聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ローマの信徒への手紙 12:14

2020年11月1日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:14(新共同訳)


 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」
 原文でこの文章の最初の言葉は「あなたたちは祝福しなさい」です。原文が書かれたギリシャ語では、動詞に「あなたたち」という代名詞が含まれるので、一語で「あなたたちは祝福しなさい」と書かれています。「祈りなさい」という言葉は原文にないので、新しい聖書協会共同訳では「祝福しなさい」と訳されています。

 「祝福する」とは何をすることでしょうか。祝うという漢字が入っていますが、お祝いするとはちょっと違います。祝福するというのは、幸いを祈るということです。(だから新共同訳は「祈りなさい」と加えたのかもしれません。)ギリシャ語の「祝福する」という言葉は、語源的には「良いこと」を「言う」という言葉です。
 ここで相手にとって「幸い」って何?「良いこと」って何?という問いが出てきますが、キリスト者の場合、神の恵みと導きを祈り求めるということになるでしょうか。

 ところで、なぜ神は「祝福しなさい」と命じられるのでしょうか。それは、神が祝福されるからです。神が祝福されるので、神にかたどって造られ、神から地を治めるように務めを託されたわたしたちには、祝福することも務めとして与えられているのです。
 信仰の父祖アブラハムは、神から祝福の源とされ、すべての人を神の祝福に与らせる務めが与えられました。創世記 12:2~3「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(新しい聖書協会共同訳は「祝福の源」を「祝福の基」(口語訳)に戻しました。)
 祝福は、アブラハム以来、神の民の務めなのです。
 だから新約でもこう言われています。1ペトロ 3:9「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
 テロの時代と言われて久しく、今も世界の各地で血が流され、憎悪の連鎖が作り出されています。その憎悪の連鎖を断ち切るのは、神の祝福です。わたしたちは祝福を受け継ぎ、すべての人々が祝福に与るために召されたのです。祝福の連鎖を作り出すために召されたのです。礼拝も最後は祝福です。神の御前に集った民を、神はいつも祝福をもって送り出してくださいます。

 ただ「祝福しなさい」と言われているのを忘れてしまうほど強い言葉が「迫害する者のために」という言葉です。重ねて「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と言われます。この言葉を聞いただけで「無理!」と拒否したくなります。
 ただこれも根拠は神にあります。イエス キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ 5:44)と言われました。そして十字架の上でイエスは祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23:34)キリストが命をかけられた救いにふさわしく、キリストに倣って道が示されます。

 ただし「呪ってはならない」を律法的に捉えないように気をつけなくてはなりません。なぜならこのように書いたパウロ自身が呪っているからです。ガラテヤ 1:8「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」1コリント 16:22「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」
 ですからここで言われているのは「呪いを避けなさい」という強い勧めです。
 呪いは、陰府へと引きずり込む重しのようなものです。それは神の国へと導く救いにはふさわしくないものです。この呪いを打ち消すのが、祝福なのです。
 この罪の世にあって、理不尽な出来事、危険をもたらすような出来事に対して、怒りを禁じ得ないことがあります。その時には、わたしたちの罪を負ってくださったイエス キリスト、そして神に、怒りや呪いたくなる思いを受け止めて頂くのです。旧約の詩編を見ると、神の裁きを求める祈りがいくつもあります。旧約の民も、神に怒りや呪わずにはいられない思いを受け止めて頂きながら歩みました。

 最初に祝福するというのは、幸いを祈るということですと言いました。元の言葉では「良いこと」を「言う」という意味があると言いました。そうすると、相手にとって「幸い」って何?「良いこと」って何?という判断が出てきます。聖書的に言うならば「それは救いに与ること」であろうと思います。
 そして救いを願うとき、悔い改めも必要になってきます。救いを願うときに、裁きを願うこともあるでしょう。

 かつて矢内原忠雄というキリスト者がいました。矢内原は東京帝国大学の教授でしたが、1937年(昭和12年)盧溝橋事件の直後、『中央公論』に民主主義の理念を先取りした「国家の理想」と題する評論を寄稿します。これが大学の内外で矢内原攻撃の材料となってしまいました。そして同年10月1日、矢内原は「神の国」という題で講演をします。そこで矢内原は南京事件を糾弾し「一先ずこの国を葬ってください」という一言を発します。それを矢内原は個人で出していた『通信』にも掲載します。そして同年12月に、事実上追放される形で東京帝国大学教授を辞職します。
 わたしはこの矢内原の言葉も当時の日本という国に対する祝福の言葉、日本の幸いを願い、神のよき導きを求め、日本に対して良い言葉を語る祝福であったと考えています。

 既に報告しましたように、大会 靖国神社問題特別委員会は総理大臣に対して「日本学術会議会員推薦者6名任命拒否の撤回と謝罪を要求します」という抗議文を出しました。矢内原忠雄が大学を追われたのと同じような状況がもう目の前に来ています。かつての戦争の際には、礼拝に官憲が立ち会い、牧師の説教を一言一句確認し、政府に不都合なことが語られたときには逮捕され取り調べを受けました。それは過去の話ではなく、近い将来の話かもしれなくなってきました。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」わたしは迫害と言えるようなことを経験したことはありません。けれど、迫害を知らずにすむかどうかは怪しくなってきました。

 神は、迫害に対して呪いではなく、祝福で報いていくことを教えられました。わたしたちは本物の救いに共に与れるように、祝福を祈ります。悔い改めを求め、裁きを求め、神の国の到来を求めながら、祝福を祈ります。
 救いはイエス キリストが歩まれたその跡に現れます。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(1ペトロ 2:23~24)
 だから神はわたしたちに言われます。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちが祝福を語れるように、わたしたちをあなたの救いで満たし、祝福で満たしてください。あなたは祝福を受け継ぐために、わたしたちを召されましたから、あなたの祝福を豊かにお注ぎください。どうかわたしたちを試みに遭わせず、迫害に遭わせず、悪から呪いから救い出してください。どうかあなたの栄光の光でわたしたちを包み、導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン