聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 3:16〜17

2019年7月21日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:16〜17(新共同訳)


 イエスは、自分を訪ねてきたニコデモに語ります。イエスは、最も大切な神の御心を示されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 聖書の中で最も有名な聖句と言っても間違いではないくらいわたしたちは何度も聞いてきた御言葉です。しかし、ニコデモにはほとんど理解できなかっただろうと思います。「神は、その独り子? 神は唯一ではないか。聖書には「我らの神、主は唯一の主である」(申命記 6:4)とあるではないか。信じる者が一人も滅びないで? 主の日が来て裁きが行われるではないか? この人は何を言っているんだ。」
 しかし理解できないからこそ、ニコデモは何度も何度も繰り返し考えただろうと思います。だからこそこの言葉は忘れられず、イエスが復活した後でニコデモはイエスのこの言葉を伝え、今わたしたちも聞いているのです。

 イエスは聞いた者がそのとき理解できないのに、語られることがあります。イエスは弟子たちにご自分の死と復活の予告を何度もされました。(マタイ 16:21、17:22~23、20:18~19、マルコ 8:31、9:31、10:33~34、ルカ 9:22、9:44、18:32~33)弟子たちはイエスが何を言っておられるのか理解できませんでした。弟子たちが理解したのは、復活の後ですが、出来事の前から聞いていたので、イエスの十字架と復活はたまたまそうなったのではなく、まさにそのため、罪人の救いのためにイエスは世に来られたのだということに気づかされました。

 さて、人は神との約束を破って、罪を犯しました。罪は人間の責任です。
 中には、人に罪を犯すことのできる自由を与えた神の責任だと言う人もいます。では、人は神の言うことに従うロボットであればよかったのでしょうか。選択をする自由は、人間の尊厳に関わることです。どこで生きていくのか、誰と共に生きるのか、どんな仕事をしてどのように生きるのか、何を信じるのか、それは一人ひとりの人生を形作る大切な問題です。大切な問題だからこそ、人は歴史の中でこれらを基本的人権として認識するようになりました。神はわたしたちをロボットとしてではなく、選択の自由を持つ人として造られました。そして、人が自ら選んで罪を犯しました。しかし神は、独り子を遣わして自ら痛みを負われました。

 創世記 22章に「主の山に備えあり」という言葉で知られる出来事が記されています。神はアブラハムに独り子イサクを焼き尽くす献げ物として献げるように命じられます。なぜアブラハムがこのような命令に従おうとしたかは未だに分かりませんが、アブラハムがイサクを屠ろうとしたとき、神はそれを止めてイサクの代わりとなる一匹の雄羊を用意されました。この身代わりの雄羊こそイエス キリストを指し示すものでした。
 神は、罪を抱え裁かれるわたしたちに代わって、イエス キリストを救い主として遣わし、キリストが十字架で裁きを受けてくださいました。神はイエス キリストを通して救いを与えられました。救いは、罪によって失われた神との絆を回復することです。神は、わたしたちに代わって裁きを受けたキリストを信じるという仕方で神の恵みを受け取り、神との絆を回復するようにされたのです。

 信じるということは絆そのものです。そして信じることは、生きるのに不可欠なものです。社会が信じられない、友だちが信じられない、家族が信じられない、自分も信じられない、未来も信じられないとなったら、生きていくことができません。神は生きるのに不可欠な信じるという関係をイエス キリストによって築き、与えていてくださるのです。神ご自身が、信じられる存在となってくださったのです。

 ですから「神さまは世を愛していてくださるのだから、信じなくたって救ってくださるでしょう」ではないのです。信じることのできる関係、共に生きる関係が大事なのです。信じるなどという言葉も考えもまだ分からない生まれたばかりの子どもも親に守られ育まれることを通して、信じることを感じ取っていきます。信じることは、生まれた直後から、否母の胎にあるときから、与えられている命と共にある事柄です。

 そしてイエス キリストは、救い主としてマリアの胎に宿られ、母の胎にも救いをもたらしてくださいました。イエス キリストがマリアの胎に宿られたのは、生まれることができなかったすべての命にも救いをもたらすためです。
 そして十字架の後には、陰府に降り福音を告げ知らせられました。聖書は告げます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(1ペトロ 3:18~19)生まれる前から死の後に至るまで、イエス キリストはわたしたちのいるすべてのところに来てくださり、救いをもたらしてくださいました。
 この世で信じられなかったからもう救われないのではありません。「神は,すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)その神の御心をなすために、イエス キリストは人となって世に来られ、母の胎に宿り、「すべての人の贖いとして御自身を献げ」(1テモテ 2:6)、陰府にまで降られました。人のいるすべてのところにイエス キリストは来てくださいました。イエス キリストの恵みが及ばないところはありません。イエス キリストが来てくださったのは、わたしたちが救われ、永遠の命を得て、神と共に生きるためです。

 永遠の命とは、単に死なない命ではありません。この世のものは人も物も過ぎ去ります。永遠とは、神の許にある言葉です。永遠の命は、神への信頼・信仰で結ばれた神と共に生きる命です。罪から解放され、安心して神と共に生きる命です。神に命を造られたこと、主にある兄弟姉妹たちと共に神と歩んでいることを喜ぶことのできる命です。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。それほどに、神はお造りになった世界、そしてわたしたちを愛しておられます。共にありたいと願っておられます。
 イエス キリストは、その神の御心の証しです。だからイエス キリストは、わたしたちのつたない信仰に対してさえ「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ 5:34, 10:52他)と言ってくださるのです。わたしたちの信仰は自分を救うだけの価値がある立派なものなのではありません。信じる者が一人も滅びないでという神の御心が、神が遣わされたイエス キリストを信じる信仰を、それがどれほどつたないものであっても、よしとしてくださるのです。

 わたしたちはイエス キリストによって救われています。神はイエス キリストによって愛を注いでくださいました。愛を示してくださいました。だから教会はイエス キリストを伝えます。神の言葉を通してイエス キリストを知ってほしい、イエス キリストと出会ってほしい、キリストの救いに与ってほしい、そして神を喜んでほしいのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちのためにイエス キリストを遣わしてくださったことを感謝します。聖霊をお注ぎくださり、いよいよキリストを知り、キリストの救いに与り、あなたの子として讃美しつつ歩ませてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン