聖書の言葉を聴きながら

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ルカによる福音書 21:1〜4

2017年2月12日(日)主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書 21:1〜4(口語訳)

 

 イエスは今、神殿におられます。金持ちがやって来て献金を賽銭箱に投げ入れています。イエスは、その中で貧しいやもめが銅貨を2枚、2レプタ入れるのに目を留められました。
 イエスは言われます。「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」

 レプタというのは複数形です。単数形だとレプトンとなります。レプトン銅貨と呼ばれるものがあって、この女性はそれを2枚ささげたわけです。1レプトンは、1/128デナリだと言われています。1デナリは、労働者1日分の賃金であったと言われています。分かりやすく考えるために、1日時給800円で8時間働いたとします。そうすると、1日6,400円もらえます。これが1日分の賃金、1デナリです。これの1/128は50円です。ですから2レプタで100円となります。これがこの女性のこの日の生活費全部でした。
 おそらくこの女性は、この日断食して、この日の生活費全部をささげ、神に祈ったのでしょう。
 こういう習慣は、今でもあります。キリスト者の場合なら、キリストの受難を覚える復活節の前の金曜日には断食をして祈る人がいます。祈りに専心するために断食するという人もいます。イスラム教の場合、ラマダンと呼ばれる断食月があり、その期間は日中は断食し、その分を施しに当てる、と聞いています。日本でも、願掛けをし、願掛けの期間は好きなことを断って祈るという習慣があります。
 それでも、この女性が貴重な1日分の生活費全部をささげたのには、特別な事情があったのかもしれません。しかし、聖書はその事情については何も記しておりません。
 前回、イエスは律法学者たちが自分で自尊心を満たそうとしたり、経済的に満たそうとするあり方を批判されました。それに続いて、イエスはこの貧しいやもめの献げ物を指し示してお語りになります。
 彼女はこのとき、自分自身を神に委ね、自分自身を神にささげたのです。

 サムエル記上15:22にはこうあります。「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。詩篇51:17では「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」と言われています。そして、ミカ6:6〜8では「『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか』。人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」と言われています。

 神が求めておられるのは、わたしたち自身なのです。
 献金の祈りにおいて、「献身のしるしとして」と言われるのは、「主よ、わたしたち自身をあなたにおささげします。そのしるしとして、献金をあなたにささげます」ということです。
 わたしたちは、自分自身を主に委ね、ささげようとしているかどうか、この貧しいやもめとイエスの言葉を前にして、時々自分に問いかけてみる必要があるのだと思います。

 ちなみに、聖書が記す献金の基準は十分の一です。創世記28:22でヤコブが夢で天にかかるはしごを見た後で「わたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」と言っています。民数記28:26では「レビ人に告げてこう言いなさい。わたしがあなたたちの嗣業として与えた十分の一を、あなたたちがイスラエルの人々から受け取るとき、そのうちの十分の一を主にささげる献納物としなさい」(新共同訳)と命じられています。
 そしてこの十分の一は、信仰の熱心が暴走しないように歯止めをかけます。教会が「これは大事な主の御業なのです。信仰の熱心があればもっとささげられるでしょう」などと言って、無制限に献金を求めてはならないのです。神は十分の一と言って、それ以上に差し出すように求めることを禁じておられます。きょうの箇所の直前で「やもめたちの家を食い倒し」と言われたのは、このことに抵触することなのかもしれません。きょうの箇所でも、イエスは生活費全部をささげなさい、などと言っておられるのではありません。

 日本キリスト教会には、教会と伝道所があります。伝道所から教会になるための目安として、現住陪餐会員が30名と言われてきました。なぜ30名かと言いますと、クリスチャンホームが10家族 夫婦20名が十分の一をささげると、牧師一家族を支えることができます。もう5家族 夫婦10名が十分の一ささげるもので建物を維持すると考えたからです。
 わたしは聖書を基準とした現実的な考え方だと思います。しかし、実際には教会員はクリスチャンホームだけではありませんから、あくまで目安です。

 わたしたちは十分の一献金を厳格に守るわけではありません。律法学者のように、十分の一をささげていることを信仰の手柄のようには考えません。献金は、わたしたち自身、そしてわたしたちの生涯を神にささげる信仰を育むために、神が定めてくださったものです。
 どれだけ献金するか、ささげるかは、神に祈りつつ一人ひとりが決める事柄です。
 そのときに、わたしたちが考えなければならないのは、「わたしは自分自身を神にささげているか、委ねているかどうか」なのです。これが献金を考えるときに第一に考えるべきことです。それが金額のことが第一になると、信仰がずれてきます。
 献金もまた信仰の事柄です。神に喜ばれる献げ物となるように、わたしたちは神に祈り、神と相談しつつささげていくのです。財布を見て、これぐらいなら大丈夫だと言ってささげるのではありません。どれほど多くの献金がささげられていても、自分自身を神にささげているのでなければ、教会は神の栄光を表すことはできません。神が求めておられるのは、わたしたち自身なのです。聖書は告げます。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」(ローマ 12:1)。
 神はたくさん献金をささげさせるためにイエス キリストを遣わされたのではありません。わたしたちが救われ、わたしたちが神と共に生きるために、神はひとり子をさえ惜しまずに差し出してくださり、ささげてくださったのです。

 主イエスは、この2レプタささげた貧しいやもめの思いも状況も知っていてくださいます。この2レプタが賽銭箱に投げ入れられたとき、それが2レプタであるとはおそらく肉眼では確認できません。けれどもイエスは、その女性がどれだけのものを、どのような思いで、どんな信仰でささげたかを、知っておられるお方です。「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。・・あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。
 わたしたちは、このすべてをご存じの主に、安心して、希望を持ってささげていくのです。

 わたしのささげるもの、それはわずかかもしれない。足りないかもしれない。けれど、主はわたしを知っていてくださる。主は、このわたしを救うために命をさえ差し出してくださり、わたしを神のもとへと導いてくださるお方。だから、わたしたちは安心して、希望を持って、この主にささげていくのです。これから先、どんな人生があるのか分からない。けれど、それも主に委ねていけるのです。主は、わたしが主と共にあって、喜び祝うことができるようにと、来て、命をささげてくださいました。だから、この方にすべてを委ねていくのです。その信仰をもってささげられるものを、主はちゃんと覚え、祝福してくださいます。
 わたしたちはそのように、すべてを知り、すべてを受け止め、そしてすべてを祝福してくださるお方と共にある大きな恵みの中に、今入れられているのです。

ハレルヤ