聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 3:1〜7

2019年5月26日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 3:1〜7(新共同訳)

 ある晩、ニコデモという人がイエスを訪ねてきました。彼はファリサイ派と呼ばれる律法を厳格に守るグループに所属していました。さらに彼はサンヘドリンと言われるユダヤ最高法院の議員の一人でもありました。
 その彼が、ある晩イエスのもとに来て言います。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
 彼はイエスに「ラビ」と呼びかけます。ラビというのは、ユダヤ教の教師に対する敬称です。ニコデモはイエスに敬意を表します。さらに「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と言います。彼はイエスに敬意を抱いているのが自分だけではないことを示します。ただしそのことを公にするのははばかられました。12:42にはこう記されています。「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」。だから彼は、夜密かにイエスを訪ねたのです。
 ニコデモはイエスに関心を持っていました。イエスの言動に注目していました。だからこう言います。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」。ニコデモはイエスを見てきました。そして彼は確信します。「神がイエスと共におられる」。イエスがなしたしるしは、神が共におられる証しだとニコデモは思いました。だから彼は、イエスは「神のもとから来られた教師である」と言うのです。

 福音書もニコデモの判断が正しいことを証しします。5:36でイエスはこう言われます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。また10:37,38にはこうあります。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」。そして14:11ではこう言っています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。つまり福音書自身、父なる神が御子イエス キリストと共にあり、一つであられることを明らかにし、そのことはイエスの業が証ししていると繰り返し述べています。

 しかし、イエスはニコデモが示す敬意には関心を見せず、おそらくニコデモにとって最も必要なことをはっきりとお語りになります。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。

 これはニコデモには衝撃でした。自分のこれまでの信仰を否定されたも同然だったからです。彼はファリサイ派の一員として律法を忠実に守ってきました。それが神に喜ばれることだと信じてきました。それなのにイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言うのです。ファリサイ派のやり方をしていても神の国を見ることはできない、神の国には入れないと言われたも同然です。
 彼は向きになってイエスに言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。彼は勘違いしたのではありません。自分のこれまでの信仰が否定されたと思って、カッとしたのです。

 イエスは冷静にお答えになります。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 イエスは最初の答えでも次の答えでも、初めに「はっきり言っておく」と言われます。この「はっきり」と訳された言葉は「アーメン、アーメン」という言葉です。聖書協会共同訳・フランシスコ会訳は「よくよく」と訳し、新改訳は「まことにまことに」と訳しています。岩波版はそのまま「アーメンアーメン」としています。
 皆さんもよく知っているこの「アーメン」という言葉は「まことに」とか「確かに」という意味で、わたしたちが祈りで使う場合は「この祈りは真実です」という意味、「わたしはこの祈りに同意します」という意味で使います。それに対して、イエスのこの言い方は、神の国の奥義を語る場合に使われます。
 つまり、敬意は持っていても、周りの目が気になって、人目を忍んで夜やってくる者に対しても、イエスに自分の信仰を否定されたと思って向きになってくってかかる者にも、イエス神の国の奥義を明らかにしてくださいます。

 そしてイエスが明らかにされた奥義は、新しく生まれるということでした。これは聖書が繰り返し語る、救いの核心の一つです。
 ヨハネ 1:13では、神の民、キリスト者は「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」と言われます。1ペトロ 1:3,23では「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ・・神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」と言い、2コリ 5:17では「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と言われています。

 では、この新しく生まれるということがどのようにして起こるのかというと、水と霊によって生まれるのだと言われます。
 旧約はこのことについてこう預言しています。エゼキエル 36:25,26にはこう記されています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。・・わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」。
 新約ではテトス 3:5で「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と書かれています。
 水は洗礼の水を指しています。そして単に洗礼という儀式だけでなく、洗礼を救いのしるしたらしめる聖霊の働きが伴って、水と霊によって新しく生まれるのです。聖霊なる神が働いてくださるからこそ神から生まれるのです。

 もしかしたら、皆さんの中にはここで疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。わたしは新しく生まれたのだろうか。聖霊なる神がわたしに働いてくださったのだろうか。
 聖霊に関しては、なぜか多くの人が実感を求めます。しかし、神はわたしたち被造物を超えるお方、わたしたちの感覚で捉えることのできないお方です。だから、神はご自身を御言葉によって啓示してくださるのです。わたしたちは父なる神についても、御子イエス キリストも、聖霊なる神も御言葉、聖書によって知るのです。三位一体というわたしたちの理性を超える事柄も、聖書がそのように語っているので、わたしたちは神が唯一でありながら父・子・聖霊という位格・ペルソナ・パーソナリティを持つお方であることを知るのです。ですから、神ご自身に関しては、わたしたちの感性・実感ではなく、御言葉に導かれることが大切です。

 そこで、聖霊が働いてくださって新しく生まれたかどうかについてですが、聖書はこう言っています。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(1コリント 12:3)。
 皆さんは「イエス キリストはわたしの主、救い主である」と信仰を告白して、洗礼を受けました。その皆さんの信仰はどこから来たのでしょうか。皆さんが信じることにしたから、信じているのでしょうか。そうではありません。信仰は神が与えてくださった恵みです。

 わたしは皆さんと同じく、イエスがわたしの主だと信じています。しかし、わたしはイエスを見たことがありません。声を聞いたこともありません。握手したこともありません。2000年も前の、遠く離れた国に生きた人をなぜ救い主と信じ、毎週説教しているのでしょうか。疑いを捨てた訳ではありません。素直に御言葉を聞けるようになったということもありません。かつては信仰を、神を信じるということを侮っていました。それがなぜ信じるようになったのか。聖霊がこのわたしにキリストを知らせてくださり、信仰を創り出す奇跡をなしてくださったからです。ある人は、罪人の内に信仰が起こされるということは、天地創造に匹敵する奇跡だと言っているそうですが、わたしもそう思います。

 わたしたちの教会はその信仰の告白において「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」と告白しています。これは、神が信仰を与えてくださり、イエス キリストが誰かを知ったことへの感謝の応答です。わたしたちの教会は、この信仰の告白において、神によって新しく生まれ、神の国に入れられている恵みを覚えています。

 わたしたちは間違いなく水と霊によって新しく生まれたのです。霊なる神によって神の子として新しく生まれさせて頂いたのです。
 そしてこの恵みは、さらに続きます。聖書は語ります。「わたしたちは・・主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによること」(2コリント 3:18)だと。

 イエスは「驚いてはならない」と言われましたが、驚かずにはいられません。何度考えても、何年経っても、わたしの想像を超える言葉、出来事です。この世の現実から導き出せる未来ではありません。しかし、この神の約束が真実であることを、イエス キリストが、その十字架と復活が証ししています。どんな時であっても証ししています。だからわたしたちは、イエス キリストを仰ぎ見つつ歩むのです。イエス キリストこそ、神が与えてくださった確かなしるし、わたしたちの救いが確かであることを証しするただ一つのしるしなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはいと小さきわたしたちを顧み、関わってくださいます。聖霊は、わたしたちに信仰を与えてくださり、神の子として新しく生まれさせてくださいました。この恵みの中をあなたは歩ませてくださり、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえてくださいます。わたしたちはあなたが与えてくださる未来に希望を持ちます。どうか、いよいよ深くあなたを知り、あなたとの交わりに生きるあなたの子としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン