聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

ヨハネによる福音書 2:23〜25

2019年5月12日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 2:23〜25(新共同訳)

 きょうからご一緒に神の言葉を聞いてまいりたいと思います。
 福音書福音書以外を隔週で連続講解していきます。今週はヨハネによる福音書、来週はローマの信徒への手紙、その次がまたヨハネによる福音書という具合です。
 なぜこの箇所からかと言いますと、前の教会で説教した続きだからです。わたしは皆さんに神の言葉を取り次ぐ務めを託されている訳ですが、その務めを最もよく果たすには、わたしの場合、これまで聞いてきて今も聞き続けている御言葉を中断せずに聞き続け、お伝えするのがよいと思うからです。

 さて23節に「過越祭」という言葉が出てきます。過越祭とは、出エジプトを記念する祭りで、五旬祭(七週祭)、仮庵祭と共にユダヤ教の三大祭りの一つに数えられるものです。
 このヨハネによる福音書では、過越祭が3回出てきます(6:4、11:55)。ここからイエスの救い主としての活動(公生涯)が約3年間であったろうと考えられています。

 「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。
 ヨハネ福音書は他の福音書に比べて「しるし」という言葉を多く使います。マタイが6回、マルコが5回、ルカが6回なのに対して、ヨハネは17回使います。
 ところが今回のエルサレム滞在において、福音書は「しるし」を記録していません。福音書が記す最初のしるしは、2章にあるカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた出来事。2回目に出てくるしるしは、4章に出てくるやはりカナで役人の息子を癒やした出来事です。
 しかし実際には、福音書に書かれているよりも多くのしるしがなされたことが分かります。3章でニコデモという人がイエスを訪ねてくる場面がありますが、そこでニコデモはこう言います。「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」(3:2)。おそらくニコデモはイエスの行うしるしを見たのでしょう。ニコデモはイエスのしるしに対して「神が共におられる」という確信を持っています。しかし彼の見たであろうしるしは書かれていません。
 そして福音書自身、最後の方でこう書いています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」(20:30)、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21:25)。

 ドキュメンタリーと言われる映像・文学であっても、取材したすべてがそこに報告されている訳ではありません。その作品を通して伝えたいことが最もよく伝わるように「編集」という作業がなされます。福音書も同じです。この福音書を編集したヨハネは、自分が見聞きしたこと、伝え聞いたことを取捨選択してヨハネによる福音書を編纂しました。その編纂の基準・目的をヨハネはこう書いています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)。

 ここでヨハネが伝えたかったのは、イエスエルサレムでなされたしるしの数々ではありません。ヨハネが伝えたかったのは「しるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」こと、「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」こと、そして「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」ということなのです。

 多くの人は、イエスがなしたしるしを見て信じました。イエスという人は素晴らしい力を持っている。わたしたちの願いをかなえてくれるに違いない。そんな風に期待をし、期待に応えてくれる人として信じたのでしょう。もう少し読み進めますと「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(6:15)とあります。多くの人は、イエスを利用できる力を持った人として信じたようです。イエスに従うのではなく、自分の希望・願望の実現をイエスに期待しているのです。ここには悔い改めはありません。
 世にある神々は皆、人の願いをかなえるために生み出されたものです。偶像に対する敬いは、願いをかなえてもらうための敬いです。そこには神へと立ち帰り、神に従い、神と共に生きるという聖書が教える信仰はありません。

 イエスはわたしたちの罪ある姿を知っておられます。けれど、わたしたちは自分の罪を隠そうとします。エデンの園でアダムとエバが木の間に隠れたように。あるいは自分の罪に気づきません。イエスに「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」と言われたとき、「あなたのためなら命を捨てます」(13:36, 37)と言ったペトロのように。しかし、イエスは知っておられます。

 人は知られることに不安を感じます。エデンの園で罪を犯した後、目が開け、裸であることを知ると、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆い自らを隠します。ある青年は「神が自分のすべてを知っておられると思うと、怖くて仕方ない」と言って教会を離れました。(いつかキリストの許に帰ってくることができますように)
 しかしイエスは、知っていながらペトロを弟子にしました。ユダを弟子にしました。弟子たちの中に、イエスを裏切らなかった者、見捨てなかった者、十字架を理解していた者は一人もいませんでした。イエスは神の民に受け入れられず、十字架に掛けられることを知っていました。それでもイエスはこの世に来られたのです。

 この世でただ一人イエスだけがわたしたちに失望しません。イエスだけがわたしたちを知っていてくださるからです。わたしたちの弱さも愚かさも罪深さも知っていてくださいます。知っているからこそ、わたしたちを救うために十字架を負われました。イエスこそすべての人のことを知っておられ、誰からも証ししてもらう必要のないお方です。買いかぶることもなければ、見損なうこともありません。

 ヨシュア記に書かれてあるとおり、神は「あなたを見放すことも、見捨てることもない」お方です(ヨシュア 1:5)。イエスはその神の思い、神の愛を伝えるために来られた神の言葉です。イエスを通して神の愛を知る者は、イエスが知っていてくださることに慰めと希望を抱きます。讃美歌第2編 210に「わが悩み知りたもう」という黒人霊歌がありますが、この讃美歌はイエスが知っていてくださることに支えられた人たちの讃美歌です。
 苦しみも悲しみも、迷いも弱さも、イエスは知っていてくださいます。そして、すべてを知っているからこそ、わたしたちの救い主となってくださいました。だからわたしたちは、すべてを委ねて依り頼むことができます。祈ることができます。

 かつてソロモンは神殿を建て、神に献げる際にこう祈りました。「あなたの民イスラエルが、だれでも、心に痛みを覚え、この神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにも、あなたはお住まいである天にいまして耳を傾け、罪を赦し、こたえてください。あなたは人の心をご存じですから、どの人にもその人の歩んできたすべての道に従って報いてください。まことにあなただけがすべての人の心をご存じです」(列王記上 8:38, 39)。

 わたしたちの本当の姿を知っているお方が、わたしたちを愛していてくださいます。救いとなってくださり、命となってくださり、わたしたちの神であってくださいます。
 だからわたしたちは信仰深く装う必要がありません。背伸びをしてみせる必要がありません。信仰深く装って教会生活に疲れる必要はないのです。イエス キリストの許には、自分を隠したり偽ったりする必要のない本当の救いがあります。わたしたちのすべてを知ってなお、わたしたちを愛し抜いてくださるイエス キリストにこそ、わたしたち一人ひとりのための安息の場所があるのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを正しく知っていてくださることを感謝します。そしてそのわたしたちを救うためにひとり子イエス キリストをお遣わしくださったことを感謝します。どうかわたしたちもイエス キリストを正しく知り、イエス キリストを通してあなたを知る者、あなたとの交わりに生きる者としてください。
エス キリストの御名によって祈ります。 アーメン