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ローマの信徒への手紙 9:1〜5

2019年9月15(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:1〜5(新共同訳)


 パウロは、3:21から8:39までキリストの福音を語ってきました。そして9〜11章は、同胞である旧約の民イスラエルについて語ります。

 パウロは言います。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。」
 どうやらパウロユダヤ人たちから「嘘つき」だと言われていたようです。

 ユダヤ人たち、それはイエス キリストを信じているユダヤキリスト者であっても、パウロの言うことに傷ついていたのです。それはそうだろうと思います。彼らが誇りとしていた割礼、律法、ユダヤ人であること、パウロはそれらをことごとく否定したのですから。
 誇りは、その人の存在価値に関わるものですから、そう簡単に手放すことはできません。しかし徹底的にユダヤ人として生きてきたパウロは知っています。ユダヤ人としての誇りに執着する限り、神が独り子を差し出すという痛みを負ってまで、与えてくださったイエス キリストを受け入れることができないのです。パウロは復活のキリストに出会ったときに、それを知りました。自分の熱心も、自分の確信も間違っていたことを知りました。

 パウロはキリストを信じた今も、同胞イスラエルに対する深い愛を抱いています。パウロは言います。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」
 イスラエルは、アブラハムが召し出されて以来、神の民として歩んできました。ここに挙げられた「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」は、まずイスラエルに与えられたものです。だからパウロは思います。もし真の救い主 イエス キリストを通して与えられる救いに与ることがないとしたなら、神の民として歩み続けてきた今までの歴史はどうなってしまうのか。イスラエルはたくさんの苦難を経て歩んできました。エジプトでも奴隷として苦しみました。荒れ野を40年間旅しました。国が滅ぼされることも経験しました。周りには多くの偶像があり、偶像を信じてしまったことにより裁かれ、偶像を拒絶し信仰を守っては迫害されました。そんな経験までして神の民として歩んできたのに、救い主が来るという約束を信じ続けてきたのに、肝心なキリストの救いに与ることができないとしたら、イスラエルは何のためにここまで神の民として歩んできたのでしょうか。
 神は、イスラエルを見捨てず、イスラエルにイエス キリストを与えてくださいました。イエス キリストはユダヤ人として生まれ、歩まれました。
 イスラエルが国を失い、流浪の民となってから、キリスト教の国となっていったヨーロッパで「キリストを殺した民」として迫害されてきました。しかし神は、イスラエルの民としてイエス キリストを与えられたのです。

 パウロイスラエルが救いに与ってほしいと心から願っています。だからイエス キリストが救い主なのだと熱心に語ってきました。ところがパウロの同胞への熱い思いが、彼らのプライドを傷つけてしまいました。ユダヤ人たちから「嘘つき」呼ばわりされ、「パウロの言うことに耳を貸すな」「キリストの前では価値がない、などと言うが、割礼も律法も神が与えてくださったもの。価値がないはずがないじゃないか」と非難されていたのです。
 パウロにとっては辛いことでした。同胞の救いを願っているのに、理解されない。しかし、パウロが辛いのは自分の言うことが信じてもらえない、自分が理解されないということではなく、イスラエルが救いを受け入れないということです。
 パウロは言います。「わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
 パウロは、同胞がキリストを受け入れるためならば、自分はキリストと同じように捨てられた者となっても良いとまで思っているのです。本当にパウロは熱い人だなぁと思います。しかしその熱い思いも、神には及びません。独り子を遣わしてでも罪人を救いたいとは、どれほどの思いなのでしょうか。キリストを遣わされた神は、わたしたち罪人の救いをパウロ以上の思いをもって願っていてくださいます。
 わたしの両親も未信者です。キリストを信じそうな気配はありません。それでも、神があきらめておられないのですから、神より先にわたしがあきらめてはいけない、あきらめる必要がないと思います。パウロと同じように、救いを願っている親しい人を思い、痛みを感じている方がおられると思いますが、あきらめないで祈っていて頂きたいと思っています。なぜなら、神があきらめておられないからです。

 そして最後に、パウロは最も伝えたいことを述べます。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
 キリストは確かに人となられ、イスラエルの民としてお生まれになりました。しかしキリストは、単に非常に優れた人物、偉人の中の一人というのではなく、「万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」なのだと宣言するのです。しかも、神に献げる祈りと同様に「アーメン」という言葉と添えて語ります。
 アーメンというのは「真実です。そのとおりです」という意味のヘブライ語です。この言葉を出すということは、「偽りを言っているのなら、神に裁かれてもかまわない」というパウロの思いを示すものです。先に「わたしの良心も聖霊によって証ししている」と言いましたが、そのことに応答するのがこの「アーメン」なのです。
 パウロは、復活のキリストによって回心させられました。肉眼でキリストを見ることはできませんでしたが、キリストが現れてくださり、キリストの言葉を聞き、キリスト者となりました(使徒 9:1~22)。この言葉は、復活のキリストに出会ったパウロの証言です。直接復活のキリストを知るパウロの証しです。
 それは、キリストは、イスラエルの民から生まれた真の人であり、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる真の神である、というものです。日本キリスト教会信仰の告白も冒頭で「イエス キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。
 神学の用語では「二性一人格」と言います。イエスという一人の人格に、神の性質と人の性質とが存在している、というものです。これは三位一体の教理と並んで、人間の理性を超えるものです。神がキリストによって啓示してくださった救いの秘義とも言えるものです。イエス キリストとの出会いを経験した者によってのみ証言されるものです。

 これは、この証言の後で分かってくることですが、神であるお方が人となって来てくださり、救いの業を成就してくださいました。そしてキリストは復活し、天に上られ、神の右に座しておられます。キリストが人となってくださり、人として復活されたので、今、神に国、神の右には真に人であるキリストがおられます。それによって、罪を贖われキリストと結び合わされた人が、死を超えてキリストと共に復活し、神の国に至るという道が拓かれました。神であるキリストが人となってくださったので、わたしたちは死を超える未来を見ることができるようになったのです。
 だから、イエス キリストが真に神であり、真に人であられるというのは、神が啓示し、教えてくださった救いの秘義なのです。

 神は、このキリストの救いに与るようにと、礼拝へと招き導かれます。神の救いの御業を知って受け取るように、御言葉を通して神の御心と御業を知るように毎週語りかけてくださいます。神はキリストの救いによってわたしたちと共にいてくださいます。だからキリストは「インマヌエル 神我らと共にいまし給う」と言われます。どうかこの聖書の言葉を聞いた皆さんが、キリストの救いに与り、神の愛と命の道を歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 この教会において、わたしたちの真の救い主イエス キリストに出会うことができますように。日ごとにキリストをよく知り、その救いの恵みに満たされていきますように。どうかさらに多くの人が、キリストの救いに入れられていきますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン