聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 3:31〜36

2019年9月1日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:31〜36(新共同訳)


 福音書はイエスのことを「上から来られる方」と言って、イエスがどこから来たのか、誰の許から来たのかを示します。そしてイエスを受け入れず、神に従わない人たちを「地から出る者」「地に属する者」と語ります。
 福音書は、3章でニコデモに対して救いとは何かを語り、救い主を遣わされた神の愛を語りました。続いて洗礼者ヨハネがイエスこそ救い主であることを証ししました。それらを受けて、福音書はイエスがどのような方であるかを語ります。

 3章まで語ってきたことを踏まえて、イエスは上から、つまり神の許から来て、すべてのものの上にあって、すべてを治める方だと言っています。マタイによる福音書では、復活されたイエスご自身が「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ 28:18)と言われました。福音書は、このことを証しするために語り、4つの福音書とも最後は十字架と復活によって救いの業が成し遂げられたことを記します。

 ヨハネによる福音書が冒頭から語るように、イエス キリストこそ神の言葉であり、ご自身が見たこと聞いたことを証しされます。しかし「だれもその証しを受け入れない」と福音書は言います。この「だれも」というのは、福音書がキリストを伝えようとしている人たちを指すのではないかと思います。イエスを信じる者たちがいたから今に至るまでキリストが宣べ伝えられたので、誰も信じなかった訳ではありません。ですから、証しを受け入れなかった「だれも」は、福音書が伝えようとした特定の人たちを指しているのだろうと思います。

 一方、キリストの証しを受け入れる者は、イエス キリストを信じ受け入れたことによって、神が旧約の約束のとおりに救いの御業をなしてくださったことを証しするのです。「確認した」と訳されている言葉は「印・はんこを押す」という言葉です。書類に承認のはんこを押すように、イエス キリストの証しを信じることによって「神は真実です」という書類に判を押すのと同様の証しをしたのです。わたしたちは、洗礼を受けること、信仰告白をすることにより、神の真実を証ししたのです。

 イエス キリストは、神の言葉です。わたしたちはイエス キリストによって、神の御心、神がわたしたちを愛しておられることを知ります。
 世には哲学的・神学的課題として「神の存在証明」というテーマがあります。神の存在を理論的に証明しようとするもので、中世から近代にかけて議論されました。現代ではほぼ取り上げられることはありません。そのような証明が意味を持たなくなったからだろうと思います。単純なものですと、時計がある。これを作った人がいる。時計よりもはるかに複雑・精密な人間が自然にできるのではなく、造られた神がおられる、といったものです。
 仮にこの論理が正しいとして、神の存在が証明されたとしましょう。ですが、こういった証明では、神がどのようなお方なのか分かりません。神がわたしたちを愛しておられるかどうか分かりません。わたしたちの知性や理性では、神を知ることはできないのです。わたしたちは、神が自らを現してくださらなければ(これを啓示と言います)神を知ることはできません。

 神は、救いの御業と御言葉によってご自身の民に自らを啓示してこられました。そして、ヘブライ 1:2によれば「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」ヨハネによる福音書が言うように、イエス キリストこそ神の言葉なのです。わたしたちはイエス キリストによって神の御心、神がわたしたちを愛しておられること、わたしたちを救おうとしておられることを知るのです。旧約は、来たるべき救い主を指し示し、新約は、救いを成し遂げられた救い主を証ししています。イエスご自身が言われたとおり「聖書はわたしについて証しをするもの」(ヨハネ 5:39)なのです。そしてわたしたちは、イエス キリストによって神の愛を知り、神の真実を知り、神ご自身を知るのです。

 神は、イエス キリストによってわたしたちが神を知ることができるように、聖霊を与えてくださいます。
 イエス キリストが救い主としての公生涯を始められるとき、洗礼を受けられました。本来、罪のないイエス キリストに罪の洗い清めの洗礼は必要のないものですが、わたしたちが歩むべき救いの道を拓くために洗礼を受けてくださいました。そのとき「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえ」(ルカ 3:21, 22)たのです。神は、イエス キリストの救い主としての歩みにおいて父・子・聖霊なる神の姿を現してくださるのです。
 新共同訳は「限りなくお与えになる」と訳しますが、ここは「升を使わずに与える」というのが直訳です。つまり計量カップなどできっちり量って与えるのではなく、「惜しみなく」与えてくださるという意味です。
 イエスも「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:26)と言っておられます。神はご自身の言葉としてイエス キリストを遣わされ、その神の言葉を理解できるように聖霊を注いでくださるのです。

 罪によって神が分からなくなってしまったわたしたちに、神は自らをお示しくださいます。イエス キリストが救い主であることを知ること、信じることにより、父なる神、そして聖霊なる神を知り、父・子・聖霊なる神ご自身の交わりに入れて頂けるようにしてくださったのです。

 父なる神は、救いのために人となり、その命さえも献げた御子イエス キリストを愛され、すべてをキリストの御手に委ねてくださいました。ですから、救いはイエス キリストにかかっています。だから福音書は「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と語るのです。イエス キリストは、信じても信じなくてもどちらでもかまわないどうでもいい存在なのではありません。わたしたちキリスト者は「神が独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ 3:16)ことの大きさを覚えていることが必要です。
 それには、キリストに思いを向けることが大切です。イエス キリストがよく知り、神の思いが聞こえてくるようになることが大切です。

 さきほど、神の存在証明ということを申し上げましたが、神はイエス キリストによってご自分を明らかにされました。イエス キリストこそ、神の存在証明なのです。ですから、キリストを抜きにして神の存在証明をしようとしても、神を知ることはできないのです。

 この池田教会に集うお一人おひとりが、礼拝を始めとする教会の営みによってイエス キリストと出会い、キリストを通して父・子・聖霊なる神との交わりに生きることができますように。神の愛を喜び、神からの希望に生きることができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが導いてくださったこの教会において、イエス キリストをよく知ることができますように。イエス キリストによって、あなたの御心をいよいよ深く知ることができますように。どうかあなたの御心を喜び、御業を喜び、そしてあなたご自身を喜ぶあなたの民、あなたの子として導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン