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ローマの信徒への手紙 2:1〜5

2019年7月17日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 2:1~5(新共同訳)


 パウロは、まだ行ったことがない、けれどいつか行きたいと願っているローマの教会に宛てて手紙を書きました。
 パウロはこの手紙で「救い」ということについて伝えようとしています。救いとは、キリストによる救い。キリストによって罪から救われ、神と共に生きられるようにされることです。
 そこには、罪を知ること、悔い改めることが必要になってきます。
 マルコによる福音書も、救い主として活動を始められたイエスを、こう記しました。「イエスは・・神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ 1:14,15)

 悔い改めとは、神に立ち帰ることです。落ち込んで反省することではありません。預言者エレミヤは語りました。「背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。」(エレミヤ 3:14)神はわたしたちが神に立ち帰ることを願い、「わたしの許に帰ってきなさい」と招いておられます。
 だから、わたしたちの礼拝は神の招きの言葉で始まります。神がわたしたちを招いていてくださるので、わたしたちは神の御前へと立ち帰るのです。礼拝が始まるとき、礼拝に与る喜びがあるように、悔い改めには神の救いに与る喜びがあります。

 パウロは 1:18 から、世の人々が神を知りながら、神を神としてあがめず、感謝もせず(1:21)、神に従って生きようともしていないということを示しました。そのことについては「弁解の余地がありません」(1:20)とはっきり言っています。
 そしてきょうの箇所 2:1 でも「弁解の余地はない」と言っています。2:1 では「人を裁く者」に弁解の余地はないと言っています。「人を裁く者」というのは、主に律法を守ることによって救われるという考えを引きずっているユダヤキリスト者を指しているのだろうと思います。
 ところで、なぜ「人を裁く者」に弁解の余地はないのでしょうか。それは、裁くという行為において、人が生きていくには規範が必要であることを証ししているからです。裁くという行為には、基準・規範が必要です。裁くという行為は、生きていくときに、ばらばらに好き勝手に生きるのではなく、共に規範を守る必要があることを明らかにします。
 では、誰の規範に従うのでしょうか。力ある者が、自分に都合のよい規範を作り出して、それに従うのでしょうか。この世は、遙か昔から今に至るまで、武力や経済力、人数の力によって規範を定め、人を従わせてきました。この世の規範、秩序はこの世の力によって立てられてきました。

 しかしパウロは、神の規範、神の言葉に従うべきであると考えています。なぜなら、神と共にある、神と共に生きるところに救いがあるからです。
 すべての人は、神を知っています。聖書が証しする神を知らない人は、神を知らないのかというとそうではありません。この世には数え切れないくらい様々な神々、偶像が存在します。けれど、それらの神々を知る人は、神に従い、神と共に生きるのではありません。神を僕とし、自分の願いを神に叶えさせるために様々な偶像を作り出し、自分の願いの実現のために神を祭り儀式を行っているのです。
 だから「弁解の余地はない」とパウロは言うのです。神を知らないから、神と共に生きていないのではありません。自分に都合よく生きるために、神々を作り出しているのです。神に立ち帰ろうとせず、自分の罪、自分の願望に留まっているのです。そして力ある者は、自分に都合のよい規範を作り出し、他の人々を支配し裁いています。パウロはこの手紙の中でこう語ります。「正しい者はいない。一人もいない。」(3:10)
 こういうわけで、パウロは、すべての人が神の裁きのもとにあることを知っています。「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。」(2節)

 神に従わず、自分の規範を立てる者は、その規範が善意によるものであっても、あなたが正しいのか、わたしが正しいのかという対立と争いをもたらします。今、世にある対立も大義名分としてはこの「正しさ」の争いです。アメリカの正義か、中国の正義か、あるいはロシアの正義か、それともアラブの正義か・・それは終わりのない戦いです。
 わたしたちは終わりのない戦いの世界に生きています。終わりなき戦いの世界に生きるわたしたちに、神は語りかけます。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ 5:9)「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(2コリント 5:19,20)
 神は、終わりなき戦いの世界を造り替える言葉を語りかけ、わたしたちにその神の言葉を委ねられました。わたしたちが聖書から聞く神の言葉は、わたしたち自身を新しくするだけでなく、この世界をも新しくする神の言葉なのです。

 パウロは、自分の善意の正しさ、自分の規範の正しさを主張するすべての人に対して語ります。「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」(3節)
 裁きのただ中にあるわたしたちに対して、神ご自身が救いの道を備え、招かれることをパウロは知っています。神の慈愛が、わたしたちを悔い改めに導くのです。
 わたしたちが悔い改めへと進むことができるのは、そこに未来を見出すことができるからです。そのよい例が、放蕩息子の譬えです(ルカ 15:11〜24)。放蕩息子は身を持ち崩し、豚のえさで腹を満たしたいとさえ思います。彼は本心に立ち帰り決心します。『父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」放蕩息子は父の許に未来を見出し、父の愛と赦しを信じて帰るのです。

 神は「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられ」(2ペテロ 3:9)ます。パウロは、この神の豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじてはならない(4節)、と呼びかけます。神は裁きを行わずに罪を大目に見られるのではありません。終わることのない争いの世に終止符を打つため、御子を遣わしてまで裁きを行われます。それは、わたしたちが救いと平安に与るためです。ですから、裁きにも希望があります。救いに至る希望があります。

 しかし、だからといって「裁かれれば大丈夫なんですね」と言って罪に留まっていていい訳ではありません。神は裁きの痛み・悲しみを負うのではなく、神の福音に応えて、悔い改め、救いに与ることを願っておられます。裁きには痛み・悲しみが伴います。イエスも十字架に掛けられる前に「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ 14:36)と祈られたように、裁きには耐え難い痛み・悲しみが伴います。神はわたしたちが裁きの痛み・悲しみへと進み行くのではなく、悔い改めて救いの喜びへと歩むことを願っておられるのです。
 だから聖書は裁きについてもちゃんと語ります。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(5節)

 わたしたちが、神の裁きを逃れ、救いに至るためには、道はただ一つなのです。悔い改めて、キリストの救いに与り、神の義に生きることです。自分の正しさ、人間の正しさではなく、神の正しさによって生きることです。
 神は、ひとり子イエス キリストを遣わし、その命をかけて、神の義・神の正しさを成し遂げてくださいました。そして今、その救いにわたしたちを、すべての人を招いておられます。どうか、この地に住む一人ひとりが、世界のすべての人が、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐に与ることができますように。

ハレルヤ


父なる神さま
 罪ゆえに自らの正しさを掲げ、争いの中で傷つき疲れてしまうわたしたちを救いに与らせてくださることを感謝します。どうかキリストの救いの中で、あなたの愛と赦しに生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン