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ローマの信徒への手紙 2:25〜29

2019年8月14日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:25~29(新共同訳)


 パウロは、ユダヤ人のしるしである割礼について語ります。
 割礼というのは、男性の性器の皮を切り取る儀式です。これはユダヤ教でだけ行われる儀式ではなく、エチオピアあたりが発祥だとも言われる古い儀式で、多くの民族の間で行われていたものです。
 この割礼については、創世記17章に出てきます。「神はまた、アブラハムに言われた。『だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。』」(創世記 17:9, 10)

 神は割礼をご自身の民のしるしとされました。割礼は多くの民族の間で行われていましたが、神は割礼に特別の意味を持たせられました。それは、割礼が神との契約のしるしであるということです。「包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」(創世記 17:11)これは、自分自身に刻まれた消えることのないしるしです。罪を抱えた肉を切り捨てて、神と共に生きることを表すしるしです。普段は服の中に隠されており、他の人からは見えませんが、本人には自分が割礼を受けており、神と契約したイスラエルの一員であることを生涯示し続けるしるしなのです。
 この割礼は、自分が神の民であるという誇りでもありました。しかしパウロからすると、自分はユダヤ人、神の民であるという誇りは、信仰の妨げでしかありませんでした。
 パウロはフィリピの信徒への手紙でこう語っています。「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ 3:4~9)

 この中で、きょうとの関わりで最も大事なのは、次の部分です。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 パウロは、ユダヤ人が誇りとするものの一切を損だと思っています。それは「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」のゆえであり、実際パウロは「キリストのゆえに」「すべてを失」いました。「すべてを失」いましたが、「それらを塵あくたと見なして」いるのです。だからパウロは、自分と同じユダヤキリスト者が、キリスト以外のものを誇りとしていることに対して「それは違う」と思っているのです。自分がユダヤ人であるとか、割礼を受けているとか、旧約の御言葉に通じているとか、そんなものに頼っていてはダメだ、と思っているのです。
 救いの本質は、神と共に生きるところにあります。自分を中心にし、自分に執着する罪から解放され、神を主とする信仰へと新たにされなければなりません。そのためにキリストは世に来られ、命を献げられました。しるしは、キリストを指し示すものであって、しるしが救うのではありません。割礼が救うのでも、洗礼が救うのでもありません。それらはイエス キリストを指し示すのであって、わたしたちはイエス キリストによってのみ救われるのです。

 割礼は、罪を抱えた肉を捨てて、新たにされて、神と共に生きることを示します。もし、割礼を受けていない人が、神の言葉に従って生きていれば、その人こそ神の民、隠れたユダヤ人なのです。割礼を誇る者は、神の言葉に従って生きる人によって、罪が明らかにされるでしょう。
 パウロは言います。「“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

 わたしたちの救いも誉れも、神から来ます。そして神が、主の日ごとにわたしたちを礼拝へと召し集めてくださるのは、神ご自身と出会い神を知るためです。わたしたちは罪によって、神を忘れてしまいます。神と結び合わせるためのしるしさえも、自分を誇るものにしてしまいます。愛を語り、愛を行っているようであっても、自分が愛を行っている、そう自分で満足し、自分を誇るなら、それは神と共に生きる愛ではありません。
 隣人愛という言葉は、キリスト教会の信仰をしるし付ける言葉です。けれども、それが自分の誇りになってしまったとき、自分がもはや仕えることも愛することもできない、寝たきりで自分は世話を受けるばかりで、家族に迷惑をかけている申し訳ない、そういう風に思ってしまうようになった時、自分の愛を支えとした人は、その時が辛くてたまらなくなります。もし御心に適う業をすることができたなら、自分を誇るのではなく、そのようにできた賜物と信仰を与えてくださった主に感謝するのであって、わたしたちの一切の望みは、神ご自身にこそあるのです。

 パウロの書いたフィリピの信徒への手紙を紹介しましたが、まだわたし自身、自分が今持っているものをすべて塵あくたのように思っているわけではありません。理屈では、頭では分かっていても、これはまだ手放せない、そういうものがあります。けれど、そういうものをすべて手放すようにと導かれる時があります。それが「死」であります。
 一切のものを手放して、親しく生きていた誰からも離れて、本当に神にすべてを委ねて、神に導かれていくその時を、神はわたしたちの生涯の最後に、用意をしておられます。その時に驚き慌てふためくのではなく「わたしがあなたを造った、わたしがあなたを愛している、わたしがあなたを救った」そう言われる神ご自身と出会って、「あぁ主よあなたはこのわたしを捉え語り続けてくださいました。今こそあなたにわたしのすべてをお委ねします」と言って神と共に歩んでいくその時を、神はわたしたちに備えていてくださいます。
 だから、神を知るように、神との交わりに生きるように、神は主の日ごとにわたしたちを召し集め、そして御言葉を語り続けてくださるのです。
 神を誇りとし、神の御心と御業に望みを置く人は幸いです。その人は、わたしたち一人ひとりを愛して止まない、今も生きて働かれる、活ける真の神と出会い、神と共に生きるようになるでしょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかわたしたちをイエス キリストの恵みで満たしてください。わたしたちの誇りも救いも、命も未来も、あなたにあることを知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン