聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 11:28〜44

2019年3月31日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 11:28〜44(新共同訳)


 受難週に向けて、ヨハネによる福音書の後半から聞いている続きです。

 ベタニアに一人の病んでいる人がいました。マルタとマリアの兄弟で、ラザロという人でした。マルタとマリアはイエスのもとに人をやって、ラザロが病気であることを伝えました。
 しかしイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(11:4)と言って、なお二日間同じ所に滞在されました。
 それからイエスは弟子たちと共にベタニアに向かいますが、到着した時にはラザロは死んで葬られ、四日も経っていました。イエスが来られたと聞いて、マルタは迎えに出ます。するとそこでマルタはイエスの驚くべき言葉を聞きます。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25, 26)。

 マルタに、兄弟の死によって知らなければならない最も大切なことを伝えたイエスは、マルタにマリアを呼びに行かせます。マルタは、家に戻ってマリアを呼び「先生がいらして、あなたをお呼びです」と告げます。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに向かいます。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられました。
 マリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちも、マリアが急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追ってついて来ました。

 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、マルタと同じ言葉を語りました(11:21)。
 マリアもまた、イエスが「神の栄光のためである」と言われたラザロの死の意味を知らずにいました。

 イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、罪がもたらした死による悲しみに捕らわれていることに憤りを覚え、心かき乱されて、「どこに葬ったのか」と問うて、涙を流されました。

 ユダヤ人たちは、イエスがラザロを愛しておられたことを感じていましたが、中には「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいました。
 彼らもまたラザロの復活を見なければならない人たちでした。

 イエスは死に対する憤りを感じながらラザロの墓へとやって来られました。
 当時の墓は横穴で、入口のところは、立てられた円盤状の石を、溝を滑らせて開けたり閉じたりするようになっていました。
 イエスが「その石を取りのけなさい」と言われると、マルタが答えます。「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」。
 イエスはマルタに言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」。

 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで祈られました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」。
 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。
 すると、ラザロは、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。福音書は、ラザロは死んでいたということを確認するように「死んでいた人が手と足を布で巻かれたまま出てきた」と書いています。
 イエスは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と命じられます。

 イエスはラザロだけでなく、わたしたちのことも愛しておられます。イエスの願は、わたしたち罪人が救われることです。罪から解き放たれて神へと立ち帰り、神と共に生きる祝福に入ることです。そして愛するすべての人を罪と死の悲しみから解放するために、イエスはご自身の命を十字架で献げてくださいます。
 決して、力及ばず捕らえられたのでも、運悪く捕まったのでもありません。まさしく「神の栄光のためであり、神の子がそれによって栄光を受けるためなのです」。聖書において神の栄光とは、神が救いの神であることが明らかになり、神の民が神を誉め讃えるためのものです。イエス キリストの十字架と復活によって、神が救いの神であり、イエス キリストがまことの救い主であることが明らかになるのです。今回のラザロの死に伴う、マルタとの会話(11:21~27)、イエスの憤り、そしてラザロの復活は、イエスご自身の十字架と復活を指し示すしるしなのです。

 わたしたちに対する神の愛の前に、ひとり子イエス キリストさえ救い主としてお遣わしになる神の救いの御業の前に、死ですら立ち塞がることはできないのです。
 イエスの言葉は、死からさえ命を呼び覚ますのです。
 イエス キリストこそ、まことに「復活であり、命」なのです。イエスを信じる者は「死んでも生きる。生きていてイエスを信じる者は、誰も決して死ぬことはない」のです。イエス キリストがご自分の命をかけてまで創り出してくださった命の絆は、わたしたちの体、この肉体が失われても、決してなくなることのない永遠の命なのです。

 イエスが祈られたとおり、このラザロの復活は、イエスの周りにいるわたしたちのためのものです。イエス キリストがわたしのそして皆さんの救い主であり、イエス キリストにこそわたしたちの救いがあり、未来があり、命があることを信じさせるためのものです。

 この救いが、今、わたしたちに差し出されています。わたしたちは、この物ではない神の救いの恵みを、信じるという仕方で受け取るのです。目に見ることのできない救い、そして永遠の命に、わたしたちが与り、神と共に生きることを神は願っておられる、そのことを信じるに至るとき、わたしたちは神の救いのただ中に入れられるのです。そして信じる者は、イエス キリストご自身を受け取るのです。イエスは、信じて受け取った者と一つとなってくださり、ご自身の救いの恵み、そして永遠の命でわたしたちを満たしてくださいます。

 ここにわたしたちの生きる道があります。死によっても奪い去られることのない本当の命の道があるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 滅びゆくこの世にあって、永遠の命を仰ぎ見させてくださり、感謝します。イエス キリストと出会うとき、わたしたちはわたしたちの救いを見、永遠の命を見、希望に満ちた未来を見ることができます。どうかわたしたちが礼拝において、御言葉において、祈りにおいて、イエス キリストと出会い、救いを知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン