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ローマの信徒への手紙 2:17〜24

2019年8月7日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:17~24(新共同訳)


 新約の中には書簡、手紙と呼ばれるものが21もあります。
 手紙の説教で難しいのは、書かれた当時は説明の必要のないことでも、2,000年も経つと、具体的にはよく分からないことがあるところです。きょうの箇所では「盗むな」とか「姦淫するな」とか「神殿を荒らすな」というのが具体的にどういうこと指しているのか分かりません。きょうは、パウロがここで言いたいことから推測をして、話していこうと思います。

 きょうの箇所では、パウロユダヤキリスト者に向かって語ります。ユダヤキリスト者とは、文字通りユダヤ人のキリスト者のことです。ユダヤキリスト者には、きのうきょう聖書の神を信じた連中とは違う、という自負がありました。「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」ということです。
 だから「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」となるのです。つまり、ユダヤキリスト者は教える人で、その他のキリスト者は自分たちに教えられる人だということです。

 しかしパウロから見ると、ユダヤキリスト者は「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」ということになるのです。

 「『盗むな』と説きながら、盗むのですか」というのが何を指しているかですが、ここでわたしが思い浮かぶのは、マルコによる福音書 7章で「両親に与えるべきものをコルバン、つまり供え物ですと言えば与えなくてよいとしている」と指摘されている箇所があります。形の上では律法を守っていることにして、実際は神の御心よりも自分の都合を優先しています。またマラキ書 3章では十分の一を献げていないことを盗んでいると指摘されています。このように自分たちはほどほどに、あるいは都合よくしか守らないものを、人にはこうあるべきだと語っていることが指摘されているように思います。

 「『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか」で思い浮かぶのは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ 5:28)というイエスの言葉です。けれどこれは外からは判断しづらいものです。ここは姦淫について具体的に指摘していないので、次の言葉と一緒に偶像礼拝のことを言っているのかもしれません。旧約では偶像礼拝を姦淫として指摘しています。「偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。」神殿を荒らすというのが何を指しているかですが、これはローマの神々の神殿から献げ物を盗むことではないかという指摘があります。神ならぬ偶像に供え物など無駄なのだからと言って、盗むのです。しかしパウロは、偶像の供え物を盗み、それによって生活していくことは偶像を頼り支えられて生きること、すなわち偶像礼拝、姦淫に他ならない、と言っているのではないかとする考えがあります。
 そしてパウロは、ユダヤキリスト者よ、あなたたちは「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」と糾弾するのです。

 なぜパウロユダヤキリスト者に対して、このことを厳しく指摘しているのでしょうかか。パウロもまたユダヤキリスト者です。そしてかつてはキリスト教の迫害者でした。パウロは同胞の救いを願っています。このローマの信徒への手紙でも9章からイスラエルの救いについて書いています。パウロは同胞の救いを願い、自分の経験、イスラエルのバビロン捕囚などを思いながら、救いのために厳しく語ります。

 神の民の第一の務めは、神を証しすることです。神を信じて生きることを通して、神を証しすることです。しかし、ユダヤキリスト者の律法に対する姿勢は、本来神の民に託された神を証しするという務めをないがしろにしている。そうしていながら、自分たちはユダヤ人であり、他のキリスト者と違って旧約の神の言葉をよく知っている、神の民イスラエルとしての伝統があるのだと言って誇っている。それは違う、ということをパウロははっきり告げようとしています。
 だからパウロは、ユダヤキリスト者たちがよく知るイザヤ 52:5を引用して「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と言うのです。

 パウロユダヤキリスト者たちに対して指摘していることは、彼らの信仰が神を証ししていない、ということです。それは当然そのようになります。なぜなら、彼らは、神を誇りとし神を証しするのではなく、自分たちを誇りとし自分たちを証ししようとしているからです。自分を誇ろうとしているのですから、律法を正しく守って、神を証しすることは、第二第三のことになってしまうのです。パウロは別の手紙(1コリント 1:31)で、エレミヤ書(9:23, 24)を引用して「誇る者は主を誇れ」と述べています。

 自分はまじめに信仰に生きている。けれど自分が中心になって、自分の信仰や行為に思いが囚われていくと、神の名を語っていても、信仰者のように毎日を生活していても、神を証しするのではなく、自らを誇る信仰に変わっていってしまいます。
 わたしたちの信仰の先輩が起草したウェストミンスター小教理問答は「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」(問1)だと言っています。神の栄光は、わたしたちの造り主・救い主として、わたしたちを愛し抜いてくださるところに現れます。だから神が注いでくださる愛を受けて神を喜ぶのです。自分がどれほどのことをなしたか、自分がどれほど仕えているか、そういうことで自分が立っているのではありません。神がわたしを愛してくださるが故に、わたしは今救いの中に入れられているのです。神がわたしをイエス キリストによって救ってくださったことを信じて生きる、このことを通してわたしたちは神を証しするのです。そしてわたしたちは、わたしたちを愛し救ってくださった神ご自身を誇るのです。

 けれどわたしたちの抱えている罪が、わたしへと思いを引き寄せ、自分を誇りたくなってしまうのです。
 ですから、わたしたちの信仰は、世の終わりまで神の言葉を聞きつつ、神の言葉によって、新たにされ整えられて導かれていくのです。だから教会は、パウロと同じ「救われてほしい」という願いを持って、イエス キリストを証しし続けるのです。
 わたしたちの救いも、誇りも、幸いも、未来も、イエス キリストの許にあるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊により、わたしたちの思いをあなたへと向けてください。自分を見つめ、自分を誇ろうとするわたしたちを解放し、あなたの恵みによって生きる者としてください。どうか喜びをもってあなたを証ししつつ歩むことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン