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ローマの信徒への手紙 1:18〜23

2019年7月3日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:18~23(新共同訳)


 パウロは、福音宣教のために3度伝道旅行を行いました。その中でギリシャの中心都市アテネにも行きました。パウロは偶像がおびただしくあるのを見て、憤りを感じ、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じ合いました(使徒 17:16, 17)。そこでパウロはこんなことを言っています。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」(使徒 17:22, 23)
 ギリシャ人の信仰の熱心は、自分たちが気づいていない神に失礼があってはならないと考えて、『知られざる神に』と刻まれた祭壇まで作っていました。そこでパウロは、あなたたちの知らない神について知らせようと言って神の救いの御業について語ります。

 パウロは世に数え切れない神々がいることを知っていました。そして、パウロよりも広い世界を知っているわたしたちは、パウロ以上にたくさんの神々が世にはいることを知っています。ギリシャ・ローマの神々、エジプトの神々、北欧の神々、ヒンズーの神々、仏教の仏、そして日本の八百万の神々。聖書に依らずとも、人々は神なるものを知っています。パウロは「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(19, 20節)と言っています。

 人は、その長い歩みの中で、自然の恵みなくして生きていけないことを理解してきました。農業、狩猟、漁業、林業、自然と関わる人たちは、神を無視して生きることはありませんでした。神が自然の恵みを与え、生きることを守り支えてくださるように神を祭ってきました。自然の力を前にして、人の命が奪われてしまうことを覚えて、神の守りを祈願してきました。はかなく短い人の命と比べて遙かに長い時を生き存在している木や岩や山を崇めてきました。そこに神の永遠の力と神性が宿っていると信じて崇めてきました。便利になった都市で暮らす人たちは神を畏れ敬う思いが薄らいできていますが、今でも自然と関わる仕事をする人たち、命に関わる危険のある仕事に携わる人たちには、神事は欠かせません。
 だからパウロは語ります。「彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

 パウロは、人々が自然から知った神への信仰は適当ではないと言います。聖書が教える信仰は、神が中心です。神が主であり、わたしたちは僕です。しかし、自然から知った神への信仰は、自分が中心の信仰です。自分たちの生活が恵まれるための信仰であり、自分たちの命が守られるための信仰です。このような信仰の場合、文明により生活が豊かになり、命の危険が減っていくと、神を信じ敬う必然性が薄らいでいきます。多くの日本人が「宗教を信じてはいない」と言うのもそのためです。
 この人間が益を受けるための信仰は、様々な偶像を作り出してきました。パウロは「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」と語ります。
 わたしたちの周りにもいろいろあります。菅原道真を祭る太宰府天満宮徳川家康を祭る日光東照宮明治天皇を祭る明治神宮。日本でも朽ちる人間を祭ります。
 そればかりではありません。罪が働くとき、教会の中でさえ、人間を祭り上げることがあります。日本基督教会の歴史の中で大きな働きをした植村正久という牧師をご存じのことと思います。わたしが神学校にいた頃、植村正久についての特別講義が行われていました。数人の牧師による連続講義で、ある講義に植村正久から洗礼を受けたという高齢のご婦人が出席されました。講義の後の質疑応答の時間にそのご婦人が発言をされました。その発言の中の一言を今でもよく覚えています。そのご婦人はこう言われました。「植村先生は神さまのような方でした」わたしはそれを聞いて「罪を抱えたわたしたちは、キリスト者であっても偶像を作り出してしまうのだろうなぁ」と思い「どうしたらちゃんと神を伝えられるのだろうか」と考え、今に至るまで考え続けています。
 そして、人は神の使いとされる鳥や蛇、神獣と呼ばれる動物たちを考え出し、偶像を作り続けてきました。聖書の中に出てくる例としては、旧約の民が作り出した金の子牛が有名です。
 しかし、人であろうと、動物であろうと、木や岩、山であっても、神の代わりにはなりません。神以外のものに神は務まらないのです。

 自分中心の信仰で、神ならぬものを神としてしまう罪に対して、パウロはこう語ります。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(18節)
 神は、愛する人を滅びへと導く罪に対して、お怒りになります。神は、愛する者と共に生きることを願っておられます。それを破壊する罪を、お許しになりません。わたしたちも、共に生きることを壊されたら、怒らずにはおれません。しかし、わたしたちは罪がもたらす死に対して無力です。ただ、神だけが死を打ち破り、そこからわたしたちを救い出すことがおできになります。
 わたしたちはきちんと知らなくてはなりません。罪を打ち砕き、わたしたちを命に至らせるために、神はご自身のひとり子をおささげになったということを。ひとり子をおささげになるほどの、わたしたちに対する神の愛と、罪に対する神の怒りをきちんと知らなくてはなりません。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに」わたしたちを愛しておられます。わたしたちを救うために、神はイエス キリストの命という高価な代価を支払ってくださいました。それは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」であります(ヨハネ 3:16)。わたしたちが神と共に生きられるようになるため、神は他の何ものにも代えることのできないキリストの命をささげ、罪を裁き、わたしたちを罪から解き放ってくださいました。十字架は、罪に対する神の怒りの啓示です。人間のあらゆる不信心と不義とに対して、神はキリストの十字架において裁かれました。このキリストだけが、わたしたちの罪を解決し、罪から救ってくださるお方です。科学が発達し、医療も進み、わたしたちの生活にどれほどの益をもたらそうとも、科学はわたしたちを罪から解放しません。人が作り出したどんな偶像もわたしたちを罪から救い出しません。イエス キリストだけが、わたしたちの命に責任を持ってくださる方なのです。

 パウロは、このわたしたちを愛し、わたしたちを救う真の神を知っているので、自分の安全と豊かさを願い、自分の願いを叶えるために神を動かそうとする信仰に対して厳しく語ります。「なぜなら、(彼らは)神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。(彼らは)自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替え」てしまったのです。

 わたしたちは、偶像礼拝に至る自分中心の信仰ではなく、神の言葉に聞いて、神の言葉に育まれる信仰を大事にしていかなければなりません。なぜなら今もなお、神はキリストが死に勝利された日曜日ごとに、わたしたちの名を呼び、御前へと招き、救いへと導いていてくださるからです。神はきょうも、わたしたちを救い、共に生きるために、御言葉を通して語りかけてくださいました。どうか、御言葉によって神を知り、神と共に生きる救いに与って歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 罪ゆえに偶像へと向かい、あなたから離れてしまうわたしたちに、絶えず語りかけ、救いへと導いてくださることを感謝します。あなたが自ら語ってくださるのでなければ、わたしたちはあなたを知ることができません。どうか御言葉を通してあなたを知り、あなたとの交わりの内に生きることができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン