聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

はじめてのカテキズム 問い3〜4

2020年4月26日(日)主日礼拝  
聖書:エフェソの信徒への手紙 2:4〜9
   ローマの信徒への手紙 5:6〜11(新共同訳)


 現在、新型コロナウィルス感染拡大の状況を鑑み、礼拝堂に共に集うことを控えております。この間、アメリカ合衆国長老教会が子どもたちのために作成しました『はじめてのカテキズム』に沿って説教をしています。
 カテキズムといいますのは、聖書の要約である教理を伝えるためのものです。主に問いと答えによって進められていきます。『はじめてのカテキズム』は『みんなのカテキズム』(一麦出版社)に収められています。
 きょうは問い3〜問い4に記されている内容を聖書に聞きたいと思います。

 きょう読みましたエフェソ 2:5に「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」とあります。
 救いの基である恵みとは何でしょうか。『はじめてのカテキズム』は「神さまの自由な愛の贈り物」だと言っています(問い3)。
 ここでは三つのことが言われています。恵みは「神さまの贈り物」です。恵みは「自由な贈り物」です。そして恵みは「愛の贈り物」です。

 一般に恵みという言葉は、大地の恵み、海の恵みというように恵みは人の力の外から来るものを指して言います。聖書が語る「救い」は神から来るものです。だから救いは恵みだと言われるのです。神が与えてくださるものです。
 よく救いは恵みであり無償で与えられると言われます。日本キリスト教会信仰の告白も「功績なしに罪を赦され」と言います。確かに救いは、わたしたちがなした業と引き換えに与えられるものではありません。世の試験のように合格点を取って与えられるものではありません。しかし、この恵みはただではありません。神が御子の命を差し出してくださったことにより与えられたものです。わたしたちを愛するがゆえに、神ご自身が痛みを負い、犠牲を払ってなされたものが恵みなのです。

 第二に恵みは愛の贈り物です。カテキズムでは三番目に出てきますが、ここでは二番目に取り上げます。愛は共に生きようとする思いです。神は共に生きるためにわたしたちを神の子としてくださいます。そしてわたしたちを神の子とするために、神のひとり子イエス キリストが遣わされました。
 愛は共に生きようとする思いです。神は愛であると聖書は語ります(1ヨハネ 4:8, 16)。神は孤独な全能者ではなく、神ご自身が共に生きるお方です。ですから救いは、神と共に生きることなのです。神はわたしたちが神と共に生きられるように、罪を贖われます。そのためにイエス キリストを遣わされます。そしてわたしたちを神の子としてくださいます。イエス キリストにより、否定することのできない親と子の命の絆の中に招き入れてくださるのです。
 聖書は語ります。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」。(エフェソ 1:5)「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(1コリント 1:9)「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ 3:26)恵みは愛の贈り物なのです。

 第三に、恵みは自由な贈り物です。何にも妨げられない自由な贈り物です。恵みは、神の愛による決断です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ 15:16)「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:10)旧約にも聞いてみましょう。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出された」(申命記 7:7~8)わたしたちが神の子とされる恵みは、神の愛による決断、全く自由な贈り物です。

 だからそこに条件はありません。カテキズムはこう語ります。問い4「神さまに愛されるためには『良い子』にならないといけないのですか。」「いいえ。わたしがどんな子であっても、神さまは愛してくださっています。」
 神は「良い子になったら愛してあげるよ」と言っておられるのではありません。神は取引の関係を求めておられるのではないのです。神が望んでおられるのは、親と子の命の関係、愛と信頼で結ばれた関係なのです。ですから、信仰も条件ではないのです。「信じたら救ってあげるんだけど」と言っておられるのではないのです。神は、罪によって信じることが壊れてしまった罪の世に、信じることを造り出すために、ご自身が信じることのできる存在になってくださったのです。それを証しするのがイエス キリストです。そしてイエス キリストに出会い、神を知っていく中で、神の愛と真実へ導かれ、わたしたちは信じていくのです。

 カテキズムはこの出来事、神の御業をこのように語ります。問い3「あなたはどうやって神さまの子どもになりましたか。」「恵みという「神さまの自由な愛の贈り物」によってです。わたしはそれにふさわしくありませんし、自分の努力で勝ち取れません。」問い4「神さまに愛されるためには「良い子」にならないといけないのですか。」「いいえ。わたしがどんな子であっても、神さまは愛してくださっています。」

 カテキズムには、教会に導かれた若い人も恵みに与り、恵みを喜んで生きてほしいという願いがあるのです。そしてわたしも今、願います。多くの人が教会へと導かれ、キリストに出会い、この恵みの中に導かれますように。

ハレルヤ


父なる神さま
 ひとり子の命をかけてまでわたしたちに恵みを与えてくださることを感謝します。どうかわたしたちが、恵みを喜び、讃美しつつ歩み行くことができますように。どうか多くの人がこの恵みに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン