聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

イザヤ書 40:1〜11

2018年12月2日(日)主日礼拝  
聖書箇所:イザヤ 40:1〜11(口語訳)

 

 イスラエルの王国時代の後期、神は悔い改めのメッセージを伝えるため、多くの預言者を立てられました。狭い意味での預言者は、書名に名前が記されている預言者たち(イザヤ、エレミヤ、ホセア、アモスなど)ですが、彼らは紀元前8世紀頃から活動しました。そのメッセージの中心は「神に立ち帰れ、悔い改めよ」でした。しかし、預言者たちの働きにも関わらず国は滅びへと向かいました。北イスラエルアッシリアに、南ユダは新バビロニアに滅ぼされてしまいました。
 南ユダでは、捕虜として多くの人々がバビロニアに連れて行かれました。これをバビロン捕囚と言います。この捕囚は60年続きました。
 きょうの聖書は、この捕囚が終わって解放の時が近づいていることを告げています。

 「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ』」
 バビロン捕囚は、神の声を聞かず、神に頑なになり続けたことに対する裁きでした。神に裁かれたのですから、神に慰められるのでなければ解決しません。
 罪は神の御心を拒絶し、神から離れることです。命の創り主である神から離れて生きる先は、死しかありません。聖書も「罪の支払う報酬は死である」(ローマ 6:23)と言っています。この罪を解決しない限り、人生は必ず死に飲み込まれていきます。人は、神から罪の赦しを受けることが必要なのです。神の賜物である「永遠のいのち」(ローマ 6:23)を受けるのでなければ、罪と死から解放されないのです。

 「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」。
 神の赦しを受けて、神の民は神の都エルサレムへと帰ります。バビロンからエルサレムはおよそ 800km 離れています。ひたすらエルサレムを目指して、荒れ野を、砂漠を旅して行きます。
 けれど、実際の旅そのものも大変ですが、裁きを受けたその罪が解決するのでなければ、ただ単にふるさとに帰っても、再び裁きを待つだけになります。そのために預言者が神の声を伝える必要があります。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」。これは実際歩く道の話ではありません。神の声を聞くことができなくなった、命の主の言葉を聞くことができなくなった罪人の心の中の荒れ野に、主の道を備え、砂漠に我々の神のために大路をまっすぐに開くのです。罪人の心の中に、神へと続く道を備えることが預言者の務めです。
 罪人の心の中には、初めから神へと立ち帰る道があるのではありません。預言者が神の御心を伝え、神を指し示してこそ、主の道が現れてくるのです。

 このことは罪の世を生きるわたしたちすべてにとっても同じです。神が教えてくださるのでなければ、わたしたちはどこから来てどこへ向かって生きているのか分かりません。わたしたちは明日を知らず、今をただひたすらに生きています。占いなどを頼りに明日を知ろうとし、幸せになることを欲しています。しかし、罪から救い、永遠のいのちを与え、神の国に導くことができるのは、神お一人であり、神は御子イエス キリストを通してこの救いをわたしたちに与えてくださるのです。
 イエスが母マリアの胎に宿ったとき、天使は言います。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名付けなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」(マタイ 1:21)。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのち」(ローマ 6:23)なのです。

 「声が聞える、『呼ばわれ』。わたしは言った、『なんと呼ばわりましょうか』。『人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。』」。
 人のはかなさが語られます。確かに人ははかなくもろい存在です。だからこそ古くから人は永遠を求めてきました。ピラミッド、徐福伝説、記念碑、科学の永遠・無限の問題など。はかないからこそ人は永遠に憧れます。
 「その麗しさは、すべて野の花のようだ」とありますが、この「麗しさ」と訳されたのは「ヘセド」という言葉です。ヘブライ語で「愛」を表現する最も中心的な言葉です。岩波版はここを「総てその愛は野の花のようだ」と訳しています。ここでは、人の愛もまたはかない、ということを表しています。
 ただ神だけが永遠なのです。「しかし、われわれの神の言葉は/とこしえに変わることはない」のです。

 しかしそんなことがあるのでしょうか。時代にして1,000〜3,000年以上の時を聖書の言葉は超えています。新約にいたって、あらゆる民族に伝えられていきました。そしていろんな時代、いろんな人々に批判されてきました。けれど、今に至るまで神の言葉は変わることなく、すべての人々に宣べ伝えられ、救いを与えることのできる神を伝えてきました。

 「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と」。
 自ら罪を抱え、罪の世を生きるわたしたちは、命の創り主にして救い主、助け主である父・子・聖霊なる神と出会うのでなければ、罪と死に勝利する希望を抱くことはできません。

 「見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」。
 見よ、神は来られます。神の国は到来します。神ご自身が治め、報い、養ってくださいます。羊飼いがその羊を慈しみ、守り、導くように、神がわたしたちの牧者となってくださいます。
 イエス キリストは言われました「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(ヨハネ 10:11)。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ 14:6)。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ 14:2, 3)。

 とこしえに変わることのない神の言葉は、イエス キリストにおいて成就しました。だからわたしたちは希望を持って待ち望むのです。キリストが再び来たり給う日を、神の国に復活する日を、永遠の命によみがえる日を待ち望むのです。

 待降節は、わたしたちが希望を持って待っている者であることを思い起こし、確認をする恵みの時なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 はかなさの不安の中にあるわたしたちの「永遠」となってくださっていることを感謝します。わたしたちはいつでも、どんな時も、あなたを、あなたの御言葉を信頼することができます。あなたは「見よ」と言われます。どうかわたしたちがあなたを見ることができるように、信仰を導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン