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教理による黙想の手引き 03

教理による黙想の手引き 第3回
日本キリスト教会発行 福音時報 2015年3月号掲載
 掲載時のコーナータイトルは「教理を学ぶ - 説教で聞く教理 -」)

 

「真の神」

  「トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。」

           (ヨハネによる福音書 20章 28節 口語訳)

 

 トマスは復活が信じられませんでした。彼は言います。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」(ヨハネ20:25)と。
 しかし復活の主が、信じることのできないトマスの前に現れてくださいました。イエスはトマスに言われます。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(同20:27)このように復活の主が現れ、語りかけてくださったので、トマスは、イエスがどなたなのかを知りました。そのときトマスは「わが主よ、わが神よ」と告白したのです。

 パウロもまた、復活の主が現れ、語りかけてくださったとき、イエスがどなたなのかを知りました(使徒9:1~6)。代々のキリスト者たちも礼拝・聖書・説教を通して、復活の主に出会い、御声を聞いて、信仰へと導かれていったのです。そして、復活の主イエスに出会った人々は、イエスが真に神であられることを知るのです。

 聖書は、神のみが礼拝されるお方であることを教えています。使徒であれ天使であれ、神と等しくみなされ礼拝されることを戒めています(同10:25, 26、14:15、黙示録19:10、22:8, 9)。
 一方イエスについては、イエスが神と等しい方であると言い(ヨハネ5:18、ピリピ2:6)、神であると告げています(ヨハネ1:18、1ヨハネ5:20)。
 真に神であられるお方が、救い主としてわたしたちのところへ来てくださいました。このことを知るようにと、聖書は告げています。それは単なる事実なのではありません。真の神である神のひとり子が、救い主として来てくださったのには大切な意味があります。それは、わたしたちの救いが、真の神と出会い、神を知るところにあるからです。

 罪がもたらす理不尽、不条理に最も苦しんだ人に旧約のヨブがいます。彼は自分に降りかかってきた苦しみを理解できませんでした。彼を落ち着かせようとする友人たちの言葉にも、ヨブは憤りを募らせます。ヨブは訴え続けます。そのヨブの前に、神は現れ語られます。そのとき初めて、彼は苦しみから解き放たれました。「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います。」(ヨブ42:5, 6)

 真の神と出会い、神を知ることによって、わたしたちは救われるのです。だから、わたしたちを救うために、神のひとり子である真の神が人となって来てくださったのです。わたしたちはイエス・キリストと出会うときに神と出会い、神を知るのです。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」(ヨハネ1:18)

 罪を抱えて生きるわたしたちは皆、救いを必要としています。けれど罪故に、そのことにさえ気づけません。トマスと同じように信じることができません。しかし、そのわたしたちのところへ、復活の主が来て、語りかけてくださるのです。復活の主と出会い、神を知ることができるようにと、わたしたちは、イエスが復活された主の日ごとに礼拝に招かれているのです。

 罪の世にあって信仰はいつも途上です。「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく・・追い求めている」(ピリピ3:12~14)のです。最初キリストを信じたときにだけ出会うのではなく、わたしたちは主の日ごとに主の御声を聞いて出会うのです。わたしたちの思いを遙かに超える神に出会い、神を知るのです。そしてトマスと共に大きな驚きをもって「わが主よ、わが神よ」と御名を誉め讃えるのです。

ハレルヤ