聖書の言葉を聴きながら

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「神のものは神に返しなさい」(ルカによる福音書20:20~26)

「神のものは神に返しなさい」

 

 2021年6月13日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20章20節〜26節

 

 

 イエスエルサレムに来ておられます。十字架を負って、救いの業を成し遂げるために、エルサレムに来られました。

 イエスは、エルサレムに来ると、神殿で人々に教えておられました。そこに祭司長や律法学者、長老たちが来て、9節以下に記されている譬えを語られました。祭司長や律法学者、長老たちは、この譬えが自分たちに当てて語られたと気づき、イエスに手をかけようと思いましたが、そこにいてイエスの話を喜んで聞いている民衆を恐れました。

 そこで彼らは、義人を装うまわし者を送りました。義人を装うとは、いかにも信仰を求めているかのように振る舞うということです。彼らの目的は、イエスをローマ総督に引き渡すための言葉じりを捕らえるためでした。このときエルサレムは、ローマ帝国支配下にありました。ローマから総督が派遣されており、この総督の許可がなければ、誰かを死刑にすることはできませんでした。つまり、このときエルサレムの指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちは、イエスを死刑にするためにまわし者を送り込んできたのです。

 

 彼らはイエスに尋ねてます。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」さすがはまわし者。おべっかを使いつつも、抜かりはありません。1~8節のところでは、逆にイエスに質問されて、8節では「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と答えを拒絶されましたから、今度は答えを拒絶されないように、上手に質問します。

 彼らは22節で尋ねます。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 これは上手な質問です。「よい」と答えても、「いけない」と答えてもイエスを窮地に追い込むことのできる質問です。

 「律法にかなっている」と答えた場合、民衆はイエスに失望します。民衆は、神の民が異邦人に支配されているのを不満に思っています。もしイエスローマ帝国よりの答えをすれば、民衆の思いはイエスから離れます。そうしたら、指導者たちは民衆を恐れることなく、イエスに手をかけることができます。

 「律法に適っていない」と答えた場合、指導者たちはイエスを総督にローマ帝国に反逆する者として訴えることができます。そして総督がローマ帝国への反逆罪で死刑にしてくれるでしょう。

 この質問は、イエスに答えさせればよいだけの、彼らにとっては実に都合のいい質問なのです。

 

 しかし、イエスは彼らの思いを知っておられます。イエスの前でどのように取り繕ってみても、それは意味がありません。イエスはわたしたちの本当の思い、本当の姿を知っておられます。ペテロがまだ自分の罪にも弱さにも気づいておらず22章33節で「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったときにも、イエスは34節で「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われました。イエスの前でわたしたちは本当の姿を隠すことはできないのです。

 24節でイエスは言われます。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」。彼らは答えます。「皇帝のものです」。すると25節でイエスは彼らに言われます。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 デナリというのは、ローマの銀貨で、多くの人々が使っていた銀貨です。当時、1デナリは労働者の日当で、仕事終わりにデナリ銀貨を1枚渡せばよかったので、多くの人々が常に持っていた銀貨です。この銀貨には、皇帝アウグストゥスの横顔と銘が刻まれていたといいます。ですから「そこには、だれの肖像と銘があるか。」と聞かれたとき、彼らは即座に答えました。「皇帝のものです」。それに対してイエスはお答えになります。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」。

 

 イエスの言葉じりを捕らえようとして送り込まれたまわし者たちは、絶句してしまいました。「皇帝に税金を納めてよい」と答えても「よくない」と答えても大丈夫な、最高の質問をしたのに、彼らは言葉を失いました。なぜでしょうか。それは「神のものは神に返しなさい」というイエスの答えが、あまりに衝撃的だったからです。

 

 わたしたちにはこの「神のものは神に返しなさい」という言葉は抽象的に思えます。しかし、この場にいる人々にははっきりと分かったのです。デナリ銀貨には皇帝の肖像と銘が刻まれていました。それでは、神の肖像と銘が刻まれているものは何か。創世記1章27節には「神は御自分にかたどって人を創造された」とあります。この場にいた人々は皆、この創世記の言葉を思い起こしたことでしょう。イエスの答えは、そこにいた人々の思いを神の言葉へと導き、神の言葉の前に立たせました。

 

 人々は考えます。「そうか、神のかたちに造られ、神の名を帯びて生きるわたしは神のものか。」「では、わたしを神に返すとはどうすることなのだろうか。」皆イエスの答えに驚き、神の言葉の前で黙ってしまいました。

 神に返すというのは、神の御前に差し出すというイメージです。わたしは2つの場面を思い起こします。

 一つは、創世記3章8節エデンの園で、善悪を知る木の実を食べ、最初の罪を犯したアダムとエバは、主なる神の歩まれる音を聞いたとき、神の顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。

 もう一つはルカによる福音書22章60節~62節で、ペテロがイエスの言われたとおり、3度イエスを知らないといった後で、イエスは振り向いてペテロを見つめられました。するとペテロはイエスの言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣きました。

 

 わたしたちは、わたしたちの嘘偽りのない本当の姿を知っておられる神の前に立つことはできないのだと思います。イエスのこの言葉を聞くとき、自分を神に帰すことができない、恐くて、悲しくてできない、そのことに気づかされるのだと思います。パウロもローマの信徒への手紙7章24節でこう叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。自分は神の御前に立つことはできない。そのことに気づき、自分の中の望みがついえたとき、そのとき、わたしたちはイエスと出会っていくのだと思います。パウロもこの叫びの後ローマの信徒への手紙7章25節でこう語ります。「 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。

 

 わたしたちは、イエス キリストに依らずしては神に立ち帰ることはできない。神の御前に立つことはできない。そして自分を偽ったままでイエスと本当に出会うことはできません。

 先ほどパウロの言葉を紹介しましたが、パウロ使徒言行録に記されている回心の出来事があってから、この手紙を書くまでに20年以上の時が経っています。彼は自分の罪、自分の惨めさを思いながら、繰り返し繰り返しイエスと出会っていったのです。パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節ではこう語ります。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。

 

 神は、わたしたちがイエス キリストに本当に出会えるように、さらに深くイエス キリストの救いに与っていくことができるように、わたしたちを繰り返し繰り返し御前へと招き続けてくださるのです。イエス キリストに出会い、さらに深く救いに与っていく中で、わたしたちは神のものである自分自身を神に返していく、神の御前に差し出していくことができるのです。ヘブライ人への手紙10章19節はこう語ります。「兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています」。

 教会に集うお一人お一人が、イエス キリストの救いに深く深く与り、神へと立ち帰ることができるよう祈ります。

 

 

 父なる神さま

  私たちがイエスキリストに本当に出会えるように、私たちを御前に招いて下さいます。どうぞ  イエスキリストに出会いさらに深く救いに預かり、自分自身を神に返していける者となることができますように。

 

エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン 

 

 

 

 

 

 

 

「慈しみをもって見つめられる主」(ルカによる福音書20:9~19)

 「慈しみをもって見つめられる主」

 

 2021年6月6日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20章9節〜19節

  

 

 イエスは民衆に対して譬え話しを語り出されます。この譬えは、寓話、つまりアレゴリーと呼ばれるタイプのものです。アレゴリーというのは、話の一つ一つが、これは、誰をなぞらえている、これは何をたとえている というようになっている話です。19節に「19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」とあります。この譬え話しアレゴリーの中で、自分たちが何になぞらえられており、どういう人物であると言われているのか、 よく分かったのです。

 

 9節の冒頭に書かれている「ある人」は、神さまを指し示しています。この人が造った ぶどう園は、神の民イスラエルです。このぶどう園を預けられている農夫たちが、祭司長、律法学者、長老たちです。

 ある人が、ぶどう園を造って、農夫たちに貸して、長い旅に出ます。これを言い換えると、神さまが、ご自身の民イスラエルを召し出し、民の責任者である祭司長や律法学者、長老たちに、お委ねになりました。

 当時、大地主の多くは、大都会や外国に住んでいた、と言われています。そして、レビ記によれば、果樹は植えてから3年間はそっとしておかねばなりませんでした。4年目にはすべての実を、主に献げなくてはなりません。5年目に初めて実を食べることが許されるのです。5年目に収穫を手にすることができるまでの間、持ち主は、農夫たちの給料を始め、すべての費用を負担します。そのことが、レビ記の19章の23節-25節に書かれています。 こういった当時の状況を、この譬え話を聞いていた人たちは、それぞれが思い浮かべたと思います。

 収穫の時期が来たので、ぶどう園の持ち主は、僕を送って、収穫の分け前を出させようとしました。これは、言い換えると、神さまは、ご自身の民イスラエルを神に献げるように、 ご自身の僕である、預言者をお遣わしになったということです。

 ところが、農夫たちはその僕を袋だたきにし、何も持たせずに、手ぶらで帰らせました。これは言い換えると、民の責任者である祭司長、律法学者、長老たちは、神が遣わされた預言者を拒絶し、預言者の言葉に従わなかったことを意味します。

 神は2回、3回と預言者を遣わしましたが、結果は同じでした。

 このことは、旧約聖書でも語られています。ネヘミヤ記9章の26節では「26しかし、彼らはあなたに背き、反逆し、あなたの律法を捨てて顧みず、回心を説くあなたの預言者たちを殺し、背信の大罪を犯した。」 と語られています。またエレミヤ書7章の25節と 26節では「26それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。27あなたが彼らにこれらすべての言葉を語っても、彼らはあなたに聞き従わず、呼びかけても答えないであろう。」と書かれています。

 最後にぶどう園の持ち主は、自分の愛する子を遣わしたら敬ってくれるのではないか、と考え、愛する息子を遣わします。これは、神さまが、ひとり子イエス・キリストを世にお遣わしになったことをあらわします。

 ところが、農夫たちは主人の息子を見ると、『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 と互いに話し合い、彼をぶどう園の外に放り出して殺してしまいました。

 

 ユダヤ教の大切な聖書注解に、タルムードとミシュナーというものがあります。タルムードの中に、「農夫たちは、不在地主のために働いた土地の所有権を主張できる」と記されています。さらに、ミシュナーには「他に所有権を主張する者がいなければ、3年間土地を使用した者が、所有権を持つと見なされた」と書かれていいます。いわば農夫たちがおこなったことは、これらの規定、ルールを悪用しようとする出来事です。

 また、これは、祭司長、律法学者、長老たちのイエスご自身に対する思いを表すものであり、まさに、これから起こる十字架の出来事を指し示すものです。

 その後、ぶどう園の主人は、彼らをどうするでしょうか。16節のところ「主人は戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるにちがいない」と述べています。

 このルカによる福音書は、紀元80〜90年頃にまとめられたと考えられています。ですからルカが、この福音書をまとめているときには、既にエルサレムは、ローマ帝国によって破壊され、ユダヤという国は、滅び無くなっていました。紀元70年の出来事です。

 ルカは、「主が言われたとおりだったなぁ」と思いながら、この譬えを書き記したのではないかと思います。

 この譬え話を聞いていた人々は、イエスに向かって「そんなことがあってはなりません」つまり、「農夫たちのような不義な行いがあってはならない」と、抗議をしました。

 するとイエスは、彼らを見つめて言われました。17節 「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった』 。その石の上に落ちる者は、だれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。

 引用されているのは、詩篇118編の22節です。隅の親石というのは、石造りの家を支える要の石です。壁と壁が合わさる隅の土台となる石であり、上にあって壁が揺れないようにするための重しとなる石です。木造の日本建築で言えば、まさに大黒柱です。

 この建築の要である隅の親石は、家を建てる者が捨てた石であったというのです。家造りの専門家、つまり祭司長や律法学者、長老たちが不要のものとして捨てようとしているイエス・キリストこそ、神によって、隅の親石とされ、イエス・キリストによって、すべての人は裁かれると言うのです。

 非常にあからさまなアレゴリー、寓話です。律法学者たちや祭司長たちが、この譬が 自分たちに当てて語られたのだと、悟ったのも当然のことと思われます。

 この場面で、ルカは17節の「見つめて」という言葉に「エムブレポー」という単語を使います。ルカは、この単語を22章の61節でも使います。「61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」この「ペトロを見つめられた」の「見つめられた」が「エムブレポー」なのです。茂 洋という教団の牧師で、神学者は、この「エムブレポー」は 「慈しんで見る」と訳するのがよいのではないか、と言っています。

 自分の罪も弱さにも気づいていないペトロに対して、イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」とルカ22章34節で言われます。そして実際にそのことが起こったとき、イエスは慈しみをもってペトロを見るのです。

 ここでも、自分たちがイエスを捨てる、神の愛する子を捨てるのに気づかない人々に 対して、そのことが起こった後で、ペトロのように気づけるように、このアレゴリー、寓話を語り、慈しみをもって彼らを見つめられるのです。

 しかしこのとき、祭司長や律法学者たちは、あからさまに自分たちにあてつけられたと思い、イエスに手を下そう、つまりイエスを殺そうと思いましたが、民衆を恐れました。  そうです、彼らは、神を畏れるのではなく、民衆の評判、民衆の反応を恐れたのです。

 彼らはイエスの姿を見ました。肉声も聞きました。彼ら自身に向かって語られるイエスの教えを聞きました。しかし、彼らは悔い改めませんでした。肉の目や耳でイエスを知ることはできません。聖霊によって清められ、信仰の目、信仰の耳が開かれるのでなければ、イエスを知ることはできません。

 

 イエスは、今も、慈しみをもって、わたしたちを見つめていてくださいます。だからこそ、わたしたちは、今イエスに出会い、神へ立ち帰ることができるのです。イエスはわたしたちの救いを願っておられます。わたしたちの救いのために今も御言葉を通して語りかけてくださっています。マタイによる福音書4章の4節にあるように「人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 のです。

 祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

「語りかけ、問いかけられる主」(ルカによる福音書 20:1~8)

 

「語りかけ、問いかけられる主」

 

 2021年5月30日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 20:1〜8

  

  私たちの教会では4月11日以降ルカによる福音書24章~、イエスの復活以降の阿部牧師の説教原稿の代読をすすめてまいりました。同じく、ルカによる福音書20章より、24章手前までの阿部牧師の説教原稿を小会はもっております。そのため、今後しばらく、20章以降を阿部牧師の説教原稿を通し、神の言葉を聴いていきたいと思います。

 

 イエスエルサレムに来られました。イエスは神殿で毎日教えておられました。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀っていました。本来なら率先してイエスに従うはずの人たちが、イエスを殺そうと思ったのです。彼らは、自分たちよりイエスが尊敬されるのが我慢なりませんでした。彼らは、イエスによって誇りが傷つけられたのです。けれど、民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手を出すことができませんでした。

 

 ある日、イエスが神殿で人々に福音を語っておられるところに、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、イエスに問いかけました。
 「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
 イエスはそれに対して答えて言われます。
 「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネ預言者だと信じ込んでいるのだから。」

 

 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。 

 

 上手な答えです。この世で生きるには、こういう上手さが必要になるときがあります。しかし、わたしたちは知っていなくてはなりません。わたしたちは、語りかけ、応答する関係の中で生きているのです。

 

 人が初めてエデンの園で罪を犯したとき、神が近づいてこられるの感じたアダムとエバは(創世記 3:8)「神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」ました。(創世記 3:8)この罪ゆえに神を避け、神から隠れるようになった人間に対して、神は(創世記 3:9)「どこにいるのか」と問いかけてくださいました。神が問いかけてくださったからこそ、人は罪を犯しても、なお神に答え、神に立ち帰る者とされたのです。
 わたしたちにとって、語りかけ・問いかけに答えるというのは、とても大事なことなのです。
 祭司長、律法学者、長老たちは、イエスの問いかけによって、神に立ち帰るチャンスを与えられていたのです。しかし、彼らは答えませんでした。上手にはぐらかしてしまいました。彼らは、神に答え、神の御前に立つことよりも、自分の立場、自分の誇りを優先してしまいました。

 

 イエスエルサレムに来られたのは、十字架を負うためです。罪人を救うために、自分の命さえもお献げくださるイエスの言葉は、救いへの招きの言葉でした。それに答えることを避けた、あるいは逃げた彼らに対して、イエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われたのでした。彼らが神の御前に立つことから逃げていることに気づかせるための言葉でした。

 

  毎週の礼拝が、聖書朗読と説教という神の語りかけに対して、信仰の告白という応答が続くのは、神の語りかけに対して答えていくためです。決して形式上のことではありません。
 わたしたちは、聖書は神の言葉であると告白しています。わたしたちにとって、聖書が語られる時、それは神がわたしたちに語りかけておられる時です。聖書の勉強をしているのではなく、わたしたちの救いを願い、今もわたしたちに語りかけてくださる生ける真の神との出会いの時です。神の言葉を聞くとき、神が何を語りかけ、問いかけておられるのかを心静めて考えて頂きたいのです。一人ひとりに神が語りかけ、問いかけておられることはそれぞれ違うのです。そして神の言葉に応答して、神の御前に立っていく、神に出会い、神に答えていく、そういう経験を重ねていって頂きたいと心から願います。

 

祈り

 主イエスキリストの父なる神さま、今朝も阿部牧師の説教原稿により、礼拝でき、感謝いたします。私たちにとって聖書は神の言葉であります。神さまが私たちに何を語りかけ、何を問いかけておられるのかを聴き、心静め、考えることができますように。そして私たちが、神さまの言葉に応答し、御前に立ち、出会い、答えていく生活をさせてください。教会にいるときだけでなく、普段の生活の中でもそのことができますように。主イエスキリストの御名を通して祈ります。

 

 

 

 

 

 

「祝福の基となる」(ルカによる福音書24:50~53)

 「祝福の基となる」

 

 2021年5月16日(日) 主日礼拝  

聖書箇所:ルカによる福音書 24:50〜53(新共同訳)

 

 ルカは、キリストの昇天で福音書を閉じます。

 実は、キリストの昇天に関しては、ルカが一番関心を持っています。

 マルコ福音書16章19節の最後のまとめのところで「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」とありますが、昇天については一言で終わります。  

 書簡では、エフェソの信徒への手紙とテモテへの手紙1の2箇所に書かれています。エフェソの信徒への手紙4章10節では「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」と書かれており、テモテへの手紙1の3章16節では「キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた。」と書かれています。どちらもキリストが天に上げられた事実を語りますが、天に上げられる様子を記してはいません。

 

 ルカによる福音書だけが、キリストが天に上げられる様子を記しています。しかも福音書に続く使徒言行録でも、キリストの昇天から始めています。福音書で記したからその続きからではなく、さらに詳しくキリストの昇天を描いて弟子たちの歩みを書いていきます。

 

 さて福音書を見ていきましょう。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」

 このベタニヤは、イエスの公生涯に関係の深い土地で、オリブ山の麓にあり、ヨハネによる福音書11章18節にあるように、エルサレムからも近く、イエスが復活させたラザロ、その姉妹マルタとマリヤの住んでいた村です。

 イエスは弟子たちをそのベタニヤ近くまで連れて行き、彼らを祝福されました。

 

 ルカによる福音書を見ますと、復活と召天は同じの日の出来事のように思えます。しかし、使徒言行録を読むと違うことが分かります。使徒言行録1章3節 には「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあります。

 福音書を読む際に覚えておいて頂きたいのは、福音書がまとめられたのは、イエスの死と復活、そして昇天から40年ほど経ってからです。イエスが十字架に掛けられたのは紀元30年頃、福音書が編纂され始めたのは紀元70年頃と考えられています。自分のもとに集まってきた伝承に基づいて、編者はそれぞれイエスが救い主であることを証しするために福音書を編纂しました。

 福音書は、現代のわたしたちが考えるような時間的な正確さを求めてはいません。ビデオに録画された映像とは違います。同じ人物が編纂したルカ福音書使徒言行録の昇天の記事を見てみると分かります。福音書だと昇天は復活と同じ日のように思えますが、使徒言行録では40日間あります。福音書は天に上げられるときイエスは祝福をしますが、使徒言行録ではありません。同じ編者であってもこのように違います。イエスが救い主であること、その救いの恵みを伝えるために書く内容が選ばれ書き方が選ばれています。ですから、伝えようとしている内容を受け取ることが大切です。ルカが福音書の最後の場面で伝えようとしているのは「祝福」です。

 

 ルカは、イエスの救い主としての業の締めくくりに「祝福」を記しました。弟子たちを祝福し、祝福しながら天に上げられました。

 礼拝が祝福(祝祷)で終わるのは、このためではないかと思っています。イエスは最後祝福をしてくださいました。しかも祝福しながら天に上げられました。主の祝福は終わることなく、今に至るまでも続いています。だから礼拝の最後は祝福で送り出されるのではないかと思います。

 

 50節に「祝福された」とあり、51節にも「祝福しながら」とあります。どちらもユーロゲオーという単語が使われています。実はもう一箇所このユーロゲオーが使われています。最後53節の「ほめたたえていた」です。

 このユーロゲオーをギリシャ語辞典で引いてみると、「ほめたたえる、祝福を求めて祈る、感謝する、祝福する」とあります。ですから53節は「ほめたたえていた」で正しいのですが、ルカがイエスに対して2度ユーロゲオーを用いて、最後に弟子たちに対してユーロゲオーを用いたのは、祝福を表すためではなかったかと思います。

 

 人は神にかたどって創られ、神に応答する者として創られました。神が語りかけてくださるので、人は神に祈ります。神が恵みを注いでくださるので、神を讃美します。神が救いの神として共にいてくださるので、神を礼拝します。神が創造されるので、人も文学でも音楽でも美術でも創造します。神が愛してくださるので、人も愛します。神が赦してくださるので、人も赦します。神にかたどられて造られた人は、神に応答して神の業に倣って生きていきます。   

 だから、神が祝福してくださるので、人も祝福するのです。神が祝福されるので、人はアブラハムに約束されたように「祝福の基」となることができるのです。祝福は、創造の始めから与えられていた神の恵みです。創世記 1章22節には「神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」」と記されています。ペテロの手紙1 の3章9節では「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」と言われています。

 

 だからルカは、イエスが地上でなされた最後の業が祝福であることを記します。ルカによる福音書は、ローマにいるキリストも旧約の伝統も知らない人々に向けて書かれています。父・子・聖霊なる神が、祝福していてくださることを知らせようとしています。受胎告知と呼ばれる場面を描き、ルカによる福音書1章28節で天使ガブリエルがマリヤに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と祝福したことを記します。キリストは祝福をもたらすために世に来られました。そして、福音書の最後もキリストの祝福、その恵みに応答して祝福する弟子たちで閉じようとしているのです。

 

 弟子たちがキリストを祝福するなんておこがましい、と思われるかもしれません。多くの人がそう思うからこそ、ユーロゲオーという同じ単語を使っていてもキリストの場合は「祝福」と訳し、弟子たちの場合は「ほめたたえた」と訳されています。けれど、この後使徒言行録も編纂するルカは、キリストの祝福を受けて、弟子たちも祝福する者となり、こうして世界にキリストの祝福が広められていったことを予告しているのではないでしょうか。

 

 わたしたちも、毎週礼拝において祝福によって送り出されています。わたしたちもまた、神の祝福を受け継ぎ、祝福の基として世界に神の祝福を広げたいと思います。是非、お子さんやお孫さん、お友達、また見舞いの際に祝福をして頂きたいと思います。ペテロの手紙1の3章9節にこうあります「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

 皆さんが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのです。

 

 聖書は語ります 「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」  と 

 わたしたちは今、神の祝福が満ちあふれ、讃美の満ちるところ、すなわちキリストの教会に導かれているのです。

 

祈ります

 

父なる神さま

 イエス キリストを通してわたしたちに祝福を注いでいてくださることを感謝します。わたしたちを祝福の基とし、キリストに倣って祝福する者としてくださったことを感謝します。どうかわたしたちも代々の聖徒たちと共に祝福していくことができますように。この教会から多くの人たちにあなたの祝福が注がれていきますように。

エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン