聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

創世記 11:1〜9

2017年6月18日(日)主日礼拝  地区の説教者交代(講壇交換)
聖書箇所:創世記 11:1〜9(口語訳)

 

 バベルの塔、と言われる聖書の箇所です。昔話のような語りで話は進みます。
 昔、昔、「全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。」(1~3節)
 「石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た」というのは、文明の発展を表しています。文明の発展によって、人間は力を得ました。
 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(4節)
 人は現代に至るまで変わりません。科学的知識を得ると、その知識によって力を得、力を表現します。その一つが、高層建築です。世界一の高さのものを建てることのできる技術は、人類の誇りの一つです。

 わたしは、こういう誇りがよく分かるような気がします。建築の仕事は、自分が携わったものが目に見えます。形が残ります。手で触ることができます。わたしは、うらやましさを感じます。わたしの仕事は、牧師です。神学校を卒業してから27年が過ぎました。自分に与えられたものを用いて、精一杯御言葉を語り続けてきました。わたしが取り次いだ聖書の言葉を通して、どれだけキリストと出会えたでしょうか。どれだけ神を知ることができたでしょうか。一人ひとりの信仰が、また教会がどれだけ成長したでしょうか。全く分かりません。時に、自分のしてきたことには意味があったのだろうか、と迷いが生じることもあります。その評価は、神がなさることであり、終わりの日に神の御前に立つまで分かりません。そんな時、建築の仕事はいいなぁと思うこともあるのです。

 力を得た人間は「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう」と考えます。都市を造り、高層建築物を立てて、その力を誇るのです。「その頂を天に届かせよう」というのは、神に並び立とうとすることです。神のおられる天に、自分たちも立とうとすることです。
 人は神を恐れています。「われわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」エデンの園を追われ、ノアの洪水を経験してきた人間は、神を恐れています。自分たちの名を、神に並ぶものとし、神の力に対抗しようとするのです。
 特に、産業革命を経て、科学技術を躍進させてきた現代、ダーウィンが進化論を唱え、ニーチェが「神は死んだ」と述べて以来、人は科学の力で神に対抗し、力と富を手に入れて、自分を誇り、自分の思い通りに生きようとしています。

 5節から神が登場します。「時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。」
 人は、自分の願望に縛られています。多くの人は、自分の願いが叶うところに幸せがあると思っています。だから、人はたくさんの神々、自分の願いを叶えてくれる偶像を作り出し、神に自分の願いを叶えさせようとしてきたのです。
 罪を抱えた人間は、自分の願望、欲望に縛られ、留まることもできずに突き進むのです。この罪人の突進を止めるのが、神の裁きです。
 神の裁きを、神の罰だと考える人がいますが、それは一面的な見方です。神の裁きは、罪の暴走によって滅びに飲み込まれてしまう罪人を救うための御業でもあります。この時も神の御業によって「彼らは町を建てるのをやめた」のです。
 産業革命以降の技術革新の中で、罪人の思いは暴走し、2度の世界大戦、2度の核兵器の使用、チェルノブイリとフクシマの原発事故、大きな犠牲を出してきました。今挙げた世界大戦、核兵器の使用、原発事故、このどれもが日本に関わり、日本は大きな犠牲を出してきました。けれど残念なことに、日本では神への悔い改めはまだまだ不十分なように思います。わたしたちの国はまだ神の裁きを必要としているのでしょうか。

 「これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。」
 ヘブライ語の乱すという動詞「バーラル」から町の名は「バベル」と呼ばれるようになりました。
 そして、数多くの言語が存在するようになったのです。『ラルース言語学用語辞典』によると、世界の言語は約2800語だそうですが、5000~8000語とする調査もあるそうです。なぜ、調査によってまったく違う数が挙げられるのかというと、理由の一つに、あることばが言語なのか、方言なのか、判断が分かれることが挙げられます。日本についても同じことが当てはまるそうです。ある資料では、日本では15言語が話されているとなっているそうです。日本語、アイヌ語の他にも、宮古語、八重島語、与那国語、与論語などが挙げられているようです。

 けれど、言語が違ったために、人は相手を知り、理解する努力を続けるようにされました。神の裁きは、罪人が共に生きるための努力へと導きます。そして、その中心となるのは、神を知ることなのです。なぜなら、わたしたちは神にかたどられて造られたからこそ、愛を求め、共に生きることを求めるのです。カルヴァンは『ジュネーブ教会信仰問答』の問い1で「人の生きる主な目的は何ですか」と問い、それに「神を知ることです」と答えています。罪のためにばらばらとなり、死に捕らわれてしまったわたしたちが、共に生きていくためには、神を知り、神と共に生きることが必要なのです。だからこそ、神は教会を建て、神の福音を宣べ伝えさせているのです。罪によってばらばらになってしまったわたしたちが、真に共に生きるためには、神に立ち帰ることが必要です。神の許にわたしたちの救いがあります。わたしたちの未来があります。わたしたちの命があります。そしてわたしたちは、主にあって一つなのです。

ハレルヤ