聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 7:1〜6

2020年3月11日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 7:1〜6(新共同訳)


 1節でパウロは「知らないのですか」と問いかけます。
 大切なことを語るのに、パウロは「知らないのですか」と問います。既に 6:3、6:16 と2回言われています。
 伝えたいのは最初の 6:3 で言われていることです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(6:3~4)。

 イエス キリストを信じる者は、キリストと結び合わされ、古い自分に死んで、新しく救いの中に生かされています。パウロはこれをきちんと理解してもらいたいのです。
 新しく救いの中に生かされているというのは、救いの中に立っているということです。キリストの救いから自分自身を理解する。救いから自分の人生を見る、自分の将来を知る。この罪の世界も救いから理解するのです。
 救いから神の御心を知るのです。神がこのわたしをどう思っておられるのか。この世界をどう思っておられるのか。神はわたしをどう導かれるのか。どんな未来を与えてくださるのか。神はこの世界をどのように導き、どこへと至らせるのか。それを救い、すなわちイエス キリストから知る。それが新しい命に生きるということです。

 それを理解させるための例えが「夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放される」(2節)という話です。婚姻に関する律法を用いて説明しています。死によって婚姻が終わり、婚姻に関する律法から解放されることから、キリストと共に死ぬことによって律法から自由とされたことを言おうとしています。

 4節「兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」
 これは「わたしは復活させられた方=キリストのものである」という救いの出来事から自分を知る、キリストから自分を見るということです。そして「わたしはキリストのものである」という事実は、わたしたちを「神に対して実を結ぶ」ことへと導きます。

 「神に対して実を結ぶ」とは一体どういうことでしょうか。これは神に献げる実を結ぶということ。自分が神に向かって、神と相対して生きるということです。つまりは、自分の満足、自分の誇りのために業をなすのではなく、他人に評価されるためにするのでもなく、神にその業を献げ、人生を献げ、神に向かって生きるということです。律法を守り、あるいは自分の信念を守り「わたしは信仰的に生きています、いいことをしています」というところに立つのではなく、神へと思いを向け、神へと向かうのです。少し日本的、東洋的な言い方をすれば、自分に対して無になるのです。わたしを意識するのではなく、キリストを仰ぎ見るのです。

 パウロは言います。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」
 肉は、神と繋がりのない状態を表しています。神と繋がっている状態を表す「霊」の対義語として使われます。ですから、神と繋がりのない肉に従って生きている間は、律法を守っていても、神の御心と何の関係もない「死に至る実を」結ぶしかないのです。それは福音書に登場する律法学者やファリサイ派の律法の守り方を見ても分かります。
 肉に従って生きるとき、神の御心に従って律法を守るのではなく、自分を誇るため、自分の益のために守ります。神と繋がらないで考える自分の益は、命には至りません。神との繋がり、結びつきこそが救いですから、そこに救いはありません。

 6節「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

 「霊」つまり「聖霊」によって、わたしたちはイエス キリストが救い主であることを知り、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活した新しい自分へと生かされていることを知ります。
 ここに「自分を縛っていた律法」とありますが、律法が勝手に縛るのではなく、律法を用いて自分で自分を縛るのです。
 イエスは「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ 5:18)と言われました。律法が悪いのではありません。
 神の御心から律法を理解するのではなく、人間の論理・理屈で律法を解釈していくとき、イエスから「偽善者」と言われるようになってしまうのです。
 救いを成し遂げ、神の言となってくださったイエス キリストと結ばれ、イエス キリストから、救いの出来事から新しく生きるように、わたしたちは招かれているのです。

 父・子・聖霊なる神が、救いのすべてをわたしたちに示し与えていてくださいます。イエス キリストがご自身の命をかけて、死んで復活してくださるほどにわたしたちは愛されています。だからわたしたちは、もはや自分で自分を満たそうとする必要がありません。神がひとり子を遣わし、その命を献げて贖いを成し遂げてくださった。その出来事の中に、わたしたちの命の意味も価値もあるのです。わたしたちが自分で意味や価値を作り出し作り上げるのではなく、わたしたちを愛していてくださる神の出来事の中に、既にわたしたちの生きる意味も価値もあるのです。神はそれをひとり子イエス キリストを世に遣わして、その十字架と復活によって証しをしてくださいました。だから、信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まるのです(10:17)。そして心で信じて義とされ、告白するとき、それは出来事となり救われるのです(10:10)
 パウロはその神の恵み、わたしたちの救いがイエス キリストにこそある、ということを伝えるために言葉を尽くし例えを用いて、「知らないのですか」と問いつつ語りかけているのです。

 わたしたちは、神がわたしたちのために遣わしてくださったイエス キリストを救い主と信じ、キリストに委ね、キリストに心を向けて生きるのです。そのとき、わたしたちは律法からも自分自身からも解き放たれ、キリストのものとなり、神に対して実を結ぶのです。
 そのことを聖書から聞き取った信仰の先輩はこう告白します。「生きているときも死に臨むときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。/それは、生きているときも死に臨むときも、わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス キリストのものであるということです」(ハイデルベルク教理問答 問い1)


ハレルヤ


父なる神さま
 御子イエス キリストをお遣わしてくださり、感謝します。キリストと結び合わせてくださり、感謝します。キリストの救いによって律法からも自分からも解放してくださり、感謝します。どうか聖霊に満たされ導かれて、あなたに対して実を結ぶに至ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 10:14〜17

2020年3月8日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 10:14~17(新共同訳)


 パウロは9〜11章で、同胞イスラエルの救いを願って語ります。10:1では「わたしは彼ら(イスラエル)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。
 だからパウロは、律法や割礼による自分の義によって救われようとするのではなく、神が望んでおられるキリストによって与えられる神の義によって救われることを伝えます。

 神は、わたしたち罪人との間に「信じる」という関係を築こうとしておられます。それは神の民を選ばれた初めからそうでした。イスラエルの祖アブラハムに対して「アブラム(アブラハムと改名するのは17章から)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記 15:6)と聖書は語ります。神は、神とわたしたちの関係は「信じる」のが正しい(義である)と考えておられます。

 神は時至って、ご自身の御子を救い主として世に遣わされました。それがイエス キリストです。神は、救いを成し遂げられたイエス キリストを信じることにより、わたしたちとの間に正しい関係(義)を築こうとされました。パウロはそれを「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ 3:22)と言いました。

 そこでパウロは言います。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。」「聞いたことのない方を、どうして信じられよう。」「また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」
 パウロはここで最終目的である「呼び求める」から遡り、呼び求めるには「信じる」ことが必要。信じるためには「聞く」ことが必要。聞くためには「宣べ伝える人」が必要と語っていきます。
 「呼び求める」は「主の名を呼ぶ」という形で創世記 4:26に出てきます。「主の名を呼ぶ」というのは、礼拝を表し、祈りを表し、神と共に生きることを表す言葉です。聖書が告げる救いは、神と共に生きることです。ですから、パウロは救いに至る道を示したのです。

 救いに至る大本は「宣べ伝える人」です。宣べ伝える人がいなければ、救いに至る道は開かれません。ですが、この大本にはさらなる大本があります。わたしたちに語りかけておられる神こそが救いの大本、根源です。その神がご自身の思いを聞くことを求めておられるので、宣べ伝える人を遣わされるのです。そして、復活の主イエスも「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ 28:19)と弟子たちを遣わされました。
 ここでパウロイザヤ書を引用して語ります。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(イザヤ 52:7)。声や口ではなく、足と言われているのは、良い知らせを「運ぶ」ことを強調しているからです。良い知らせは福音です。イザヤ書では、バビロン捕囚からの解放の知らせ。イエスの時代には、勝利の知らせ。聖書では、罪に対する勝利、罪からの解放の知らせです。

 しかし、良い知らせ=福音が伝えられても、すべての人が福音を受け入れる訳ではありません。パウロは再びイザヤ書を引用して「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」(イザヤ 53:1)と語ります。
 けれど、受け入れない人がいるから語らないとはなりません。拒絶され十字架につけられるためであってもイエスは世に来てくださいました。復活の主は、イエスを否定し、迫害者であったパウロのところにまで来てくださいました。

 イエスこそ神の御心、その愛を体現する神の言であるお方です。ですから、イエス キリストの言葉に聞くこと、イエス キリストを宣べ伝える言葉を聞くことから信じることは始まるのです。

 ここに「言葉」という単語が出てきます。新約はギリシャ語で書かれています。
ギリシャ語で「言葉」というと「ロゴス」という単語が有名です。新約でも300回以上出てきます。中でも有名なのは「初めに言があった」(ヨハネ 1:1)だろうと思います。しかし、きょうの箇所で使われている「言葉」は「ロゴス」ではありません。ここで使われているのは「レーマ」という単語です。
 「レーマ」がどういう意味合いの単語かと言いますと、「口から発せられた声、話された言葉」という意味合いの言葉なのです。実は8節の「御言葉はあなたの近くにあり」も、次回説教する18節の「その言葉は世界の果てにまで及ぶ」も「レーマ」なのです。

 パウロがここで「レーマ」「口から発せられた声、話された言葉」という意味合いの単語を使ったのは、彼の実体験から来るのだろうと思います。使徒9章に回心前のパウロ=サウロ(パウロユダヤ名)が復活のキリストと出会う場面が記されています。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」復活のキリストの「口から発せられた声=レーマ」を聞いたことから、パウロの信仰は始まったのです。

 礼拝は、パウロと同じようにイエス キリストと出会い、自分に語りかけられる神の言葉=レーマを聞いて、救いに至る道を歩み出すために備えられた恵みです。わたしたちを御許へと招く招きの言葉、わたしたちの救いを願う神の愛を語りかける聖書朗読と説教、神が今わたしたちを祝福していてくださることを宣言する祝福を聞くのです。
 その神が語りかける言葉=レーマを聞いて、託されて、遣わされていきます。救いへ招き入れられたわたしたち一人ひとりが、良い知らせを伝える美しい足、良い知らせを運ぶ器として用いられていくのです。

 ですから、礼拝で聖書の言葉を受けていって頂きたいのです。忘れることなど気にせずに聞いて受けとめて頂きたいのです。御言葉と共に働いてくださる聖霊が導いてくださいます。聖書は語ります。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ 55:11)と。だから神を信じて、与えられた御言葉を受けていって頂きたいのです。そこから伝えられたことが聞かれ、聞かれたことが信じられ、信じた人は神を呼び求めて、神と共に生き始めるのです。

 わたしたちは皆、神の救いの中で新しく生きていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちを心にかけてくださり、親しく語りかけてくださることを感謝します。主イエスの言葉と業、そのすべてがわたしたちを救いへと、新しい命へと導いてくださいます。どうか愛に満ちた主の言葉、救いへと導く主の言葉によってわたしたちを新しい命に生かしてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 6:20〜23

2020年3月4日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:20〜23(新共同訳)


 神は、わたしたち罪人との間に「信じる」という関係を築こうとしておられます。それは神の民を選ばれた初めからそうでした。イスラエルの祖アブラハムに対して「アブラム(アブラハムと改名するのは17章から)は主を信じた。主をそれを彼の義と認められた。」(創世記 15:6)神は、神とわたしたちの関係は「信じる」のが正しい(義である)と考えておられます。

 神は時至って、ご自身の御子を救い主として世に遣わされました。それがイエス キリストです。神は、救いを成し遂げられたイエス キリストを信じることにより、わたしたちとの間に正しい関係(義)を築こうとされました。パウロはそれを「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(ローマ 3:22)と言いました。

 ですが、パウロが「イエス キリストこそ救い主であり、わたしたちはキリストを信じることを通して義とされる」と語っていくと、律法を守ることによってではなく、キリストによって救われるのであれば、「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とか「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)などと言う人が現れました。

 それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2, 6:15)と言って、6章の前半では洗礼を取り上げ、キリスト者はイエス キリストと結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活し、新たに神に対して生きる者とされていることを示しました。
 そして6章の後半では当時の人々の周りにいた奴隷を例えとして、イエス キリストが主となってくださったということの意味を明らかにして、神と共に生きることを伝えようとしています。

 20節に罪の奴隷とありますが、罪の奴隷とは罪の導きに従ってに生きることです。聖書の語る罪とは、神の御心・教えから離れ、自分の思いに従って生きることです。「罪の奴隷であったときは、義に対して自由の身でした」とは、神とは無関係であった、神と正しい関係ではなかったということです。
 「では、そのころ、どんな実りがありましたか。」
 パウロは答えます。「あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。」

 これを聞いて多くの人は抵抗を感じるのではないでしょうか。「パウロは言いすぎではないのか。信仰を持つ前だって、人に恥じるような生き方をしてきた訳ではない」。

 神と共に歩まないうちは、わたしたちは罪に気づくことがないので、仕方ないかもしれません。
 パウロが問題にしているのは「罪人がなした業はどんな実を結んだのか」ということです。もう少し踏み込んで言いましょう。「あなたのなした業で命という実を結んだ業がありましたか。あるのであれば、言ってみてください」と言っているのです。
 もちろん、命の実を結ぶような業はキリストの十字架と復活以外にはありません。わたしたちのなす業は、良心に従った善意の業であっても、命の実を結ぶことはありません。わたしたちは神の御心と完全に一致する業をすることはできず、絶えず神からそれていきます。それをパウロは「それらの行き着くところは、死にほかならない」と言っているのです。

 これは信仰を持っている人でも、なかなか受け入れることができません。信仰を持って教会に集っている人は、基本善意のいい人です。できる限りよいことをして生きていこうとしている人です。そういういい人は、自分の善意を自覚しています。信仰を持つ以前の自分を恥ずかしいとばかり思っている訳ではありません。ささやかではあっても自分の正しさを感じています。
 しかし、わたしたちの善意も正しいと思う業も、どれ一つわたしたちに命をもたらすものはありません。自分でどんなに意味がある、よかったと思っていても、それは罪を贖い死から自分を解放することはできません。命を得ることはできないのです。キリスト以外に救いはないし、キリスト以外に永遠の命もありません。
 ですから、自分の業に依り頼むことも、自分の業を誇ることもできないのです。たとえ信仰であっても依り頼むことはできませんし、誇ることもできません。イエス キリストご自身以外のものを誇る者は、主を見ていないし、神を見ていないのです。

 しかしパウロはさらに語ります。「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます」と。

 わたしたちは、聖霊により信仰を与えられ、キリストを信じるに至りました。キリストにより罪の赦しを受け、キリストの命に与りました。キリストの救いにより、天に真の父を持つ神の子とされました。
 わたしたちは命を造り出すことはできません。命は神から与えられるものです。そして救いも神から与えられるものです。
 キリストを知るとき、神が限りない愛を注ぎ、このわたしに命を与え、救いを与え、さらに新しい命をさえ与えてくださることを知って、信じるのです。信じたから救われるのではありません。神が御子イエス キリストを遣わしてくださり、救いを成し遂げてくださったから信じるのです。信仰は救いの根拠ではありません。信仰もまた神から与えられた恵みです。信じられない罪の世にあって、神ご自身が信じられる存在となってくださり、わたしたちを信じて生きる恵みへと導き入れてくださったのです。神の恵みに与って生きるその第一歩が、信じるということなのです。

 わたしたちの信仰は土の器です(2コリント 4:7)。弱くもろい土の器です。神はこの土の器に、イエス キリストという恵みを注いでくださいました。わたしたちは恵みの大きさを思うごとに、救いが「わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」(2コリント 4:7)という聖書の言葉を思い起こします。
 しかし神は、そのわたしたちの信仰を「聖なる生活の実を」結ぶものとしてくださいました。「聖なる生活」とは「神と共に生きる」生活のことです。礼拝し祈りつつ歩む生活、御言葉と聖霊に導かれて歩む生活です。そして神が与えてくださった聖なる生活は、永遠の命へと至るのです。

 だからパウロは力強く宣言します。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 何という恵み! 神はわたしたちに御子イエス キリストを与えてくださり、その復活の命、永遠の命にまで与らせてくださっています。そして「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ 13:8)お方です。わたしたちの信仰という土の器に、キリストの恵みがきのうも、きょうも、いつまでも途絶えることなく注がれているのです。神の尽きることのない愛が、恵みとなって命を注ぎ続けていてくださるのです。

 だからわたしたちは、「聖なる生活」とは「神と共に生きる」生活をするのです。礼拝し祈りつつ歩み、御言葉と聖霊に導かれて歩むのです。聖なる生活は、神との交わりの時、神の恵みを覚え、その恵みに与る時、祝福の時です。


ハレルヤ


父なる神さま
 救いを与えてくださり、感謝します。イエス キリストを与えてくださり、感謝します。永遠の命を与えてくださり、感謝します。信仰を与え、信じて生きる恵みを与えてくださり、感謝します。どうかあなたご自身に目を向け、思いを向け、あなたに依り頼み、あなたを誇りとして歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ヨハネによる福音書 4:43〜54

2020年3月1日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:43〜54(新共同訳)


 サマリアのシカルの町の人たちに留まるようにと頼まれて、二日間滞在したイエスは、その後ガリラヤへと向かわれました。
 注解書を見ますと、44節の「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というイエスの言葉で言われている「イエスの故郷」とはどこを指しているのかが問題とされています。それはこの44節の後に「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とあるので、この43, 44節の流れがおかしいということで問題にされるようです。

 ですが、ここで最も考えなければならないのは「故郷」のことではありません。注目すべきは48節の「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というイエスの言葉です。
 イエスを歓迎したガリラヤの人たちについては「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたから」と言われています。これについては 2:23で「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と記されています。

 46節以下では、息子の癒やしを願った役人は、イエスの言葉を信じて、願いが聞かれたことを見ずに帰らなければなりませんでした。そして福音書の最後では、イエスの復活を信じられないトマスに対して「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言われます。
 ヨハネによる福音書には「見ずして信じる者は幸いである」というメッセージがあります。それがきょうの箇所の基本にあります。そしてもう一つが、きょうの箇所の出来事が「二回目のしるし」と福音書が受けとめた出来事であるということです。

 ヨハネによる福音書では「しるし」という言葉が17回出てきます。4つある福音書の中で最も多く出てきます(マタイ6回、マルコ5回、ルカ6回)。ヨハネによる福音書は「しるし」ということにこだわって書いています。特に「最初のしるし」「二回目のしるし」については、福音書は「しるし」を救いの到来・成就を表すものと理解しています。

 イエスガリラヤのカナに行かれました。カナは最初のしるしを行われた場所です。カナで行われていた結婚式で、ぶどう酒がなくなったので、水をぶどう酒に変えられました。このカナにイエスがおられたとき、一人の男が訪ねてきます。この人は、カファルナウムに駐在する王の役人でした。彼の息子が病気になり、彼が心配せずにはおれない病状でした。息子は死にかかっていたと聖書は伝えます。彼は、イエスガリラヤに来られたと聞いて、イエスのもとに行き、カファルナウムに来て息子を癒やしてくださるように頼みました。

 するとイエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われました。何で死にかけている息子のためにわざわざ訪ねてきた彼にこんな言葉をかけるのでしょうか。
 しかし彼は、そんなイエスの言葉に腹を立てるでもがっかりするでもなく、イエスに訴えます。彼にとって死にかけている息子が癒やされることが問題なのです。

 おそらくこのイエスの言葉は、彼も覚えていたかもしれませんが、その場にいた弟子の誰かが覚えていたのでしょう。最初は「イエス様は何でこんなことを言われるのだろうか」ぐらいに思ったかもしれません。わたしは、この言葉は聖霊降臨の後でなければ理解できない言葉だったのではないだろうかと思います。そして、理解できたからこそ、福音書に第二のしるしとして記録されたのだろうと思います。

 彼はイエスに訴えます。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」しかしイエスは言われます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
 彼は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。何故彼がイエスの言葉を信じたのかは分かりません。イエスの言葉に力強さを感じたのか、あるいはイエスのまなざしに真実を感じたのか、聖書は何も語りません。結果、彼は失意の内にではなく、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。

 彼が帰る途中で、彼の僕たちが迎えにやって来てました。そして彼の息子が生きていることを告げました。おそらく彼はよい主人だったのだと思います。僕たちは、よい知らせを伝え、主人の心配を少しでも早く取り除くためにやって来たのでしょう。

 彼は伝えられた知らせを聞いて、「あなたの息子は生きる」というイエスの言葉を思い出しました。そこで彼は僕たちに息子の病気がよくなった時刻を尋ねました。僕たちは「きのうの午後1時に熱が下がりました」と答えます。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、彼は知りました。そして家に帰ってから、事の次第を家族に話したのでしょう。彼も彼の家族もこぞってイエスを信じました。
 福音書はこの出来事を、救いの到来・成就を表す第二のしるしとして理解しました。

 福音書は、イエスの言葉は、出来事となる神の言葉であるという信仰に立っています。イエスの言葉は、しるしや不思議を見なくても信じることができる言葉。出来事となる言葉。そして命をもたらす言葉。つまりこの出来事は、イエスは神であるという信仰を表しているのです。
 福音書はそのことに気づいたので、この出来事を「二回目のしるし」と言っているのです。そしてこの出来事を聞いた皆さんが、この役人と同じように「イエスの言われた言葉を信じて帰る」ことを願っているのです。

 「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とイエスは言われます。けれどイエスは、拒絶され、十字架で自らの命を献げるために来てくださいました。敬われないから行かない、という判断はイエスにはありません。
 けれどイエスは、ご自分の言葉が出来事となる真実な言葉であることを知ること、そして、イエスが神と等しいお方であることに気づき信じることを願っておられます。
 そして福音書は「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(1:14 口語訳)と告白します。福音書は、イエスは神の言葉、真に神であり、真に人、イエスこそキリスト、真の救い主であるという信仰を伝えているのです。

 イエスは、わたしたちもこの役人、そして代々の聖徒たちと同じく「イエスの言葉を信じて」希望を持って帰って行く者となることを願っていてくださるのです。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ 10:17)イエスは、わたしたちがこの罪の世にあっても「信じない者ではなく、信じる者に」(20:27)なることを願っておられるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちがイエス キリストが誰であるかを知り、あなたがどのようにして救いを成してくださったのかを知る「しるし」を与えてくださり、感謝します。どうかわたしたちにキリストの言葉を、あなたの言葉を信じる信仰をお与えください。この罪に世にあって、あなたを信じる者として生きる幸いをお与えください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

 

ローマの信徒への手紙 6:15〜19

2020年2月26日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:15〜19(新共同訳)


 パウロは、3:21から5:21までキリストを信じることを通して与えられる救い、神の義について語ってきました。
 しかし「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(5:20, 21)と語るに至って、批判されるようになりました。

 「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とか「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とか言われ、「あなたの言っていることはおかしい」と非難されました。
 それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2, 15)とはっきりと言います。

 6章の前半では、洗礼を取り上げ、キリスト者はイエス キリストと結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活し、新たに神に対して生きる者とされていることを示しました。

 パウロは6章の後半で、新たに奴隷の例えを使って語ります。その理由を19節で「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」と言います。神の秘義である洗礼を用いた説明だけではなく、当時の人々の周りにいた奴隷を例にとって、理解してもらおうとしているのです。

 奴隷と訳されている単語(ドゥーロス)は僕(しもべ)とも訳されています。パウロはこの手紙の冒頭で、自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と自己紹介しています。
 僕とは、主人に従う者です。主人の意志に従うのです。パウロが自分を「キリスト・イエスの僕」というときには、主であるイエス キリストの御心に従って福音宣教をしている、この手紙を書いていることを表明しているのです。

 わたしたちはしばしば、自分は自由だと勘違いしてしまいますが、実はそうではありません。わたしたちは常に、何らかの価値基準に縛られています。それは、その時代の常識であったり、自分のこだわりであったり、自分の損得の基準だったりします。
 問題は、神以外に従うとき、それらは罪に属するものだということです。それらがどんなに大事に思えても、神以外の基準を持つとき、人は罪の支配下に入ります。罪は、神の御心から離れるということです。神以外の基準は、必ず罪の支配下に入ります。
 つまり、人には、神に従い神と共に歩む道か、罪に従い神から離れる道か、いずれかなのです。罪は、神のようになれる(創世記 3:5)とささやきながら、わたしたちを誘います。神から自由になれることは素晴らしいことだとささやきながら、罪はわたしたちを神から引き離します。
 その罪の誘惑を絶えず受けて、繰り返し神から離れてしまうわたしたちのために、神はひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしになった訳です。そして神は、キリストの救いの恵みを「感謝します」と信じて受け取ることを通して、神に従い、神と共に生きる道へとわたしたちを引き戻してくださるのです。

 パウロはその神の恵みをこう言い表します。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(6:16~18)
 わたしたちは、キリストの救いによって、死に至る罪の奴隷から解放されて、神と共に生きる義の僕とされたのです。

 義とは正しいという意味です。正しさにもいろいろな正しさがあって、法的な正しさ、倫理的な正しさなどいろいろあります。しかし聖書の義が表す正しさは、関係の正しさを表します。親子の関係がよいとか、職場の仲間との関係がよいとか、隣国との関係がよいというような関係の正しさを表す言葉です。聖書においては、もちろん神との関係が正しい良いものとなっていることを表します。ですから義の僕というのは、神と正しい関係になり、神に愛されていることを喜び、神に信頼し、神の御心に導かれて神と共に歩む存在のことなのです。

 パウロが伝えようとしていることはこういうことです。救いは、神と共に生きることです。神と共に生きる人間は「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とは考えませんし、「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とも言いません。パウロは「決してそうではない」と繰り返し(6:2, 15)言っています。

 パウロは言います。「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」

 わたしたちは知っておかねばなりません。わたしたちはキリストの十字架によって贖われ、神の子とされたのです。神は言われます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ 43:1)
 たとえ、神の国で救いが完成するまで罪を犯すことがあっても、わたしたちはもはや罪を求めてはいないのです。もっと罪を犯したいなどと願ってはいません。神に従うことを求め、神と共に生きることを求めています。わたしたちは救いに入れられて、求めるもの目指すものが新たにされたのです。神から離れたら、悔い改めへと導かれるのです。
 わたしたちは「主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくことを期待しています。神から「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ 25:21, 23)と祝福されることを目指して「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(フィリピ 3:13)歩んでいるのです。神の戒め(律法)をきちんと守っているかどうか自己評価をせずに、キリストの救いに入れられた喜びと感謝をもって主に従っていくのです。「お用いください」と自らを神に献げ、神に委ね、導いて頂くのです。自分の五体を主の御心をなすものとして神に献げて「聖なるものとしてください」と祈るのです。

 わたしたちをご自分の民とするために、ひとり子イエス キリストを与えてくださった神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ 3:18)を知って、安心して信じて、神に従い仕えていくのです。
 洗礼は、わたしたちがキリストと一つにされたことを表し続けます。「見よ、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ 28:20 口語訳)と約束してくださった主は、わたしたちの心の内に住んでくださり、わたしたちが「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」(エフェソ 3:17)ように導き続けてくださいます。主は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる」(エフェソ 3:20 新改訳2017)お方であります。

 わたしたちは、自分自身に依り頼むのではなく、わたしたちの真実な救い主イエス キリストを信じて、生きるのです。
 神は、その神の事実を知り、信じるように、わたしたちを礼拝へと招き、御言葉を通して語り続けてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 きょうもキリストの救いの豊かさをお示しくださり感謝します。
 わたしたちはあなたの恵みを忘れてしまいますが、あなたは何度でも繰り返しわたしたちを招き導いてくださいます。あなたの真実と愛こそがわたしたちを救います。どうかあなたの恵みに満たされて、あなたの平安の内に喜び生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン