聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 1:29〜34

2019年1月20日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:29〜34(新共同訳)

 

 洗礼者ヨハネは、イエスを証しするため、神から遣わされました(1:5)。
 ある日(ファリサイ派の人々の質問に答えた翌日)、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。

 創世記にアブラハムが神から、イサクを焼き尽くす献げ物とするように命じられた出来事が記されています。アブラハムが命じられたとおりイサクを献げるため屠ろうとしたとき、天から主の御使いがアブラハムに語りかけます。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。アブラハムは目を凝らして見回しました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていたのです。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました(創世記 22:1~14)。
 このイサクの命を贖うために神が用意してくださった雄羊こそ、イエス キリストを指し示すものでした。イエス キリストがこの世に来られる遙か昔に、神が救いの御業を証しし、その命を献げて罪人の救いを成し遂げる救い主を指し示されたのです。
 そして預言者イザヤが「そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。・・屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(イザヤ 53:6, 7)と語ったのは、イエス キリストのことでした。

 そして洗礼者ヨハネもまた、イエス キリストを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しをしたのです。
 さらにヨハネは語ります。「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。
 ヨハネは、自分の後から救い主が登場することを知っていました。これはまさしく神の啓示によるものです。ヨハネは自分が救い主ではないことを知っていました。自分の務めは、救い主を証しすることであることを知っていました。そして救い主は、アブラハムに示され、イザヤに告げられた方であり、初めから神と共におられた方であることを知っていました。

 けれど、イエスが救い主として活動を始め、世に登場するのはヨハネよりも後でしたから、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と告白します。
 ヨハネは、イエスに出会って、語らい、共に働いたからイエスを理解したのではありません。神から啓示を受けたので、ヨハネは旧約で預言され示された救い主を知っており、救い主を証しする自分の務めを知っていたのです。
 そして、彼がなしていた洗礼も救い主を指し示す証しです。「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」。神の許に立ち帰り、神と共に歩むには、罪を洗い清めて頂く必要があること、キリストの十字架の恵みに与らねばならないことを、ヨハネは悔い改めの洗礼を授けることで証ししていたのです。

 そしてヨハネは証ししました。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 このイエスに霊が下る場面を、ヨハネによる福音書は記しておりません。洗礼者ヨハネの弟子たちが、自分たちの先生がイエスに洗礼を授けてあげたと言って、イエスに従う躓きになると考えたのかもしれません。一番古く編纂されたと考えられているマルコによる福音書は、イエスの洗礼の場面を次のように記しています。
 「イエスガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。(マルコ 1:9~11)
 ヨハネはこれを目の前で見たのです。だから「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と証ししたのです。

 ヨハネの語った言葉の中に「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」とありますが、これが、神がヨハネに語られた啓示です。神ご自身が教えてくださるのです。その点では、イエスの洗礼、そして「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」というのも啓示です。
 わたしたちの信仰は、神がなしてくださる救いの御業、それを教える神の御言葉、つまり神の御業と御言葉という啓示によって導かれているのです。信仰は神ご自身によって与えられ、育まれ、導かれていくのです。神の御業、御言葉によってわたしたちの信仰の目は開かれていくのです。

 ヨハネが受けた啓示に「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人」とありました。水の洗礼は目に見えるしるしです。罪を洗い流し、清められ、神の民として新しく生まれ変わることを想起させる目に見るしるしです。その本質は、聖霊なる神の御業によって、イエス キリストと一つに合わせられ、キリストの十字架と復活の恵みに与ることです。父・子・聖霊なる神との命の交わりに入れられ、神の子とされることです。

 イエスはこのヨハネによる福音書で「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:26)と言われ、復活してから弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される』」(20:22, 23)と言われました。まさしくイエス キリストこそ、聖霊によって洗礼を授けるまことの救い主なのです。

 教会も、神から啓示により信仰を与えられ、洗礼者ヨハネと同じく、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とまことの救い主イエス キリストを証しし、指し示してきたのです。
 どうかイエス キリストを信じ、証しするこの教会に集う皆さんが、キリストの救いに与り、キリストにある喜び、平安、希望に満たされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかこの教会に集うわたしたち一人ひとりに聖霊を注ぎ、父・子・聖霊なる神の命の交わり、愛の交わりにいれてくださいますように。礼拝に集うごとに、あなたと出会い、心新たにあなたを知ることができますように。キリストの救いの中で、あなたの子として育み導いていってくださいますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

聖書通読のために 85

マタイによる福音書 10章 9~15節(聖書協会共同訳)


 派遣される者は、支えてもらう必要があるようである。
 わたしが属する教会では、牧師は給与ではなく、謝儀を頂く。(税務署には給与として報告される)労働の対価ではなく、生活を支えて頂いて福音宣教を中心とする務めを果たす。
 牧師として遣わされてたら、その教会その地域に「平和があるように」祈りつつ仕える。神の祝福を受けて、神の平和に包まれ、神の国に入る希望を持って、与えられた日々を歩めるように祈りつつ仕える。「神はわたしの神であってくださる」という恵みと栄光が現れるように祈りつつ仕える。


喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

聖句で辿る聖書 96

レビ記
4章 3節(聖書協会共同訳)

 

もし油を注がれた祭司が違反して、民にもその罪責を及ぼすことになるなら、犯した過失のために、血管のない若い雄牛を清めのいけにえとして主に献げなければならない。


 罪の贖いのために献げられる犠牲祭儀。種々の犠牲のうちで、最も重要な、基本的な祭儀である。(『新共同訳聖書 聖書辞典』新教出版社
 口語訳では「罪祭」新共同訳では「贖罪の献げ物」である。「贖罪の−」が「清めの−」に替わった。


ハレルヤ

 

終活・読書

まもなく55歳。ゆっくりと終活を始めることにした。本を少しずつ処分する。持っている本の大半をまだ読んでいない。背表紙から刺激を受けるために本棚にある感じである。最近になって6分間読書を始め、3冊ほど同時並行で読んでいる。思いのほかこの方法が自分に合っていることが分かった。持っている本を読むには(辞典類を除く)10年以上かかりそうである。果たしてどこまで読めるだろうか。