聖書の言葉を聴きながら

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イザヤ書 55:1〜13

2016年12月14日(水)祈り会
聖書箇所:イザヤ書 55章1~13節(新共同訳)

 

 3節に「とこしえの契約」とあります。訳によっては「永遠の契約」となっています(フランシスコ会訳)。神はご自身の民と契約を結ばれます。

 神は何にも縛られない自由なお方です。それなのに、なぜ神は民と契約を結ばれるのでしょうか。契約は約束を守るために結ばれるものです。しかし、わたしたちは罪ゆえに神との契約を守ることができません。ですからこの契約は、神が一方的に結び、神が一方的に履行されるものです。神が一方的に契約を結び、わたしたちを「神の永遠の約束」の中に置いてくださるのです。
 わたしたちは罪ゆえに、完全に神に従うことはできませんし、完全に神を信じることもできません。だからこそ、できないから神に従うことをあきらめてしまう、できないから神を信じることをやめてしまうのではなく、何度でもそこへと立ち返ることができるように、神は永遠の約束の中に置いてくださったのです。神はわたしたちを、ご自身の真実な約束に支えられて生きる者にしてくださっているのです。この神の契約から、神とわたしたち罪人との新しい関係が始まるのです。
 エデンの園でアダムとエバが罪を犯した後にも、誘惑した蛇に対して「彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」(創世記 3:15)と、神は救いの御業をなす約束をしてくださいました。

 この契約の大切な点の一つは「永遠」ということです。わたしたちもいろいろな場面で約束をします。けれどもわたしたちには、いろいろな事情で約束を果たせないことがあります。約束を守れない状況がある、ということをわたしたちは知っています。つまりこの世では、約束は絶対ではないということです。無条件に約束を信じてはいけない。約束には限界がある。そのようなこの世の限界ある信頼の中で生きているわたしたちに対して、神は変わることのないご自身の「永遠」を与えてくださったのです。
 バビロン捕囚が終わって民が解放されたのは、紀元前538年だと言われているので、キリストがお生まれになるまで、この預言から500年も後のことです。そして、キリストの十字架から2,000年近く経ちました。社会状況も大きく変わりました。だから、約束もあの時のままとはいかない、とは神は言われないのです。どれほどの時が経とうと、どれほど状況が変わろうと、神の「とこしえの契約」は変わらないのです。わたしたちは、いつ・どこにいても、どんな状態であっても神の約束を信じることができるのです。神ご自身の永遠、そして真実が、救いの御業の確かさを確信させてくださるのです。

 わたしたちをご自身の契約に入れてくださる神は、わたしたちを招かれます。
 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(1節)
 イエスも言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ 7:37, 38)「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ 6:35)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ 6:51)
 イザヤの預言は、イエス・キリストにおいて成就しました。神は、とこしえの契約を立てるために、御子をお遣わしになり、御子イエスは命をお献げくださったのです。そして今、わたしたちは聖晩餐のたびごとに、神が約束を実現されたことを確認し、その恵みに与っているのです。

 「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(3節)
 神はわたしたちを命へと招かれます。わたしたちの命を造られた神は、裁きと死に囚われたわたしたちを命へと招かれます。
 わたしたちは神に招かれ、名を呼ばれて、礼拝へと導かれます。教会はキリスト教が好きな人たちが集まっているのではありません。神に招かれ、召され、呼び集められて、神の民は集うのです。

 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」
 「神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」
 神は、逆らう者も、悪を行う者も招かれます。この方だけは「見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)お方です。自分自身の罪に絶望してしまうときにも、裁きの中にあっても、神は招かれます。イエスは自分を裏切るユダを弟子に招かれました。3度知らないと言うペトロを弟子にされました。逮捕されたらクモの子を散らすように逃げ出す者たちを弟子にされました。自分の罪も弱さも気づいていない者たちも、イエスは知った上で招かれ、弟子とされました。だから神は今、このわたしも招いていてくださり、神の民としてくださっているのです。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」(8節)
 この神の御心によって、わたしたちは救われました。この神の御心だけが、わたしたちを命へと導きます。
 「天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(9~11節)
 神の言葉は出来事となります。光を造り出し、命を創造し、救いを成し遂げます。そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ 1:14)。

 神の救いを仰ぎ見た者たちは「喜び祝いながら出で立ち/平和のうちに導かれて行」(12節)きます。
 「山と丘はあなたたちを迎え/歓声をあげて喜び歌い/野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉が/おどろに代わってミルトスが生える」(12, 13節)。被造物も世界も、救いの御業を待ち望んでいるのです。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(ローマ 8:19)。神の救いに与る者は、世界の喜びのために用いられるのです。

 「これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない」(13節)。「これ」は神の救いの御業を指します。「それはとこしえに消し去られることがない」のです。裁きがあっても、迫害があっても、消し去られません。神がわたしたちを愛してくださる救いの神である「記念」であり「しるし」です。今この時も、世界の公同の教会が、すべての神の民が、救い主の誕生を記念し、証ししています。
 わたしたちは、神のとこしえの契約、永遠の真実によって、今救いの中にあり、今喜びの中に入れられているのです。

ハレルヤ