聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ルカによる福音書 21:25〜28

2017年4月30日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:25〜28(口語訳)

 

 イエスは、21:5からエルサレムの滅亡について語ってこられました。
 25節からは、エルサレムの滅亡からキリストの再臨に至る話しをされます。

 27節でイエスは「人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」と言われます。これはキリストの再臨です。救いが完成する終わりの時に、再びキリストが天から来られる。これが再臨です。

 イエスはエルサレム滅亡からご自身の再臨までのことについて、こう言われました。「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。」
 大地と世界が未来永劫変わらずに続いていくのではなく、終わりの日に向かって進んでいることを示すしるしがある、ということを言っておられます。

 聖書は、この終わりの日がいつなのかは、父なる神の御心の内にあって、知らされていない、と告げています。マルコ 13:32では「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(参照 マタイ 24:36)と言われています。
 これまで終わりの日は〇年〇月〇日だと主張してきたグループがいくつかあります。しかしお分かりのようにそれは一つも当たりませんでした。イエスご自身が「父だけが知っておられる」と言われているのに、なぜそれがわたしには分かったと言うようになるのか、わたしには分かりません。そして今もそういうことを言うグループがあります。そういう話をお聞きになった方もおられるかもしれません。惑わされないように気をつけなければなりません。

 イエスがこの言葉を語られてから今まで、いろいろな時代にいろいろなしるしがありました。現代でも大きな地震がいくつも起こり、津波による大きな被害もありました。また小惑星の衝突があるかもしれないと言われ、恐怖と不安を感じている人々もいます。聖書は、この目に見える世界は普遍ではなく、救いの完成、終わりの日に向かって導かれている、ということを教えています。

 念のためにもう一度言いますが、それがいつなのかは父なる神だけが知っておられ、知らされていないと、イエスははっきりおっしゃっています。(参照:1テサロニケ 5:2、2ペテロ 3:10、使徒 1:7、マルコ 13:32、マタイ 24:36)いつなのかは分からないけれども、そのときに備えて生きるようにと言われています。12:40でも「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」と言われています。目に見える世界は過ぎ去り、神の国が到来する時が来るのです。

 日本キリスト教会信仰の告白(口語文)には、主から委託された教会の務めに終わりの日に備えることが挙げられています。
 新約の中で、「終りの日」(新共同訳「終わりの日」)という言葉が使われるのは、ヨハネによる福音書だけです。また、終わりの日と同じような意味で使われる言葉には「主の日」と「かの日」があります。
 ヨハネによる福音書6章(6:39, 40, 44, 54)では、イエスがご自分の民を終わりの日に復活させることが述べられています。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ 6:40)。

 またヨハネ 12:48では、終わりの日にイエスの言葉によって裁かれることが述べられています。「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」。また、2テモテ 4:8では、公平な審判者である主が、ご自身の民に義の冠を授けてくださることが記されています。

 そして、この終わりの日に備えるということが、ヘブル人への手紙で教えられています。「約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブル 10:23~25)

 きょうの箇所では、終わりの日へと向かっているしるしが与えられたなら、「身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいている」という勧めがなされています。
 イエスがこの言葉を語られて以来、世界の到る所でしるしは何度も与えられています。そしてわたしたちは、終わりの日のキリストの再臨に備えて生きるように促されています。
 わたしたちの教会は(日本キリスト教会)信仰の告白で「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白しています。この「主が来られるのを待ち望みます」というのが、イエスが言われた「身を起し頭をもたげ」るということです。

 いつまでも今の状況が続いていくのではありません。神の導きによって変化し、神の国の完成に向けて進み行くのです。それを「身を起し頭をもたげ」て「主が来られるのを待ち望」むのです。
 いつまでも今が続いたらいいのに、と言って、終わりが来ることから、目を背け、考えないようにするのではなく、「身を起し頭をもたげ」て、神の国の到来、主の再臨を待ち望んで生きる、そういう信仰を持って生きていくように、勧めがなされているのです。

 いつ来るのか分からないものに向かって備えるというのは、簡単にできることではありません。
 科学など文明の力を身につけてきたこの世は、都合の悪いことは考えずに、今を楽しむ。そしていつまでも若々しく、年を取る、死ぬなどということは考えないで、生きていく。そういうふうに自分にとって都合のいい願望だけを見つめるように勧めてきます。
 しかしそれは、聖書を通して神が語られることとは違います。わたしたちの誰もが知っているように、時は止まることがありません。わたしたち一人ひとりの人生も終わりの時に向かって進み続けます。けれど、その終わりの時がいつなのかは、神の御心の内にあることであって、わたしたちには知らされていません。いつかは分かりません。けれど、その終わりの日に備えて生きる。終わりの時に神の前に立つ。そういう備えをして、そのときを待ち望んで生きるようにと神は勧めておられます。

 救いが近づいています。主が再臨し、神の国が到来します。わたしたちは、神の国の祝宴に招かれています。主を囲んでの食事、代々の聖徒たちと共に主を囲んでの祝宴はどんなでしょうか。わたしたちは救いの完成を期待し、仰ぎ見て待ち望むのです。

 いろいろな欠けや弱さ、罪が現れてくるこの世界にわたしたちは生きていますが、神はそこからわたしたちを救い出し、罪を過ぎ去らせ、神の国へと導いていてくださいます。神の祝福を喜び、神と共に生きる永遠の命を喜ぶ救いの完成へと、今わたしたちを、世界を導いておられます。その神が告げ知らせてくださった救いの完成、イエス キリストが命をかけて成し遂げてくださった救いの完成を、仰ぎ見、待ち望むのです。

 そのために、礼拝、祈り会を通して互いに信仰を励まし合い、罪の世に惑わされずに、神の国、永遠の命に至る救いの道を、わたしたちの主イエス キリストと共に歩んでいくのです。

ハレルヤ

 

聖句で辿る聖書 36

聖句で辿る聖書

創世記
40章 8節(新共同訳)

「我々は夢を見たのだが、それを解き明かしてくれる人がいない」と二人は答えた。ヨセフは、「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」と言った。


 解き明かしは神がなさる。

 

聖書通読のために 46

思い巡らす meditation meditado
 神の思いに心を向けるために

 

マタイによる福音書 6:9(新共同訳)

 主の祈りその2。
 「天におられるわたしたちの父よ」
 イエスは、神を父と呼ぶように示された。神とわたしたちとの関係は、父と子である。親子の関係は命のつながりである。わたしたちの命の源は、神である。わたしが存在している、生きている、その根源は神である。決して失われることのない絆である。
 神のひとり子であるイエス キリストが救い主となってくださったので、キリストにつながれ結ばれたわたしたちは、神の子とされた。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ 3:26)
 わたしたちが何歳であろうと、すべての人に命の源である神がおられる。罪人であるわたしたちを愛し、救ってくださる父なる神がおられる。何という幸い。これは大きな慰めであり、希望である。

 近年、フェミニズムの影響で「父なる神」ではなく「親なる神」「父母なる神」と呼ぶ方が良いという意見を聞く。わたしは、聖書によって神を示され、イエス キリストを救い主であると信じている。聖書が神を父として示しており、主の祈りに導かれてわたしは神を父と呼んでいる。「主よ、あなたはわたしたちの父です」(イザヤ 63:16)

喜びあれ(マタイ 28:9 岩波版)

 

神学入門 20

神学 まとめ01

 この神学入門を書いたのは、伝道したいという思いを抱いている信徒の皆さん、伝道のために学びたいと考えている皆さんに、あるいは子どもたちに聖書の話をされる皆さんに、神学の全体像を知ることができるように、と願ってのことです。

 わたしは、聖書の話をして、父・子・聖霊なる神を証ししよう、宣べ伝えようとするとき、神学が必要だと考えています。

 それは、聖書を読むとき、読む人の解釈があり、聖書の話をするとき、語る人の解釈があるからです。
 その解釈が独りよがりの勝手な解釈とならないために神学をするのです。神の御心と全く違う理解に陥らないように神学をするのです。

 荒れ野の誘惑で悪魔は、聖書の言葉を使って誘惑しました(マタイ4:1-11, ルカ4:1-13)。神の言葉、神の戒めを教えていた律法学者やファリサイ派の人たちは、イエスから「偽善者」と言われました。
 「聖書にはこう書いてあります」といって聖書を引用しているから神の御心に適う正しいことを言っているわけではありません。かつてアメリカに奴隷制があった頃、奴隷制を支持する牧師たちは、聖書を根拠にして黒人が奴隷であることは神の御心だと語ったと聞きました。

 聖書を読めば神の御心が正しく理解できるほど、わたしたちは清くはないのです。わたしたちには、神を理解できない罪があるのです。イエスがご自身の十字架と復活を語られたとき、ペトロは理解できず受け入れられませんでした。イエスはペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)ペトロはイエスに「あなたは、メシアです」と告白する者、イエスを信じる者です。それでも、神の御心を受け入れられない罪を抱えているのです。
 ですから、わたしたちは神の前に身を低くし、「主よ、御心をお示しください」と祈りつつ、神学をする必要があるのです。

 もちろん、神学が人を救うのではありません。イエス キリストが救い主であり、神が救ってくださるのです。神学は、神の言葉である聖書を理解し、神に従って歩むために仕えるものです。
 ですから、本来神学は牧師や神学者のためのものではありません。神学に関わるレベルは人によって違いますが、神学は全信徒、全教会のためのものです。父・子・聖霊なる神との交わりに生きるためのものであり、神との交わりを喜び讃えるためのものなのです。

 この神学入門は、神を伝えたい、福音を宣べ伝えたいと願っているキリスト者一人ひとりの手助けとなることを願って書いたものです。


主は生きておられる(エレミヤ 4:2 新共同訳)

 

聖句で辿る聖書 35

聖句で辿る聖書

創世記
39章 19〜21節(新共同訳)

主人は怒り、
ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。
しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、・・


 神が共にいてくださり、顧みていてくださるか疑わしい現実がある。しかし聖書は、主が共におられることをわたしたちに告げる。