聖書の言葉を聴きながら

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聖句で辿る聖書 61

出エジプト記
13章 8節(新共同訳)

あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。


 親は子に、神を証ししなければならない。

 

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ローマ人への手紙 3:19, 20

2017年9月17日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ人への手紙 3:19, 20(口語訳)

 

 きょうの箇所の中心となるのは「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」です。
 パウロは、キリストによる以外に救いはないことを明らかにしようとしています。だからパウロは「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31)と述べています。罪人は、神の御前でキリスト以外の何ものも誇るものがないということです。しかし、人は何かしらキリスト以外にも誇りを持ち、自分自身の内に自分の価値を持ちたいと願っています。ユダヤ人であれば、割礼を受けている、旧約の御言葉、そこにある数々の戒めを知っている、イエス キリストを知ってきのうきょう真の神を信じた人たちとは違うなど、自分自身の価値を持ちたいと思っています。
 しかしパウロはいいます。「すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」だと。

 律法というのは聖書の用語です。律法のもとにある者とは、直接的にはユダヤ人を指しています。それなのにパウロは「それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」だと言うのです。なぜでしょうか。それはすべての人が律法のもとにあるからです。
 律法とは、端的に言って戒めのことです。掟と言ってもいいし、ルールと言ってもいいでしょう。どんな集団であっても、人が共に生きようとするところには、律法があります。それは、ときに法律という形を取ることもあり、マナーやエチケット、暗黙の了解という形のこともあります。一緒にゲームやスポーツをしようとすれば、そこにもルールが必要となります。すべての人は、生きていくとき、律法のもとにあるのです。
 けれども「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」のです。

 世には良識のある人たちがいます。様々なレベルの律法、ルールを適切に守り、共に生きる生活が円滑に進むように配慮できる人たちがいます。しかしどんなに行き届いた人、周りから賞賛され認められる人であっても、罪がもたらした死から自由になることはできません。自分自身もそうですし、周りの人々も罪と死から自由にすることはできません。
 パウロは「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」だと言っています。それは、この世のルール、約束事を完璧に守る、守らせることでは救いは現れないからです。この世のルールは、救いをもたらす力はありません。
 神の律法については、イエスが律法学者の問いかけに答えて「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ 12:29~31)と言われました。イエスは律法の根幹は「愛する」ことであることを指摘されました。おそらく誰もが「愛は大切だ」と思っています。そして愛そうとします。しかし人はしばしば、愛することに躓いてしまいます。疲れてしまいます。愛せなくなります。大切だと分かっていても、できなくなります。自分には愛を貫く力はない、という罪の自覚が生じるのみです。主イエスのように、裏切る者をさえ食卓に招き、その前に身をかがめて足を洗い、自分を嘲る者殺そうとする者のために執り成し祈り、命を献げて愛し抜くことは誰にもできません。イエス キリストによって示された神の愛を前にしたとき、わたしたちは口をつぐむしかないのです。

 わたしたちは神の愛の前で言い訳をします。「わたしは自分のできる精一杯のことをした。人間なんだから完璧でないのは仕方ない。人間に完全な愛を求めるとしたら、神の方が間違っている。」しかしどんな言い訳をし、自分の正当性を主張しても、それで神の前に義とされることはありませんし、罪と死から自由になることもありません。
 そして「すべての人間は神の前に義とせられない」ことを受け入れずして、神が与えてくださる救いに与ることはできません。神が用意してくださった救い以外に、わたしたちが救われる道はないのです。この神の言葉である聖書を誠実に受け止め、神の御前に自らの罪を認め、神へと悔い改め、神が用意してくださった救いを感謝して受ける以外に救いの道はないのです。わたしたちは自分で自分を救うことはできないのです。救えるようなものを何一つ持ってはいないのです。神がわたしたちを憐れんでくださり、救い主としてひとり子イエス キリストを与えてくださったので、イエス キリストによって救われるのです。わたしたちは神に救われるのでなければ、罪によって滅びる罪人なのです。わたしたちはこのことをきちんと理解する必要があります。

 神の御前で、すべての口はふさがれ、すべては神の裁きに服さねばなりません。しかし神の裁きに服するからこそ、神の救いを受けることができるのです。神は罪を大目に見て見逃したのではなく、ひとり子の命をかけてまで、罪を裁かれました。しかし神の裁き、キリストの十字架から救いが現れ、和解の福音が語られ始めたのです。わたしたちは神に救って頂くのです。すべてを救って頂くのです。自分の誇りは自分の誇りとして取っておいて、自分の力の足りない部分だけ神に救って頂くのではないのです。自分のすべてを丸ごと救って頂くのです。神の裁きによって、罪から引き離され、清められ、イエス キリストのものとされていくのです。
 罪は知りたくない、裁きは受けたくない、でも救いはほしい。これでは神が用意してくださった救いに与ることができません。聖書を通して神を知り、罪を知って、神へと悔い改め、神に導かれて救いに入れられるのです。ですからパウロは、徹底的に語ります。「あなたの持っている誇りのどれ一つも救いのためには役に立たない。かえって妨げにさえなる。」パウロは容赦なく人間の主張、誇り、言い訳を打ち砕いていきます。けれどそれらが打ち砕かれていったとき、神が備えてくださった救いがわたしたちの目の前に現れてきます。
 神はひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださった。そしてイエス キリストだけが、わたしたちの救いとなってくださった。神は本当にわたしのすべてを知った上でわたしを愛してくださっている。神はどんなときもわたしを愛し抜いてくださる。その神に出会っていく、イエス キリストによって真の神を知っていく、そのところでわたしたちは限りない救いの中に入れられていくのです。

 ですからパウロは、この手紙を真剣に書いています。「神がなしてくださった救いを正しく知らないで、間違った救いを言い伝えてはならない。イエス キリストこそ救い主であり、どのような罪からも救ってくださる。この方を遣わしてまでわたしたちを救ってくださる神の愛の前に、たとえ死でさえも立ち塞がることはできない。神はわたしたちと共に生きることを願っておられる。どんなに多くの人が神を信じても、このわたしが神を信じないで滅びるということを神は喜ばれない。このわたしさえも完全に救うために、神はキリストをお遣わしくださった。」そのことに気づくように、知るように、パウロは真剣にこの手紙を書いています。
 この罪を指摘する部分を読んで、自分の罪を指摘されると、楽しくないかもしれません。しかし、キリストの救いに与るために、このことを知って神の御前に立たなくてはならないのです。キリストの使徒とされたパウロの切なる願いが込められています。

 この世は明るく楽しく生きることを提示します。それはとても魅力的に見えます。しかしこの世は、死以外の未来を提示することはできません。そしてこの世は、真の神を提示することもありません。神ご自身だけが、罪からの救いを提示し、死を打ち破る未来を示してくださいます。
 神の言葉である聖書に聞いていくとき、真の救い主イエス キリストと出会います。イエス キリストと出会うとき、神の真実な愛を知り、それを喜んで受け取ることができます。神が用意してくださったこの救いの他に、自分に都合のいい救いはありません。ですから、すべての民は御言葉に導かれて、神の御前に立つのです。時代が変わり、社会が変わり、世界が文明がどんなに変わろうとも、いつの時代に生きている人も、御言葉に導かれて、神の御前へと立ち帰るのです。
 そして、神が罪を裁いてくださり、わたしたちを罪から自由にしてくださり、キリストの救いへと導き入れてくださるのです。神がキリストと同じ姿に、このわたしを変えていってくださる。この言葉は真実です。この言葉が実現するために、キリストは人となられました。十字架を負われました。命を献げてくださいました。そして死を打ち破り、復活し、天に昇られました。神が決して揺らぐことのない希望、死によってさえ奪われることのない希望を与えていてくださいます。わたしたちは神ご自身の御手から、このわたしのために備えられた命と未来を受け取るのです。

 

ハレルヤ

 

聖書通読のために 59

マタイによる福音書 6章 33, 34節(新共同訳)

 

 人は未来に不安を抱く。不安要素があれば、それだけ不安も増す。イエスは「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われる。そのためには、自分の人生を救いへ、神の国へと導かれる神を覚えなければならない。
 イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と教えられる。
 神の国とは、神のご支配のこと。神の義とは、神との正しい関係のこと。神との良い関係を保ち、神のご支配に留まろうとしていくとき、神が必要なものを備えてくださることを見る。アブラハム以来、神はそのようにしてご自分の民を導いてこられた。
 神の国と神の義に思いを向けよう。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

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聖句で辿る聖書 60

出エジプト記
13章 2節(新共同訳)

 

すべての初子を聖別してわたしにささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである。

 


 神が与えてくださった最初のものを、神に献げる。

 

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聖句による黙想 13

創世記 1章 27, 28節(新共同訳)

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。

 

 「支配」という言葉には悪い印象が付きまとう。
 しかし、神にかたどって創造された人間に与えられた務めは、神の御心に従って世界を治める務めである。神が世界を創造されたとき、「よかった」と喜ばれ、祝福された。その神の喜びと祝福が世界を満たすように、人は世界を愛し、世界を治めるのである。

 

ハレルヤ

 

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聖書通読のために 58

マタイによる福音書 6章 25~32節(新共同訳)

 

 「思い悩む」という言葉が何度も言われる。思い悩むには、不安と迷いが感じられる。人は、未来を知ることができない。そして、幸せな未来を得たいと思い悩む。
 この思い悩みから自由になるには、神(天の父)があなたを心にかけ導いていてくださることを知らなくてはならない。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(1ペトロ 5:7)
 命を造られた神は、造ったものと共に生きることを願っておられる。神の思いがわたしたち一人ひとりに向けられている。だから、思い悩むのではなく、神に祈り、神に委ねて生きるのである。

 

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

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ルカによる福音書 22:21〜23

2017年9月10日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカによる福音書 22:21〜23(口語訳)

 

 最後の晩餐の最中に、イエスはこの場に自分を裏切る者がいることを告げます。

 なぜイエスを裏切る者がこの場にいるのでしょうか。それは、イエスが自分を裏切る者を招かれたからに他なりません。イエスの救いへの招きは、裏切る者にさえ与えられます。裏切るような罪を持っていても招かれるのです。始めから招かれていない者など一人もいません。問題は、招きに応えるかどうかなのです。
 ここでイエスが裏切る者がいることを話されたのは、イエスが裏切ることを知っておられるのに、なおその者をこの最後の晩餐に招かれたことに気づかせるためです。その者が裏切ることは、イエスだけが知っておられます。「弟子たちは、自分たちのうちだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた」(22:23)とあるように、弟子たちは誰が裏切るのか全く分かっていません。
 イエスは、神が定められたとおり命を罪人のためにお献げになります。しかしだからといって、イエスを裏切るのが正当化されるわけではありません。イエスを裏切るその人は災いなのです(22:22)。

 祈り会では今、詩編を読んでいます。詩編の前にはエゼキエル書を読みましたが、エゼキエル書33章にはこう書かれています。「人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。」(33:10, 11)「わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼がその罪を離れ、公道と正義とを行うならば、すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行ったのであるから、必ず生きる。」(33:14~16)「悪人がその悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼はこれによって生きる。」(33:19)
 神は「悪人の死を喜ばない」と言われます。「悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ」と言われます。神が悪人に悔い改めを求めて「あなたは必ず死ぬ」と言っても、それは変えることのできない裁きの宣言ではなく、今の有り様が死に向かっていることを告げて、そこから悔い改めて神に立ち帰るように、神が迫っておられるのです。ですから悪人が悔い改めて、その罪を離れて公道と正義とを行うならば、「彼は必ず生きる。決して死なない」と神は自ら語られた「あなたは必ず死ぬ」という言葉を翻して、生きる道を開かれるのです。神が求めておられること、神が願っておられることは、悔い改めて神に立ち帰ることであり、神と共に生きることなのです。
 ですからこの最後の晩餐の席で、イエスが「裏切る者がいる、わたしはあなたが裏切ることを知っている」と言われ、しかしその者の名前を明らかにすることなく、それ以上責めることもなさらなかったのは、「わたしを裏切るあなたを、わたしは招いている」ということに気づかせるためでありました。

 聖書には、神の裁きについて書かれており、神が裁かれたことが書かれています。しかし、神の裁きはわたしたちを悔い改めへと導き、神と共に生きることへと招くためです。イエスは十字架で殺されましたが、霊においては生かされ、陰府に降り、獄に囚われている霊たちに宣べ伝えてくださいました(2ペテロ 3:18, 19)。生きている者にも、死んだ者にも神の招きが伝えられます。神は、ご自分が造られたすべての者が悔い改めて、神へと立ち帰ること、そして神と共に生きることを願っておられます。

 裏切るということは、卑劣な行為だと考えられています。裏切ることは、信頼を破壊する行為です。神がわたしたちに信じることをお求めになるのも、共に生きる関係において「信じる」ことはなくてならないことだからです。神とわたしたちの間においても、わたしたち人間同士の間でも、信じる関係が成り立たなくては、共に生きていくことができません。
 ここで裏切る者とは、第一にはユダを指しています。しかしユダだけが裏切ったわけではありません。他の弟子たちも、イエスを見捨てて逃げ去る者、イエスを知らないと言う者たちでした。だから皆、裏切る者に対する招きの言葉を聞かなくてはならなかったのです。自分の信仰の小ささ弱さが露わになったときに、なおその自分をイエスが招いていてくださることに気づくため、イエスのこの言葉を聞いておかなければならなかったのです。

 わたしはユダの一番の間違いは、自分が裏切ることを知っていてなお招いてくださったイエスの言葉を忘れて、自ら命を絶ったことだろうと思います。イエスは間違いなくユダの悔い改めを願っておられました。たとえ、ここでユダが悔い改めたとしても、イエスは何らかの仕方で祭司長や長老たちの手に渡され、神が定められたとおり、十字架を負われたことでしょう。イエスはこの時、そしてこの後でも、ユダが悔い改めることを願っておられました。しかしユダは事が起こった後、後悔して自ら命を絶ちます。
 けれど、まだ終わりではないのだと思います。イエスは陰府にまでも行って、宣べ伝えるお方です。
 果たしてユダが悔い改めてイエスを信じるかどうかは、わたしの知るところではありません。救いは神がお決めになることです。そして悔い改める時、信じる時も神の御心によるものです。わたしたちが知ることができるのは、神が聖書において啓示されていることです。そして、その神の言葉である聖書は、神の招きは裏切る者にさえ差し出されていることを教えています。

 わたしたちの弱く小さな信仰も、しばしば躓き、時に神を裏切るでしょう。自分で自分にがっかりし失望することもあるでしょう。しかしその時にも、わたしたちは招かれているのです。わたしたちのすべてを知っておられる神は、わたしたちが悔い改めて神へと立ち帰り、神と共に新しく生きることを願っておられます。そのことを信じることができるようにと、神はひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしくださいました。イエス キリストは最後失望して十字架にかかられたのではありません。裏切ることも、知らないと言われることも知っておられました。だからこそ、その罪人たちを救うために、この世に来られ、十字架の道を歩んでくださいました。わたしたち一人ひとりのために、わたしたちの罪深さも弱さも愚かさも知っておられる主が、十字架を負われ、命を献げてくださいました。それこそがわたしたちに対する神の御心であるということを、神は聖書を通して繰り返し何度でも語りかけてくださるのです。だからわたしたちは、罪の世にあって神の言葉である聖書から聞き続けるのです。
 神の言葉である聖書が、愛と憐れみに富みたもう真の神と出会わせてくださいます。そして神の許にこそ、わたしたちの救いがあり、命があり、未来があるのです。
 どうか今、神の招きの声を聞いて、救いに与っていかれますように。

 

ハレルヤ