聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 1:5〜7

2019年5月29日(水)祈り会
聖書箇所:ローマ 1:5~7(新共同訳)


 パウロはローマの教会に手紙を書いています。彼はローマにまだ行ったことがありません。会ったことのない人たちへの手紙です。パウロは、まだ会ったことのないローマの人たちに対して、自分たちに共通することを書きます。

 1節でパウロは「召されて使徒となった」と書き、7節で「召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と書きます。6節でも「イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです」と書いています。自分たちに共通する大切なこととして、パウロは「召し」を語ります。

 召しはパウロにとって信仰の第一歩でした。使徒言行録9章に彼の召しの原体験が書かれています。彼は熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒を神を冒涜する滅ぼすべき者たちと考えていました。このときはサウロと名乗っていましたが、その彼が復活のキリストに出会う場面です。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使徒 9:3~6)。彼は熱心な信仰者、神を信じる者でした。しかしこの体験は、信仰はキリストに召されることによって生まれるものである、ということを知らされた決定的な出来事でした。主は、迫害者であるパウロを選び、救いの中に招き入れてくださったのです。

 近代に入って個人の権利が重んじられるようになる中で、キリスト者の信仰も自分の好きなように信じてよいと考える人が増えてきました。自分が好きなように信じるということは、自分好みの偶像を作り上げることに他なりません。キリスト教の信仰の基本は、真の神に立ち帰ることですから、自分の信仰だから自分の好きなように信じてよいというのではありません。そこで、神の言葉である聖書が語られ、イエス キリストが証しされるのです。わたしたちの社会は民主主義の社会ですが、1節で言われているようにわたしたちは僕であり、4節に言われているとおり主はイエス キリストなのです。わたしたちは罪人である自分自身から解放される必要がありますが、現代は人権を語りながら、個人一人ひとりを自分の願望・欲望の奴隷としてしまっています。

 しかし聖書は、わたしたちが本当に自分らしく喜びと希望をもって生きるには、神に立ち帰ることが必要である、と告げます。わたしたちは、神にかたどって造られ、神に愛され、神と共に生きるものとして造られた。罪に導かれて生きるのではなく、神に導かれて神と共に生きるように召された、ということを聖書は告げています。

 「イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた」(6節)とパウロは語ります。この「あなたがた」には、すべてのキリスト者が含まれます。パウロはわたしたちを知りません。わたしたちに会ったことがありません。けれども、わたしたちには共通点があります。共に「神に愛され、召されて聖なる者となった」(7節)のであり、「イエス・キリストのものとなるように召された」(6節)者たちなのです。

 キリストのものとされたことによって、わたしたちはキリストご自身に与る者とされました。イエス キリストは真に神であり、真に人であるお方です。主にして僕となられたお方です。わたしたちは、自分の賜物、自分の人生を自分で判断して用いています。しかし主の僕として、御心にかなうように自分の賜物も時間も用いていくのです。例えば、わたしたちは何でも語ることができます。しかし、何を語ってもいいのではなく、主イエスの愛と恵みを分かち合う言葉を語るのです。
 聖書は語ります。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。・・あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(1コリント 6:12,19,20)

 さらにわたしたちはイエス キリストを証しし、宣べ伝える務めを与えられました。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」(5節)。
 わたしたちは、神と共に歩み、神の救いの御業に仕える者、キリストの御業に仕える者とされたのです。このキリストによって与えられた恵みと務めを、教会は2000年担い続けてきました。「あなた方も神によって召されている神に愛されている者なのだ」ということを宣べ伝えてきました。この恵みと務めにわたしたちも今、与っているのです。
 パウロもキリストから託され、教会が代々に担ってきた務めによって、わたしたちもキリストへと導かれ、救いへと招き入れられました。わたしたちは、代々のキリスト者たちと共にキリストのものとされ、今救いのただ中にあり、神の祝福を受けています。

 そしてキリスト者は、すべての人、すべての被造物が神の祝福に与ることを祈ります。
 この手紙の挨拶も、祝福の祈りで閉じられます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(7節)毎週の礼拝も祝福で終わります。神が祝福していてくださり、祝福に与ることを願っていてくださるからです。
 わたしたちが誰かを訪ねたり見舞ったり、いろいろな機会にわたしたちが願うことは、神がその人と共にいてくださり、神が祝福してくださることです。そして、そのことを祈り願うことのできる確かな根拠は、神ご自身の御心であり、救いの御業です。キリストはその十字架と復活によって、それが確かであることをわたしたちに証ししてくださいました。例えわたしたちがそれぞれにどんなに欠け多く弱さを負っていたとしても、そのわたしたちを知って、愛して、召してくださった主が「祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された(1ペテロ 3:9)」と語りかけてくださいます。だからパウロは、まだ会ったことのない主にある兄弟姉妹たちへの祝福を願うのです。
 皆さんも是非、家族のために、子どものために、孫のために、神が出会いを与えてくださった隣人たちのために祝福を祈って頂きたいと思います。

 そしてこの手紙を読んでいく皆さんが、代々の聖徒たちと同じように、キリストと新たに出会い、その信仰が祝福され、深められ、育まれ、主にある喜びに満たされていくように心から願います。


ハレルヤ


父なる神さま
 いと小さきわたしたちを顧み、あなたの民へと召してくださいましたことを感謝します。あなたの召しにより、わたしたちは聖書からあなたの御心を知る者とされました。あなたの御心によって、自分が何物であるのか、わたしたちが召された意味を知りました。偶然に支配されているように見えるこの世界にあって、あなたが与えてくださる意味を証ししつつ歩んでいくことができますように。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン