聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 3:19〜20

2019年9月12日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 3:19, 20(新共同訳)


 きょうの箇所の中心となるのは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」です。

 パウロは、キリストによる以外に救いはないことを明らかにしようとしています。だからパウロは「誇る者は主を誇れ」(1コリント 1:31)と述べています。わたしたちは、神の御前でキリスト以外の何ものも誇るものがないということです。しかし、人は何かしらキリスト以外にも誇りを持ち、自分自身の内に自分の価値を持ちたいと願っています。ユダヤ人であれば、割礼を始めアブラハムの子孫であり神の民であることを誇りとしています。わたしたちであれば、日本人であることを誇りたいと思います。
 しかしパウロはいいます。「すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するため」だと。

 律法というのは聖書の用語です。元々のノモス(ギリシャ語)は、聖書以外であれば、法律とか規則と訳される言葉です。聖書であれば、神の戒め、律法を指し、律法のもとにある者とは、直接的にはユダヤ人を指しています。ですがパウロは「それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるため」だと言うのです。それは、ユダヤ人であろうとなかろうと、すべての人が律法のもとにあるからです。
 先ほど言いましたように、元々の言葉は一般社会でも使われる普通の言葉です。法律と言ってもいいし、規則・ルールと言ってもかまいません。つまり、どんな集団であっても、人が共に生きようとするところには、律法・規則があるということです。それは、ときに法律という形を取ることもあり、マナーやエチケット、暗黙の了解という形のこともあります。一緒にゲームやスポーツをしようとすれば、そこにもルールが必要となります。すべての人は、生きていくとき、律法・規則のもとにあるのです。
 けれども「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」のです。
 世には良識のある人たちがいます。様々なレベルの律法・ルールを適切に守り、共に生きる生活が円滑に進むように配慮できる人たちがいます。しかしどんなに行き届いた人、周りから賞賛され認められる人であっても、罪がもたらした死から自由になることはできません。自分自身もそうですし、周りの人々も罪と死から自由にすることはできません。

 パウロは「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」だと言っています。それは、この世のルール、約束事を完璧に守る、守らせることでは救いは現れないからです。この世のルールは、救いをもたらす力はありません。
 神の律法については、イエスが律法学者の問いかけに答えて「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ 12:29~31)と言われました。
 イエスは律法の根幹は「愛する」ことであることを指摘されました。おそらく誰もが「愛は大切だ」と思っています。そして愛そうとします。しかし人はしばしば、愛することに躓きます。愛することに疲れます。愛せなくなります。大切だと分かっていても、できなくなります。自分には愛を貫く力はない、という罪の自覚が現れてきます。主イエスのように、裏切る者をさえ食卓に招き、その前に身をかがめて足を洗い、自分を嘲る者殺そうとする者のために執り成し祈り、命を献げて愛し抜くことは誰にもできません。イエス キリストによって示された神の愛を前にしたとき、わたしたちは口をつぐむしかないのです。
 わたしたちは神の愛の前で言い訳をします。「わたしは自分のできる精一杯のことをした。人間なんだから完璧でないのは仕方ない。人間に完全な愛を求めるとしたら、神の方が間違っている。」しかしどんな言い訳をし、自分の正当性を主張しても、それで神の前に義とされることはありませんし、罪と死から自由になることもありません。

 そして「だれ一人神の前で義とされない」ことを受け入れなくては、神が与えてくださる救いに与ることはできません。わたしたちは自分で自分を救うことはできないのです。救えるようなものを何一つ持ってはいないのです。神がわたしたちを愛し憐れんでくださり、救い主としてひとり子イエス キリストを与えてくださったので、イエス キリストによって救われるのです。わたしたちは神に救われるのでなければ、罪によって滅びる罪人なのです。わたしたちはこのことを正しく理解する必要があります。

 神の御前で、すべての口はふさがれ、すべては神の裁きに服さねばなりません。しかし神の裁きに服するからこそ、神の救いを受けることができるのです。神は罪を大目に見て見逃したのではなく、ひとり子の命をかけてまで、罪を裁かれました。しかし神の裁き、キリストの十字架から救いが現れ、和解の福音が語られ始めたのです。わたしたちは神に救って頂くのです。すべてを救って頂くのです。自分の誇りは自分の誇りとして取っておいて、自分の力の足りない部分だけ神に救って頂くのではないのです。自分のすべてを丸ごと救って頂くのです。神の裁きによって、罪から引き離され、清められ、イエス キリストのものとされていくのです。

 罪は知りたくない、裁きは受けたくない、でも救いはほしい。これでは神が用意してくださった救いに与ることができません。聖書を通して神を知り、罪を知って、神へと悔い改め、神に導かれて救いに入れられるのです。ですからパウロは、徹底的に語ります。「あなたの持っている誇りのどれ一つも救いのためには役に立たない。かえって妨げにさえなる。」パウロは容赦なく人間の主張、誇り、言い訳を打ち砕いていきます。けれどそれらが打ち砕かれていったとき、神が備えてくださった救いがわたしたちの目の前に現れてきます。

 この罪を指摘する部分を読んで、自分の罪を指摘されると、楽しくないかもしれません。しかし、キリストの救いに与るために、このことを知って神の御前に立たなくてはなりません。
 この世は明るく楽しく生きることを提示します。それはとても魅力的に見えます。しかしこの世は、死以外の未来を提示することはできません。そしてこの世は、真の神を提示することもありません。神ご自身だけが、罪からの救いを提示し、死を打ち破る未来を示してくださいます。

 神はひとり子イエス キリストを救い主として遣わしてくださった。そしてイエス キリストだけが、わたしたちの救いとなってくださった。神は本当にわたしのすべてを知った上でわたしを愛してくださっている。神はどんなときもわたしを愛し抜いてくださる。その神に出会っていく、イエス キリストによって真の神を知っていく、そのところでわたしたちは限りない救いの中に入れられていくのです。
 ですからパウロは「神はわたしたちと共に生きることを願っておられる。どんなに多くの人が神を信じても、このわたしが神を信じないで滅びるということを神は喜ばれない。このわたしさえも救うために、神はキリストをお遣わしくださった」そのことに気づくように、パウロは真剣にこの手紙を書いています。
 神が死によってさえ奪われることのない希望を与えていてくださいます。わたしたちは神の御手から命と未来を受け取るのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 どうかあなたの愛と救いの中で、自分自身の罪を知ることができますように。そしてあなたが用意してくださったイエス キリストの救いに与ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン