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ローマの信徒への手紙 1:16〜17

2019年6月26日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 1:16~17(新共同訳)


 パウロは、すべての人に福音を伝える責任があると考えています。だから、ローマにいる人々にも福音を宣べ伝えたいと言っています。
 そしてパウロは「わたしは福音を恥としない」と言います。
 なぜパウロはこういう言い方をしたのでしょうか。なぜパウロは「わたしは福音を誇りとする」と肯定的な言い方をしなかったのでしょうか。
 パウロはコリントの信徒への手紙 一 1:18でこのように語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」きょうの箇所と似た言い方です。きょうの箇所では「福音は・・信じる者すべてに救いをもたらす神の力」だと語り、1コリントでは「十字架の言葉は・・わたしたち救われる者には神の力」だと語ります。福音と十字架の言葉は、同じものを表す言葉でしょう。福音も十字架の言葉も神の力だと言っています。そして1コリントではこの言葉の後に「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント 1:23, 24)と語っています。罪の世に属する者にとっては、キリストの十字架、キリストの福音は、つまずかせるもの・愚かなものです。しかし、神によって救いへと召された者には、神の力であり、福音なのです。だからパウロは、あえて「わたしは福音を恥としない」という言い方をしたのではないかと思います。

 パウロは、福音という言葉を使います。これは「よい知らせ」という意味の言葉で、広く一般社会で使われていた言葉です。パウロはこの言葉を、1節では「神の福音」と言い、9節では「御子の福音」15:19では「キリストの福音」と言っています。そして自分はこの福音を宣べ伝えるために召されたと言います。それは、ギリシャ語を話す人にも、話さない人(未開の人)にも、知恵のある人にもない人にも、つまりすべての人に宣べ伝えるために自分は召されたのだ、と言っています。
 そして、神が御子イエス キリストによって与えてくださったよい知らせ、福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」なのです。事実、キリストの福音が宣べ伝えられていく中で、数え切れない人々が救いに入れられてきました。福音は神の力であるというのは、パウロ自身が神によって示され続けた事柄でした。

 パウロローマ帝国の市民権を持つ者ですが、生粋のユダヤ人です。イスラエルの十二部族の一つベニヤミン族の出身であり(フィリピ 3:5)、ユダヤ教の教師ガマリエルの指導を受けた(使徒 22:3)人物です。
 わたしたちもよく知っているとおり、神はご自身の言葉によって世界とそこに生きる命を創造されました(創世記 1:1〜2:3)。もちろん、パウロもよく知っています。それでもパウロは驚いただろうと思います。キリストの福音が宣べ伝えられると、信仰のなかったところにキリストを信じる信仰が生まれるのです。救いのなかった世界に救いが生じるのです。
 パウロは宣教についてはこう言っています。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(1コリント 1:21)。パウロから見ても、宣教は愚かなのです。全能の神であれば、他にいくらでも方法があるはずなのです。しかし、神は世の始めに世界と命を造られたのと同じように、ご自身の言葉によって、救いを生み出されました。まさしく福音は「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」なのです。
 そして神は今も、わたしたちにキリストの福音を語り聞かせ、救われて生きるようにと礼拝へと招き続けてくださっています。

 パウロは続けて語ります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
 聖書において「義」とは、正しさ、それも正しい関係にあることを示します。第一に、神との正しい関係を表すものです。
 神が与えてくださる正しさ、あるいは神がお求めになる正しさは、キリストの福音の中に示されています。神とわたしたちとの正しい関係は、神が遣わされた救い主イエス キリストを信じて、神の子とされて、神と共に生きることです。
 神と共に生きていくために、イエス キリストが救い主となってくださいました、命をささげてくだささいました。だから、わたしの罪は贖われている、赦されているのです。罪によって壊れていた神との関係が回復され、神と共に生きられるようになった。安心して、喜んで神へと立ち帰ることができるのです。だから、神を喜ぶ者として生きていく。それが、神がお与えくださる正しさ、神がわたしたちにお求めになる正しさです。ですから正しい人(義人)とは、神の救いの御業を信じて、救いの中に入れられて、神と共に生きている人です。

 これは旧約の時代から告げられていたことです。パウロがここで引用している「正しい者は信仰によって生きる」という言葉はハバクク 2:4の言葉です(神に従う人は信仰によって生きる、聖書協会共同訳:正しき人はその信仰によって生きる)。さらに遡って、創世記 15:5, 6ではこう記されています。「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
 これは、アブラムが神に対して「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と言ったときの出来事です。アブラムも妻も年老いていて、子どもが与えられるとは、予想も期待もできない。しかしアブラムは、自分の経験や知識の中に神を閉じ込めずに、神の言葉を信じました。そして神は、神を信じたアブラムを正しい、義であると認められたのです。神を信じる、それがあなたとわたしとの正しい関係だ、と神は言われたのです。
 ですから「正しい者は信仰によって生きる」ということは、新約の時代になってから言われるようになったことではなく、旧約の時代から示され教えられてきた事柄なのです。

 神を信じることによって、神との正しい関係に入れられた人は、信仰の道を歩み続けます。救いの完成へ向けて、信仰から信仰へと歩み続けます。いよいよ神を知り、いよいよ神を信じ、いよいよ神を喜ぶ信仰の道を歩み続けます。そして、自分の前に用意されている永遠の命を、神の国の住まいを仰ぎ見る。そのように、この信仰は信仰に始まり、信仰に至らせるのです。

 パウロは自らの回心を通して、神の力ある御業を経験しました。そして宣教を通して、キリストの福音が神の力であり、人を救うことを知りました。パウロはこの神の恵みを、まだ見ぬローマの人々と分かち合いたいと願い、この手紙を書いています。そして神は、この手紙をご自身の言葉とされ、時を超えて、今わたしたちに語りかけておられます。
 キリストの福音によって救いを得なさい。福音によって神の力を味わいなさい。信じる者となり、信仰によって生きなさい。神は今も変わらずにわたしたちの救いを願い、わたしたちが神と共に生きることを願って語りかけていてくださいます。今、神の御声を聞いて信じる者は幸いです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの力である福音でわたしたちを満たしてください。そしてあなたの力である福音によって生きさせてください。どうかわたしたちに信仰によって生きる幸いを味わわせてください。あなたの栄光がわたしたち一人ひとりが生きるすべての場所で豊かに現されますように
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン