聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 24:44〜49

2018年10月14日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ルカ 24:44〜49(口語訳)

 

 復活されたイエスがシモン(ペテロ)やエマオに向かった二人に弟子に現れたと弟子たちが大騒ぎしていると、突然イエスが彼らの中に現れ「やすかれ」と言われました。弟子たちは霊を見ているのだと思って驚いていると、イエスは霊ではないことを示すために、ご自分の手足を見せ、触らせました。さらにそこにあった焼き魚を一切れお食べになりました。

 それから彼らに対して言われました。「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。

 このイエスが以前言われたことについては18章にこう書かれています。「イエスは十二弟子を呼び寄せて言われた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子について預言者たちがしるしたことは、すべて成就するであろう。人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」(ルカ 18:31~33)。ご自身の十字架と復活、苦難と栄光は、既に旧約に記されていることで、すべては成就するのです。

 きょうのところで言われている「モーセの律法と預言書と詩篇」というのは旧約全部を指す言い方です。つまり、旧約において救い主について書いてあることはイエスについて書いているのであり、イエス キリストにおいてその言葉は成就する、ということです。神の言葉、すなわち神の約束は、すべてイエス キリストにおいて成就し、実現するのです。

 そしてこのことを悟らせるために、イエスは弟子たちの心を開いてお語りになります。
 主に心を開いて頂かないと、弟子として側にいても肝心のことを理解しないままになってしまいます。自分が聞きたいことだけを聞いて、自分好みの神(偶像)を作り出すことになってしまいます。心を開いてくださるように祈りつつ、自分を中心にせず、自分好みの言葉を求めるのではなく、全聖書から神の御心を聞くようにしていくことが大切です。聖書朗読と説教の前に「聖書朗読と説教を祝福し、神さまご自身が一人ひとりの魂に語りかけてくださるように」と祈るのは、主が心を開いてくださるのを願ってのことです。

 イエスは言われます。「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」

 ここで旧約に出てくる救い主について書かれている箇所をいくつか確認しましょう。

 創世記ではアダムとエバが罪を犯した後、神が二人をそそのかした蛇にこう言われます。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記 3:15)。救い主が来て、罪を打ち砕きますが、かかとを砕かれる。これは十字架でその命を献げること、救い主が自ら傷を負い、痛みを負って罪を打ち砕くということがエデンの園で最初の罪が犯された直後に語られています。

 そして救い主の誕生についてはこう書かれています。「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ 7:14)。これはマタイ 1:23で引用されている箇所です。罪によって神と共に歩めなくなりました。けれど神は救い主を遣わし、神ご自身が罪人のところへ来てくださり、共にいてくださるのです。

 そして救い主の宣教についてはこう書かれています。「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。・・傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」(イザヤ 42:1,3~4)。イエスが洗礼をお受けになったとき、天が開け、聖霊が鳩のように降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」との声がしました(ルカ 3:21~22)。イザヤの預言がイエス キリストにおいて実現しました。

 そして十字架についてはイザヤ 53章にある「主の僕の歌」と呼ばれる箇所がまさに十字架の苦しみを預言しています。ですが、ここは長いので別の箇所を紹介します。
 詩篇 22:1には「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか」とあります。これはイエスが十字架で叫ばれた言葉です。イエスは、神に捨てられたと感じた民の苦しみを自ら十字架で負われました。
 そして「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ」(ゼカリヤ 12:10)と十字架の悲しみを記しています。

 三日目の復活を示すのはヨナ書です。「主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。・・主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した」(ヨナ 1:17, 2:1, 2, 17)。そして詩篇 16:10では「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられない」と復活を示して語られています。

 ユダヤ人たちは救いを拒絶しましたが、神はイエス キリストにおいて救いを成し遂げてくださいました。詩篇にはこうあります。「わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。家造りらの捨てた石は/隅のかしら石となった。これは主のなされた事で/われらの目には驚くべき事である。これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう」(詩篇 118:21~24)。この聖句はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書と1ペテロで引用されています。

 そしてイエスが「その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」と言われたことについては、イザヤ書において「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」(イザヤ 46:6)と言われています。

 まさに旧約全体を通して、イエス キリストの救いの御業が語られ、指し示されているのです。

 イエスの弟子たちは、神の言葉はイエス キリストにおいて成就したことの証人、証し人なのです。「あなたがたは、これらの事の証人である」とイエスは言われます。

 さらにイエスは「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と言われます。
 「約束されたもの」というのは、福音書に続いてルカが編纂した使徒行伝に出てくる聖霊のことです。ヨハネによる福音書でも「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ 14:16, 17)と言われています。
 弟子たちの信仰、熱心によって務めを果たすのではなく、神の霊に満たされ導かれて、務めを果たすのです。だから「授けられるまでは都に留まっていなさない」と命じられるのです。都というのは、神殿のあるところ、神の御前に進み出て礼拝を献げるところを表しています。今では、わたしたちが今集っている教会を示しています。

 わたしたちが礼拝に招かれるのも、主に心を開いて頂いて神の言葉を聞き、神の言葉が真実であり、出来事となること、神の言葉にはわたしたちに対する神の愛が満ちあふれていることを知るためです。
 そしてわたしたちも神の霊、聖霊を受けて、神の祝福によって送り出され、それぞれの場へと派遣されていくのです。
 きょうの箇所が示しているのは、終わりの日までキリストの弟子たちが経験する出来事、すなわちわたしたちの出来事なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちの心が開かれますように。あなたの御言葉を知ることができますように。どうか聖霊に満たされて、救いの御業に仕えることができますように。どうかわたしたちを用い、キリストの証人としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン