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ヨハネによる福音書 4:1〜15

2019年9月8日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:1〜15(新共同訳)


 救い主としての活動を始められて、イエスの許には多くの人々が集まるようになりました。エルサレムにおける宗教指導者の一角であるファリサイ派の人々の耳に、イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を集め、洗礼を授けている、という噂が届きました。
 ファリサイ派というのは、律法を厳格に守り、神から祝福される人になることを信条とするグループで、律法の指導者の働きをしていました。
 イエスは噂が広まっているのを知ると、まだ十字架へと向かう時ではないので、ファリサイ派との議論を避けるため、ユダヤを去り、北方のガリラヤへと向かわれました。その途中、イエスの一行はサマリアと呼ばれる地域を通りました。

 サマリアは、北イスラエルの首都であったサマリアを中心とする地域です。北イスラエルアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアの移住政策により民族の混合が進み、ユダヤの人たちからは純粋なイスラエル民族ではなくなったと差別されるようになり、ユダヤサマリアとは関わりを避けるようになっていました。

 イエスの一行はサマリアのシカルという町に来ました。イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座り込んでしまわれました。
 この井戸はヤコブの井戸と呼ばれており、イスラエルの先祖ヤコブが掘った井戸だと言われていました。

 教会では、イエスは真に神であり、真に人であると言います(二性一人格)。神は全能であるから人になることも問題なくできるだろうと考える人もいるかもしれません。けれど人となるというのは、弱くなるということです。疲れれば動けなくなる。喉も渇けば、お腹もすく。釘で十字架につけられれば動けない。痛みも感じれば、血も流れる。そしてついには死んでしまう。およそ神として持っておられたものを手放して、弱くなる。それが、神が人となるということです。
 わたしたちは弱くなりたいとは思いません。年を取ってできることが次第に失われていくことを恐れます。わたしも病気をしていろんなことができなくなりました。こんなこともできなくなったのかとため息が出ることもあります。弱くなりたいとは思いません。
 しかし、イエスは弱くなってわたしたちのところへ来られました。そして、その弱さによって一人の女性と出会います。おそらくこの女性と出会うために、イエスヤコブの井戸に来られました。続きを読んでいくと分かりますが、イエスはこの女性を知っておられました。イエスはこの女性と出会うために、そしてわたしたちと出会うために、弱くなり人となられたのです。イエスはわたしたちと出会うために弱くなることも恐れずに人となってくださいました。

 このサマリアの女性が井戸に水を汲みに来たのは、昼の12時頃でした。水は生活に欠かせないものですし、運ぶのは重くて大変ですから、大抵暑くならない朝のうちにすませるものです。この女性が暑いさなかに水を汲みに来たのは、たぶん他の人と会いたくなかったからではないかと思います。

 イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。弟子たちは食べ物を買いに行っていて、側にいませんでした。するとこのサマリアの女性は「どうして、ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ねます。先ほど言いましたように、ユダヤサマリアの間には差別と反発があって、互いに関わることを避けていたからです。

 イエスは答えて言われます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 何とも上から目線の言葉です。「水を飲ませてください」と頼んでいる人の言葉とは思えません。この女性もおかしなことを言うと思ったのでしょう。イエスに向かってこう言います。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手に入れるのですか。」

 「生きた水」という表現は通常「流れている水」を表します。流れていない水、池や貯水池の水に対して、川の水や湧き水のような流れているきれいな水を表します。サマリアの女性はこの意味でイエスの言葉を聞きました。
 けれど、イエスが言われた「生きた水」は、神がイエス キリストを通して注ぎ与えてくださる恵みのことを言っておられます。エレミヤ 2:13にはこうあります。「まことに、わが民は二つの悪を行った。/生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。/水をためることのできない/こわれた水溜めを。」神ご自身が「生きた水」の源なのです。14節では「永遠の命に至る水」と言われています。神がイエス キリストを通して与えてくださる「永遠の命に至る」恵みなのです。だからイエスは10節では「神の賜物」という言い方もされたのです。

 サマリアの女性は通常の意味で「生きた水」を理解しました。だから器も持っていないし、井戸の傍らでへたり込んでいるイエスが何かを与えられるとは思えませんでした。ただイエスの言葉、言い方に何か感じるものがあったのでしょう。もしかしたら、新たな井戸を与える力でもあるのかと思い、「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」と尋ねてみました。

 するとイエスはこう答えます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 するとこの女性はすぐさまイエスに訴えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」彼女はまだイエスが言っておられることを誤解しています。イエスの言っていることが水くみをしなくてもすむ自分に都合のいいこととして理解しています。
 けれども、イエスの言われていることを正しく理解できない、自分の都合で聞いてしまうという点ではわたしも同じです。わたしは常に渇いているように感じています。この箇所を読むと、いつも躓きを感じます。わたしは渇くということの反対は、満たされているというイメージです。イエスによって満たされると言うとき、神が万事を益としてくださることを信じてイライラしない。神が必要なときに必要なものを備えてくださることを信じて、足りないと言って不満を言わない。そんなイメージでいると、自分はいつも渇いているように思えます。
 しかしこれは、自分の信仰の成長や立派さを見て満足しようとする律法主義と同じです。自分の信仰を自分で見て満足する。それはイエスが与えようとしておられる信仰とはまるで違います。

 ここでイエスが言われているのは「永遠の命に至る水」のことです。イエス キリストから与えられる恵みはすべて、永遠の命へと至る恵みです。十字架も復活も、義認も聖化もすべて永遠の命へと至る恵みです。イエス キリストご自身により、わたしたちは圧倒的な恵みを受けています。わたしたちが欠けだらけだろうと、信仰が小さかろうと弱かろうと、自分自身の罪に絶望しそうだろうと、それらを圧倒するイエス キリストの尽きることのない恵みによって、わたしたちは永遠の命へと導かれているのです。わたしたちの努力や熱心ではなく、わたしのイメージや実感ではなく、ただひたすらにイエス キリストご自身によって、わたしたちは救いへ、永遠の命へと導き入れられているのです。まさにイエス キリストが生きた水の泉なのです。そしてイエス キリストが聖霊によりわたしたちの内に住み、共にいてくださり、絶えず生きた水を注ぎ与えてくださっているのです。

 だからわたちたちは、イエス キリストによって確信を与えられています。「このわたしはイエス キリストによって救われている」という確信です。
 わたしたちの信仰の先輩は、ハイデルベルク教理問答で「わたしたちは生きているときも、死ぬときも、わたしたちの真実な救い主イエス キリストのものである」と信仰を告白しました。そしてパウロはローマ 8:38, 39でこう告白します。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 イエスはここで生きた水と言われましたが、わたしたちの信仰も生きています。毎日食べて、常に呼吸するように、生きているものは絶えず活動します。信仰も同じです。迷いがなくなったり、不満が消えて、神に祈らなくてもいいようになるのではありません。神との生きた交流があり、人とも生きた交流があるのです。神との間に、人との間に、聖霊が注がれ流れて、生きた関係、生きた信仰になるのです。
 だからわたしたちは、わたしたちの内にあって永遠の命へと至る水を与えてくださるイエス キリストに目を向け、心を向けるのです。わたしたちのために人となって弱くなることも厭われない方。嘲られることも拒絶されることも捨てられることも厭われない方。わたしたちの罪を担い、ご自分の命さえも差し出される方。死を打ち破って、命の道、神の国の道を拓かれる方。この方が、わたしたちのすべてを受けとめ、永遠の命に生きる者としてくださる真の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 主イエスは、わたしたちに出会うために弱さを負い、人となって来てくださいました。わたしたちに永遠の命に至る水を与えるために、自らを献げ与えてくださいました。わたしたちの救いの確かさは、イエス キリストにあります。どうかわたしたちも、イエス キリストに出会い、その恵みに与り、永遠の命に至ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン