聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 19:16b〜22

2019年4月14日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 19:16b〜22(新共同訳)


 イエス キリストが十字架を負われた週を受難週と呼びます。今週がその受難週です。

 イエスはユダの裏切りにより、ローマの歩兵隊と最高法院に仕える役人たちによって逮捕されました。
 エルサレムの指導者たちは、イエスを死刑にしようとしていました(11:53)。当時、ユダヤローマ帝国支配下にあり、ローマから派遣された総督の許可なくして、死刑を執行することができませんでした。そこでイエスは、大祭司の尋問を受けた後、総督官邸に連れて行かれ、総督ピラトの尋問を受けます。エルサレムの指導者たちは、ローマに対する反逆罪でイエスを訴えました。
 しかしピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(18:38)と言ってイエスを赦そうとします。それで、ユダヤ人たちは必死でイエスを死刑にさせようとします。
 ついには「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(19:12)と言ってピラトを脅し、ピラトにイエスを十字架につける許可を出させます。

 こうして彼らはイエスを引き取り、十字架につけるためにヘブライ語ゴルゴタされこうべの場所、髑髏の場所」と呼ばれる処刑場へとイエスを向かわせました。

 しかし聖書はここで「イエスは、自ら十字架を背負い」と記します。ヨハネによる福音書は、一つの表現に複数の意味を重ねて表現するという特徴があります。
 ここでも、イエスは自分がつけられる十字架を自分で背負ったという意味だけでなく、イエスは十字架を負わされたのではなく、自ら負われ、自ら十字架の道を進まれたことを表しています。
 福音書は、逮捕の場面でも「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て」(18:4)と記しています。福音書の編集者は、イエスが、逮捕された、十字架を負わされたという受け身ではなく、ご自分の身に起こることを何もかも知っていて、逮捕しに来た者たちの前に自ら進み出て、尋問でも語るべきことを語り、自ら十字架を負われたのだと確信しています。イエスは、運悪く逮捕されたのでも、残念なことに十字架につけられたのでもありません。罪人を救いたいという父なる神の御心を共にして、自ら十字架を負うために進み行かれたのです。

 イエスを亡き者にしようとしたユダヤ人たちは、ゴルゴタでイエスを十字架につけます。また一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして、その両側に十字架につけました。この一緒に十字架につけられた二人については、ルカによる福音書が記述しています(ルカ 23:39~43)。
 十字架は、ローマに対する反逆者になされる刑罰で、ローマの市民権を持つ者にはなされませんでした。十字架はできるだけ苦しみを長引かせ、人々に見せしめとする残酷な刑罰でした。

 しかし、神を拒絶するエルサレムの指導者たちの不信仰、自分の立場を守るために無実と知りながら十字架を許す異邦人の不信仰さえも用いられる神の御心が、この十字架には現れていました。聖書は告げます。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ 3:13, 参照:申命記 21:22,23)。キリストはわたしたちを呪いから贖い出すために、神の民の不信仰、異邦人の不信仰さえも身に負って、十字架にお掛かりになったのです。
 神の御心は、罪人の悪意も敵意もすべてを包み込んでくださいます。イエス キリストこそ「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえ」(1ヨハネ 2:2)なのです。だからわたしたちは「自分は救われないかもしれない」という疑いが拭えなかったとしても、キリストの十字架はその疑いを打ち砕いてくださいます。わたしたちは信仰深く装うことなく、今の自分自身そのままの姿でキリストの十字架の前に進み出ることができるのです。

 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けさせました。それには「ナザレのイエスユダヤ人の王」と書いてありました。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読みました。それは、ユダヤ人の言語であるヘブライ語ローマ帝国公用語であるラテン語、そして当時の地中海世界の共通語となっていたギリシア語で書かれていました。つまり、世界の人々にイエスの十字架が告げ知らされたのです。
 すべての人がこのキリストの十字架を知り、このキリストの十字架がこの自分を罪から救い出すものであることを知って、神へと立ち帰ることができるように、初めからキリストの十字架は世界の人々に向けて語られ、証しされていたのです。そして今や、わたしたちが日本語で聞くにまで至っています。

 ここでも神の不思議が起こります。
 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と願い出ますが、しかしピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。
 ピラトは、祭司長たちが「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではありません。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(19:12)と言って、自分を脅し圧力を掛けてきたことに腹を立てていました。

 キリストの十字架の出来事は、全く信仰に囲まれていません。敵意、悪意、不信仰が取り囲みます。それでも神のご計画は実現されるのです。ひとり子を遣わしてまで、その命をかけてまで、わたしたちを救おうとされる神の愛の前に立ちはだかることのできるものは何一つありません。
 どれほど世界が混沌としているように見えても、罪の世の現実を前にして希望など持てないように思えたとしても、どんなものも神の御心を妨げることはできません。イエス キリストは、敵意、悪意、不信仰のただ中を揺らぐことなく進み行かれ、十字架で罪に勝利されたのです。

 ですから「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めて」(ローマ 8:37)いるのです。キリストの十字架と復活によって、罪と死に勝利しているのです。わたしたちは、キリストの十字架によって、キリストのものとされています。キリストがご自身の命を代価として支払われ、わたしたちを罪の支配下から贖い出し、ご自身のものとしてくださったのです。キリストの命によって、わたしたちは贖われ、今キリストのものとされているのです。ですから、イエス キリストがわたしたちのただ一人の主なのです。生きているときも、死に臨むときも、わたしたちは既にわたしたちの真実な救い主、イエス キリストのものとされているのです(ハイデルベルク教理問答 問1)。ですからもはや、罪もこの世の力もどんなものも、わたしたちをイエス キリストから引き離すことはできないのです(ローマ 8:38,39)。

 だからわたしたちは「主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝」(1コリント 15:57)するのです。その感謝を献げる場が、祈りであり、礼拝なのです。わたしたちが、神の救いの御業、そして父・子・聖霊なる神ご自身を喜ぶことができるようにと、礼拝を通して、御言葉と聖礼典を通して、神の救いの御業を語り続けてくださっているのです。

 実は、わたしたちがイエス キリストを知っている、信じているというのは、ものすごいことです。信仰は、わたしたちがキリストの救いに与り、キリストと共に生きていくために、神が与えてくださった恵みの賜物です。
 どうかキリストを知っていること、信じていることを、決して小さなことだと思わないでください。信仰は、神がわたしたちを捉え導いていてくださる証しです。信じているわたしたちがすごいのではありません。わたしたちに信仰を与えてくださった神の恵みがすごいのです。ある信仰の先輩は語ります。「一人のキリスト者が生まれるということは、天地創造に匹敵する奇跡である」と。
 この神の恵みにより、わたしたちは、信仰を通して、キリストの十字架がわたしたちのためのものであることを知り、救いのただ中に今入れられているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いのために、イエス キリスト自ら進み行き、十字架を負ってくださったことを感謝します。あなたは十字架によって、敵意も悪意も不信仰も、あなたの御業を妨げることができないことを証ししてくださいました。どうかキリストの十字架によってわたしたちのすべての罪が贖われ、赦され、救いに入れられていることを確信させてください。どうかこの時、主がわたしたちのために成し遂げてくださった十字架を仰ぎ、あなたの愛の深さを知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 12:12〜19

2019年4月7日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 12:12〜19(新共同訳)


 イエス キリストが十字架を負われた週を受難週と呼びます。きょうの箇所はその受難週の最初の日の出来事です。

 過越祭に来ていた大勢の群衆は、イエスエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。
 新共同訳では「なつめやし」となりましたが、以前の口語訳では「しゅろ」と訳されています。これは聖書学の研究が進み、「しゅろ」ではなく「なつめやし」であることがはっきりしてきたということでしょう。新しい翻訳のものは皆「なつめやし」となっています。
 けれど長い間「しゅろ」と理解されていたので、教会暦では受難週の始まりの日曜日を、きょうの箇所の出来事から「棕櫚の主日」(Palm Sunday)と呼んでいます。

 そしてイエスが来られると、群衆は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び続けました。
 ホサナというのは「いまお救いください」という意味です(新共同訳聖書 聖書辞典、新教出版社、参照:詩編 118:25)。
 群衆は、イエスが救い主、メシアであると期待していました。その救い主とは、ユダヤをローマなど異邦人から解放し、神の民の誇りを回復してくれるダビデのような王だと期待していました。
 しかし数日後、彼らはイエスに対して「十字架につけろ」(19:15)と叫びます。彼らは先祖たちと同様、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を信じています。しかし彼らは、悔い改めて神と共に生きることを願っているのではありません。自分たちの願いをかなえてくれる都合のいい救い主を期待しています。このような思い、考え方が偶像を作り出します。そして神と共にではなく、自分の願い、都合を中心にして、神から離れていってしまいます。

 さて、イエスはろばの子を見つけて、それに乗られます。聖書は「次のように書いてあるとおりである」と言って、ゼカリヤ 9:9を引用して語ります。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って」。
 ろばはユダヤにおいては財産であり、大事な乗り物でした。しかし王や支配者の乗る動物ではありませんでした。王や支配者が好んで乗るのはろばではなくて馬でした。

 ここで群衆の熱狂的な歓迎を受けますが、イエスは一言も発してはいません。イエスはろばに乗ることによって、群衆が期待するような政治的で軍事力を行使する王ではなく、旧約の御言葉に約束された神から遣わされた救い主であることを示されました。ですから聖書は「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」と書いているのです。

 イエスが栄光を受けられたというのは、ここではキリストの昇天を指しており、天に昇られた後で、父なる神がイエスの名によって遣わされる聖霊が、すべてのことを教え、イエスが話したことをことごとく思い起こさせてくださったことを指しています。イエスは言われました。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:26)。

 イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていました。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからです。まさしくイエスが、罪と死から救い出す救い主であることを証しされていたのです。その証しを知った上で、エルサレムの宗教指導者たちはイエスを、救い主を殺すのです。知らなかったのではありません。知っていたからこそ排除するのです。宗教家であろうと何であろうと、罪人は神を拒絶し、自分を優先させるのです。

 ファリサイ派の人々は互いに言います。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」。明らかにファリサイ派の人々はいらだっています。しかし、このいらだちの言葉でさえも、イエスの死を預言した大祭司カイアファの言葉のように(11:51)神はお用いになります。聖書は言います。「神に逆らう者は厚かましく事を行う。・・どのような知恵も、どのような英知も、勧めも/主の御前には無に等しい。戦いの日のために馬が備えられるが/救いは主による」(箴言 21:29~31)。

 イエスは今、十字架に向かって進まれます。語ることなく、行いによって旧約に預言されていた王であることを明らかにして進まれます。それは、人間の賢さからすると、愚かに見えます。
 ラザロを復活させなければ、最高法院もイエスを殺そうとまではならなかったでしょう。しかしイエスは意図的にそうされました。ラザロの容態がよくないと知らされて、すぐに駆けつけず、二日間も同じ所に滞在されました(11:6)。そして「この病気は・・神の栄光のためである」(11:4)と言われました。そしてイエスは、神の栄光のためにラザロを復活させられました。

 聖書において栄光とは、神が救いの神であることが明らかになることです。特にヨハネによる福音書では、しばしば十字架を指して栄光と言います。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ 12:23, 24)。
 ラザロを復活させたことによって、イエスは十字架へと進んで行かれます。そして、神がご自身のひとり子の命をかけて、罪人の救いを成し遂げてくださったことが明らかになるのです。神の栄光が、神が救いの神であることが、イエス キリストの十字架によって明らかになるのです。ですからイエスは、神の栄光のために、ラザロを復活させられました。

 そしてこの出来事は、最高法院のメンバーに恐れを抱かせました。イエスは自分たちから民の敬意を奪っていくのではないか。ローマからの独立運動に担ぎ出され、ローマの怒りを買い、完全にローマに征服されてしまうのではないか。そしてそれらの恐れは、イエスを殺すことへと向かっていきます。

 もっと上手なやり方があったのではないか。もっともっと長く活動して、もっともっとたくさんの人をまことの信仰へと導き、救いに与らせることができたのではないだろうか。人間の賢さからはイエスの行動は愚かに見えます。
 しかし、イエスが栄光を受けられるのを見たとき、初めてそれらすべてがイエスについて書かれた旧約の成就であり、イエスを殺した者たちも含めて、人々が神の言葉どおりにしたことに気づくのです。そして、それらはすべてわたしたちの救いのためでした。

 聖書は語ります。「人の心には多くの計らいがある。(しかし)主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)。そして主の御旨のなるところに救いが生じるのです。「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。/東が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。/父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(詩編 103:11~13)のです。

 神は、人間が神を理解できなくても、神に逆らい、敵対しようとも、神は、わたしたちに対する愛を失われることはありません。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ 4:10)。

 わたしたちもいよいよイエスを知り、神の救いの恵みを知ることができるように、聖霊を求めましょう。父・子・聖霊なる神との交わりに生きることができるように、神に祈り求めましょう。わたしたちこそ、イエスを仰いで、ホサナ(いまお救いください)と讃え祈りましょう。イエスはわたしたちを救うために来てくださったのです。父も子も聖霊も、わたしたちの救いを願っていてくださいます。救いに与って、神と共に生きていきましょう。父・子・聖霊なる神のもとにこそ、わたしたちの救いがあり、命があり、未来があるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 ホサナ、どうか今、わたしたちをお救いください。あなたの救いに、あなたの命に与らせてください。いつもイエス キリストを喜んで生きる、あなたの民、あなたの子としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 11:28〜44

2019年3月31日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 11:28〜44(新共同訳)


 受難週に向けて、ヨハネによる福音書の後半から聞いている続きです。

 ベタニアに一人の病んでいる人がいました。マルタとマリアの兄弟で、ラザロという人でした。マルタとマリアはイエスのもとに人をやって、ラザロが病気であることを伝えました。
 しかしイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(11:4)と言って、なお二日間同じ所に滞在されました。
 それからイエスは弟子たちと共にベタニアに向かいますが、到着した時にはラザロは死んで葬られ、四日も経っていました。イエスが来られたと聞いて、マルタは迎えに出ます。するとそこでマルタはイエスの驚くべき言葉を聞きます。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25, 26)。

 マルタに、兄弟の死によって知らなければならない最も大切なことを伝えたイエスは、マルタにマリアを呼びに行かせます。マルタは、家に戻ってマリアを呼び「先生がいらして、あなたをお呼びです」と告げます。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに向かいます。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられました。
 マリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちも、マリアが急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追ってついて来ました。

 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、マルタと同じ言葉を語りました(11:21)。
 マリアもまた、イエスが「神の栄光のためである」と言われたラザロの死の意味を知らずにいました。

 イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、罪がもたらした死による悲しみに捕らわれていることに憤りを覚え、心かき乱されて、「どこに葬ったのか」と問うて、涙を流されました。

 ユダヤ人たちは、イエスがラザロを愛しておられたことを感じていましたが、中には「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいました。
 彼らもまたラザロの復活を見なければならない人たちでした。

 イエスは死に対する憤りを感じながらラザロの墓へとやって来られました。
 当時の墓は横穴で、入口のところは、立てられた円盤状の石を、溝を滑らせて開けたり閉じたりするようになっていました。
 イエスが「その石を取りのけなさい」と言われると、マルタが答えます。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。
 イエスはマルタに言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。

 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。
 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。
 すると、ラザロは、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。福音書は、ラザロは死んでいたということを確認するように「死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出てきた」と書いています。
 イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と命じられます。

 イエスはラザロだけでなく、わたしたちのことも愛しておられます。イエスの願は、わたしたち罪人が救われることです。罪から解き放たれて神へと立ち帰り、神と共に生きる祝福に入ることです。そして愛するすべての人を罪と死の悲しみから解放するために、イエスはご自身の命を十字架で献げてくださいます。
 決して、力及ばず捕らえられたのでも、運悪く捕まったのでもありません。まさしく「神の栄光のためであり、神の子がそれによって栄光を受けるためなのです」。聖書において神の栄光とは、神が救いの神であることが明らかになり、神の民が神を誉め讃えるためのものです。イエス キリストの十字架と復活によって、神が救いの神であり、イエス キリストがまことの救い主であることが明らかになるのです。今回のラザロの死に伴う、マルタとの会話(11:21~27)、イエスの憤り、そしてラザロの復活は、イエスご自身の十字架と復活を指し示すしるしなのです。

 わたしたちに対する神の愛の前に、ひとり子イエス キリストさえ救い主としてお遣わしになる神の救いの御業の前に、死ですら立ち塞がることはできないのです。
 イエスの言葉は、死からさえ命を呼び覚ますのです。
 イエス キリストこそ、まことに「復活であり、命」なのです。イエスを信じる者は「死んでも生きる。生きていてイエスを信じる者は、誰も決して死ぬことはない」のです。イエス キリストがご自分の命をかけてまで創り出してくださった命の絆は、わたしたちの体、この肉体が失われても、決してなくなることのない永遠の命なのです。

 イエスが祈られたとおり、このラザロの復活は、イエスの周りにいるわたしたちのためのものです。イエス キリストがわたしのそして皆さんの救い主であり、イエス キリストにこそわたしたちの救いがあり、未来があり、命があることを信じさせるためのものです。

 この救いが、今、わたしたちに差し出されています。わたしたちは、この物ではない神の救いの恵みを、信じるという仕方で受け取るのです。目に見ることのできない救い、そして永遠の命に、わたしたちが与り、神と共に生きることを神は願っておられる、そのことを信じるに至るとき、わたしたちは神の救いのただ中に入れられるのです。そして信じる者は、イエス キリストご自身を受け取るのです。イエスは、信じて受け取った者と一つとなってくださり、ご自身の救いの恵み、そして永遠の命でわたしたちを満たしてくださいます。

 ここにわたしたちの生きる道があります。死によっても奪い去られることのない本当の命の道があるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 滅びゆくこの世にあって、永遠の命を仰ぎ見させてくださり、感謝します。イエス キリストと出会うとき、わたしたちはわたしたちの救いを見、永遠の命を見、希望に満ちた未来を見ることができます。どうかわたしたちが礼拝において、御言葉において、祈りにおいて、イエス キリストと出会い、救いを知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 11:1〜11

2019年3月24日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 11:1〜11(新共同訳)


 きょうから受難週に向けて、礼拝・祈り会を通してヨハネによる福音書の後半部分からキリストの十字架と復活に思いを向けながら聞いていきたいと思います。

 一人の病んでいる人がいました。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロという人でした。
 マリアとマルタの名前も、この福音書ではここで初めて出てきます。二人の説明も詳しくは出てこないので、この福音書を読む人たちにはよく知られていたのかもしれません。マリアはこの福音書では次の12章で、イエスの足に高価なナルドの香油を塗ったことが記されています。
 ラザロの病気については説明されていませんが、重い病気だったようです。二人はイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。二人はイエスなら癒やすことができると信じていました。
 するとイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

 当たり前ですが、イエスの時代にはビデオなどというものはありませんから、この場面のすべての言葉が記録された訳ではありません。言い伝えられてきた伝承があって、それがあるとき福音書として編集されていく訳です。つまり伝えようとしている言葉が書かれているのですが、この場面は不思議に思えます。普通であれば「どんな具合か」とか「熱はあるのか」とか聞くと思いますが、記されたイエスの言葉を読むと、イエスはラザロの状態を知っておられたように思われます。そしてイエスの言葉を聞いた者たちは「ラザロの病気は治るのだな」と思ったと思います。なぜなら、イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在されていたからです。イエスは急いでラザロのもとに駆けつけませんでした。一緒にいた者たちは「ラザロの病気はたいしたことはないのだな」と思ったろうと思います。しかし実際はそうではありませんでした。

 人は病気になります。多くの人は当たり前に病気になります。そして大きな病気にかかったとき、人は「どうしてわたしが」と問います。病気になりたいと思っている人はいません。神に病気を求める人はいません。それなのに病気になってしまう。神がその人を忘れているからでしょうか。神の配慮が欠けていたのでしょうか。それとも本人の信仰が足りなかったのでしょうか。マルタとマリアもイエスに「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。ラザロが病気であることをイエスが知れば、治してくださると期待していました。
 しかしイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言って、二日間同じ所に滞在されました。福音書は5節ではっきりと「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と書いています。イエスがすぐに駆けつけなかったのは、配慮が足りなかったのでも、愛が足りなかったのでもありません。すべては神の栄光のためになされ、導かれていました。

 栄光は、誉め讃えられるものです。神の栄光は、神が救いの神であることが明らかになることであり、それによって民が神を誉め讃えるものです。このヨハネによる福音書では、イエスの十字架も栄光として描かれています。病であっても、苦難であっても、死であっても、神はそれをわたしたちが神と出会い、神が救いの神であることを知るときとしてくださるのです。

 それからイエスは弟子たちに言われます。「もう一度、ユダヤに行こう」。今イエスは 10:40に書かれているように「ヨルダンの向こう側」におられます。そして福音書が「ベタニアに行こう」ではなく「ユダヤに行こう」と記したのは、ユダヤの指導者たちとの緊張関係が高まっていたからです。
 弟子たちは言います。「ラビ(ユダヤ教の教師を呼ぶときの敬称)、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。10:31には「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と書かれています。
 するとイエスはお答えになります。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」。
 昼間というのは、イエスが救い主として活動するのに神から与えられている時間を指します。イエスはご自身の逮捕の時に「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(ルカ 22:53)と言っておられます。イエスは、神が時を定めておられることを知っています。そして罪人の救いのためにご自分が命を献げるために世に来られました。

 イエスはこの言葉を通して、神が時を支配し導いておられることを示されます。そしてわたしたちが思いを向けるべきは、神の光の内を歩くことです。イエスはこう言っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。・・暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。・・わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ 8:12, 12:35, 12:46)。

 光に照らされてこそ見えるのです。神の栄光を見るためには、光であるイエス キリストに照らされることが必要です。イエス キリストの光の内にあってこそ、病気が神の栄光のためであることが見えてきます。そして、イエス キリストの愛を受けてこそ、神がわたしを顧み導いていてくださることを知ることができるのです。
 そのしるしとして、イエスはラザロを起こしに行かれます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。

 ここで眠っているとは、永久(とわ)の眠りという言葉があるように、死んでいるということを表します。その死の眠りから起こすことは、イエスの御業は死にさえ勝利するというしるしです。

 わたしにとって、死は空しさそのものです。結局人はみな死んで終わります。しかし、人生が死んで終わりではなく、死の後に神の救いを見ることを確信させてくれるのが、イエス キリストであり、神の言葉である聖書です。神は、罪人が死んでしまうのは仕方ないとは思わず、罪と死からの救いの御業をなしてくださいました。それを自ら証ししてくださったのが、イエス キリストです。死に勝利されたイエス キリストが、わたしたちを、そしてわたしたちの愛する者をも起こしに来てくださいます。
 そしてそれを信じるしるしの一つとして、ラザロの復活はなされます。

 この受難節と復活節は、代々の聖徒たちと共にキリストの光に照らされて神の救いの御業を確信する時なのです。
 この人を見よ。イエス キリストを見よ。イエス キリストこそ、罪と死からわたしたちを救い出し、永遠の命へと目覚めさせてくださるまことの救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この受難節・復活節に、イエス キリストの救いの御業を仰がせてください。イエス キリストの光に照らされて、わたしたちの人生のすべてがあなたの栄光が現れるためのものであることを信じさせてください。どうかわたしたちをあなたにある平安、喜び、希望に与らせてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 2:13〜22

2019年3月17日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:13〜22(新共同訳)


 きょうの箇所の出来事は「宮清め」と呼ばれてきた出来事です。
 この宮清めは、4つの福音書すべてに記されています。ですが、このヨハネの記事は他の福音書と趣が異なります。例えば、他の3つの福音書には「わたしの家は・・祈りの家と呼ばれるべきである」(マルコ 11:17, マタイ 21:13, ルカ 19:46)というイザヤ書(56:7)の言葉が引用されていますが、ヨハネにはそれがありません。
 ヨハネによる福音書には、他の福音書とはまた違った伝えたいことがあるのです。きょうはそのヨハネによる福音書がわたしたちに伝えようとしていることを聞いていきたいと思います。

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスエルサレムへ上って行かれました。
 過越祭の前にわざわざ「ユダヤ人の」と書いているので、この福音書ユダヤ人以外の人に読まれることも想定しているようです。
 過越祭とは、出エジプトを記念する祭りで、五旬祭(七週祭)、仮庵祭と共にユダヤ教の三大祭りの一つに数えられるものです。
 このヨハネによる福音書では、過越祭が3回出てきます(6:4、11:55)。ここからイエスの救い主としての活動(公生涯)が約3年間であったろうと考えられています。
 ちなみに20節には「この神殿は建てるのに四十六年もかかった」とあります。ヘロデ王が神殿の再建を始めたのが紀元前20~19年頃のことです。そうするときょうの箇所の出来事があったのは、紀元27~28年頃と思われます。そこから3年間の活動期間があって、それでイエスが十字架に掛けられたのは紀元30年頃と考えられている訳です。

 イエスは神殿に入られると、境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になりました。
 おそらくこの場所は、神殿の一番外側で異邦人も入ることのできる「異邦人の庭」と呼ばれていた場所ではないかと思われます。ここでは神殿で献げる動物たちを売っていました。神殿に来るのに、動物を連れてくるのは大変なので、重宝だったと思います。また神殿で献げる貨幣がローマの貨幣だと、そこにローマ皇帝の像が刻んであって献げ物としては不適当だと考えられ、ユダヤの貨幣と交換する両替所がありました。当然商売ですから、もうけが出るようなっていましたし、人々は観光に来たのではなく、神に献げ物をし礼拝するために来ていますから、ほとんどの人が利用するようになっていました。

 イエスはそこで、手近にあった縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒しました。一言で言えば、乱暴狼藉を働いたのです。一緒にいた弟子たちも驚いて、固まってしまったのではないかと思います。
 イエスは鳩を売る者たちに言われます。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 商売をしている者たちにとって、神殿はお店と同じです。どうしたって売り上げが気にかかります。神と出会うための場所で神以外のものが気になってしまいます。ましてやイエスは「神と富とに仕えることはできない」(マタイ 6:24、ルカ 16:13)と教えておられます。
 日本キリスト教会においても、教会が神と出会い神との交わりを持つ場所として整えるように心がけてきました。わたしが祈りの際に献金の用意をするのを止めるようにお願いするのも、同じような理由からです。礼拝と祈りは、わたしたちが神と共に生きるために世の初めから与えられた大いなる恵みです。礼拝に出ていたらいい、献金を献げたらいいのではありません。神が求めておられるのは、わたしたち自身なのです。聖書は告げます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ 12:1)。ですから、礼拝、そして祈りにおいて神以外のものに思いが向いてしまわないように注意しなければなりません。

 このときイエスの行動・言葉を見聞きした弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という詩編(69:10)の言葉を思い起こしました。神の家を思う熱意が、神を食い尽くすというのは、わたしたちの心をざわつかせます。しかしいろいろな形で現実に起こります。
 中世の教会は、教会堂を補修しきれいにするため、新たに教会堂を建てるため、贖宥状(免罪符)と言われるものを売ってお金を集めました。この贖宥状を買えば、神の国に入ることができるなどと言って買わせたのでは、キリストへと思いを向ける必要がなくなり、キリストへと思いを向ける機会を奪ってしまいます。教会のためであっても、わたしたち罪人の熱心は、神の御心に背き、裁きの対象となることを心に留めておかなくてはなりません。神との出会い、交わりを妨げていると気づいたならば、それを手放し捨て去る覚悟が信仰には必要です。

 商売を邪魔されたユダヤ人たちは、イエスに言います。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。
 イエスは答えて言われます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」。これを聞いてユダヤ人たちは言います。「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。
 福音書はこれに対して「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と告げています。弟子たちは、イエスが死者の中から復活されたとき、イエスがこう言われたのを思い出して、聖書とイエスの語られた言葉とを信じました。つまり、この出来事のときには理解できずに、イエスが復活されてから、イエスが救い主としての活動の初めから復活のことを語っておられたことに気づいたのです。
 そして復活を語っていたということは、ご自分のの死についても語っておられたことにも気づいたということです。前回のカナのぶどう酒の奇跡も復活の後で理解されたのです。キリストと結ばれたことを祝うぶどう酒は、キリストご自身が十字架を負い、血を流されたことによって用意されました。すなわち、キリストご自身によって祝いのぶどう酒は用意されたということも、復活の後に気づかされたのです。

 弟子たちは、復活の後でイエスの言われていたことを思い出して、聖書とイエスの語られた言葉とを信じました。ここで言う聖書とは旧約のことです。この福音書ができたときにはまだ新約は成立していませんでした。ここで聖書とイエスの言葉を信じたとあるのは、メシア=救い主を預言する旧約の言葉と、旧約の言葉の成就であるイエスの言葉を信じたということです。

 わたしたちも、弟子たちと同じようにイエスの復活から聖書の言葉を聞いています。聖書の言葉がイエスの復活に至ることを知って、わたしたちも復活、そして神の国に至ることを信じて、イエス キリストを、そして聖書全体を信じているのです。

 ただでさえ日常生活の中では、気になることが多すぎてわたしたちは神を忘れてしまいます。それなのに教会においてさえも神さま以外に思いが向いてしまうならば、どうやって神に立ち帰ればいいのでしょう。
 教会で第一にしなければならないのは、神との交わりに入り、神と共に生きることです。これがちゃんと保たれ、教会に来るすべての人がその恵みに与ることができるように、教会は整えられなければなりません。

 教会は、キリストご自身の命によって建てられ導かれます。キリストの救いに与り、キリストの救いを喜び楽しむことができるところこそ、教会なのです。
 わたしたちの教会が、キリストの恵みに満ち、神に祝福される本物の教会として育まれ導かれていきますように祈ります。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちはあなたによって清めて頂かなければならない罪を抱えています。信仰の熱心でさえ、主の叱責を受けなければならないものであることを知りました。あなたの御言葉によって導かれるのでなければ、わたしたちの信仰も善意も正しく歩むことはできません。どうか主よ、あきらめることなくわたしたちに語りかけてください。わたしたちをキリストと共に歩ませ、神の国へと導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 8:15〜17

2019年3月10日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:15〜17(新共同訳)


 聖書は「あなたがたは・・神の子とする霊を受けた」と言います。
 霊というのは、二つのものを結び合わせる働きをします。霊という言葉は、風とか息とか目に見えないものの動き・働きを表しています。例えば、息・呼吸は、息をしているとき、目に見えるからだと目に見えない精神や心が結び合わされ、命を形作ります。息が止まるとき、命は失われ、体から精神・心が失われてしまいます。このように霊は、二つのものを結び合わせる目に見えない働きをします。
 聖霊は、わたしたちをキリストと神とに結び合わせ、その救いにわたしたちを導き入れます。反対に悪霊は、命の秩序を混乱させ、命を危機へと導きます。

 この霊の働きについて、きょうの箇所では「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語っています。
 奴隷というのは、罪の奴隷のことです。罪に捕らわれ、神に裁かれるのではないかという恐れに捕らわれることを言っています。つまりわたしたちは、裁かれるのを絶えず恐れる罪の奴隷とする霊を受けているのではない、と聖書は告げています。そうではなくてわたしたちが受けたのは、神の子とする霊なのです。

 ここで「神の子とする」と訳されている言葉は「養子縁組」という言葉です。これは、罪ゆえに神との関わりがなくなってしまった者を、聖霊がキリストの救いに与らせ、神のひとり子であるイエス キリストと結び合わせてキリストの兄弟としてくださり、神の子としてくださることを表しています。
 復活したイエスは女性たちに会ったときにこう言っています。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ 28:10)救いの御業を成し遂げられたイエスは、弟子たちに対して「わたしの兄弟たち」と言っています。そして聖霊は、わたしたちをキリストの救いに与らせ、キリストの兄弟としてくださり、わたしたちを神の子としてくださるのです。

 この聖霊によってわたしたちは、父なる神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
 アッバというのは、当時ユダヤ人たちが日常で使っていたアラム語です。そして、小さな子どもが父親に向かって言う言葉が「アッバ」という言葉で、日本語にしたら「父ちゃん」という感じの言葉です。ですから「父なる神さま」というのはアッバから考えると固すぎると言えるかもしれません。「天のお父さま」という言い方も聞きますが、これでも距離感がありすぎるのではないかと思います。本来キリストの救いは、わたしたちに神を「父ちゃん」と呼べる恵みをもたらしたのです。わたしたちは神に向かって「父ちゃん」と言って、神にしがみつくことのできる恵みに入れられているのです。

 そして聖霊が、わたしたちが救いに入れられて神の子どもとなったことを証ししてくださいます。
 イエスは霊についてこう語っています。「霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ 3:6~8)
 わたしたちはしばしば「聖霊を受けている実感がない」などと言います。しかし、神は人間の五感では捉えられない人間・被造物を超えた方です。人は聖霊を受けている実感など感じることはできないのです。
 聖霊の働きを重んじる教派では、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事から異言を語れることが聖霊を受けたしるしだと考える人たちもいます。しかし、わたしは疑問に思います。では、異言を語っていないときは聖霊を受けていなくて、聖霊の導きがないのでしょうか。そうではない、聖書はそうは言っていないとわたしは思います。わたしは異言自体は否定しませんが、異言を語れることが聖霊を受けているしるしと考えることは間違いだと思っています。
 聖書が語っているように、「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント 12:3)。ですから「イエス キリストはわたしの救い主です」と告白する人は誰でも、聖霊により救いへと入れられているのです。実感で聖霊を捉えようとするのではなく、聖霊が与えてくださったイエス キリストを信じるという奇跡がこの自分に起こったことを通して、神の恵みの御業を知るのです。
 わたしがイエス キリストを信じている、ということはよくよく考えるとおかしなことだと思います。わたしはイエス キリストに会ったことがありません。顔も知りません。声も知りません。握手をしたこともありません。全く知らない人なのに、イエス キリストがわたしの救い主だと信じているのです。理性を捨てた訳ではなく、疑う気持ちを捨てて思い込んでいる訳でもありません。本当に不思議な仕方で「イエス キリストがわたしの救い主である」という信仰が与えられているのです。断食をしたことも、滝に打たれて修行したことも、何時間も座禅を組んだこともありません。そういった修行を通してではなく、不思議な仕方で礼拝を通して信仰が、わたしの場合、キリストの復活を信じる信仰が与えられたのです。ある人は、罪人の中に信仰が与えられるのは、天地創造において神の言葉によって創造の御業がなされた奇跡に匹敵する奇跡である、と言っています。わたしもそう思います。その聖霊による奇跡によって、イエス キリストが救い主であるという信仰を与えられたことによって、わたしは聖霊が注がれ、聖霊が働いてくださったことを確信しているのです。
 ですから、異言が語れない、聖霊を受けている実感がない、わたしは本当に救われているのだろうか、と考える必要はないと思っています。唯一問うとすれば「わたしはイエス キリストを誰だと思っているのか」ということです。イエスが弟子たちに「あなた方はわたしを何者だと言うのか」と問われたように、わたしたちも自らに問うのです。そして「イエス キリストこそわたしの救い主です」と告白するとき、それは聖霊が注がれ、働かれ、わたしたちを信仰へと導いていてくださるしるしです。

 聖霊は、わたしたちに「父よ」と呼びかける祈りを通して、わたしたちの霊を神へと導いていてくださいます。わたしたちの霊がまことの神以外と結び付くことがないように、祈りという大いなる恵みによって神と神の子との絆を育んでくださっています。祈りによって聖霊に導かれ、神とのつながりを育まれ、信仰を育てて頂いているのです。ですから、わたしたちの信仰にとって祈りはとてもとても大事なのです。

 聖霊の働きにより神の子とされた者は、キリストと共同の神の相続人とされます。神の相続人は、神が与えてくださる救いを相続する者です。キリストだけが救いに到達したのですから、救いに至る道をキリストと共に歩むことになります。
 そこにはキリストと共に苦しむことも含まれます。コロサイの信徒への手紙には「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ 1:24)とあります。イエス キリストの地上での苦しみは、既に過ぎ去りました。今のわたしたちの苦しみは、キリストと共にわたしたちが担うべきものとして与えられているものです。わたしたちは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ 6:13)と主の祈りを祈りつつ、また「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とイエスがゲツセマネで祈られた祈りを共に祈りながら、苦しみを担っていくのです。こうしてキリスト共に歩み、キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるのであります。キリストと共に歩む者は、キリストが既に到達されたあの復活、そして神の国に招き入れられることを望み見ることを許されています。キリストの復活、そして天の御国に入れられたことを仰ぎ見て、わたしたちに備えられている神の栄光を知るのです。

 当然、わたしたちは苦しみを避けたいと思います。そしてその時に、自分好みの道を歩もうとしてしまいがちです。そうすると、わたしたちはまたもや神から離れて迷子になってしまいます。
 だから祈りが必要なのです。祈りつつ聖霊に導かれることが必要なのです。聖霊によって、キリストの救いにしっかりと立たせて頂き、神を「アッバ、父よ」と呼び求めながら、神と共に生きるのです。
 聖書は、神と共に生きるという救いの恵みへとわたしたちを招き続けているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊をわたしたちに注ぎ、キリストを信じ、神の子となる恵みを与えられておりますことを感謝します。どうかわたしたちが、聖霊の導きを求めて祈りつつ歩む者とさせてください。救いの道を、キリストと共に苦しみ、そしてついには、キリストと共にその栄光をも受けることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン