聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 3:18〜21

2019年8月4日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:18〜21(新共同訳)


 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

 神はわたしたちに信じるという関係をお求めになります。
 ただ勘違いしてはいけないのは、神は「信じたら救いますよ。信じますか」と取り引きを持ち掛けているのではありません。
 人は罪を犯したことによって、自ら約束を破る者となってしまいました。そのことによって、自分自身が約束を破る信じられない者となり、信じることのできない世界に踏み込んでしまいました。

 信じるということは、わたしたちが生きていく上で不可欠な事柄です。人間関係でも取り引きでも、信用が大事です。社会の営みは、信用の上に成り立っています。信用の成り立たないところでは、共に生きることも成り立ちません。そして何もかも信じられない世界では、わたしたちは生きていくことはできません。共に生きる者、家族、友だち、社会、そして自分も未来も信じられない、そんな状況では人は希望を持つこともできず、生きられなくなってしまいます。
 神はエデンの園で「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記 2:17)と言われました。この善悪の知識の木の実には毒が入っていた訳ではありません。しかし、神とは違う善悪を持ち、神から自由になって、自分の好きに生きる世界では、信じることがときに壊され、失われ、信じられない世の中と言われるようになっていってしまいます。そしてついには、生きることが苦しい世界、生きられない世界になってしまうのです。

 だから神は、自らが信じられるものとなって、わたしたちとの間に信じることのできる関係を造り出してくださるのです。
 神はご自身の民、イスラエルを召し出し、共に歩み、ご自身が救いの神であることを証ししてこられました。そして時至って、御子イエス キリストを救い主としてお遣わしになりました。
 救い主の大切な務めの一つが、神が信じられる方であることを証しし、信じるを世に造り出すことです。
 イエスは裏切ると分かっている者を弟子としました。一緒に捕まるのが怖くて逃げ出す者を弟子にしました。自分を3度知らないと言う者を弟子にしました。自分を十字架につけて嘲る者たちのために執り成されました。イエスはわたしたちの罪も弱さも愚かさも知っておられます。その上で、十字架を負い、わたしたちの裁きをご自身の身に負われました。イエスはわたしたちを知っておられます。その上でなおわたしたちを愛されます。イエスだけはわたしたちに失望しません。「あなたがそんな人だとは思わなかった」とは言われません。イエスには自分自身のすべてを委ねることができるのです。イエスが証しされた神の愛は、信じてよいのです。

 イエスの許には、神が独り子の命をかけて造りだしてくださった信じて生きることのできる世界、神の国があります。
 わたしたちが信じるのは、信じられなくなったわたしたちのために、神が御子の命をかけて信じることを造りだしてくださったということを信じるのです。重ねて申し上げますが、わたしたちは信じたから救われるのではなく、神がわたしたちを愛し救っていてくださることを信じるのです。

 だから「信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と言われるのです。信じる者は、イエスを信じることのできる神の国に生きています。信じない者は、備えられた神の国を拒絶し、罪が支配しているかのように見える信じたくない罪の世で生きている。そのことが既に裁きなのです。神の救いの中で生きるのではなく、何があるか分からない、信じたらいけないと身構えて生きる、けれどどんなに身構えても死に至る、罪がもたらす滅びの中で生きているそのこと自体裁きなのです。
 しかし裁きは救いへの招きです。信じられない罪の世で生きるのではなく、神の国で信じて生きなさい、という招きなのです。ですから、裁きは決定してしまった運命ではなく、常に救いへと開かれているのです。

 ここでも勘違いしてはいけないのは、裁きは罰ではありません。罪から離れられない頑なな心を打ち砕いて、救いへと導く神の救いの御業です。ローマの信徒への手紙はこのことを「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ローマ 11:32)と言っています。

 わたしたちは、多数といる方が安心する傾向があります。ですから「人間だから仕方ない」と言って、多少噓をつくことも、だますことも、少々の悪を行うことも仕方のないこととして、多くの人がいる薄闇の方が安心できるのかもしれません。しかし命には光が必要です。砂漠に照りつける灼熱の光ではなく、命を育む命の光が必要です。
 イエスは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ 8:12)

 ただ、光に照らされると、薄闇の中でははっきりと見えなかったものが明らかになってしまいます。聖書は「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを畏れて、光の方に来ない」と語ります。確かに、光に近づくと影は一層濃くなります。今まで見えなかったものが見えてきます。キリストの前に出ると、自分でも気づいていなかった罪が露わになります。「それは嫌だな」と思います。ペトロも自分が3度もイエスを知らないと言うとは思っていませんでした。しかしイエスと共に歩めない自分の露わになりました。そんな自分を知りたくはありません。しかし、罪を知らないと、自分には救いが必要だということに気づけません。キリストの光は、罪から滅びへと導く光ではなく、罪から救いへ、永遠の命へと導く光です。

 人は救いの希望のないところで罪と向かい合うことはできません。神の確かな愛と赦しがあるからこそ、人は自分の罪を認め、神へと立ち帰ることができます。よくある歴史の改ざん問題も、事実を認めると、自分たちの誇りが傷つき壊れてしまうので、向かい合うことを避けているのです。ただ神の救い、キリストの愛と赦しに満たされ導かれるとき、未来は開かれていくのです。

 イエス キリストに出会うのでなければ、人は罪を知ることができません。神に導かれ、イエス キリストに出会い、その救いを知り、愛と赦しへと招かれるから、わたしたちは信じることへ、信じて大丈夫な神の国へ進み行くのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 信じることのできる神の国に生きる者としてください。あなたがお与えくださったイエス キリストに出会わせてください。信じることのできない悲しみから救い出し、あなたを信じる関係の中へと導いてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン