聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:31〜34

2019年8月11日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 8:31〜34(新共同訳)


 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」
 言わなくてもお分かりと思いますが、「もし神がわたしたちの味方であるならば」とパウロは言いますが、けれどこれは「もし神がわたしたちの味方である」と仮定すると、という話ではありません。パウロは、神がわたしたちの味方であると確信しています。

 パウロの信仰にとって、復活のキリストとの出会いが決定的でした。それにより、イエスがキリスト 救い主であることを知りました。自分が罪人であることを知りました。イエスが罪人の救いのために命を献げ、また復活されたことを知りました。そしてイエス キリストによって、神が罪人の味方であることを知りました。
 それが「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」という言葉に表れています。

 わたしたちは神に選ばれた者たちです。わたしたちが神を求め、神を発見したのではありません。神がわたしたちを選んでくださいました。聖書は告げます。「あなたの神,主は・・あなたを選び,御自分の宝の民とされた。」(申命記 7:6)
 神は、イエス キリストの救いを信じ受け入れたわたしたちを、神の御前で罪赦され義とされた、神の子としてくださいました。キリストの救いに与ることによって、神と正しい関係にある者、義なる者としてくださいました。
 神が他の何ものにも代えがたい独り子の命をかけてまでわたしたちの救いを成し遂げてくださった今、誰がわたしたちを罪に定めると言うのでしょうか。そんなことができるものはいないのです。ただ一人わたしたちを罪に定めることができる神が、キリストのゆえにわたしたちを罪から救うと決められた以上、もはや誰もわたしたちを罪に定めることなどできないのです。
 神は「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡され」るお方です。イエス キリストには、神のわたしたちに対する思いがすべて込められています。イエス キリストこそ、神の言葉です。イエス キリストを仰ぎ見るとき、神がどれほどわたしたちを愛しておられるかが分かります。

 だからパウロは、イエス キリスト以外の救いの根拠を持ち出すことを厳しく批判します。割礼を受けている、断食をしている、たくさん献げ物をしている、たくさん祈っている、施しをしている・・・どれもわたしたちの救いの根拠とはなりません。わたしたちの救いの根拠はただイエス キリストお一人なのです。
 そのイエス キリストは、今も神の右にあってわたしたちのために執り成し続けていてくださいます。

 イエス キリストは、神とわたしたちとの間に立ってくださいます。世の終わりまでわたしたちを執り成してくださいます。イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じように(ヘブライ 2:17)なり、真に人となって世に来られました。
 母マリアの胎に宿り、無力な幼子として世に生まれ、母の胎にも、まだ信仰を持たない幼子にも救いをもたらしてくださいました。
 救い主として歩み出されたときにも、始めに悪魔の誘惑をお受けになりました。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」(ヘブライ 2:18)と聖書は語ります。飢えや渇き、十字架に掛けられるといった肉体的な痛み。理解されない、裏切られる・捨てられる、救おうとしているのに拒絶される、嘲られるという精神的な痛み。それらを受けて苦しまれてなお、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ 23:34)と執り成されました。
 さらに「キリストは、肉では死に渡されましたが・・霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(1ペトロ 3:19)と聖書が語るように、死者のところにまで救いをもたらされました。
 母の胎から死者たちの霊のところまで、人が存在するすべてのところにイエス キリストは救いをもたらし、わたしたちの執り成し手として、神とわたしたちとの間に立ってくださっているのです。「神は,すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり,神と人との間の仲介者も,人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(1テモテ 2:4~6)このイエス キリストを前にして「わたしは救われない」と絶望しなければならない人は一人もないのです。

 だからパウロは「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言うのです。
 ここに出てくる「すべてのもの」は、28節の「万事が益となるように」が「すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く」という意味であったのと同じく、救いに必要な「すべてのもの」を指しています。つまり「イエス キリストは与えられたけれど、これがたりなかったから救われなかった」などということはあり得ない、とパウロは言っているのです。
 パウロは、様々な試練・苦難を経験しました。パウロは最初迫害者でした。だから回心してもなかなか受け入れてもらえませんでした。生前のイエスの弟子ではないと軽んじられました。福音宣教の中で数え切れないほどの困難に出会いました(2コリント 11:23~27)。何度も祈ったけれども癒やされませんでした。そのすべてを振り返ってみても、パウロは何か足りないものがあったとは思わず、救いに必要なすべてのものが備えられ、信仰から信仰へと導かれたと確信しているのです。

 パウロは、3:21から8章の終わりまでキリストの福音について語ります。本当に言葉を尽くして語ります。何としてもキリストの救いに与ってほしい、という熱意をもって語ります。手紙からパウロのその思いが伝わってきます。
 そしてパウロ以上の熱意をもって、神がこの手紙を通して語り続けてこられました。2,000年という時を貫いて語り続けてこられました。今、独り子を遣わされた神ご自身が、皆さんの前にキリストの救いを差し出しておられます。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ 20:27)


ハレルヤ


父なる神さま
 御子イエス キリストが、救い主として遣わされているその恵みの大きさを知ることができますように。そして独り子を遣わすほどに愛していてくださるあなたの愛を知ることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン