聖書の言葉を聴きながら

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ヘブライ人への手紙 3:1〜14

2020年12月23日(水) 祈り会
聖書:ヘブライ 3:1〜14(新共同訳)


 きょうは日曜日の説教の続きの箇所です。
 1節の「だから」は直前の2章で語ったことを指しています。イエスは、わたしたちと同じ血と肉を備えて真(まこと)に人となられた。ご自分の命を献げてわたしたちの罪を償う大祭司の務めを果たし、わたしたちを死から救い出してくださった。イエスこそ試練を受けている人たちを助けることがおできになる救い主(メシア=キリスト)である。だから「(神が)遣わされた方(使者)であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と言っています。

 ヘブライ人への手紙は旧約の民イスラエルヘブライ人)に向けて書かれた手紙です。もう少し詳しく言うと、イエスを信じて、キリスト者となったけれど、今まで行ってきたユダヤ教の儀式に心惹かれ、信仰が揺らいでいるイスラエルとその周囲の人たちに対して書かれた手紙だと思われます。そういう人たちに、これまでの儀式が指し示していたのはイエスであり、イエスこそ待ち望んできた救い主(メシア=キリスト)であるということを伝えようとして書かれた手紙です。

 2節からはイスラエルなら誰もが尊敬するモーセの名前を挙げて、イエスモーセよりも優れたお方であることを語ります。モーセも忠実に託された務めを果たしましたが、イエスは神の家全体を忠実に治めておられます。
 旧約の民の歴史を引き継ぐイスラエルだからこそ、旧約の約束を実現するため神が遣わされたメシア(キリスト)であるイエスを信じる。神の民が受けるべき神の祝福・恵みをイエスから受け取ってほしいという願いが込められています。

 2, 5, 6節と「神の家」という言葉が出てきます。神の家とは、神がおられる所を表します。聖書では、時に幕屋が神の家を表し、神殿が表してきました。新約の時代、教会がその務めを果たします。そして6節で「わたしたちこそ神の家なのです」と言われているように、わたしたち自身が神の家とされているのです。建物ではなく、わたしたち一人ひとりが神の住まい、神の家なのです。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント 3:16)「御父が・・その霊により・・信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ・・愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ 3:16~17)と言われているとおりです。だから、神の家を治めておられるイエスこそ、わたしたち一人ひとりを治める主なのです。
 この手紙は、イエスこそ神の家を治める大祭司、つまりイエスこそわたしたちの真(まこと)の主であり、イエスを信じイエスに従うとき、神と共に歩めることを示しているのです。

 そこで7節以下が語られます。ここは詩編95(:7b~11 ギリシャ語訳)からの引用です。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。/荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。/だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。/『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』/そのため、わたしは怒って誓った。/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」

 旧約の引用に対してこの手紙の著者は「聖霊がこう言われるとおりです」と語ります。著者が詩編は神の言葉であると理解していたことが分かります。
 この件(くだり)は、出エジプトの際、神がカナンの土地の偵察を命じられた際の出来事です(民数記 13:2)。偵察に行った者のほとんどが、そこに住んでいる民を恐れ「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(民数記 13:31)と言ってエジプトへ帰ろうとしました。ただヨシュアとカレブだけが主を信じて従うことを主張しました。そのとき神は、神に不平を言った者は約束の地に入ることはできない(民数記 14:29~30)と言われたことを、この詩編の言葉は述べています。
 引用された詩編の言葉は、神を侮ることを戒める言葉です。著者はキリストを拒んだイスラエルが頑なであり続けることがないように、詩編の言葉を繰り返して語りかけます。

 12~13節「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。」
 創造の時、神が「人が独りでいるのは良くない」(創世記 2:18)と言われたように、独りで神に従うことはできません。独り神に従えるのは、イエス キリストだけです。わたしたちには信仰を励まし合うことのできる主にある兄弟姉妹が必要です。だから神は、神の民を召し出し、教会を建て、わたしたちを神の家族、主にある兄弟姉妹としてくださいました。

 6節に「わたしたちこそ神の家」という言葉が出てきました。この家という言葉は家族とも訳されます。従って、神の家とは神の家族でもあります。
 罪はつながり、絆を破壊します。そして神の救いの御業は、わたしたちに新たなつながり、絆を与えてくださいます。
 神は、罪ゆえにバラバラになり、孤独と死に向かうわたしたちを神の家族として結び合わせ、共に生きる者としてくださいます。だからキリストの救いの御業は、キリストご自身がわたしたちの兄弟となってくださり、神を父とし、わたしたちを主にある兄弟姉妹としてくださったのです。
 教会の交わりもそのために働きます。わたしたちが一人ひとりがキリストとつながり、イエス キリストこそわたしの主ですという信仰を持ち続け、共に救いの恵みに立ち続けるために教会の交わりは用いられていくのです。

 この神が与えてくださる恵みを失わないように、著者は注意を促します。6節「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」14節「最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるならば」
 どちらにも「確信」という言葉が出てきますが、これはイエス キリストこそわたしたちの大祭司であり、救い主であるという確信です。そして神の民に約束された祝福が、イエスを信じるすべての者に与えられるという確信です。
 この確信を失わずに、神の恵みの中を歩み続けていけるように、神は御子イエスを遣わし、罪を贖い、わたしたちを救いの恵みへと招き続けてくださるのです。だからこそわたしたちは、大祭司イエスへと思いを向け、「今日」という日のうちに、互いに励まし合うのです。
 クリスマスは、その恵みを再確認する時なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは今年も御子の誕生を祝う時を与えてくださいました。新型コロナウィルスによる感染症で右往左往しているときも、あなたの約束は変わることなく、イエス キリストこそがわたしたちの大祭司であり、救い主であることをお示しくださいました。
 そしてあなたは、わたしたちが恵みの中を歩み続けていけるように、主にある交わりを与えてくださいました。わたしたちが共に、神の国へと続くイエス キリストの御跡を指し示し、共に恵みに与り、御名を喜び讃えつつ歩んでいくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヘブライ人への手紙 2:9〜18

2020年12月20日(日)主日礼拝  降誕節主日
聖書:ヘブライ人への手紙 2:9〜18(新共同訳)


 きょうはイエス キリストの誕生を祝うクリスマスの礼拝です。
 ですが聖書にはイエス キリストが12月25日に生まれたとは書かれていません。教会がキリストの誕生を祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。

 今年の待降節は、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの話を聞いてきました。キリスト誕生の千年以上前からキリストの到来が指し示されており、アブラハム、イサク、ヤコブに起こった出来事は、イエス キリストにおいて成就しました。
 きょうはヘブライ人への手紙を読みました。ヘブライ人というのは、旧約の民イスラエルのことです。聖書で最初にヘブライ人という言葉が出てくるのは、創世記 14:13で「一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て」と記されています。アブラムつまりアブラハムヘブライ人であったと聖書は述べています。名前は、時代や相手によって変わります。他にもイスラエルを表す名前は出てきます。きょうは、イスラエルの名前を説明するのが目的ではないので、これ以上の説明は控えます。
 このヘブライ人への手紙は、十字架に掛けられて死んだイエスは一体誰なのかを伝えようとしている手紙です。旧約の民イスラエルの人たちつまりヘブライ人に対して、イエスこそキリストつまり救い主であることを伝えようとしている手紙です。そのためにこの手紙は、イスラエルにとって馴染みのある「大祭司」という言葉でイエスについて語ります。

 祭司というのは、人々が神の御前に進み出られるように、神と人々との間に立って献げ物を献げて、執り成しの務めを果たす存在です。そして大祭司というのは、祭司の長であり、年に一度、贖罪の日に至聖所に入り、全イスラエルのための贖罪の儀式を行いました。
 旧約には罪を贖う規定が細かく定められていましたが、罪を犯したことに気づかず贖われていない罪があるかもしれません。そうした贖われていない罪がイスラエルに滅びをもたらすことがないように、大祭司が贖罪の日に至聖所で贖いをするのです。
 ヘブライ人への手紙は、大祭司はイエス キリストを指し示す存在であり、イエス キリストこそ真の大祭司、すべての人の救いのために自らの命を十字架で献げ、すべての罪の贖いを成し遂げてくださった救い主であると述べているのです。

 きょうの箇所を見ていきましょう。
 9節には「イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』」とあります。イエスは十字架に掛けられて地上の生涯を終えられました。聖書はこの死によって罪人が贖われたと教えます。イエスの死は「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」ものだと言っています。つまり、イエスはすべての人のために死んでくださった故に、救い主なのだと言うのです。そしてイエスはこの十字架の死によって復活の栄光と、救い主としての栄誉の冠を授けられたのです。
 イエスの十字架と復活こそ、教会が二千年語り続け、宣べ伝えてきたことです。

 10節では「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであった」と言われています。
 イエスの数々の苦しみ、そして死は、イエスを完全な者にしたと言うのです。完全な者というのは、救い主として完全であるということです。つまり、イエスによって救われない人は一人もいない、ということです。イエスに救いを求めてもイエスの力及ばず、残念ながらイエスによっては救われないという人はいないのです。それは、イエスが数々の苦しみを受け、十字架で命を献げてくださったことによるものです。

 そのためにイエスは真(まこと)に人となって世に来てくださいました。そのことがきょうの箇所では、14節から書かれています。
 14~15節「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」
 イエスはわたしたちの所へ来てくださいました。「神は我々と共におられる、すなわちインマヌエル」(マタイ 1:23、イザヤ 7:14)という神の言葉がイエス キリストにおいて成就しました。それはわたしたちと全く同じ肉体を取り、真(まこと)に人となって来てくださいました。それは「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため」でした。罪の結果である死からわたしたちを救い出すために、罪を除くすべての点でわたしたちと同じくなってくださり、自らの命をかけて罪を償ってくださいました。それこそが真の大祭司の果たすべき役割だったのです。自ら「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けること」がおできになったのです。

 10節に「ふさわしいこと」という言葉がありますが、数々の苦しみを通し、自らの命をも献げて、完全な救い主となり、すべての人の救い主となることは、まさしく真の大祭司の務めであり、神の御心だったのです。
 イエスは試練のただ中に来て、試練を受けて苦しまれました。死に至るまで苦しまれました。そして苦しまれたからこそ、苦難の中にある者を助けることがおできになります。イエスはわたしたちの苦しみを知っておられます。そして死でさえも受け入れられ、身をもって知っておられるからこそ、わたしたちを死から救い出すことがおできになるのです。イエスはわたしたちの所へ来てくださいました。本当にわたしたちと共にいてくださいます。苦しみも死もその身に負って、救い主となってくださいました。イエスは、罪に溺れるわたしたちに対して、安全な岸から手を差しのばして「この手につかまれ」と言われるのではありません。溺れているわたしたちの所へ来てくださり、救い出してくださるのです。

 神はイエス キリストによって、救いの約束を成就してくださいました。イエス キリストにおいて、神はご自身の真実を証ししてくださったのです。
 最初に言いましたように、教会がクリスマスを祝うのは、神の言葉が真実であることを覚えるためであり、救いの完成を仰ぎ見るためです。
 イエスは救いの創始者にして救いの源であるお方です。イエスの許に、そしてイエスと共に救いはあります。聖書が告げる救いは、イエスと共に、神と共に生きることです。十字架の死に至るまで神と共に歩まれたイエスは、救いに至る目標でもあります。イエス キリストの救いに与るわたしたちは「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(2コリント 3:18)そして終わりの日には、イエス キリスト同様死から甦り、神の国へ招き入れられるのです。

 今年も待降節降誕節を通して、神の真実を聞く時が与えられ、神の真実が示されました。
 聖書は語ります。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(2ペトロ 1:19)
 イエス キリストは、インマヌエルの主。わたしたちの所に来てくださり、世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる真の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの罪を贖い、わたしたちを死から救い出す真の大祭司イエス キリストをお遣わしくださったことを感謝します。あなたの御言葉は真実であり、決して虚しくなることはありません。信仰によりあなたがお遣わしくださった救い主と結び合わされ、救いに与ることができますように。罪がもたらした死から解放され、キリストの命に生きる者としてください。信仰により救いの完成を望み見て、キリストと共に生きる者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

創世記 28:10〜22

2020年12月16日(水) 祈り会  待降節第4主日
聖書:創世記 28:10〜22(新共同訳)


 きょうは、アブラハムの孫、ヤコブの話です。

 待降節は、クリスマス(12/25)前4回の日曜日です。本来ですと、今度の日曜日(12/20)は待降節第4主日です。ですが日本では、12/25(クリスマス)は祝日ではないので、12/25日の直前の日曜日、つまり待降節第4主日降誕節主日として守る教会が多いと思います。わたしたちの教会も12/20に降誕節礼拝を守ります。そこで降誕節を祝う日曜日の直前の祈り会で、待降節第4主日に聞く予定だった話をしたいと思います。

 本来、神の祝福はアブラハムからイサクへ、そしてイサクの長男エサウに受け継がれていくはずでした。しかし、神の祝福がどうしてもほしかったエサウの双子の弟ヤコブは、あるとき空腹で狩りから帰ってきたエサウが、ヤコブの作っていた煮物をほしがったので、エサウの長子の権利と交換することを誓わせました(25:27~34)。長子の権利というのは、はっきりと書かれてはいないのですが、神の民として歩むことのように思います。
 二人の母リベカは、エサウよりもヤコブを愛していました(25:28)。エサウのヘト人の妻 ユディトとバセマトと合わなかったこともあり(イサクとリベカの信仰・習慣と、ヘト人の嫁たちの信仰・習慣が合わなかったのでしょうか)、リベカはヤコブがイサクの祝福を受け継ぐように策を講じます(27:5~17)。
 こうしてヤコブは長子の権利を軽じていた兄エサウの隙をついて、神の祝福をだまし取ってしまいました(27:18~29)。長子の権利のみならず神の祝福までヤコブに取られてしまったエサウは、父イサクが死んだら弟ヤコブを殺してしまおうと考えました(27:41)。
 しかし母リベカは、自分の兄のいるハランにヤコブを逃がし、同じ信仰・習慣を共にできる妻をめとらせようとしました(27:42~28:5)。

 ヤコブは、ベエル・シェバを立って、ハランへと向かいます(28:10)。アブラハムとは違う仕方ですが、ヤコブもまた住み慣れた所を離れて旅立ちます。
 途中、ヤコブは一晩、石を枕にして野宿をしました。ハランに行くには何日もかかったはずですから、野宿はこの1回ではなかったはずです。ただ、この夜の野宿は特別でした。
 その夜、神は夢の中でヤコブに語りかけられました。
 天に達する階段を御使いたちが上り下りしていました。この階段は、天から地へと向かって延びている階段でした。つまり神が地へと降ってきてくださる階段です。15節で神は「わたしはあなたと共にいる」と言われましたが、神がヤコブと繋がっていてくださることを示す階段でした。

 神は言われます。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(28:13~15)
 アブラハムに与えられたのと同じ約束がヤコブにも与えられます。「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(参照 12:3)
 そして、イエス キリストによって出来事なった言葉が与えられます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」
 天使がヨセフにイエスの誕生を告げた出来事を、マタイによる福音書はこう記しています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ 1:22~23)

 このヤコブの経験した出来事には、他にもイエス キリストを指し示すことがあります。イエス キリストは、ヤコブの見たこの夢をご自分を示すものだと言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう。」(ヨハネ 1:51)
 ヤコブは、眠りから覚めて「これは天の門だ」と告白しましたが、イエス・キリストはご自分が救いに至る門であると言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」(ヨハネ 10:9)
 ヤコブはイエス キリストよりも千数百年昔の人物です。もちろんイエス キリストを知りません。しかし、ヤコブに示されたことは、イエス キリストによって成就し、出来事となったのです。

 これまで、ヤコブに主体的な信仰はありませんでした。父や母が信じている信仰を慣習的に受け入れていたのだと思います。ここまでのところで、ヤコブが神と共に歩む、神に従うという信仰は記されていません。この夢は、ヤコブにとっての重要な神体験でした。
 人間は、自分の力で神を知ることはできません。神を知ることは、ただ神が働きかけてくださるとき、啓示されるときに起こります。
 ヤコブは眠りから覚めて、「まことに主がこのところにおられるのに、わたしは知らなかった」と告白しました。ヤコブは、自分を超える大きな神の働きのただ中に置かれていることを知って、恐れます。神と共に歩むヤコブの新しい歩みが始まりました。この出来事一つでヤコブが全く新しくなったわけではありません。この後にも、神の忍耐深い導きがあり、彼は少しずつ変えられていきます。しかし、確かに新しい歩みが始まりました。それは神の働きかけによるものです。

 イサクの祝福はヤコブにも与えられました。祝福を与えられたというと、何かバラ色の人生が始まるかのように思われるかもしれません。しかし、ヤコブのこれ後の歩みはバラ色ではありません。彼は、父母から離れてパダン・アラムに逃げて行きました。彼に与えられた祝福とは神との絆。いつも神と共にいるということです。そんなものはありがたくないと思う人もいるかもしれません。今の自分の苦しみを解消してくれと言う人もいることでしょう。しかし聖書は、神との絆こそが本当の祝福であると伝えています。

 ベテル、それは神の家という意味です。ベテルはヤコブの見た夢の話と共に、神が共におられることを示します。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」それは後に、幕屋が示し、神殿が指し示すものです。そして今日では、教会が示すことでもあります。
 さらに聖書はこう語ります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント 3:16)「御父が・・その霊により・・信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ・・愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ 3:16~17)「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)
 神は聖霊においてわたしたちと共にあり、共に生きてくださっているのです。

 キリストの降誕を待ち望む待降節の今、神の言葉は出来事となる真実な言葉であることを思います。神はわたしたちと共にいてくださるお方であることを思います。わたしたちが祝福され、神はわたちたちを通してすべての人を祝福してくださることを思います。神ご自身がわたしたちの喜びとなり、希望となってくださいました。
 「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ 2:10~11)


ハレルヤ


父なる神さま
 罪を抱えたわたしたちが、あなたの真実を知ることができるように、あなたはすべてを用意し整えて御業をなしてきてくださいました。あなたの救いの御業を聞いて、あなたを信じることができますように。代々の聖徒たちと共に、あなたの言葉が実現したイエス キリストの誕生を喜び祝うことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

創世記 22:1〜14

2020年12月13日(日)主日礼拝  待降節第3主日
聖書:創世記 22:1〜14(新共同訳)


 「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創世記 12:2)「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。/あなたの子孫はこのようになる。」(創世記 15:5)
 アブラハムは、神の召しを受け、その言葉に従って歩んできました。アブラハムは神に従って歩んできましたが、子どもはなく、神の約束が果たされるそのきざしすら見ていませんでした。しかしアブラハムが100歳のとき、神はついにアブラハムに男の子をお与えになりました(創世記 21:5)。それがイサクです。待って待って待ち続けて与えられた子ども、それがイサクです。

 ところがある時、神はアブラハムに命じられます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
 何という言葉。思わず耳を疑ってしまいます。待ち続け、やっと与えられた子ども、愛する独り子を焼き尽くす献げ物として捧げよとは。

 1節に「神はアブラハムを試された」とあります。一体何を試そうというのでしょうか。もう十分アブラハムの信仰は分かっているではありませんか。ここまで神の言葉を信じて従ってきたのですから。
 しかし更に驚くことに、「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った」のです。
 アブラハムは迷わなかったのでしょうか。これは本当に神の言葉かと疑わなかったのでしょうか。しかし聖書はそのことについては何も記しません。アブラハムが神の言葉に従ったことだけを聖書は伝えています。

 神が試されるとき、よく分からないから試してみるのではありません。神はアブラハムを知っておられます。これまでの歩み・信仰を知っておられます。神の試みは、信仰を前進させるための試みです。けれど、神はこれ以上アブラハムの信仰をどう前進させようというのでしょうか。神の命令通りにすれば、アブラハムは子孫を失い、未来をなくしてしまいます。しかし、神はこれまで以上に未来はアブラハムの期待や予想の中にあるのではなく、神の御手の中にあるということを信じることを求めておられます。信仰は、神の約束に対して「然り、主よそのとおりです」と応えることです。しかし、それは決して小さな事柄ではなく、人生のかかった大事な応答です。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編 37:5)まさしくこの旧約の詩編の言葉と同じように、神は自分に全き信頼を置くことを求められたのです。けれど、人は自ら試練を求めるのではありません。人は「試みに遭わせず、悪より救い出だし給え」と祈るように教えられています。試みはただ、わたしたちのすべてを知り、すべてを与えてくださる、復活の命さえも与えてくださる神が時に適って与えるものなのです。

 約束の場所が見えてきたとき、アブラハムは息子イサクと二人で神の前に進み出ていきました。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持ちました。二人は一緒に歩きました。イサクは父アブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけると、アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答えます。イサクは尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行きました。
 アブラハムは「神が備えてくださる」とイサクに答えたとき、未来が見出し得ないような状況の中にあっても、神の約束の中に生きる道が開かれてくる、それは自分が生きる道というだけでなく、イサクにとっても生きる道が開かれてくることを信じていました。行く手に死しか見えない中で、なお神が命の神であることを信じたのです。
 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そのとき、天から主の御使いが「アブラハムアブラハム」と呼びかけました。彼が「はい」と答えると、御使いは言いました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 アブラハムは試練を克服しました。自分を召し導いてこられた神の約束の中に未来があり、生きる道があるその恵みの中にアブラハムは今立っていました。アブラハムは目を凝らして見回しました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムが信じたように、神ご自身が二人が生きるための献げ物を備えていてくださいました。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。そして、神の民の間では今日でも「主の山に、備えあり」と言われるようになったのです。

 わたしの一番の疑問は、イサクがこの後も信仰を持って生きたということです。父アブラハムに「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねたとき、アブラハムは「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えました。そしてイサクは自分が縛られ祭壇の薪の上に載せられ、父は刃物を取り、息子を屠ろうとしたとき、イサクは「神が備えてくださる小羊は自分だったのか」と呆然としたのではないでしょうか。その時のイサクには、神と父に対する怒りはなかったのでしょうか。天使が止めて「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われたときには、「神さまは、ここまでしないと分からなかったのですか」と言いたかったのではないでしょうか。それが一匹の雄羊が用意されたことにより「神さまは憐れみ深い」となるでしょうか。わたしだったら信仰を捨てていたに違いないと思うのです。しかしイサクは信仰を捨てませんでした。父アブラハムの信仰を受け継いで歩みます。
 おそらくわたしの信仰とアブラハムやイサクの信仰はまだまだ違うのだろうと思います。アブラハムにもイサクにも、恐れが感じられません。二人ともまさしく神と共にあったのでしょう。そして二人の信仰は神が形づくったものです。こう信じなければならないといった義務感はありません。わたしたちの信仰もまた、神が形づくってくださるもので、必要な導き、試練や訓練は神からくるのだろうと思います。そしてわたしたちはそれぞれが備えられた道を歩んで「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくのだろうと思います。
 ですからこの出来事は、まさしく「主の山に備えあり」を伝える出来事だったのです。わたしたちもアブラハムのように信じて従いましょう、という話ではないのです。わたしたちももっと頑張って信じましょう、という話ではないのです。アブラハムもイサクもヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)を証しするために選ばれ、召され、用いられたのです。そしてわたしたちの生涯にも、主は備えていてくださるのです。

 神はアブラハムに対し、自分の未来の希望であるイサクを神の言葉に従い、捧げ委ねるように求められました。アブラハムに愛する独り子を捧げよと命じられた神は、ご自分が愛する独り子を捧げる決意でおられたのです。アブラハムが信じた果てに見出した一匹の雄羊、まさにそれこそが神に従う二人が、そしてわたしたちが生きるために神ご自身が備え与えてくださった神の子羊エス キリストを指し示すものです。アブラハムもイサクもイエス キリストを知りません。自分たちのこの出来事が、イエス キリストの十字架を指し示す出来事であるとは思いもしません。しかし神はこの出来事により、神が救いの神、命の神であり、未来を与える神であることを証しされたのです。そしてその神の御心は現実となったことをわたしたちは知っています。
 イエス キリストもまた、神の言葉に従い、十字架の上で自らの命を捧げきるまで従われました。神に従い、未来を神の御手に委ねたその果てに、神は復活の命を与え、命の道を開かれました。わたしたちの生きる道を、未来を、そしてわたしたちの命そのものを神は備えていてくださいます。神ご自身こそ、わたしたちの救いのために愛する独り子を惜しまれない方であり、真実にわたしたちを導かれる方なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 この出来事を通して、あなたがわたしたちの生涯にも備えをしていてくださることを知ることができますように。あなたが命の主であられ、あなたの許にこそわたしたちの命があることを知ることができますように。罪の世にあって、わたしたちは絶えず不安に襲われます。どうか救いの御業を推し進めてください。あなたが愛しておられるすべての人がイエス キリストに出会うことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

詩編 145:14〜21

2020年12月9日(水) 祈り会
聖書:詩編 145:14〜21(新共同訳)


 145篇には最初に「アルファベットによる詩」とあります。各節の最初の文字がヘブライ語のアルファベット順になっています。ただし原文(マソラ本文)には、ヘブライ文字のヌン、アルファベットのNに当たる文章がありません。ギリシャ語訳(七十人訳)やシリア語訳(ペシッタ)、死海写本はヌンで始まる文章を挿入して、アルファベットが全部揃うようにしているようです。

 詩人は神を讃えます。1節と21節、最初と最後は「わたし」が讃美します。その間、2〜20節は民の祈りのように感じます。
 後代のユダヤ教では、神賛美の代表として日ごとの祈りに用いられていたと言います。タルムードというラビ(ユダヤ教の教師)による註解では、この145篇を日に三度口にする者には来たるべき世で神の子となることが約束されると記されているそうです。今日の敬虔なユダヤ教徒も週日の午後の祈りとして145篇が祈られるそうです。(月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)。
 また古代教会では、15節「あなたはときに応じて食べ物をくださいます」のゆえかか昼の食事の歌として用いられていたと言います(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇)。
 とても親しまれてきた詩編です。

 14~16節「主は倒れようとする人をひとりひとり支え/うずくまっている人を起こしてくださいます。/ものみながあなたに目を注いで待ち望むと/あなたはときに応じて食べ物をくださいます。/すべて命あるものに向かって御手を開き/望みを満足させてくださいます。」
 イスラエルが経験してきた神の導きを思い起こして語られます。神の言葉と業こそ、神の真実と恵みの証しであり、神の義の保証でもあります(A. ヴァイザー『ATD旧約聖書註解 14詩篇』)。
 神の奇跡的な業だけでなく、神の言葉(戒め)によって築かれる神の民の共同体もまた「倒れようとする一人ひとりを支え、うずくまっている人を抱きおこします。」今日セイフティネットということが言われますが、今日のものを超えるような規定(律法)が聖書には記されています(出エジプト記レビ記民数記など)。神の国の証しとして、教会もまた医療、福祉、教育の分野で様々に仕え、NGOでも信仰に基づく奉仕がなされています。
 神の言葉と業は、神がご自身の民を守り、共に生きようとしておられることを証ししています。

 17~18節「主の道はことごとく正しく/御業は慈しみを示しています。/主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし」
 神はわたしたちが歩むべき道を戒めによって示してくださいます。主の道を歩むとき、神との正しい関係「義」を保つことができます。そしてその正しさは慈しみに満ちています。
 神学の世界では「福音と律法」というように律法は福音とは違うもの、福音と対立するものと理解されるような表現が使われることがあります。しかしわたしは、この表現は適当ではないと思っています。律法も、神と共に、隣人と共に生きることを指し示す福音であり、恵みです。
 神は「主を呼ぶ人すべてに近くいまし/まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます。」聖書が証しする神は、インマヌエルの神です。わたしたちと共にいてくださる神です。

 19~20節「主を畏れる人々の望みをかなえ/叫びを聞いて救ってくださいます。/主を愛する人は主に守られ/主に逆らう者はことごとく滅ぼされます。」
 主に対する態度が二つ示されます。「畏れる」ことと「愛する」ことです。
 聖書の真理は楕円の焦点ようであると言われることがあります(フロマートカ、内村鑑三)。例えば「神は唯一であり、父・子・聖霊の三つの位格がある」「イエス キリストは真に神であり、真に人であられる」「神の国はあなた方のただ中にあり、終わりの日に到来する」など。
 そしてこの神に対する態度「畏れる」と「愛する」もまた相容れぬ態度のように見えますが、どちらも必要とされる態度です。片方だけになると、信仰が崩れてきます。愛のない畏れも、畏れのない愛も正しくありません。神を「畏れ」「愛する」者を、神は救い、守ってくださいます。

 21節「わたしの口は主を賛美します。すべて肉なるものは/世々限りなく聖なる御名をたたえます。」
 神には讃美がふさわしく、神の民、そして神に造られたものにもまた讃美がふさわしいのです。神を讃美することは、自分の造り主を讃美すること、自分の存在を肯定し、喜びをもって生きることに繋がります。神が造られた世界を受け入れ、共に生きることに繋がります。
 「聖なる御名をたたえます」は、わたしたちが繰り返し祈る「主の祈り」の「御名をあがめさせたまえ」と同じです。新しい聖書協会共同訳ではマタイによる福音書 6章の主の祈りでこれまで「御名が崇められますように」(6:9 新共同訳)と訳されていたのを「御名が聖とされますように」(聖書協会共同訳)と訳を変更しました。原文により合っているのは、新しい訳です。
 聖書において「聖」というのは「分けること、区別すること」を表します。聖別するという表現がありますが、これは神さまのものとして区別することです。献金など神さまに献げるものを取り分ける。神の民は神様のもの・神に属するものとして神に従う。そして神の名は、他の名前(名詞)と同列におくのではなく、わたしたちの造り主、救い主、助け主、わたしたちを愛し、共に歩んでくださる神の名前として区別する、それが聖なる御名であり、御名を聖とすることです。
 145篇が、神を讃美してきた祈りの最後に祈った言葉は、主の祈りで最初に祈られる祈りと同じ祈りなのです。旧約の祈りが、新約の祈り「主の祈り」に繋がっていくのを見るような思いがします。

 どうか皆さんも、旧約・新約、代々の神の民が親しんできたこの祈り 145篇に親しんで頂けたらと願います。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか代々の民と共に、あなたを讃美しつつ歩むことができますように。あなたが愛し祝福してくださっている自分自身を喜び、世界の救いを願い、神の国の到来を求め仕えていくことができますように。あなたに在る喜びと平安、そして希望でわたしたちを満たしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン