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教理による黙想の手引き 21

教理による黙想の手引き 第21回
日本キリスト教会発行 福音時報 2016年9月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「洗礼」

「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」
(マタイによる福音書 28:19 ~20 口語訳)

 主から委託された教会の務めには、聖礼典があります。
 聖礼典には洗礼と聖晩餐(聖餐)の2つがあります。この2つは基本的に礼拝の中で行われます。説教と切り離すことはできないものです。
 聖礼典は、主が行うように命じてくださったものです。目に見えるしるしによって、自分がキリストの救いに入れられていることを確認させてくださる恵みの業です。説教で告げられた救いの出来事に自分が入れられていることを保証してくださる恵みの業です。

 今回は、洗礼について考えましょう。
 使徒行伝 22章16節には「み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」とあります。罪の洗い落とし、罪の洗い清めの洗礼という理解が示されています。使徒行伝 2章38節には「罪のゆるしを得るために・・バプテスマを受けなさい」とあり、罪の赦しを得るための洗礼という理解が示されます。

 この罪の赦し、洗い清めということを考えるとき、一番思い浮かぶのは、イエスが洗礼を受けられた(マルコ 1:9~11、マタイ 3:13~17、ルカ 3:21, 22)、ということです。イエスは罪を持っておられません。つまり、イエスには洗礼を受ける必要はないのです。それなのにイエスは洗礼をお受けになりました。そして3つの福音書ともに「わたしの心にかなう者である」という天からの声を記しています。
 この洗礼から救い主としての公生涯が始まるわけですが、罪の洗い清めの必要のないイエスが洗礼を受ける。それが父なる神の御心にかなう。これは救い主の有り様を象徴する出来事です。罪なき神の子が、罪人のために人となる。罪の贖いのために十字架で命をささげる。救い主は、罪人の救いのために自分自身には必要のないことを身に負って、わたしたちの前に救いの道を開いてくださったのです。

 もう一つ洗礼が指し示す大切な事柄があります。それは、救いのために人となられたイエス・キリストと結び合わされる、ということです。結び合わされるというのは、イエスの救いの御業が自分のものとなるということです。ローマ人への手紙 6章3~6, 8, 11節を読んでみましょう。「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。・・もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。・・このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」
 ここで書かれているのは、洗礼を受けるということは、イエスの十字架の死と復活の命に結び合わされ、古い自分に死んで、キリストの復活の命に新たに生まれる、ということです。これは、キリストと一つにされるということです。分かち難く一つにされるということです。

 だから、イエスは力強く宣言されます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)。

 洗礼によって、イエスと共に生きる新しい人生が始まるのです。

ハレルヤ