聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

聖句で辿る聖書 71

出エジプト記
18章 10節(新共同訳)

 

「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。」


 出エジプトは、神が救いの神であることを知った大切な出来事。

 

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ローマ人への手紙 4:9〜12

2018年1月14日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ人への手紙 4:9~12(口語訳)
 
 パウロは割礼について語ります。これは、ユダヤキリスト者が救いについて正しく知ることを願ってのことです。
 11節に「アブラハムは割礼というしるしを受けた」とありますが、アブラハムが割礼を受けたのは創世記 17章に出てきます。「あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである」(創世記 17:9, 10)と記されています。
 割礼とは、男性の生殖器の包皮を切り取ることで、創世記 17:11では「あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない」と命じられています。
 割礼は、旧約の民イスラエルだけの儀式ではありません。紀元前5世紀に書かれたヘロドトスの『歴史』という本の中で「エジプト人・エチオピア人が昔から割礼を行っている」と書かれています。そこでは、成人の儀式として行われていたり、結婚の際に家族になるしるしとして行われたり、子孫に恵まれる儀式として行われたりしていました。(Wikipedia「割礼」を参照)
 しかし神は、神の民とされた契約のしるしとして割礼を受けるように命じられました。神と共に生きるしるしとして「生れて八日目に割礼を受けなければならない」(創世記 17:12)と命じられました。

 パウロは、このアブラハムの割礼が彼が義と認められた後の出来事であることを示して、9節で「この幸福」と言われている罪の赦しは割礼によるのではなく、神を信じたことによるのだと主張します。
 確かに、神がアブラハムを義と認められた出来事は、創世記 15章に記されています。創世記 15:6には「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と書かれています。そして割礼が命じられたのは、創世記 17章です。
 パウロはこれをアブラハムが「無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、かつ、割礼の者の父となるためなのである」(11, 12節)と理解しています。つまり、割礼を受けて神を信じている者と、無割礼で神を信じている者の両方の信仰の父となるために、神は、アブラハムが主を信じたことを義と認めた後に、割礼をお命じになった、と述べているのです。

 パウロがなぜここまで割礼にこだわるかと言いますと、これは何によって救われたか、という救いの根本に関わるからです。現在、教会では救いを示すしるしとして、イエスがお命じになられた洗礼と聖晩餐を行っています。しるしというのは、神の約束の目に見えるしるしです。洗礼もまた、アブラハム以来の割礼と同様、キリストを信じて、罪を赦され、清められたしるしとして、信じた後に受けます。
 割礼を受けたから、洗礼を受けたから、救われ義とされるのではありません。キリストと出会い、キリストによって罪赦され、清められたことを知って、キリストを信じた後に、救いの恵みのしるしとして洗礼を受けるのです。わたしたちは割礼や洗礼というしるしによって救われるのではなく、神の救いの御業、イエス キリストによって救われるのです。

 聖書が告げる救いは「神へと立ち帰り、神と共に生きる」ということです。もし洗礼によって救われるというのであれば、教会は洗礼だけをしていればいいわけです。けれど毎週、主が復活されたことを覚える日曜日に礼拝を献げ、神へと思いを向け、神の言葉を聞いて、神に立ち帰り、神の許から新たに歩み出すということを繰り返すのは、神と共に生きるということにわたしたちの救いがあるからです。そして、神の許に立ち帰ることができるように、神がイエス キリストを遣わし、わたしたちの罪の贖いを成し遂げてくださり、キリストがわたしたちの命となってくださいました。教会でそのことを聞いて「確かにキリストがわたしの救い主となってくださった」ということを知って「わたしもキリストを信じます。キリストの救いを受けたいと思います」と願い出た人が洗礼を受けるわけです。何も分からなくても、洗礼を受けたら救われます、と言って洗礼をするのではありません。わたしたちの救いはイエス キリストご自身にあるのであり、キリストに救われて神と共に生きるところにあります。ですからパウロはキリストは信じているけれども「割礼を受けなければ、救われない」(使徒 15:1)と言う人たちに対して「そうではない」と言っているのです。
 パウロは「わたしたちはキリストによって救われている、イエス キリストこそわたしたちの誇りであり、希望である、だからイエス キリストにこそ依り頼む」、この信仰こそが大切であり、神が与えてくださった恵みを変質させてはならない、ということを同じ旧約の信仰に生きてきたユダヤキリスト者たちに伝え、神の恵みによって救われている喜びに共に与ろうとしているのです。

