということです。
 「自分はユダヤ人である。ユダヤ人ではない、他の人たちとは違う」という自負がありました。
 「律法に安んじ」とは、イエス キリストしか知らない人と違って、自分たちは律法を知っている。神の教えである律法を大切にし、神に従って生きてきた、という誇りを持っている、ということです。
 「神を誇とし」とは、自分たちは神の選びの民であって、他の民よりも神と特別な関係にあるという思いです。神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。自分たちは、そのアブラハム、イサク、ヤコブの子孫なのだ、という誇りです。
 三番目の「御旨を知り」とは、聖書(旧約)の御言葉に親しんできた自分たちは、神がどんな考えをお持ちなのかよく知っている、という思いです。
 そして四番目の「律法に教えられて、なすべきことをわきまえており」とは、律法によって神の御心を知っており、神の御心に適う生き方を知っている、ということです。
 そしてこの誇りが「知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じている」ようになるのです。つまり、ユダヤキリスト者は教える人で、その他のキリスト者は自分たちに教えられる人だということです。

 しかしパウロから見ると、ユダヤキリスト者は「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか」ということになるのです。
 これは大きく2つのことを言っています。一つは聖書の神に対する姿勢であり、もう一つはローマの神々に対する姿勢です。
 「盗むなと人に説いて、自らは盗むのか」というのは、十分の一の献げ物のことです。マラキ書 3章では十分の一を献げていないことを盗んでいると指摘されています。マルコによる福音書 7章では、両親に与えるべきものをコルバン、つまり供え物ですと言えば与えなくてよいとしている、と指摘されている箇所があります。神の名を利用して盗んでいるのです。このように自分たちはほどほどに、あるいは都合よくしか守らないものを、人にはこうあるべきだと語っているわけです。
 「姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか」ここで言う姦淫は偶像礼拝のことです。旧約では偶像礼拝を姦淫として指摘しています。宮の物をかすめるというのは、ローマの神々の神殿から献げ物を盗むことです。神ならぬ偶像に供え物など無駄なのだからと言って、盗むのです。しかしパウロは、偶像の供え物を盗み、それによって生活していくことは偶像を頼り支えられて生きること、すなわち偶像礼拝、姦淫に他ならない、と言うわけです。
 そして最後に、ユダヤキリスト者よ、あなたたちは「律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか」と糾弾するのです。

 なぜパウロユダヤキリスト者に対して、このことを厳しく指摘しているのでしょうかか。
 神の民の第一の務めは、神を証しすることです。神を信じて生きることを通して、神を証しすることです。神を信じて生きることを通して、神を証しすることです。しかし、ユダヤキリスト者の律法に対する姿勢は、神の言葉はきちんと守らなくてもいいもの、いい加減でいいもの、キリスト者は神に依り頼みつつも、ローマの神殿からかすめ取ったもので生活する、ローマの神々に支えられて生きている、ということを証ししてしまっているではないか。本来神の民に託された神を証しするという務めをないがしろにしている。そうしていながら、自分たちはユダヤ人、他のキリスト者と違って旧約の神の言葉をよく知っている、旧約の民、神の民イスラエルとしての伝統があるのだと言って誇っている。それは違う、ということをパウロははっきり告げようとしています。
 だからパウロは、ユダヤキリスト者たちがよく知るイザヤ 52:5を引用して「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」と言うのです。

 パウロユダヤキリスト者たちに対して指摘していることは、彼らの信仰が神を証ししていない、ということです。それは当然そのようになります。なぜなら、彼らは、神を誇りとし神を証しするのではなく、自分たちを誇りとし自分たちを証ししようとしているからです。ユダヤ人たちは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を知っている自分を誇っているのです。モーセを召し、モーセを通して与えられた律法を知っている自分を誇っているのです。自分たちは神の選びの民であり、律法も知らない目の見えない者の手引き、闇にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師であると自分を誇っているのです。
 自分を誇ろうとしているのですから、律法を正しく守って、神を証しすることは、第二第三のことになってしまうのです。パウロは自分の手紙(1コリント 1:31)で、エレミヤ書(9:23, 24)を引用して「誇る者は主を誇れ」と述べています。

 自分はまじめに信仰に生きている。「自分に与えられた賜物はこれだ」と思って、神に仕えている。その自分が中心になって、自分の信仰や行為に思いが囚われていくと、神の名を語っていても、信仰者のように毎日を生活していても、神を証しするのではなく、自らを誇る信仰に変わっていってしまいます。
 わたしたちの信仰の先輩が起草したウェストミンスター小教理問答は「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」(問1)だと言っています。神の栄光は、わたしたちの造り主・救い主として、わたしたちを愛し抜いてくださるところに現れます。神がわたしたちの造り主であり、救い主であることを証ししていく。その恵みをわたしは受けて生きている。神によって、今わたしは救いの中にある。そのように神にあって生きている自分を覚え、自分を造り、愛し、救ってくださる神を永遠に喜ぶ。まさにそれこそが、人の主な目的なのです。神から切り離されて自分があるのではありません。自分がどれほどのことをなしたか、自分がどれほど仕えているか、そういうことで自分が立っているのではありません。神がわたしを愛してくださるが故に、神が共に生きようとこのわたしに語りかけてくださるが故に、わたしは今、救いの中に入れられているのです。そのわたしの主である神を信じて生きる、このことを通してわたしたちは神を証しします。ですから、わたしたちが誇るのは、神を信じ信仰を持って善意で生きている自分ではありません。神ご自身を誇るのです。

 信仰を持って生きているように見えても、神以外のものが誇りであったり、神以外のものを証ししているとき、それは神と共に生きていないし、そこに救いは現れません。
 だからこそパウロは、神によって救われ、神と共に生きる信仰、神を誇りとし、神を証しする信仰をはっきりと伝えようとして、この手紙を書いているのです。

 そしてきょう、このことを皆さんが聞いたということは、神が皆さんの信仰を整え、神と共に歩み、救いに入る信仰、神の恵みを受け、神を誇りとする信仰へと導こうとしておられるのです。
 造り主であり救い主である神と出会い、神を知る。その真の主なる神を喜び、神を誇りとして生きる。神はその恵みを伝えるために、ご自身の民を選び出し、代々に渡って、神と共に生きる信仰を、伝えてこられました。そしてそれは、今わたしたちにも伝えられ、わたしたちもその救いの中に入れられています。
 けれど、わたしたちの抱えている罪によって、イエス キリストを救い主として信じている、しかしあとは自分の善意や良識で生きるというような信仰に傾きがちなのです。
 ですから、わたしたちの信仰は、世の終わりまで神の言葉を聞きつつ、神の言葉によって、新たにされ整えられて導かれていかなくてはなりません。わたしたちの教会の信仰告白が、信徒を訓練し、と言っているのはこのことなのです。わたしたちの教会は、神が召された信徒一人ひとりを神の言葉によって訓練すると、告白しているのです。

 神の思いは、皆さん一人ひとりに向けられています。皆さんが神を知り、神を喜ぶように、神にあって望みを抱き、神を誇りとして生きるようにと、神はきょうもお語りくださったのです。

ハレルヤ

 

ルカによる福音書 22:1〜6

2017年7月2日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:1〜6(口語訳)

 

 場面は、いよいよイエスの十字架へと進んでまいります。
 1節に「過越といわれている除酵祭が近づいた」とあります。
 過越というのは、出エジプト記に出てくる神の過越を記念する祭りです。エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出すために、神はエジプトの人も家畜もすべての初子を打たれましたが、イスラエルの家は過ぎ越されたことを記念する祭りです。過越は、神が救いの神であることを証しする出来事で、イスラエルにとっては最も重要な出来事です。
 除酵祭というのは、過越の祭に続く七日間をパン種、つまりパンを膨らませる酵母を入れないパンを食べる祭りです。酵母を入れないパンは、急ぎの時に食べるもので、エジプトを脱出する際に、神から酵母を入れないパンを食べるように命じられたことを記念して行われます。
 過越の祭と除酵祭とは、切り離すことのできない一続きの祭りでしたので、1節にあるように「過越といわれている除酵祭」と言われるようになったのだと思います。この祭りはニサンの月に行われました。ニサンの月というのは、現在の暦では3〜4月の時期になります。
 2節に「祭司長たちや律法学者たちは、どうかしてイエスを殺そうと計っていた。民衆を恐れていたからである」とあります。祭司長たちや律法学者たちは、民衆が自分たちを離れ、イエスを尊敬し、イエスに従うのを恐れていました。だから、どうかしてイエスを殺そうと考えていたのです。
 彼らは、民衆を恐れていました。神に仕える祭司長たち、神の言葉に仕える律法学者たち、その彼らが神を恐れるのではなく、民衆を恐れていたのです。自分たちの誇り、自尊心のために、神ではなく、民衆を恐れた。神以外のものに心が向いていってしまうとき、神を信じていながら、神の御業を拒絶する者となってしまいました。
 そんな時、十二弟子の一人で、イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンが入りました。彼は祭司長たちや宮守がしらたちのところへ行って、どうやってイエスを彼らに渡そうかと、その方法について話し合いました。祭司長たちや宮守がしらたちは喜んで、ユダに金を与える取決めをしました。マタイによる福音書によれば、それは銀貨30枚だった、と言われています(マタイ 26:15)。ユダはそれを承諾しました。そして、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、機会をねらっていたのです。

 なぜ、イスカリオテのユダはイエスを裏切ったのでしょうか。2,000年の間、多くの人々が、考えてきました。近年注目を集めた『ユダの福音書』も、そうした疑問から生まれた作品の一つと言えるでしょう。皆さんは、なぜユダはイエスを裏切ったのだと思いますか。
 ルカは、その理由をはっきりとこう書いています。「ユダに、サタンがはいった」
 サタンは、元々「敵対する者、妨げる者」という意味の言葉です。神に敵対し、イエスに従うことを妨げるサタンが、ユダに入ったのです。
 ある人は「悪魔がわたしたちが想像する姿をしていたならば、恐れるに足りない。悪魔が来たことがはっきりと分かる。しかし、悪魔は善意を装ってやってくる」と言っています。イエスが荒れ野で誘惑を受けられたときも、悪魔はいい方法があると勧めます。しかも聖書の言葉まで使って勧めます。悪魔の誘惑を受ける時、人はこうした方がもっといいんじゃないか、と良い選択をしているつもりで、誘惑されるのです。もしかしたら、裏切りにはユダなりの考えがあったのかもしれません。
 あるいは、日本的な言い方をすれば「魔が差した」ということでしょう。この場合、何故あんなことをしたのか自分でもよく分からない、ということかもしれません。
 なぜユダはイエスを裏切ったのか。理由は、聖書が言うとおり「ユダにサタンが入った」のです。神に敵対し、イエスに従うことを妨げるサタンが、ユダに入ったのです。
 そして、わたしたちにもサタンが入ることはしばしばあるのだろうと思います。自分自身のことを考えても、いつも神の御心と御業を愛し、イエスに従う模範的なキリスト者だとはとうてい思えません。わたしたちは罪を抱えており、絶えずサタンの誘惑にさらされています。

 ならば、どうしたらサタンを退け、神に立ち帰り、イエスに従っていけるのでしょうか。答えは簡単です。サタンの誘惑を退けたイエスをよく知ることです。そして自分をイエスよりも賢く思わないことです。「イエスはこう言われた、こうされた。でも、こうした方がもっとよかったんじゃないの。こうすれば大丈夫じゃないの」と自分の方が賢いと思わないことです。いろんな理由をつけて、イエスに従わなくても、うまくやれると考えないことです。イエスに従わなくてもいい理由を見つけて、大丈夫、かまわないと思わないことです。

 イエスはわたしたちが生きるための、一つの参考資料ではありません。わたしたちのただ一人の救い主であり、道であり、真理であり、命であるお方です。この方によってだけ、わたしたちは罪から救われ、死から救い出されるのです。聖書も、祈りも、礼拝も、このイエスと出会い、イエスを知り、イエスと共に生きるためにあるのです。イエスと共に生きるところにこそ、命の道があるのです。だから教会は、礼拝を、祈りを、讃美を大事にしてきたのです。イエスと出会い、神と共に生きるために与えられた恵みだからです。わたしたちが救いに与るためには、真実な救い主イエス キリストへと思いを向けていくのです。
 神はわたしたちに御子イエス キリストをお与えくださいました。神は、わたしたちが救われてご自身と共に生きることを願っておられます。

ハレルヤ

 

エペソ人への手紙 3:16〜19

2017年6月25日(日)主日礼拝  休暇のため説教原稿を長老が代読

聖書箇所:エペソ人への手紙 3:16〜19(口語訳)

 

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ人への手紙 3章16-19節)

 

 イエス キリストは、復活の後40日にわたって使徒たちに神の国について話されました(使徒行伝 1章3節)。そして、使徒たちの見ている前で天に上げられました(使徒行伝 1章9節)。これをキリストの昇天と言います。
 なぜイエスは天に上げられたのでしょうか。イエスがキリスト(救い主)であることを人々に知らせるには、復活したイエスがその姿を現し、イエスを憎む者の陰謀も死の力もイエスを滅ぼすことはできないということを明らかにするのが一番ではないでしょうか。
 しかし、それは愚かな考えであることに気づかされました。この世に人としているということは、時間と空間の限定を受けるということです。簡単に言うと、例えばわたしがある時間に新宮にいるということは、同じ時間に大阪にはいないということです。ある日曜日に新宮教会で礼拝しているということは、他の教会にわたしはいないということです。イエスが人としてこの世におられるとき、ある所である人たちと一緒にいるということは、別の場所にいる別の人たちとは一緒にいられないということなのです。しかし、イエスはすべての弟子たちといつも共にいることを願い、約束されたのです。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書 28章20節)
 そのためにイエスは、人としては天に昇られ、聖霊によってわたしたちと常に共にいるようにされたのです。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネによる福音書14章16−18節)これによって、イエスは時間と空間の制約を受けることなく聖霊において世界中のすべての弟子と共におられるのです。だからイエスはこうも言っておられます。「わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」(ヨハネによる福音書 16章7節)イエスは、すべての弟子たちといつも共にいるために天に昇られたのです。
 そして天に昇られたイエスは、神の国にあって今もなおわたしたちのために神に執り成しをし続けていてくださいます。「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ人への手紙 8章34節)
 この今もなされているイエスの執り成しによって、わたしたちは神の国に住まいを得ているのです。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書 14章2−3節)
 わたしたちの命は、神の祝福によって造られ、キリストの救いの業によって神の国へと導かれるのです。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。わたしたちは神のもとから来て、神のもとへ帰るのです。わたしたちは行く宛てのない人生を生きているのではなく、帰るべき家へと、わたしたちを愛し続けていてくださる方のもとへと続く人生を生きているのです。
 
 イエス キリストの昇天は、ただこの世を離れて神の国に戻られたというのではなく、天に上げられるということを通して、常にわたしたちと共に生き、わたしたちを神の国へと導く救いの御業なのです。
 
 さて、聖霊なる神は、わたしたちを救い主イエス キリストに結び合わせ、キリストの命、キリストのすべてでわたしたちを満たすために遣わされました。聖霊なる神によってイエス キリストと一つにされたわたしたちは、もはや何ものによっても支配されることはありません。イエス キリストで満たされている今は、死もわたしたちを支配することはできなくなったのです。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ人への手紙 8章38, 39節)
 
 また聖霊は、イエス キリストからわたしたちへという方向で恵みを与えるだけでなく、わたしたちからイエス キリストへ、そして父なる神へと結び付けてくださいます。
「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ人への手紙 8章26節)
 わたしたちの弱さを知って、聖霊なる神ご自身がわたしたちのために執り成してくださるのです。聖霊なる神によって、神の愛がわたしたちへと注がれ、わたしたちの祈りにならない思いが神へと執り成されているのです。
 
 例えて言うなら、聖霊なる神は命を支える息のようなお方です。息をしているとき、わたしたちは生きています。そして息をしているとき、目に見える肉体と目に見えない心とが一つに結び合わされて、わたしという一つの存在、一つの命として生きています。聖霊なる神が働かれるとき、目に見えるわたしたちと目で見ることのできないイエス キリストが一つに結び合わされて、わたしたちはキリストの復活の命に生きる新しい存在とされているのです。
 実は、旧約が書かれたヘブライ語で「霊」を表す言葉(ルーアッハ)は、「息」も表す言葉なのです。
 
 キリスト教の中心は「神と共に生きる命」です。神と共に生きるとき、命は滅びへ向かうことなく生きることができ、喜びをもって生きることができます。神と共に生きるとき、すべての命が神の愛の中で共に生きることができます。
 けれど、罪がわたしたちをこの恵みから引き離してしまいました。しかし、父なる神は罪を抱えてしまったわたしたちの救いを決意されたのです。そして、子なる神(父の独り子)イエス キリストによって罪の贖いの業がなされました。その神の救いの御業、死を打ち破って復活されたイエス キリストの命の恵みに、聖霊なる神が与らせてくださるのです。キリストと一つに結び合わせ、キリストを通して父なる神と結び合わせてくださいます。父・子・聖霊の三位一体の神の恵みに包まれて、わたしたちは神と共に生きるものとされ、本当の命の喜びを味わうものとされているのです。

ハレルヤ

 

聖句による黙想 6

聖句による黙想
 思い巡らす meditation meditado

 

申命記 6章 4, 5節(新共同訳)

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。


 イエスが最も重要な掟としてあげられた第一の戒めである(マタイ 22:34~40)。
 神がわたしたちに求められることの根本は、神を愛することである。
 では、愛するとはどういうことだろうか?

ハレルヤ

 

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聖句で辿る聖書 49

出エジプト記
4章 11, 12節(新共同訳)

主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」


誰が、わたしの命を造られたのか、わたしの賜物を与えてくださったのか。
わたしたちは、自分が生きていると考えるが、命も賜物(才能)も自分の所有物ではない。自分で選んだのではない。神が祝福して与えてくださった。わたしたちが生きている間も、神は与えた賜物を祝福してくださる。

 

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創世記 11:1〜9

2017年6月18日(日)主日礼拝  地区の説教者交代(講壇交換)
聖書箇所:創世記 11:1〜9(口語訳)

 

 バベルの塔、と言われる聖書の箇所です。昔話のような語りで話は進みます。
 昔、昔、「全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。」(1~3節)
 「石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た」というのは、文明の発展を表しています。文明の発展によって、人間は力を得ました。
 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(4節)
 人は現代に至るまで変わりません。科学的知識を得ると、その知識によって力を得、力を表現します。その一つが、高層建築です。世界一の高さのものを建てることのできる技術は、人類の誇りの一つです。

 わたしは、こういう誇りがよく分かるような気がします。建築の仕事は、自分が携わったものが目に見えます。形が残ります。手で触ることができます。わたしは、うらやましさを感じます。わたしの仕事は、牧師です。神学校を卒業してから27年が過ぎました。自分に与えられたものを用いて、精一杯御言葉を語り続けてきました。わたしが取り次いだ聖書の言葉を通して、どれだけキリストと出会えたでしょうか。どれだけ神を知ることができたでしょうか。一人ひとりの信仰が、また教会がどれだけ成長したでしょうか。全く分かりません。時に、自分のしてきたことには意味があったのだろうか、と迷いが生じることもあります。その評価は、神がなさることであり、終わりの日に神の御前に立つまで分かりません。そんな時、建築の仕事はいいなぁと思うこともあるのです。

 力を得た人間は「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」と考えます。都市を造り、高層建築物を立てて、その力を誇るのです。「その頂を天に届かせよう」というのは、神に並び立とうとすることです。神のおられる天に、自分たちも立とうとすることです。
 人は神を恐れています。「われわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」エデンの園を追われ、ノアの洪水を経験してきた人間は、神を恐れています。自分たちの名を、神に並ぶものとし、神の力に対抗しようとするのです。
 特に、産業革命を経て、科学技術を躍進させてきた現代、ダーウィンが進化論を唱え、ニーチェが「神は死んだ」と述べて以来、人は科学の力で神に対抗し、力と富を手に入れて、自分を誇り、自分の思い通りに生きようとしています。

 5節から神が登場します。「時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。」
 人は、自分の願望に縛られています。多くの人は、自分の願いが叶うところに幸せがあると思っています。だから、人はたくさんの神々、自分の願いを叶えてくれる偶像を作り出し、神に自分の願いを叶えさせようとしてきたのです。
 罪を抱えた人間は、自分の願望、欲望に縛られ、留まることもできずに突き進むのです。この罪人の突進を止めるのが、神の裁きです。
 神の裁きを、神の罰だと考える人がいますが、それは一面的な見方です。神の裁きは、罪の暴走によって滅びに飲み込まれてしまう罪人を救うための御業でもあります。この時も神の御業によって「彼らは町を建てるのをやめた」のです。
 産業革命以降の技術革新の中で、罪人の思いは暴走し、2度の世界大戦、2度の核兵器の使用、チェルノブイリとフクシマの原発事故、大きな犠牲を出してきました。今挙げた世界大戦、核兵器の使用、原発事故、このどれもが日本に関わり、日本は大きな犠牲を出してきました。けれど残念なことに、日本では神への悔い改めはまだまだ不十分なように思います。わたしたちの国はまだ神の裁きを必要としているのでしょうか。

 「これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」
 ヘブライ語の乱すという動詞「バーラル」から町の名は「バベル」と呼ばれるようになりました。
 そして、数多くの言語が存在するようになったのです。『ラルース言語学用語辞典』によると、世界の言語は約2800語だそうですが、5000~8000語とする調査もあるそうです。なぜ、調査によってまったく違う数が挙げられるのかというと、理由の一つに、あることばが言語なのか、方言なのか、判断が分かれることが挙げられます。日本についても同じことが当てはまるそうです。ある資料では、日本では15言語が話されているとなっているそうです。日本語、アイヌ語の他にも、宮古語、八重島語、与那国語、与論語などが挙げられているようです。

 けれど、言語が違ったために、人は相手を知り、理解する努力を続けるようにされました。神の裁きは、罪人が共に生きるための努力へと導きます。そして、その中心となるのは、神を知ることなのです。なぜなら、わたしたちは神にかたどられて造られたからこそ、愛を求め、共に生きることを求めるのです。カルヴァンは『ジュネーブ教会信仰問答』の問い1で「人の生きる主な目的は何ですか」と問い、それに「神を知ることです」と答えています。罪のためにばらばらとなり、死に捕らわれてしまったわたしたちが、共に生きていくためには、神を知り、神と共に生きることが必要なのです。だからこそ、神は教会を建て、神の福音を宣べ伝えさせているのです。罪によってばらばらになってしまったわたしたちが、真に共に生きるためには、神に立ち帰ることが必要です。神の許にわたしたちの救いがあります。わたしたちの未来があります。わたしたちの命があります。そしてわたしたちは、主にあって一つなのです。

ハレルヤ

 

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