 宗教改革マルティン ルターという人は、救いの確信をなかなか得られず苦しんだ人でした。ルターはその不安に襲われたとき、机に向かいペンを取って、「わたしはキリストの洗礼を受けた者である」と何度も書き記したと伝えられています。
 罪の世にあって、わたしたちの信仰はしばしば揺らぎます。その弱さを抱えたわたしたちのために、神は神の恵みを心に刻む目に見えるしるしを与えてくださったのです。洗礼は、キリストが救い主であり、キリストによって救いに入れられていることを確認するための恵みの賜物なのです。わたしたちは、この恵みの賜物を通して、神がわたしたちを造り愛していてくださっていること、神がわたしたちを救っていてくださることを、共に喜び、感謝したいと思います。

 

ハレルヤ

 

聖書通読のために 63

マタイによる福音書 7章 7~12節(新共同訳)

 

 天の父が良い物を与えようとしてることを信じて、求め、探し、門をたたきなさいとイエスは勧める。求めること、探すこと、門をたたくことは、祈ることへと通じる。命を与え、共に生きることを願っておられる神のもとに、良き物がある。
 そして神に倣って、あなた自身も良き物の源となるように勧められる。それがイスラエルの民が聞いてきた旧約の御言葉(律法と預言者)なのだとイエスは言う。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

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聖句による黙想 18

ヨハネの手紙一 4章 8節(新共同訳)

  神は愛だからです。
ヨハネの手紙一 4章 16節(新共同訳)

  神は愛です。

 

 創世記 1:27 にはこうある。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
 ヨハネの手紙一 4章を読んだとき、神のかたちとは「愛」だと思った。
 創世記 1:27 は、すべての人に当てはまる聖句だと思っている。キリスト者だけでなく、神が創造主ならば神が造ったすべての人に当てはまる聖句だと思っている。そして、すべての人に共通する神のかたちとは、「愛」だと思った。
 だから人は、神を信じているいないに関わらず、愛すること愛されることを求めて止まない。罪ゆえにその愛が歪んでいても、すべての人が愛すること愛されることを必要としている。
 「罪によって創造のときの神のかたちは完全に壊れている」と主張する人もいるが、わたしはその意見に賛同しない。
 人は愛を求めている。しかし、罪ゆえに(正しく、あるいは神のように)愛せないし、満たされない。人は神に出会い、神の愛を受けなければ、この渇きは満たされない。必要なはずの愛に傷つき苦しんでいる。
 なぜなら、人は、愛である神にかたどって造られているからである。

ハレルヤ

 

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聖句で辿る聖書 70

出エジプト記
16章 23節(新共同訳)

モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。」


 神は休息を与えてくださる。十戒を見れば分かるとおり、「男女の奴隷も、家畜も、寄留する人々(信仰の違う人々)」にも与えられる(出エジプト 20:10)。
 民は神の僕(奴隷)であるが、神はいわゆる奴隷のように民を扱われない。神は民が救いに与って生きられるように、「安息日を祝福して聖別された。」(出エジプト 20:11)

 

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ルカによる福音書 22:47〜53

2018年1月7日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 22:47~53(口語訳)
 
 イエスは、弟子たちとの最後の晩餐を終え、オリブ山のいつもの場所に祈るために来られました。イエスは十字架を前にして、苦しみもだえて、切に祈られました。汗が血の滴りのようにポタポタと地に落ちるほど切に祈られました。イエスは弟子たちに共に祈るようにお求めになりましたが、弟子たちはイエスと思いを共にして祈ることはできず、悲しみの果てに眠ってしまいました。
 そこへイエスを捕らえるために一団の人々がやって来ました。おそらくイエスを逮捕するために派遣された者たちと、イエスが逮捕されるというので集まった人たちがいたのでしょう。そしてその先頭にいたのは、十二弟子の一人ユダでした。彼はイエスに接吻しようとして近づいてきました。

 そこでイエスは言われます。「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか。」
 かつてエデンの園で、アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは神の顔を避けて、木の間に身を隠しました(創世記 3:8)。罪人は、神から隠れることができる、神に自分の罪を知られずにいることができると考えます。イエスは自分を裏切るユダに対して「わたしはあなたを知っている」と示されたのです。ユダは気づくべきでした。イエスは自分のことを知っておられた、それでもイエスは自分を弟子にして側に置いてくださった、主はわたしを招いていてくださることを気づくべきでした。しかし残念ながら、ユダは気づけませんでした。

 「イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、『主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか』と言って、そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落し」ました。ヨハネによる福音書は、切りつけたのはペテロであり、耳を切り落とされたのは大祭司の僕マルコスであったと記しています(ヨハネ 18:10)。
 38節を説教したときに申し上げましたが、ルカが剣と言っている言葉は「過越の子羊を屠り解体するための小刀」であるという理解があります。この場面でも、ペテロは漁師であって、剣の扱いに慣れた兵士ではありません。剣を振り回してたまたま耳だけを切り落としたと言うよりも、小羊の解体などで使い慣れている小刀で切りつけたという方が、合点がいきます。

 イエスは弟子のこの行為に対して「それだけでやめなさい」と言われ、その僕の耳に手を触れて、おいやしになられました。
 それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら(神殿の守衛長)、長老たちに対して言われます。「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。」

 罪に支配されているとき、人は自分が何をしているのか、それがどうなるのか理解することができなくなります。丁度暗闇の中にいるように、自分でも見えないし、周りからも見えないと思ってしまいます。
 しかし、イエスの言葉は、彼らがみんなの前で堂々とすることのできないことを、今闇に紛れてしていることを指摘します。

 ルカがこの場面で示そうとしていることは、イエスの前に立ち、イエスの言葉を聞くとき、人が今何をしようとしているのか、どんな状態にあるのかが明らかになるということです。
 人が自分の顔を見るためには、鏡に映さないと見えないように、自分自身を知るためには、キリストの前に立って、神の言葉を聞かなくてはなりません。
 イエスは、自分を裏切ったユダに対しても語りかけられます。自分を逮捕し殺そうとしている祭司長、長老、宮守がしら(神殿の守衛長)に対しても語りかけられます。イエスの言葉は、悔い改めへの招き、救いへの招きです。今の自分自身がどんな状態なのかを示し、何に導かれ、どこへと向かっているのかを示します。そして自分を滅ぼす道を行くのではなく、悔い改めて神へと立ち帰り、救いに与るようにと導く、招きの言葉なのです。

 ルカはただ起こった出来事を記しているのではありません。イエス キリストこそ救い主であることを告げようとしています。裏切る者・殺そうとする者にも語りかけ、救いへと導こうとされるイエス キリストによって、今もわたしたち一人ひとりに救いが差し出され、救いへと招かれていることを告げようとしているのです。

 教会の内でも外でも、二千年にわたって、ユダがなぜ裏切ったのかが問われ続けています。しかし不思議なほどに、聖書はユダの裏切りの理由についてほとんど語りません。この場面でも、ルカが記すのは、イエスは自分を裏切った者、自分を殺そうとする者にも語りかけ、救いへと招かれる、そしてその者たちのためにもイエスは十字架を負われたということです。
 おそらくわたしたちの多くも、なぜユダは裏切ったのかということに関心を抱いているでしょう。けれども、聖書はそこを指し示すのではなく、イエス キリストが裏切った者、殺そうとして捕らえに来た者にも語りかけ救いへと招かれたということを語ります。
 わたしたちも罪の世で歩む中で、自分の弱さや愚かさ、罪深さに失望することがあるでしょう。けれども、イエスはそのあなたを知っておられます。そしてイエスが「わたしに従ってきなさい」と招かれたのです。あなたは自分に、この世界に失望しているかもしれない。しかし今このときでさえ、イエスはあなたに語りかけられ、招かれておられる。イエスはあなたのことを見捨てることもないし、見放すこともない。この方があなたの救い主なのだ、と聖書は告げているのです。ですからわたしたちもこの場面を読むときに、なぜユダが裏切ったのか、ということに囚われてしまうのではなく、聖書が指し示しているイエス キリストにこそ目を向けていかなければなりません。そしてイエス キリストに出会い、その言葉が自分に向けて語られた言葉なのだと聞くとき、わたしたちは今この所からキリストに導かれて、救いへと招き入れられるのです。
 聖書は告げます。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ 5:8)
 神は今も、イエス キリストを通してわたしたち一人ひとりを救いへと招き続けていてくださるのです。

ハレルヤ

 

聖句による黙想 17

創世記 1章 26〜28節(新共同訳)

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 

 神は人をご自分にかたどって創造された。そして人に祝福を与え、地を治める務めを託された。
 26節の「我々」についてはいくつか説がある。わたしは、熟慮を表す複数であり、三位一体の神を示すものと理解している。(参照:蓮見和男『対話する神 −三位一体論』新教出版社、105〜106ページ、林嗣夫『青少年のための聖書の学び 創世記』日本キリスト教会教育委員会、29ページ)

ハレルヤ

 

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